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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

上座部 常用経典(帰敬文

Dhamma vandanā(礼法)

Dhamma guṇā(法徳)

svākkhātoスヴァーカートー bhagavatāヴァガヴァター dhammoダンモー, sandiṭṭhikoサンディティコー, akālikoアカーリコー, ehipassikoエーヒパッシコー, opaneyyikoオッパネッイコー, paccataṃパッチャタン veditabboヴェーディタッボー viññūhiヴィンニューヒ.
法は、世尊によって善く説かれたものであり、自ら確かめられるもの、時を経ずして(果をもたらす)もの、「来たれ見よ」(と言われる)もの、(涅槃へと)導くもの、おのおの賢者によって知られるべきものである。

Dhamma vandanā(礼仏)

yeイェー caチャ dhammā ダンマー atītāアティーター caチャ, yeイェー caチャ dhammā ダンマー anāgatāアナーガター, paccuppannā パッチュパンナー caチャ yeイェー dhammāダンマー, ahamアハン vandāmiヴァンダーミ sabbadāサッバダー. n'atthiナッティ meメー saraṇaṃサラナン aññaṃアンニャン, dhammoダンモー meメー saraṇaṃサラナン varaṃヴァラン.
etenaエーテーナ saccavajjenaサッチャヴァッジェーナ, hotuホートゥ meメー jayamaṅgalaṃジャヤマンガラン. uttamaṅgenaウッタマンゲーナ vande'haṃヴァンデーハン, dhammañcaダンマンチャ tividhaṃティヴィダン varaṃヴァラン, dhammeダンメー yoヨー khalitoカリトー dosoドーソー, dhammoダンモー khamatuカマトゥ taṃタン mamaママ.
かの過去世の法、かの未来世の法、そしてかの現在世の法すべてを、私は敬礼いたします。私には他に帰依処などなく、法こそが私の尊い帰依処。
この真実の告白によって、私に勝利をもたらす吉祥あれ。私は尊い三種に最上の礼拝をいたします。法について、私になにか過失や罪があったならば、法よ、どうか許したまえ。

この世界における灯火

Dhamma guṇāダンマ・グナーとは、「法の徳」の意で、法の勝れた点を六つ挙げ連ねた文言です。Dhammaダンマ (法)とは、事物・真理・宗教・思想・教え・正義・道徳・法律など多くの意味を持つ言葉ですが、ここでは「(仏陀の)教え」を意味するものです。

仏陀の教えは何故、神々や人々が帰依するに値し、この世に勝れたものと言えるのか。その勝れた由縁を端的に六つの点を挙げて示したのが、この文言です。

法の六徳
No. パーリ語 日本語訳
1. Svākkhātaスヴァーッカータ 善く説かれたもの
2. Sandiṭṭhikaサンディッティカ 自ら確かめられるもの
3. Akālikaアカーリカ 時を要さないもの
4. Ehipassikaエーヒパッシカ 「来たれ見よ」(と言われる)もの
5. Opaneyyikaオッパネッイカ (涅槃へと)導くもの
6. Paccataṃパッチャタン veditabboヴェーディタッボー viññūhiヴィンニューヒ おのおの賢者によって知られるべきもの

仏陀の教えは、ただ信じて伏し拝めば良い、というものでは決してありません。また、何も考えずに「おブッダさま」の言われたとおりにしていれば良い、というものでもない。それは、法の徳として挙げられているとおり、自分が「なるほど真実である」と確かめられるものであり、そうすることでこそ、その真の価値が発揮されるものです。

仏教を信仰する、とはどういうことか。始めのうちはなんだかよくわからないがアリガタイ、でも良いでしょう。地域的に、あるいは先祖代々、仏教を信仰しているから、いわばその惰性で自分も仏教を信仰している、というのでも良いでしょう。自分の信頼している人、尊敬している人が、仏教はすばらしい教えである、と言っているから自分も信じている、というのもまた良いでしょう。

そもそもが、最初はどうしたってそういうものです。自ら一から十まで納得してからようやく信じことができる、などと馬鹿なことをいう人がよくありますが、もし一から十まで納得出来ると言うならそれはもう信じる必要などない。「信じる」というのはその対象が真であると確かめていない、自ら見聞覚知していないからこそのことであって、もしそれがもはや自明の真理であると判った時にはもはや「信じる」必要はありません。自明であるのだから。

これは別に宗教だから、などというのではなく、どんな勉強でも大体がそうで、学校で我々が教えられること、学ぶことは本当なのであろう、と意識的無意識的に信じて受け入れているからこそ成立するものです。基礎的なことを学び、より高度な学問に踏み込んでいった時、自らそれまでの学説などの真偽を検証していったとき、時にはそれまで教えられていたことは実は真でなく、まったく違ったことを発見することもあるでしょう。その時、人は「それまでの信を捨て」、自ら見出した真を、漠然と信仰するのではなく確信する。

仏教もまたそのように、ひとまずは信じその説を受け入れ、しかしそれが真であるかどうかを自らが確かめていくべきものとされます。それが肝要であって、まさに「おのおの賢者によって知られるべきもの」であるわけです。

何らかの形で仏教に縁があったからこそ、宿縁があったからこそこの世で仏教に興味をもち、あるいは振興することになる、と仏教では考えます。とはいえ、ただなんとなく信じていることに意味など無いことはありませんが、それだけでは宝の持ち腐れというものです。

来たれ、見よ

仏陀によって説き示された法すなわちDhamma(Dharma)は、僧伽によって、また僧伽を支えた多くの人々によって伝えられてきた法は、それぞれ信仰する人、個人個人によって、その真理であることを確かめられ、目の当たりに見るもの。自分自身の足で涅槃へと近づくための勝れた道標、その地図です。

仏教を信仰したそのときから、たちまち人生が薔薇色になった、あらゆる困苦に打ち勝てるようになった、様々な問題が次々と解決していった、たちどころに病気が治った、今までどうしてもわからなかったあんなことやこんなことがすっかり明らかになった、などということはまずありません。

人がもし、ブッダの教えに触れえる(恵まれた)機会を得、何らか得るところ、感じるところがあったならば、(これが大変重要な点なのですが)虚心坦懐にこれをひとまずは受け入れ、「自ら確かめる」べく、まず今の自分が出来る範囲で最大限努力したら良い。その目的地がどれだけ近く、短い道のりであっても、まず一歩を自分の足で踏み出しそれを重ねていかねば、どこも到達することは不可能です。そして、そこに至るのに、誰かが運転して自分を運んでくれる便利な乗り物など、この世はもとよりどこの世界にも存在していません。

世界には、あまりに魅力的な、甘く、人を酔わせるものが多く、そして人はむしろこの故に苦悶して、それに気づかずあくまでこれを求め続ける。人間というもの、いや自分というものは様々な矛盾に満ちあふれて、この足で歩くことも苦しく、歩かないことも苦しく、人生に山あり谷あり、生きることは実に苦しい。

この苦しみ多き、悩ましきこと多い人生を、いかに善くそして平安に生きるかを、仏陀は様々な術によって説き示され、僧伽によって伝えられてきました。それが法、仏の教えです。

それは、自らこれを学び知るに値するもの、よく苦しみから離れさせるもの。自らを救う、掛け替えのないものです。

Ñāṇajoti