是の如き我れ聞けり。一時薄伽梵、室羅伐城・逝多林給孤獨園に在しき。爾の時、佛諸の苾芻に告げたまはく。三種の法有り。諸世間に於て、是れ不可愛、是れ不光澤、是れ不可念、是れ不稱意なり。何をか三と爲す。謂く老病死なり。汝諸苾芻、此の老病死、諸の世間に於て、實に不可愛、實に不光澤、實に不可念、實に不稱意なり。若し老病死、世間に無くんば、如來・應正等覺、世に出でて、諸の衆生の爲に所證法及び調伏事を説けじ。是の故に應に知るべし。此の老病死、諸の世間に於て、是れ不可愛、是れ不光澤、是れ不可念、是れ不稱意なり。此の三事に由りて、如來應正等覺、世に出現して諸の衆生の爲に、所證法及び調伏事を説く。爾の時世尊、重ねて頌と説いて曰く。
外事の莊彩は咸な壞に歸す。
内身の衰變も亦同じく然り。
唯だ勝法有りて滅亡せず、
諸の有智の人は應に善察すべし。
此の老病死を皆な共に嫌ふ。
形儀醜惡にして極めて厭ふべし。
少年の容貌暫時住せんも、
久しからずして咸な悉く枯羸を見る。
假使壽命百年に満つとも、
終歸に無常の逼るを免れず。
老病死苦常に隨逐し、
恒に衆生のために無利を作す。
爾の時世尊、是の經を説き已りたまふに、諸の苾芻衆、天龍・藥叉・揵闥婆・阿蘇羅等、皆な大いに歡喜し、信受奉行す。
このように私は聞いた。ある時、世尊は室羅伐城〈Śrāvastī. 舎衛城〉の祇園精舎に滞在しておられた。その時、仏陀は諸々の比丘たちに告げられた。
「三種の法〈事象〉がある。諸々の世間において、それは愛すべからざるものであり、それは光り輝くものでなく、それは願い求めるものでなく、それは思うままにならぬものである。何をもって三種とするであろうか。それは老と病と死とである。汝ら比丘たちよ、この老・病・死とは、諸々の世間において、実に愛すべからざるものであり、実に光り輝くものでなく、実に願い求めるものでなく、実に思うままにならぬものである。」
「もし老・病・死が世間に無かったならば、如来応正等覚〈仏陀〉が世に出、諸々の衆生の為に所証法〈Dharma. 教え・真理〉と調伏事〈Vinaya. 律〉とを説くことなど無かったであろう」
「そのようなことから、まさに知るべきである、この老・病・死とは、諸々の世間において実に光り輝くものでなく、実に願い求めるものでなく、実に思うままにならぬものである。この(老・病・死という)三事によって、如来応正等覚が世に出現し、諸々の衆生の為に所証法と調伏事とを説いたのだ」
(このように説き終わられた)その時、世尊はまた重ねて偈頌を説かれた。
外面が厳かで美しかろうとも全ては壊れゆく。
内面が衰え変わりゆくこともまた同様である。
ただ勝れた法〈真理〉のみは滅亡することはない。
諸々の智慧ある人はこれをまさに善く観察せよ。
これら老・病・死とは誰しも皆が嫌う事象であり、
その姿形は醜悪であって極めて厭うべきものである。
少年の若き容貌がしばらく留まったとしても、
久しからずして誰であれその老い衰えを見る。
たとい年齢が百歳に達したとしても、
終には無常の迫ることを免れることは出来ない。
老・病・死の苦しみは常に(その身に)付き従い、
恒に生きとし生けるものは無意義に死にゆく。
世尊がこの経を説き終わられると、諸々の比丘たちと天龍・夜叉・揵闥婆・阿蘇羅など皆大いに歓喜し、信受奉行した。