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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏説無常経』臨終方訣附

『仏説無常経』

『無常経』とは

『無常経』とは人々と神々が、いや、全ての生けるものが老いと病い、そして死から決して逃れられるものではないことを主題とするもので、その不如意なる世界から脱する術が仏陀の説かれた法〈Dharma. 教え〉と律〈Vinaya. 戒律〉とであることを、極めて簡潔に説かれた経典です。

特に根本説一切有部こんぽんせついっさいうぶにおいて重用され、頻繁に読誦されていたことが知られます。なおパーリ語による分別説部ふんべつせつぶ所伝の三蔵そして漢訳四阿含には、『仏説無常経』(の本経部分)に対応する経を不佞には見出すことが出来ていません。と言ってもそのことは、ただちに『仏説無常経』がただ根本説一切有部のみが独自に所伝した経であったことを意味しません。

そもそも漢訳四阿含は、法相宗祖の基法師以来、支那の並み居る学僧らは、全て大衆部に属するものだと見なしていました。ところが、所と時代を大きく隔てた日本の近世、江戸中期の高野山金剛三昧院にあって「学一切乗沙門」を称した若き学僧、法幢ほうどうの筆した『阿毘達磨倶舍論稽古』に於いてそれが誤りであると指摘され、『中阿含経』と『雑阿含経』は説一切有部の、『増一阿含経』は大衆部の、『長阿含経』は化地部の所誦であるとされています。現在の学問的水準からするとその全てが正確であったとは言えぬものの、実に法幢は驚くべき炯眼の持ち主であったと言う他ありません。

すなわち、四阿含はその伝持した部派がバラバラであり、どこか一つの部派所伝の経蔵が一時にまとめて支那にもたらされ翻訳されたのではありませんでした。そして現在伝わる『仏説無常経』は、その本経は阿含であったに相異ないものですが、一、二世紀の北インドにて活躍したことで知られる 馬鳴めみょう〈Aśvaghoṣa〉によるとされる偈頌げじゅがその前後に付加されたものです。

馬鳴とは、説一切有部の大学僧であった脇尊者きょうそんじゃ〈Pārśva〉の弟子であったとされる、特に詩文に秀でた仏教詩人として名高い人です。流麗な正規サンスクリットのkāvyaカーヴィヤ体で著された仏陀やその弟子らの伝記であるBuddhacaritaブッダチャリタ〈ブッダの行業〉Saundaranandaサウンダラナンダ 〈美しきナンダ〉は、往古より現在に至るまで世界中のサンスクリットを解する仏教徒に愛読される名著となっています。

そしてバラモン教における絶対的身分差別〈varṇa. カースト制度〉を批判したVajrasūcīヴァジラスーチー〈金剛の針〉も、学者からは疑義が提出されていますが、馬鳴の作であると言われます。また、わずか二篇の断片ながらも発見されたŚāriputraprakaraṇaシャーリープトラカラナ〈シャーリプトラ伝〉も、現代その著であったことが知られています。漢語典籍として伝わっている『仏所行讃』はBuddhacaritaの、そして『金剛針論こんごうしんろん』はVajrasūcīの漢訳で、いずれも馬鳴に関する必読書の一つと言って良いでしょう。

ただし、漢訳『金剛針論』は法稱、すなわち七世紀のインドで活躍した唯識の学匠Dharmakīrtiダルマキールティの作とされており、馬鳴以降に加筆あるいは改訂された可能性が高いと現代言われています。また、豊富な仏教説話を載せる『大荘厳論経』も尊者馬鳴作とされています。大乗に属する典籍で、漢訳典籍でしか伝わっていないものながら、特に支那以来日本でも非常に重要視されてきた『大乗起信論』、そして『大宗地玄文本論』もまた馬鳴の作と伝説されています。

『仏説無常経』には、そのような説一切有部に属していたと思われる馬鳴によって偈頌が付されていることから、必ずしも根本説一切有部独自のものであったと見なすことは出来ません。説一切有部と根本説一切有部は、たがいに上座部系の部派でその元は同じであったのでしょうけれども、それぞれ異なった律蔵を伝持する別個の部派で、根本を称したほうがむしろ時代的には新しく成立したものです。

(根本であるとか元祖であるとかわざわざ付けてその源流であることを誇るのは、田舎の饅頭屋と同じ様なものでしょうか。)

さて、『仏説無常経』はまた『三啓経さんけいきょう』あるいは『無常三啓経』・『三啓無常経』とも称されます。なぜ「三啓」と云うか。それは以下のような理由によるものであると、七世紀のインドおよび東南アジア諸国を遍歴し、それらの地における当時の僧院の様相をかなり詳しく書き記した義浄三蔵によって伝えられています。

神州之地。自古相傳。但知禮佛題名。多不稱揚讃徳。何者聞名但聽其名。罔識智之高下。讃歎具陳其徳。故乃體徳之弘深。即如西方。制底畔睇及常途禮敬。毎於晡後或曛黄時。大衆出門繞塔三匝。香花具設並悉蹲踞。令其能者作哀雅聲。明徹雄朗讃大師徳。或十頌或二十頌。次第還入寺中至常集處。既其坐定。令一經師昇師子座讀誦少經。其師子座在上座頭。量處度宜亦不高大。所誦之經多誦三啓。乃是尊者馬鳴之所集置。初可十頌許。取經意而讃歎三尊。次述正經。是佛親説。讀誦既了。更陳十餘頌。論迴向發願。節段三開。故云三啓。經了之時。大衆皆云蘇婆師多。蘇即是妙。婆師多是語。意欲讃經是微妙語。或云娑度。義目善哉。經師方下上座先起禮師子座。修敬既訖。次禮聖僧座還居本處。第二上座准前禮二處已。次禮上座。方居自位而坐。第三上座准次同然。迄乎衆末。若其衆大。過三五人。餘皆一時望衆起禮。隨情而去。斯法乃是東聖方耽摩立底國僧徒軌式。
 神州〈支那〉の地にて古より相伝しているのは、ただ礼仏・称名だけであって、多くはその徳を讃じて称揚するものではない。何をもって「(仏陀の)名を聞く」とするかといえば、(文字通り)ただその名を聴くだけのことであって、(それだけでは誰も仏陀の)その智慧の高下を識ることなど出来ない。そもそも讃歎とは、具さにその徳を陳べることである。故に(仏陀を讃嘆することによって)その徳の弘く深いことを知り得るのだ。
 そこで西方における制底畔睇〈祀堂での礼拝。制底はcaityaの音写で祠のこと。畔睇はvandanaの音写で稽首の意。和南とも〉や日常の礼敬についてであるが、毎夕あるいは黄昏時に大衆は(精舎の)門を出て、まず塔を繞ること三匝してから香花を供える。そして(大衆)皆が蹲踞すると、(諷吟に)堪能な者に、哀雅な声でもって明々朗々と大師の徳を、あるいは十頌あるいは二十頌でもって讃嘆させる。それが終わると次に、また寺中に入って常の集会処に至る。そして既に各自(それぞれが坐すべき)坐に着いたならば、一人の経師を師子座に昇らせ、少しばかり経を読誦させるのである。その師子座は上座の先頭に置かれているが、その大きさや場所など適切に考慮されており、(不坐臥高広大床戒に反しないよう)高すぎず大きすぎないものである。
 誦される経は多くの場合、『三啓経』である。これは則ち尊者馬鳴〈Aśvaghoṣa〉が(偈を加えて)編纂されたものである。初めに十頌ほどあるが、これは経意を要約し、また三尊〈三宝〉を讃歎するものである。次に正経〈『無常経』本文〉で、これは仏陀が親しく説かれたもの。(正経の)読誦が終われば、更に十頌余りが陳べられ、迴向・発願が論じられている。(そのように)節段が三つに開かれていることから、(その前後に馬鳴の偈頌が付された経を)『三啓経』と称するのである。『三啓経』の読誦が終ったならば大衆は皆、「subhāṣitaスバーシタ〈蘇婆師多〉」と言う。su〈蘇〉とは「妙」、bhāṣitaバーシタ〈婆師多〉とは「語(の過去受動分詞)」の義であるが、その意は経典を讃じることが「微妙に語られたものだ」と思わせるためである。あるいは「sādhuサードゥ〈娑度〉」とも言うが、その意味は「善き哉」である。
 経師が(師子座から)降りたならば、上座は先ず起って師子座を礼拝する。そして修敬し終ったならば、次に(往古の大徳らのために設えてある)聖僧の座を礼拝して元の座に還る。第二の上座は同じ様に二処を礼拝してから、次に上座を礼拝する。そして自らの座に戻る。第三の上座もまた同様で、衆〈saṃgha. 比丘衆〉の末席に至るまで同じくするのである。もしその衆が大人数であったならば、(上座から数えて)三人あるいは五人が(礼拝し)終ったならば、他の皆は一斉に衆に向かって起って礼拝し、随意に(座を)去るのである。このような法式は、東聖方〈東印度〉の耽摩立底国〈Tāmralipti〉における僧徒の軌式である。

義浄『南海寄帰内法伝』巻二(T54, p.227a)

あえてその前後も引用しましたが、義浄三蔵は支那における仏教僧らのなしている讃仏や礼拝が形式的で意味のないものであると批判した上で、本場である印度における本来のそれが如何なるものかを詳細に紹介しています。

ここでは東北印度の耽摩立底国、すなわちTāmraliptiターンラリプティ (ガンジス川河口部にあった港湾都市。現在のTamlūk)における僧院での礼拝・法式を示す中、『三啓経』が頻繁に唱えられていたことが伝えられています。ここでその僧院の所属部派には言及されていませんが、それはおそらく根本説一切有部でありましょう。

肝心の、なぜ『仏説無常経』を『三啓経』とも称するかの理由については、馬鳴尊者作の偈十頌ほどが経の前後に付され、いわば三部構成となっていることからであると、義浄は説明しています。実際その構成は、これは本稿で示している『仏説無常経』を見てもすぐ知られることですが、まず初めに七偈(一偈:七言四句)と十偈(一偈:五言四句)があって、続いて本経があり、その後にまた十二偈(一偈:五言四句)と五偈(一偈:七言四句)が付されたものとなっています。その内容は、前の偈頌は三宝に帰依して経文の内容を要約したものであり、後の偈頌は、経の主題である無常を敷衍して説いてから回向・発願するもので、まさに義浄が上に示した一節で述べた通りのものとなっています。

厳密に言えば『仏説無常経』とは馬鳴尊者による偈頌を除いたごくごく短い部分のみではありますが、これを支那に招来して翻訳した義浄三蔵は、その総体を『仏説無常経 亦名三啓経』として訳出し今に伝えています。もはや言うまでもなく、それは当時すでにそのような形で伝持されていたためです。

(近年、佛教大学の松田和信氏により、実は『三啓経』には四十種あって『無常経』はその中の第十一番目の経であったことが明らかにされています。したがって、根本説一切有部律においてしばしば言及される『三啓経』は、必ずしも『無常経』だけを指したものではありません。)

もっとも、現在『大正新脩大蔵経』に収録されている『仏説無常経』には、これを本稿でも講じているのですが、さらに「 臨終方訣りんじゅうほうけつ 」なる書が付されています。これは僧俗の人の死に際し、いかにその最期を迎えさせるか、そしてその死後に周囲の人はいかにすべきかを、多分に浄土教的信仰を以て述べているものです。

しかし、「臨終方訣」については、上に挙げた『南海寄帰内法伝』のどこにも全く言及されておらず、またその内容からしても義浄三蔵が全く関知しないものです。そして、敦煌から出土した古写本にも、それは付されていないことが知られています。これについてはまた後述しますが、おそらくは宋代の支那において、意図的に印度風に撰述されて付加されたものと考えられます。したがって、本稿も同項にて解説してはいますが、『仏説無常経(三啓経)』と「臨終方訣」とは本来全く別ものです。

「臨終方訣」 ―死をいかに迎えさせるか

前述したように、この義浄三蔵訳の『仏説無常経』すなわち『三啓経』を収録している大正新脩大蔵経には、さらに「臨終方訣りんじゅうほうけつ」なる一節が付されています。

これは僧俗の人の死に際し、いかにその最期を「安心させて」迎えさせるか、そしてその死後に周囲の人はいかにすべきかを浄土教の信仰者の立場から詳述したもので、現代風に言えば「臨終の手引」です。チベット仏教の古派(ニンマ派)で用いられる、いわば「死後の手引」である『死者の書』に類するものではありません。

「臨終方訣」について文献学的解説はここでしませんが、前述のように、宋代の支那において撰述され『三啓経』に付加されたものと考えて間違いないものです。そして宋代の支那では、日本の平安中期の天台僧、源信によって著された『往生要集』が早い時期にもたらされ愛読されたという影響もあって、浄土教が流行していました。

支那の浄土教の祖とされる曇鸞どんらんは北魏の、そして善導は唐初の人であり、その影響を鎌倉期の法然や親鸞などは受けています。しかし、唐末から宋代にかけて流行した浄土教は、日本の『往生要集』がそのきっかけともなっていました。恵心僧都源信は『往生要集』を著すに際し、南山律宗祖である道宣の著作『四分律行事鈔』や『関中創立戒壇図経』、そして『中天竺舍衞國祇洹寺図経ちゅうてんじくしゃえいこくぎおんじずきょう』に記された印度の僧院における「比丘の死の迎え方」を大いに参照しており、それらを極楽往生を願う浄土教における臨終行儀として事寄せています。

『往生要集』は著された当初からその影響は実に甚大で、特に皇家公家など貴族間の信仰や文学には相当なる影響を与えていました。実は、『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声」は、そのような典籍の記述に着想を得て生みだされた一節です。このあたりの経緯は、文学的・歴史学的にも非常に面白いところであるでしょう。

そして、その初期において浄土教と律宗とは極めて密接、とは言えぬまでも、ある部分ではかなり近しい関係にありました。特に信仰面においては、宋代の支那において南山律宗を中興した大智律師元照がその晩年に浄土教をも信仰しており、また平安後期に戒律復興を志してその先鞭をつけた実範も浄土教に晩年傾倒していたこともあって、日本では中世から近世に至るまで、多くの律僧らがその先例に倣って浄土教をも信仰しています。

いや、浄土教が律宗だけに影響を与えたなどということはなく、宋代以降の支那では密教も律宗も急速に衰退して影を潜め、代わりに浄土教が盛行して禅宗にも大きく影響し、ついにはその両者が融合して淨土禅とでも表したらよいものとなっています。明代末にあたる江戸中期に日本に伝わった臨済宗黄檗派(後の黄檗宗)などまさしくそのようなもので、現在台湾に毛沢東による文化大革命の嵐をくぐり抜け、辛うじて残った仏教も同様です。

さて、肝心の「臨終方訣」の内容は「臨終の手引」であるとすでに述べましたが、もはや死がすぐそこに迫った者に対し、「仏教の肝要は戒定慧の三学にある」であるとか「六波羅蜜を修めよ」・「善業を積め」などと言っても時すでに遅し。それは全く無駄なことです。それまで仏教を熱心に信奉して持戒・修禅に励み、福徳・智慧を積み磨いてきた人であれば、それは意味ある、有意義なものとなるでしょう。しかし、そんな人は実に稀であって、むしろ自身の死に臨んで慌てふためき、あるいは畏れ、怒る者こそ多くある。

では、そこで肝要なことは何か。語弊のある物言いとなりますが、時そこに至ればもはや、その人の信仰の対象・真偽・正邪などどうでもよく、死に逝く者をとにかく最大限「安心」させることです。その人の恐れや不安、いかりを取り除いて死を迎えさせることです。それがたとえあり得ないことであっても、それまでその者が生きてきた善悪いずれの業を帳消しになど決して出来ないことであっても、ある場合には「出来る」などと言い、とにかく最後の一念だけでも怒り無く、貪り無く、平安に迎えさせることです。

その方法を、浄土教の信仰者の立場から、実は支那人が書いたものであるのにあたかも印度の仏教徒が書いて義浄が訳したものであるかのような体裁で書かれたのが、「臨終方訣」です。

とは言え、「臨終方訣」が想定しているような、その本人がある程度はっきりした意識をもってその最期を迎えられることなど、いまや極めて稀な、殆どないこととなっているかもしれない。おそらく現代最も多いのは、病床にあって様々な薬剤や機材の助けのもと延々と、ある場合には無益に「生かされ」てしまい、その結果身体はまったく不自由でその意識は朦朧とした中、何もわからず漫然と死を迎える者でありましょう。

昔と比せば格段に身体的痛みは無く、それは間違いなく必要なことでしょうけれども、しかし人としての尊厳も無く、ただ病床の上にゴロンと寝かされ死をぼんやりと迎えさせられる。いや、「生かされている」ことによって、もはや他人に本人の意志を伝えることすら出来なくなり、むしろ身心は延々と苦しめら続けているかに思える場合もある。

巷間、「我々は生かされている、感謝!」などとそれを良い意味で口にする者が多いようです。が、しかし無益に「生かされている」ことは果たして感謝など出来ることなのか。これは医学が昔にくらべて飛躍的に進んだ結果の、その功罪です。

「臨終方訣」はまた、ついにその人が死を迎えた後にどのようにその遺体や遺品を処理すべきか、その葬送において如何にすべきかなどをも示しています。そしてその葬送において、(亡者に対してでは決してなく)三宝に対して香華を以て供養し、また比丘に請うて『無常経』を読誦させしむべきこと。またさらに、それを聞く参列の聴衆はそれぞれ無常を念じるべきこと等が説かれます。これらの記述は、この「臨終方訣」を撰じた者が間違いなく『南海寄帰内法伝』および諸々の根本説一切有部律の典籍を読んでいたことの証であります。

因みにこの「臨終方訣」は、仏教の看板を上げつつ葬儀や祖霊信仰を商材としてその祭式に専従することを生業とする日本の僧職者らにより、自身らの営業行為を正当化する根拠として注目され、牽強附会して取り上げられることが稀にですがあります。

しかし、繰り返しますがこの「臨終方訣」の核心は、死にゆく者を如何に安心させるかであって、死後の葬送云云もその一部ではあるのですが、葬式自体はいわばおまけのようなものでその本質などではありません。故に現代における葬式の根拠とするのは附会にすぎない。強いて言うならば、浄土教が流行した南宋代の支那の仏教者によって著された「臨終方訣」とは、特に浄土教徒に対して「いかに臨終を迎えさせるか」を説く臨終行儀です。