稽首歸依無上士 常起弘誓大悲心
爲濟有情生死流 令得涅槃安隱處
大捨防非忍無倦 一心方便正慧力
自利利他悉圓滿 故號調御天人師
稽首歸依妙法藏 三四二五理圓明
七八能開四諦門 修者咸到無爲岸
法雲法雨潤群生 能除熱惱蠲衆病
難化之徒使調順 隨機引導非強力
稽首歸依眞聖衆 八輩上人能離染
金剛智杵破邪山 永斷無始相纒縛
始從鹿苑至雙林 隨佛一代弘眞教
各稱本縁行化已 灰身滅智寂無生
稽首總敬三寳尊 是謂正因能普濟
生死迷愚鎭沈溺 咸令出離至菩提
生者皆歸死 容顏盡變衰
強力病所侵 無能免斯者
假使妙高山 劫盡皆壞散
大海深無底 亦復皆枯竭
大地及日月 時至皆歸盡
未曾有一事 不被無常呑
上至非想處 下至轉輪王
七寶鎭隨身 千子常圍遶
如其壽命盡 須臾不暫停
還漂死海中 隨縁受衆苦
循環三界内 猶如汲井輪
亦如蠶作繭 吐絲還自纒
無上諸世尊 獨覺聲聞衆
尚捨無常身 何況於凡夫
父母及妻子 兄弟并眷屬
目觀生死隔 云何不愁歎
是故勸諸人 諦聽眞實法
共捨無常處 當行不死門
佛法如甘露 除熱得清涼
一心應善聽 能滅諸煩惱
稽首して無上士に歸依したてまつる。
常に弘誓大悲の心を起こし、
有情を生死の流れに濟ひ、
涅槃安隱處を得せしめんが爲に、
大捨と防非と忍と無倦と、
一心と方便と正慧と力との、
自利利他悉く圓滿したまふ。
故に調御天人師と號したまふ。
稽首して妙法藏に歸依したてまつる。
三四、二五の理圓明にして、
七八能く四諦の門を開く。
修する者咸な無爲の岸に至る。
法雲法雨群生を潤ほし、
能く熱惱を除ひて衆病を蠲き、
難化の徒をして調順ならしむ。
機に隨て引導すは強力に非ずや。
稽首して眞の聖衆に歸依したてまつる。
八輩の上人能く染を離れ、
金剛の智杵は邪山を破り、
永く無始の相の纒縛を斷ず。
始め鹿苑より雙林に至るまで、
佛の一代に隨て眞教を弘め、
各の本縁に稱ひて行化已り、
灰身滅智して寂として生無し。
稽首して總じて三寳尊を敬したてまつる。
是れ能く普く濟ふの正因と謂ふ。
生死の迷愚沈溺を鎭め、
咸な出離して菩提に至らしむ。
生るる者は皆死に歸し、容顏盡く變衰す。
強力なるも病に侵され、能く斯れを免るる者無し。
假使妙高山も、劫盡くれば皆壞散す。
大海深くして底無きも、亦復た皆枯竭す。
大地及び日月も、時至れば皆歸盡す。
未だ曾て一事として、無常に呑まれざるはあらず。
上は非想處に至り、下は轉輪王に至る、
七寶鎭に身に隨ひ、千子常に圍遶せむも、
如し其の壽命盡くれば、須臾として暫くも停らず。
還た死海の中に漂ひて、縁に隨ひて衆苦を受く。
三界の内を循環すること、猶し汲井輪の如し。
亦た蠶の繭を作るが如く、絲を吐て還た自ら纒ふ。
無上の諸世尊、獨覺・聲聞衆も、
尚ほ無常の身を捨つ。何に況んや凡夫に於てをや。
父母及び妻子、兄弟并びに眷屬、
目に生死の隔つるを觀ては、云何が愁歎せざらむ。
是の故に諸人に勸む。眞實の法を諦聽し、
共に無常處を捨てて、當に不死の門に行くべし。
佛法は甘露の如し。熱を除いて清涼を得る。
一心に應に善聽して、能く諸の煩惱を滅すべし。
Anuttra. 仏陀の異称、如来の十号の一つで「この上ない人」・「最上の人」の意。▲
広大な誓願。▲
mahākarunā. 悲(karunā)とは、(自他の)苦しみを除こうとする思い。具体的には、(自他を)害さぬようすること。伝統的には抜苦といわれる。これに大(mahā)が付される場合は、ただそう思うだけでなく実行力を伴ったもので、特に仏陀や菩薩の悲であるといわれる。▲
sattva. 旧訳では衆生。原意は「生けるもの」・「生命あるもの」。▲
生死輪廻を河川あるいは海の流れに喩えた語。▲
dāna. 自ら有する物質的精神的モノを他に分け与えること。一般には布施、檀那。義浄は新訳に属する三蔵であったといっても玄奘のそれを必ずしも踏襲しておらず、独自の音写や訳語を用いることがある。ここで義浄は「大」を付しているが、偈頌のためただ字数を整えるために付したか、あるいは単に与え得るモノを与えるというのでなく、より一歩進んだ布施を意図したのかもしれない。
ここから以下、いわゆる十波羅蜜の徳目が列挙される。ただし、そのうち智は挙げられておらず、あるいは正慧としてまとめられており、また誓願(praṇidāna )はすでに上に弘誓として挙げているためか除かれている。▲
śīla. 戒。身体と言葉の行為について悪を為さぬよう制すること。持戒・尸羅。▲
kṣānti. 耐え忍ぶこと、特に怒らないこと。怒りを起してもそれを制して忍ぶこと。忍辱。▲
vīrya. あきらめないこと。日々努力し続けて投げ出さないこと。精進。▲
dhyāna. 集中すること。心を沈め、一つの対象に専心すること。修禅。
禅、具体的に四禅とは、定・三昧の一等高い境地のことであって、それが必ず目指すべきものであっても誰人でもたやすく到達出来るものでないため、ひとまずは修定の意としてよい。▲
upāya. (出離・解脱へと導く)手立て、手段。▲
prajñāあるいはjñāna. 物事の相違を判別し、その特徴や本質を認識する働き。一般にprajñāは訳されず般若と音写されることが多いが、慧と智とも訳される。jñānaもまた智あるいは慧と漢訳される。前者を無分別智、後者を分別智と区別することがあるが、その両語の使い分けは必ずしも厳密なものではない。事実、般若波羅蜜と言う場合には、ただそのような心の働きのみに限定されず、世間出世間の知識・技能も含意される。▲
bala. 外道からの論難、あるいは仏教に対抗しようとする天魔に屈しない力。▲
puruṣa-damya-sārathi. 調御丈夫の略。仏陀の異称、如来の十号の一つで「人を導く者」・「人々の調御者」の意。▲
śāstā deva-manuṣyāṇām. 仏陀の異称、如来の十号の一つで「神々と人々の師」の意。▲
仏陀の教え。具体的には仏陀が説かれた法と律。仏滅後は、それを後世に伝えるために編纂された経・律・論の三蔵。▲
仏陀の教法における修道法の至要、三十七菩提分法のうち四念住・四正勤・四神足の三種。▲
三十七菩提分法のうち五根と五力の二種。▲
三十七菩提分法のうち七覚支と八正道。▲
四聖諦。仏陀の教法の核心。苦・集・滅・道の四つの聖なる真理。三十七菩提分法は四聖諦のうち道諦すなわち八正道をさらに展開したもの。▲
僧伽。四人以上の比丘からなる、仏陀の教法を奉じて後世に伝え、また自ら修行する比丘達の集い。▲
四双八輩とも。預流・一来・不還・阿羅漢にはそれぞれ向と果との境地の別があるため四双と言い、総じて八種であるから八輩という。仏教では預流に至った者を聖者という。▲
鹿野園の略。そこで仏陀が成道後初めて法を説かれたことから、初転法輪の象徴。▲
いわゆる沙羅双樹の意。仏陀が入滅される際、その東西南北にはそれぞれ一対の、すなわち八本の娑羅樹があったことに基づく。ここでは仏陀が般涅槃された場面を意図したもの。仏陀入滅の直後、娑羅樹は一斉に白い華を咲かせたといい、その様子はあたかも白い鶴が乱立しているかのようであったから、これをまた鶴林ともいう。いずれも仏陀入滅の情景を表した語。▲
仏陀が死去入滅し、その身心ともに生死の苦海から脱してなくなること。生命あって身体と共なる以上は、仏陀であっても身体的苦しみすなわち苦苦から逃れることは出来ない。しかし、菩提を得てから死を迎えたならば、もはや生まれ変わることがなく、つまり全ての苦厄から脱することとなる。よって灰身滅智という。▲
須弥山の異称。須弥とはSumeruの音写で妙高はその漢訳。▲
劫波の略。劫波はkalpaの音写で、印度における長大な宇宙的時間の単位。一つの宇宙が誕生してから消滅するまでの時間。▲
非想非非想処の略。有頂天ともいう。天界の最上処、三界のうち無色界の最高所。この世において最も高位の神々の境涯。▲
人の世において法による支配を行う理想的・伝説的王。ここでは人として頂点の存在の一例。▲
カイコは変態時にその身を守るために自ら糸を出して繭としてまとうが、しかしそれが為に人に煮殺されて絹糸をとられる。いわば人というもの、ひいては神々を含めたすべての生けるものは、苦の自転車操業を孜々営々と、そして永々として行っている様を、カイコとその繭に喩えたもの。同様の譬喩は『大日経疏』にも説かれる。▲
Pratyeka-buddha. 仏陀に同じく独力で菩提を得たものの、しかしそれを他者に開示すること無く、その生涯を終える聖者。辟支仏または縁覚とも。▲
仏陀の教えを聞く者ら。すなわち仏弟子。聲聞はśrāvakaの訳。▲