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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『仏説無常経』臨終方訣附

原文

若臨命終看病餘人但爲稱佛聲聲莫絶然稱佛名隨病者心稱其名號勿稱餘佛恐病者心而生疑惑

然彼病人命漸欲終即見化佛及菩薩衆持妙香花來迎行者行者見時便生歡喜身不苦痛心不散亂正見心生如入禪定尋即命終必不退墮地獄傍生餓鬼之苦乘前教法猶如壯士屈伸臂頃即生佛前

若在家鄔波索迦鄔波斯迦等若命終後當取亡者新好衣服及以隨身受用之物可分三分爲其亡者將施佛陀達磨僧伽由斯亡者業障轉盡獲勝功徳福利之益不應與其死屍著好衣等將以送之何以故無利益故

若出家苾芻苾芻尼及求寂等所有衣物及非衣物如諸律教餘同白衣

若送亡人至其殯所可安下風置令側臥右脇著地面向日光於其上風當敷高坐種種莊嚴請一苾芻能讀經者昇於法座爲其亡者讀無常經孝子止哀勿復啼哭及以餘人皆悉至心爲彼亡者燒香散花供養高座微妙經典及散苾芻然後安坐合掌恭敬一心聽經

苾芻徐徐應爲遍讀若聞經者各各自觀己身無常不久磨滅念離世間入三摩地讀此經已復更散花燒香供養

又請苾芻隨誦何呪呪無蟲水滿三七遍灑亡者上復更呪淨黄土滿三七遍散亡者身然後隨意或安窣堵波中或以火焚或屍陀林乃至土下

以此功徳因縁力故令彼亡人百千萬億倶胝那庾多劫十惡四重五無間業謗大乘經一切業報等障一時消滅於諸佛前獲大功徳起智斷惑得六神通及三明智進入初地遊歴十方供養諸佛聽受正法漸漸修集無邊福慧畢當證得無上菩提轉正法輪度無央衆趣大圓寂成最正覺

臨終方訣

訓読

若し命終に臨まんには、看病の餘人、但だ爲に佛を稱して、聲聲絶ふこと莫れ。然も佛名を稱するに、病者の心に隨ひ、其の名號を稱するに、餘佛を稱すること勿れ。恐らくは病者の心をして疑惑を生ぜしむ

然るに彼の病人の命漸く終らんと欲するに、即ち化佛び及菩薩衆の、妙香花を持して、來りて行者を迎ふるを見る。行者見る時、便ち歡喜を生じて、身苦痛ならず、心散亂せず、正見心を生じ、禪定に入るが如くして、尋で即ち命終す。必ず地獄・傍生・餓鬼の苦に退墮せず、前の教法に乘じて、猶し壯士の臂を屈伸する頃に、即ち佛前に生ぜん。

若し在家の鄔波索迦・鄔波斯迦等、若し命終の後、當に亡者の新好の衣服を取り、及び隨身受用の物を以て分ちて三分すべし。其の亡者の爲に、將て佛陀・達磨・僧伽に施せ。斯に由て亡者の業障轉盡し、勝功徳福利の益を獲む。應に與に其の死屍に好衣等を著せて將以て之を送るべからず。何を以ての故に。無利益の故に

若し出家の苾芻・苾芻尼、及び求寂等の所有の衣物、及び非衣物は、諸律の教への如くす。餘は白衣に同じ。

若し送亡の人、其の殯所に至らば、下風に安じ置ひて側臥せしめ、右脇を地に著け、面を日光に向けて、其の上風に於て、當に高坐を敷き、種種に莊嚴すべし。一苾芻の能く讀經する者を請じ、法座に昇りて其の亡者の爲に、無常經を讀ましめよ。孝子哀を止め、復た啼哭すること勿れ。及び餘人を以て、皆な悉く至心に彼の亡者の爲に、燒香散花して高座・微妙の經典を供養し、及び苾芻に散ぜよ。然る後に安坐して合掌恭敬し、一心に經を聽け。

苾芻、徐徐に應に爲に遍く讀むべし。若し經を聞かば、各各自から己身の無常にして久しからずして磨滅すべきことを觀じ、世間の離るべきを念じて、三摩地に入る。此の經を讀み已て、復た更に散花し、燒香供養せよ。

又苾芻を請じて、隨ひて何らか呪を誦し、無蟲水を呪すこと滿三七遍にして亡者の上に灑ぎ、復た更に淨黄土を呪すこと滿三七遍にして亡者の身に散ず。然して後、隨意に或は窣堵波の中に安じ、或は火を以て焚き、或は屍陀林乃至土下す。

此の功徳因縁力を以ての故に、彼の亡人をして百千萬億倶胝那庾多劫の十惡四重五無間業謗大乘經、一切の業報等の障、一時に消滅せしめ、諸佛の前に於て大功徳を得、智を起こして惑を斷じ、六神通及び三明智を得て、初地に進入し、十方に遊歴して諸佛を供養し、正法を聽受し、漸漸に無邊の福慧を修集して、畢に當に無上菩提を證得し、正法輪を轉じて無央衆を度し、大圓寂に趣ひて最正覺を成ぜん。

臨終方訣

脚註

  1. 聲聲しょうしょう絶ふこと莫れ

    人が死に臨んで最後まで残り得る感覚は何か。その状況などによって必ずしも全ての場合に当てはまるわけではないが、それは聴覚である。風邪を引いただけでも味覚・嗅覚はたやすく死ぬほど弱いものであり、視覚や触覚も死に向かって失われる。しかし、聴覚は別である。意識を失ったかに思われる時も、人は無意識であっても音を聞いていることがある。故に、死に臨む人の周りで不快な音や泣きわめく音などたてるべきでない。ここで言われているように、その者の普段強く信仰する何事かあるならば、それを美音に聞かせ続けることは、最期を平安に迎えさせるのに資するものである。

  2. 病者の心をして疑惑を生ぜしむ

    まさに死にゆく者に対し、それを看取る者らが「その信仰を正す」とか「汝の知らなかった真理を今こそ説く」だとかいうことは多くの場合、無益であり、むしろ有害ですらある。ここで必要なことは、その者に恐れや疑惑など、すなわち不安にさせないことである。この一節は、それと同様のことを意味する語として誤りないであろう。

  3. 行者を迎ふるを見る

    人の生前信仰してきた思いが強ければ強いほど、場合に依っては強くはなかったとしても、死に際に「雲に弥陀や眷属の菩薩が来迎する」などと言った様を見ることがある。それがたといその人のそれまでの業の結果として、死を迎える前の朦朧とした意識の中に現れる幻像であったとしても、それを本人は「事実として見る」のである。あるいはその人の死に際して、他者が確認することが出来る何らか奇瑞と思われる現象が生じることもある。これは何も浄土教を信仰する者に限られたことではない。日本では譬えば、近世初頭に戒律復興運動を成し遂げた最初の人、俊正明忍の最後はまさしくそのようなものであった。

  4. 斯に由て亡者の業障ごっしょう轉盡し...

    亡者の遺品を三分して三宝に寄進したとしても、それだけで「亡者の業障轉盡」することは決して無いが、いつか来世の勝縁・結縁となることはあるであろう。

  5. 無利益むりやくの故に

    もはや遺体をどれほど飾り立てても身体に本人の意識はなく、またその飾りを来世に持ち越すことなど出来ないため、遺体を飾り立て、あるいは金銀宝石などと共に葬ることを「無利益である」と断じている。

  6. 求寂ぐじゃく

    śrāmaṇera. 沙弥に同じ。仏教の見習い出家種修行者。

  7. 諸律の教への如くす

    諸々の律蔵において死去した比丘の遺品をどのように分配すべきかの規定がなされているが、それに準じるべきべきことを意味したもの。

  8. 殯所ひんじょ

    葬送の場。

  9. 下風げふうに安じ置ひて

    風上に死骸を置けば、その腐臭をまともに嗅ぐことになるためである。

  10. 無常經を讀ましめよ

    この一説はまさに解題に示した根本説一切有部律の所説に従ったものであろう。支那においてこの『臨終方訣』を撰述した者は、義浄の『南海寄帰内法伝』における支那の葬礼批判を汲み取り、また訳出した『無常経』自体の内容と、それが印度において重用されていたという同書および有部律の所説を重んじて、忠実にそれらを踏襲した葬礼を構成したことが、ここに確認できよう。

  11. 啼哭ていこくすること勿れ

    この一説もまた義浄による、支那において連綿と行われていた儒教の形式的表面的喪制への批判を汲み取ってわざわざ但し書きしたものであろう。親の死の際し、彼らはたといそれが形式的・儀礼的であっても、他者に嘆き悲しんで憔悴した様を見せなければならなかったのである。  それはまさに儒教の悪しき側面であるが、むしろ支那本国ではその慣習はそれほど継承されていないにもかかわらず、そのような儒教的葬礼を未だに行っている地もある。朝鮮半島である。南北朝鮮における葬式時に雇われる泣き女や、その他の喪にまつわる文化習慣など、まさに義浄が批判した悪しき儒教の葬礼である。

  12. 燒香散花して...

    ここで注意しなければならないのは、葬送の際に焼香・散華する対象は、仏陀あるいは法の象徴でもあり、また読経する比丘が実際に坐す高座と経典、そして比丘である。すなわち、三宝に対して焼香・散華でもって供養するのであって、亡者にではない。そのように三宝を供養することによる功徳を以て、亡者の為とするのである。それがいわゆる「廻向」である。供養の対象が亡者が三宝か、両者は似ているようで全く異なる。
    「人は死ねば皆ホトケであるから」などという詭弁を弄する者が湧くことがたやすく想像されるが、笑止千万。まったく論外である。この『臨終方訣』をもって日本の葬式仏教の起源や正当性の根拠として強弁しようとする者もままあろうが、しかし彼らはこの『仏説無常経』を全く読めておらず、また『臨終方訣』が典拠とした諸仏典を知ってか知らずか無視しているのであろう。まさに葬儀や祖霊崇拝をこそ生業とする日本の僧職者らの浅ましさや卑しさというものである。

  13. 三摩地

    samādhi. 一つの対象に集中している心の状態。定はその漢訳。三昧に同じ。心一境性や等持と同義語。

  14. 無蟲水むちゅうすい

    比丘は飲用であれなんであれ、用いる水の中に(肉眼で確認しうる)虫などが無いよう、常に水漉しを携帯して使用しなければならないと規定されている。これは健康や衛生上の理由でそうするのではなくて、虫を誤って殺さないようにするための措置である。なお水漉しでも越し取れず、肉眼でも確認できないほど小さい虫に関してはどうしようもないため、肉眼で確認しえる範囲とされる。

  15. 滿三七遍

    二十一遍。

  16. 窣堵波そとば

    Stūpa. 仏陀あるいは仏陀の高弟の遺骨すなわち舎利や遺品などを祀るための塔。あるいは仏陀や菩薩を象徴する塔で、大乗では舎利の代わりに経文や陀羅尼などを封入して祀ることも行われる。卒塔婆に同じ。
    凡俗の人が死んだ際に卒塔婆を墓として用いることは本来からすれば実に可笑しいことで、ここで「窣堵波の中に遺体を納めよ」などという指示しているのは非インド的であり、語るに落ちるというものであろう。なお、その原初の形状は碗を逆さにして伏せた形で、いわば半円の土饅頭である。時代や地域が変わるごとにその形状は上に伸びていき、それぞれ原初の形態を一部留めながら、しかし国・地域によってかなり多彩となっている。日本における五重塔や三重塔、あるいは多宝塔にもその原初の形態を留めていることが確認できる。
    なお外形は同じようでもその中に仏像などが祀られ、人が入りうるものがあるが、それはStūpaではなくCetiya(祠堂/制底)であって別物である。たとえば現在のインド・ブッダガヤーの大菩提寺にある塔はStūpaではなくCetiya。

  17. 火を以て焚き

    火葬すること。荼毘にふすること。

  18. 屍陀林しだりん

    風葬のための死体を遺棄する林。屍陀はŚītaの音写、林はvanaの漢訳。Śītavanaは元来、北印度Magadha国の首都Rājagṛhaの南にあった林の名で、そこは死体が遺棄される風葬に用いられる場所でもあった。そこから転じて、漢語仏教圏では風葬のため死体を遺棄する他の林もすべて屍陀林というようになった。

  19. 土下どげ

    土葬。

  20. 倶胝くてい

    koṭi. インドにおける数の単位。10の7乗すなわち一千万。

  21. 那庾多なゆた

    nayuta. インドにおける数の単位。一般に一千億の意。

  22. 十惡じゅうあく

    十の悪しき行為。殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・綺語・慳貪・瞋恚・邪見。

  23. 四重しじゅう

    四重には律のそれと大乗戒のそれの二種、さらに密教のそれを加えた三種ある。が、ここでは特に大乗戒、すなわち瑜伽戒の四重であろう。瑜伽戒の四重とは①利養と尊敬を得ようと自らを称賛して他者を誹謗すること・②法を求め来たる者に対して惜しんで説かないこと・③許しを請う者に対して怒りを解かず許さないこと・④大乗を誹り像似の正法を自ら信じて他にも勧めること。玄奘はこれを四他勝処法という。
    ここで注意すべきは十重とは言われていない点である。十重とは『梵網経』や『瓔珞経』所説の菩薩戒である。この点からすると、『臨終方訣』の編者は瑜伽戒を受持するものであって梵網戒を受持するものでは無かった。

  24. 五無間業ごむけんごう

    犯せば来世は無間地獄へ転生することが確実な五つの行為。その五つとは、①母を殺すこと・②父を殺すこと・③阿羅漢を殺すこと・④僧伽の和合を破すること・⑤仏身を傷つけること。

  25. 謗大乘經ほうだいじょうきょう

    大乘経典を謗ること。大乗経の一つ『大宝積経』には、大乗を謗る声聞の姿があちこちに描かれている。また『大唐西域記』では、玄奘が中央アジアのいずれか部派をこそ信仰する国に至った時、大乗を途方も無い虚偽の説であって信ずるべきものでない等と言われたとの記述がある。そのように部派の立場から大乗を否定することは、おそらくインドで仏教が滅びるその瞬間まで行われていたであろう。
    『大唐西域記』も同様ながら義浄三蔵の『南海寄帰内法伝』では特に、インドにおいて大乗はむしろ少数派であったことを伝える。しかも大乗を奉じる者はいずれか部派の精舎に混在してあり、その外見と行儀はまったく同じで、その違いと言えば菩薩像を礼拝するか、大乗経を読誦するかほどのものでしか無かったという。
    支那では事情はまったく別で、ほとんど大乗のみが伝わっていたため、そのあたりの印度の事情には非常に疎かった。小乗だの大乗だの言っても、その実際はほとんど知られなかったため、支那仏教は「想像上の小乗」を相手に空理空論を重ねていよいよ観念のお遊戯と化していった側面が否めない。そのあたりの事情は日本でも同様である。
    支那ではむしろ儒教や道教が大乗(仏教)を排撃しようとする動きが強く、実際に数回の廃仏が行われた。よってここにいう「謗大乘經」とは、むしろ儒者・道者を意図したものと見ることも可能。

  26. 六神通ろくじんつう

    禅に至った仏・菩薩・高僧らが備える六種の超人的能力。その六種とは、神足通・天耳通・他心通・宿命通・天眼通・漏盡通。

  27. 三明智さんみょうち

    全ては無常・苦・無我であることの完全なる理解。

  28. 初地しょじ

    菩薩の階梯、大乗における十地の初め。この境地に至ったものは喜びに満ち溢れるということから歓喜地と称される。

仏陀の言葉