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智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

最澄『願文』

『願文』解題

『願文』とは

願文がんもん 』とは、弱冠〈二十歳〉を迎えた最澄が延暦四年〈785〉四月六日、東大寺戒壇院にて具足戒および三聚浄戒を受けて三ヶ月後に突如として比叡山に籠もり、そこで修学修禅に励むうち、みずから誓願を起こして書き記したものであると伝えられる、文字通り最澄の願文です。

願文が著されたのは正確にいつのことであったかはわかっていません。最澄のものとして伝承されている『願文』自体に日付も署名もなく、またそれに触れた史料が、最澄の死後に弟子の釈一乗忠なる者によって著された『叡山大師伝』で「比叡山にて籠もって修行中に著されたものである」などと記されている以外、まったく無いので不明です。

『叡山大師伝』の所伝が正しいのであれば、最澄が比叡山に籠もりだした延暦四年〈785〉から、延暦十六年〈797〉に桓武帝に官職(内供奉十禅師ないぐぶじゅうぜんじ)を与えられて朝廷に出仕するようになるまでの十二年の間に著されたものであるのでしょう。その内容から察するに、おそらくはそのうち前半期の早いうちであったろうことが想像されます。

本来ならば、具足戒を受けて比丘となったばかりの者は、律蔵の規定によって最低でも五年間、師主ししゅ(和上)あるいは依止阿遮梨えじあじゃり(依止師)いずれかのもとで、比丘としての行儀作法から経律論の三蔵など基本的なことを修学しなければなりません。当時の日本では、国の制度として受具後の最低三ヶ月〈一夏九旬〉は東大寺戒壇院にとどまって夏安居を過ごし、そこで律について最低限の事項を修学しなければならないこととなっていました。新比丘らはその後、それぞれの本寺に帰り、各自の師主や依止阿闍梨のもとで修学に励む習いとなっていたのです。しかし、若い最澄はそのような定めや習いに反し、戒壇院で三ヶ月を過ごした後に本寺に帰らず、山野に籠ることを決意したようです。

もっとも、最澄の本寺は近江国分寺でしたが、受具した延暦四年〈785〉に焼失しており、彼は帰るべき寺を亡くしていました。それが最澄が山野に籠もることの一つの大きなきっかけとなっていたのかもしれません。しかし、得度の師であった行表ぎょうひょうはいまだ健在であって、彼の本来帰るべき場所は行表のいる寺でした。そしてなによりも当時、これは国家の法律(『養老律令』僧尼令)として、僧尼がみだりに山林に籠もって修行することは制限されていました。

第十三 禪行條
凢僧尼有禪行。 謂。禪靜也。 修道。意樂寂靜。不交於俗。欲求山居服餌者。 謂。服辟穀藥。而靜居靜行氣也。雖不服餌。亦聽山居也。 三綱連署。在京者。僧綱經玄蕃。在外者。三綱經國郡。勘實並綠申官。判下山居所隷國郡。 謂。假如。山居在金嶺者。判下吉野郡之類也。 毎知在山。不得別向他處。
第十三 禅行条
およそ僧尼が禅行 謂く、禅静を云う。修道しゅどうあって、こころに寂静を願い、俗に交らず、山居せんきょを求めて服餌ふくじ〈五穀を断ち、野草木皮などいわゆる漢方薬に類するもののみを服すこと〉しようと欲したならば 謂く、穀物を辟けて薬を服し、静居して静気を行ずることを云う。服餌しなくとも、また山居することを許せ。、三綱は連署して、在京ならば僧綱・玄蕃寮に報告せよ。在外ならば三綱・国郡司に報告せよ。(それを希望する僧の)実態を勘案し、並びに記録して官に申告せよ。(その許可を)判じたならば、山居する土地の国郡司に通達せよ。 謂く、たとえば山居するのが金の嶺みたけであれば、その許可したことを吉野の郡に通達する類を云う。 (許可したとしても、その僧が)つねに山に在ることを確認せよ。(許した山以外の)別の他処に向かわせてはならない。

「僧尼令」(新訂増補『國史大系』, vol.22, 『令義解』, pp.84-85)

現在とは社会制度や状況がほとんど異なっていたその昔であっても、出家者が山林修行を志したからといって、誰でも彼でも自由に山林に籠もることが出来たわけではありません。最澄が山に籠もるには、必ず先ず本寺の三綱〈三人の寺院の管理者.寺主・上座・維那〉にその聴しを乞い、許されたならば三綱がそれをまた僧綱と国司に報告して、正式に朝廷(僧綱および玄蕃寮)からの認可を得て、それをさらに山居する地の国司または郡司に通達しなければなりませんでした。

現在の僧職者の中には、「昔は僧は修行や学問にのみ没頭できた。もっと自由だった」・「今は昔と違って僧であっても書類上のあれこれに追われ、その故に事務的手続きに精通しなければならない」などといったことを無闇に言いたがる者があります。そうしてそれを、自身らが現状として僧侶としての本来的修行・あり方を全然していないこと、実質的に僧侶としての生活など送らず、俗人にまるで変わりない(けれども僧侶としての立場・権利は固守して、そのように扱われることを望む)ことの言い訳、もっともらしい弁明としている者もままあります。

しかし、無論その質と量は全く異なるでしょうけれども、当時から僧は様々な行政上の申請手続きや書類のやり取りを行わなければなりませんでした。そして、これは敢えて言うまでもありませんが、当時は電話もパソコンも無かった。

実際、奈良・平安期のその昔から寺院の住職、あるいは僧尼の総監たる僧綱という官職に就き、その経営や監督にあたることは比丘にとって非常な負担であったようです。そこで早々に辞意を示す者がありました。例えば、やや後に僧綱の僧都に任じられていた空海など幾度もこれを辞退したいと願い出ています。しかし、当時の制度として、僧綱の人事には本人の意志など反映されず、そう簡単に辞任も交代も出来るものではありませんでした。

第十四 任僧綱條
凢任僧綱。謂律師以上。必須用德行能化徒衆。道俗欽仰。綱維法務者。 謂。僧綱者。僧正。僧都。律師也。德行者。内外之稱也。在心爲德。施事爲行也。綱維者。張之曰綱。持之曰維。言張持法務。令其不傾弛也。 所擧徒衆。皆連署牒官。若有阿黨朋扇。 謂。阿黨者。阿曲朋黨也。朋扇者。朋黨相扇也。 浪擧無德者。百日苦使。一任以後。不得輙換。若有過罸。及老病不任者。 謂。過罰者。十日苦使以上也。僧綱若犯此罪者。唯解其任。不更苦使也。老病不任者。緣老若病。不任其事。 卽依上法簡換。
第十四 任僧綱条
およそ僧綱 律師以上を謂う。 に任ずる際は、必ずすべからく徳行あってよく衆徒を指導する、道俗がうやまあおいで、法務の綱維たる者を用いなければならない 謂く、「僧綱」とは、僧正・僧都・律師を云う。「徳行」とは、内外の称である。心に在るのを徳とし、事に施すことを行とする。「綱維」とは、これを張るのを「綱」といい、これを持つのを「維」という。法務を張り持って、それをして傾いたり弛ませないことを云う。。推挙する徒衆は、その全員が連署して官に(その推薦文書を)提出せよ。もし阿党朋扇して 謂く、「阿党」とは、阿曲朋党である。「朋扇」とは、朋党相扇ぐことを云う。みだ りに無徳の者を推挙したならば、百日苦使せよ。(その僧を僧綱に)一任して以後は、輙く交代させてはならない。もし過罰があった場合、および老病にして えなければ 謂く、「過罰」とは、十日苦使以上を云う。僧綱がもしこの罪を犯したならば、ただちにその任を解け。更に苦使してはならない。「老病にして任えなければ」とは、老いもしくは病に縁って、その事に堪えないことを云う。、ただちに上記の法に依って選び交代させよ。

「僧尼令」(新訂増補『國史大系』, vol.22, 『令義解』, p.85)

僧として住職などの地位にあることは、事務的な処理を多く伴う責任ある職であって、それが負担の大きいもので決して心地よいもので昔はなかったようです。少なくとも近世までは、住職となっても数年で弟子にさっさと譲り、自らは庵など結んで修行に打ち込む人は多くあったことが知られます。無論、その寺院のありかた(僧坊など修行をこそ目的としているか否か)や僧個人の目的によって、積極的にその寺院の住職や能化でなければならない、であったほうが良い、ということもあったでしょうけれども。

ところで、現代における寺などと言うものは、結局はほとんど場合、本来はありえないはずの「ボーさんの妻子」など家族を養うための家業たる個人事業(宗教法人)として存在しているにすぎなくなっています。そしてその個人事業・法人を意地でも、何が何でも世襲させずにはおかないのが当然と考えられており、要するに寺院・宗教法人の私物化ということが常識的に行われています。

それはまた、単にその子から職業選択の自由を奪うということではなく、思想・宗教の自由を子供のことから与えず洗脳し続けてこそ為される業でもあります。(七十年代、業報思想や差別戒名が部落解放同盟や左翼系団体からの糾弾対象にされたことにより、)今の寺の住職や僧職者らは人権がどうのいいますが、人権ということを真に言うならば、その張本人が人権などまったく無視しているのですから面白いものです。

「お前は寺の釜の飯を食って育ったんだから、これを継ぐのが当然である」と言い続け、また檀家の高齢女性に「あんたが大きくなって葬式をあんたにあげてもらうのが最期の夢だ」と言わせて育てれば、その子は諸々の葛藤を抱えながら、しかし結局寺を注がざるを得なくなる。これは特に大戦以来の寺家における、当たり前ですが、基本的人権などどこ吹く風であるからこそあり得る話でありましょう。

それによって、寺院経営者がその他多くの余計な「娑婆の苦しみ」をいわば自転車操業で生み出しておいて、「時代が違う」・「今は法人経営のための事務的なあれこれがあって、本来の僧侶として生活を送ることは困難」・「寺をやるのは苦しい、難しい。そんな簡単なもんじゃない。それでも、私は僧侶として責任があるからやっているのだ」などと言う者は、実に滑稽の感が否めません。

(最近は「実際のところ、寺なんか、ボーサンなんかもうやめたい。葬儀ビジネスで羽振りが良いのは一部の寺で、ウチなんか食うのがやっと。でも、やめたとして他に出来ることがあるでも無し。自分らがやっていることは本来からすればほとんどペテンですらあることも気づいているが、しかし経済的にはこれで続けていくしか無い。ああ、無情…」などといった、哀れな本心を抱えている地方の弱小・困窮寺院経営者も出てきてはいるのですけれども。)

いずれにせよ、僧侶の本来、仏教僧のあるべきようを、単純に「時代も制度も違うからやれない」・「国や地域が異なるから出来ない」などと言うことは出来ません。

官僧最澄の遁世

最澄の場合、空海が大学を辞めて後にそうしていたようないわゆる私度僧(似非僧)ではなく、国分寺の官僧でした。したがってこの条は必ず守るべきものでした。

むしろ同時代の空海などは、入唐留学する直前まで令条に違反する存在であった私度僧で、その実際は僧などでは決してない在家の山林修行者でした。そのような立場であったからこそ、吉野や石鎚あるいは室戸など、あちこちの山林をある程度自由に跋渉することが出来たのでしょう。

伝説でそのようにいう説もありますが、空海は青年期に平城京の大学を中退してすぐ出家得度し、出家修行者・沙門として山林修行などしていたのではありません。仏道修行者といっても、それはあくまで在家信者としてのことです。しかし空海は、遣唐使に随行して唐に渡る留学僧になるべく、その直前の三十一歳にて出家得度し、そこで初めて僧となっています。これは空海の出自がある程度の経済力を有する地方豪族で、さらに母方の家系が朝廷に近かったことから成し得たことでしょう。

仏教についていくら知識があったとしても、それで僧伽(出家)での席次・地位が高まるということはありません。それは偏に、具足戒を受けて比丘となって何年たっているかによってのみ決定されます。故に空海は入唐の時点では僧としてはゼロ歳の新発意。僧侶としてはいわばまったくの新入生でした。逆に、空海が出家者としてはそのようにあまりに年若い者であったのに、唐のしかも長安の大寺においてその他大勢の諸僧をさしおき、恵果から密教の正嫡として抜擢されたことは、ますます驚くべきこととなるのでしょうけれども。

(空海の出家時期については諸説ありますが、ここでは諸々の「空海とんでも超人伝」は完全に無視し、日本正史の一つ『続日本後紀』の記事「空海卒伝」にある「年卅一得度」、すなわち延暦廿三年の入唐留学直前にあわただしくなされたという説に立っています。)

さて、若き最澄は何故に戒壇院にて受具後、当然その許可をとってのことであったでしょうけれども、突如として比叡山に籠もることを決意したのか。その消息は、弟子の一乗忠なる者によって詩情を用いて著された『叡山大師伝』に、少しばかりながら記されています。

以延暦四年。觀世間無常。榮衰有限。慨正法陵遲。蒼生沈淪。遊心弘誓。遁身山林。其年七月中旬。出離憒市之處。尋求寂静之地。直登叡岳。卜居艸菴。松下巖上。與蟬聲。爭梵音之響。石室艸堂。將螢火競斜陰之光。柔和善順。心不卒暴。自性無有服飾之好。亦絕嗜味之貪。披忍衣而覆法界則無人不愛樂。入法空而悲動植。則無趣不悦豫。善權方便之力。如磁石吸鐵。蘭若不動之心。如帝珠鑒物。所以檀林條柯。衆鳥所集。滄海坎德。諸湊無背。凡諸門徒。見行貴心。見志增貴。不憚寒熱。不憂飢饉共結山林之㴱志。皆慕利生之宏基。奉爲四恩。毎日讀誦法華。 金光明。般若等大乘經。一日不闕。無有懈怠。得衣服時。施與前人。 特無慳悋。亦無嫉恚。且坐禪之隙。自製願文。
延暦四年〈785〉、(最澄は)世間が無常であって栄枯盛衰ある有限なものであることを観、正法が次第に衰えゆき、人々が零落していっていることを嘆いて、心に大いなる誓願を起こした。そこで身を山林に隠そうと、その年の七月中旬〈この記述が正しいならば、戒壇院において夏安居を過ごして明けた直後〉、乱れた市井から出離して寂静の地を尋ね求め、直に比叡山に登って居を粗末な草庵に定めた。松の下、巌の上にあって蟬の聲と梵音の響きを争い、石室・草堂にあって螢火と斜陰の光〈夕暮れのかすかな陽の光、あるいはほのかな油灯の光の意?〉を競った。(最澄は)柔和善順にして心が激情に駆られることはなく、その性格として服飾の好みなど無く、また食に関する嗜好の貪りも断っていた。忍辱という衣をまとって法界を覆ったならば、人として好意を持たない者は無く、法空に入って〈事物に執着すること無く〉動植物を愛おしんだならば、則ち趣として悦楽しないこということは無い。善権方便の力は、磁石が鉄を引き付けるようなものである。蘭若〈閑静な山林〉における不動の心は、帝釈天宮の珠が物をすべて映し出すように明らかであった。そのようなことから、檀林の枝々〈比叡の山林〉は衆鳥〈仏道を志す人々〉の集る所となって、滄海の坎徳〈最澄の謙虚さ〉に諸港〈最澄を慕って集まった者ら〉は背くことが無かった。凡庸なる諸々の門徒は、その行を見て心を貴び、その志を見て敬意を増し、寒熱を厭うことがなかった。飢え乾きを憂わず、共に山林にて過ごす深い志を結び、皆がその利他の宏基を慕ったのである。
(最澄は)四恩〈父母・国王・衆生・三宝に対する恩〉の為に、毎日『法華経』・『金光明経』・『大般若経』等の大乗経を読誦して、一日も欠かさず懈怠することが無かった。衣服を得た時には、前人に施し与えて特に惜しむことが無く、また嫉妬や怒りを持つことも無かった。そして一方、坐禅の暇に、自ら『願文』を製したのであった。

釈一乗忠『叡山大師伝』(『伝教大師全集』, Vol.5, 附録 p.3)

これは最澄自身によって著されたものではなく、直とはいえあくまで弟子(一乗忠が具体的に最澄の弟子のうち誰であったのかは今も未確定。一説に仁忠)が記したものであるため、どこまで事実を反映したものであるかはわかりません。しかし、ここでは彼が比叡山に入って行を修めようと決意するに至ったきっかけが、世間の無常なること、世の栄華の虚しいことを観じたためであったと伝えています。また、この『叡山大師伝』によると、最澄は決してただ一人孤独に比叡山で過ごしていたわけではなかったようで、幾人かの同行者・同調者があったようです。

たいてい「山林での修行」などと言うと、「人との交わりを完全に絶ってひたすら孤独の中で、はなはだ厳しい修行を重ねる」などと想像されるのかもしれません。しかし、誰人として衣食住なしには一月として生きることなど出来ない。必ずそこには他者との交わり、そのような修行者を後援する人々の存在があります。やはり最澄も、そこで修行し得る後援・支援の存在が見込まれていたからこそ、比叡の山中に入ることを決意したのでありましょう。

古代・中世の出家者の多くは、だいたい同じ氏族の人々による金銭的・物質的支援を受けて活動することが多かったようですが、まさしく比叡山は、最澄の出身地である近江国古市郷から遠からぬ地です。よって最澄は親族・氏族の者から衣食の支援を受けて、比叡の山にあったのでしょう。いずれにせよ、ここで伝えられているのは、『願文』とは最澄が比叡山でその山林での清貧なる生活を愉しみ、読経・坐禅に励んでいた暇に著されたものであるということです。

ところで、『叡山大師伝』によれば、最澄が『摩訶止観』や『法華玄義』など智者大師智顗の諸著作に触れ、その教義に強く惹かれていったのは『願文』を著した後のことであるとしています。しかし、この記述についてはかなり疑義があります。ここで紹介する『願文』の中に、すでに智顗による造語、たとえば「六根相似位」といったものがいくつか用いられているためです。

したがって、最澄はこの『願文』を著した時点で、智顗の著作をすでに知っていたと考えられます。実際、智顗の著作のほとんどは、天平勝宝の昔に鑑真によりもたらされており、東大寺戒壇院に蔵せられて学ぶことができたと思われます。あるいは、そのように智顗の諸著作に戒壇院にて始めて触れ、何らか思うところが出来たからこそ、若き最澄はいずこか山林に籠もって修行することを志向するようになり、実際に実行したのかもしれません。

(現在、東大寺の一角に残っている戒壇はそのごくごく一部に過ぎず、往時の『戒壇院』は廻廊をめぐらした講堂や僧堂・食堂など多くの施設を備えた規模の大きなものでした。その故に近年、東大寺はその中で唯一現存している戒壇について、それまで「戒壇院」としていた名称を「戒壇堂」と変更しています。)

若き最澄の五願

最澄の『願文』には、最澄の名も日付も記されていないものの、故にこの『願文』がいつごろ書かれたものかは不明なのですが、その内容からすると他者がこれを読むことを前提として著されたようにも思われるものです。そこでは以下の五つの誓願が記されています。

若き最澄の五願
No. 原文 意訳
1. 我自未得六根相似位以還不出假 いまだ六根相似の位を得ないでいる間は、出仮〈世間に出ること〉しない。
2. 自未得照理心以還不才藝 いまだ理を照らす心を得ないでいる間は、才藝に携わらない。
3. 自未得具足淨戒以還不預檀主法會 いまだ浄戒を具足しないでいる間は、施主の法会に出ない。
4. 自未得般若心以還不著世間人事縁務。除相似位 いまだ(一切の事物・事象が空であると達観する)般若の心を得ないでいる間は、世間での人事・縁務に関わらない。ただし、相似の位に至っていた場合は除く。
5. 三際中間。所修功徳。獨不受己身。普回施有識。悉皆令得無上菩提 (過去・未来・現在の)三際において修める功徳を、私独りで己が身に受けることなく、あまねく意識ある者すべてに廻らし施して、悉く皆が無上菩提を得られるようにする。

果たしてこれら最澄の誓願が、比叡山にて過ごした十二年のうちに文字通り果たされたのか否かは不明です。彼最澄は、決して名聞利養を求めて出家したのでも、叡山に籠もったのでもなかった。それは間違いないと断言して良いことでしょう。最澄は真に道を求めて修学・修行していたに違いない。

最澄は、人生のなかでも特に重要な期間であるといえる弱冠から而立を超えるに至るまでの十有余年間を、比叡という山林の中にあって過ごし、しかしそこでの生活に愉しみを見出して満足しつつ修学・修禅に励んだようです。そして、その体験がいわば以降の最澄を最澄たらしめる基盤となっていったのでしょう。このとき比叡の西の麓には、おそらくは幾許かの村落・集落があるに過ぎません。

最澄が比叡山に籠もって修行するようになった時は、都が平城京から長岡京に遷されて一年ほどのことで、南西のふもとが京都になるとは夢にも思われなかった年です。もし麓に都などあったならば、若い最澄は比叡山に籠ることなどなく、他の地を選んだであろうと思われます。

けれどもそのおよそ九年後、桓武帝が延暦三年〈784〉十一月十一日に平城京から長岡京へと遷都。さらに延暦十三年〈794〉十月二十二日には、さらに北の地の平安京へと遷したことで、いわば遁世していた最澄の人生は甚だ大きく転換し、歴史の表舞台に立つこととなっていきます。比叡山に入ってから十二年後の延暦十六年〈797〉、京の北東に位置する叡山に籠もって熱心に修行する若き最澄の噂を聞いた桓武帝によって、内供奉十禅師に列せられるのです。

内供奉十禅師とは、天皇のいわば専属祈祷僧あるいは看病僧であり、僧綱ほどではないにしろ官僧としてはかなり高い地位で厚遇された立場です。そのようなことからも、最澄は近江国の税金を比叡山の資金として用いることが出来るようになり、最澄は比叡山の伽藍を整える基盤を得ています。そして、その五年後の延暦二十一年〈802〉、桓武帝の意向によって創始された短期留学の制である還学生に最澄は選ばれ、唐の天台山において天台教学をわずか数ヶ月ばかりの極短期間であったものの直に学ぶことになります。

いずれにせよ、そもそも最澄が比叡山に入って後に一乗止観院(最澄の死後に延暦寺と改称)を開いたのは、よくいわれる京の鬼門が云々だとか、京の鎮護をするためだとかいう理由からなどでは全くありません。平安京が建立されて後、たまたま比叡山が鬼門といわれる北東部に位置していたというだけのことで、比叡山が京都の鎮護だのと言われるようになったのは、後にそこに事寄せられた話です。

さて、最澄が帰国後二年の大同元年〈806〉一月。桓武天皇の肝いりということもあり、朝廷から最澄に天台法華宗として年分度者二名を得ることの勅許が下されます。ここに晴れて、日本の天台宗が打ち立てられたのでした。しかしながら、最澄の天台宗にて僧となった者はまたたくまに離散することが長く続き、その前途は実に多難なものでした。そこで最澄は、その死を迎える最後まで、新しく立てたばかりの天台宗の存続に苦心し、また法相宗との論争に明け暮れて追い詰められていくことになります。

貧道覺應