『理惑論』とは、今からおよそ1800年前の後漢において、牟子という仏教を奉じる在家の学士によって著されたとされる書です。当時、支那に伝来して間もない仏教に対し巻きおこっていた、儒家と道家(老荘思想)および神仙信仰からの種々様々な批判。それに対し、仏教を擁護してそれが孔子・孟子や老子・荘子の思想に大きく乖離したものでなく、むしろより優れた道であることの論述を、その内容としたものです。仏教・儒教・道教の三教の関係、その優劣を論じたものとして史上初、最古の書です。
すなわち、『理惑論』とは、支那における(仏教に対する様々な)「惑いを理める論」あるいは「惑いを理す論」というほどのものです。
もっとも、『理惑論』は当初、『治惑論』すなわち「惑いを治める論」という題目であったようです。しかし、唐代となって高宗の諱が「治」であったことからこれを避け、『理惑論』と改称されたものであると、支那近代の歴史学者陳垣によって指摘されています。そこで『理惑論』はまた『牟子理惑』や『牟子理惑論』、あるいは単に『牟子』とも称されていますが、ここでは『理惑論』との称を用います。
著者とされる牟子は、また牟子博あるいは牟融 とも云われますが、その出自や生没年など詳しいことは不明です。ただ『理惑論』の序に、牟子がいかにして本書を著すことになったかの経緯が記されていることにより、その半生を辛うじて知り得るのみとなっています。そしてその半生には、後漢の 霊帝〈156-189〉没後に牟子の諸々の活動があったと伝えられていることから、牟子は二世紀末から三世紀中頃の人であったろうと考えられています。
ただし、『理惑論』は、独立した書としては既に散失して現存していません。しかし、前漢の仏教伝来から南朝梁代にまで続いていた仏教と儒家・道家との軋轢・対立を、仏教の立場から整理し明確化しようとした 僧祐(僧祐)により編纂された『弘明集』十四巻(元来は十巻)の最初に収録されていたため、現代にまで伝えられ今なお我々も目にすることが可能となっています。
『弘明集』には『理惑論』を紹介するその初めに「牟子理惑 一云蒼梧太守牟子博傳」とあり、牟子が交州蒼梧郡〈現在の広西チワン族自治区〉の太守であったとする説を紹介しています。しかし、それが事実であったかどうかを証するその他の史料は今のところありません。
なお、僧祐〈445-518〉は五世紀の南朝梁の人で、当時ようやく伝わった律儀(具足戒)の普及にも勤め、特に梁武帝(蕭衍)が帰依して非常に厚遇したことで知られる当代の高僧です。ちなみに梁武帝は、後の日本においても天皇、特に聖武天皇が強く意識してその行業を範としていた人です。
『弘明集』は、当時の支那において仏教がどのような目で見られていたのかを伝え、さらにまた道家の思想についても伝える貴重な記述に満ちています。『弘明集』に収録された当時の論争を記す諸々の書において展開している仏教思想に関する議論は、すでに十四、五世紀も経ようかという現代においてすら通じて見られるものが多くあります。したがって、ただ単なる史的価値だけでなく生きた思想としての価値も大いに認められるものであり、ただ仏教学者や史学者が弄ぶだけのものとしたままにするには誠に惜しい書です。
そんな『弘明集』に収録された諸々の論書の中でも一等早い時期となる後漢に著されたとされる『理惑論』は、仏教伝来当初の支那における仏教の理解・見方を生々しく伝える実に稀有にして貴重な典籍です。
(現在伝わる『理惑論』の内容とその構成は、かならずしも後漢時代そのままのものでは無く、『弘明集』に収録される南朝梁代に至るまでの後代に編集が加えられている可能性のあることが学者によって指摘されています。)
『理惑論』は、三十七の異なる議題についての問答体で構成されており、これは仏教の要諦である三十七菩提分法に倣ってのことであったとその結文にあります。
三十七の議題といっても、原文に第一・第二などと篇毎に数が振られているわけではないため、その分け方は人によって異なる場合があるでしょうけれども、今ここでは底本とした『嘉興蔵(万暦版大蔵経)』所収の『弘明集』にて設けられている段落を一篇としています。その三十七篇がいかなる内容によるものであるかを示したならば以下の通り。
(下掲の表中、右側の列は本稿の該当する項に連結しており、直ちにその本文を閲覧すること出来ます。これに、漢文と読み下し文を併記しさらに脚注を付した「原文」と、読み下し文に現代語訳を付した「対訳」との別を設けています。)
篇 | 議題 | 該当項 |
---|---|---|
序分 | 牟子の半生と『理惑論』を著すに至った経緯 | 原文・対訳 |
第一 | 仏の出自・行業・風貌について | 原文・対訳 |
第二 | 仏の名称について | |
第三 | 道とは何か | |
第四 | 仏教と儒教とが異なる所以 | |
第五 | 儒教に比して仏経が膨大である所以 | 原文・対訳 |
第六 | 衆多なる仏経の要について | |
第七 | 古の儒教の聖人達が仏教を知らないことについて | |
第八 | 仏の三十二相八十種好について | |
第九 | 沙門が儒教の説く「孝」に反していることについて | 原文・対訳 |
第十 | 沙門が「福」と「孝」の行に反していることについて | |
第十一 | 沙門の姿・服装が「礼」に反していることについて | |
第十二 | 輪廻転生について | |
第十三 | 仏教が鬼神と生死とに言及することについて | 原文・対訳 |
第十四 | 夷狄の術(思想)を学ぶことについて | |
第十五 | 布施が「仁」・「礼」・「孝」に反することについて | |
第十六 | 今の沙門が破戒していることの欺瞞について | |
第十七 | 布施の功徳について | 原文・対訳 |
第十八 | 仏経で譬喩が多く用いられていることについて | |
第十九 | 沙門の禁欲的日常生活について | |
第廿 | 仏教を諸方に布教せず、むしろ経伝を兼ねて学ぶことについて | |
第廿一 | 仏教の支那への伝来について | 原文・対訳 |
第廿二 | 仏教が至道であるならば、なぜ沙門は黙さないのか | |
第廿三 | 言論について | |
第廿四 | 仏教は虚説であると世人が譏毀することについて | |
第廿五 | 仏教を説明するのに儒教の経伝を用いることについて | 原文・対訳 |
第廿六 | 批判に対して仏経でなく儒・道の詩書を以て答えることについて | |
第廿七 | 儒者が尊ばない仏道に牟子が専心していることについて | |
第廿八 | 牟子が儒教の経伝の言葉を以て仏を讃嘆することについて | |
第廿九 | 神仙思想と仏教との異同について | |
第丗 | 道教と仏教との飲食に関する相違について | 原文・対訳 |
第丗一 | 道教の辟穀の法(五穀断ち)と長生について | |
第丗二 | 道教と仏教との医薬に関する相違について | |
第丗三 | 同一である筈の「道」を仏教が分別することについて | |
第丗四 | 神仙・道教を信じぬ牟子が異域の仏教を奉じる理由について | |
第丗五 | 西域の沙門は論破し得たが牟子が屈服しないのは何故か | 原文・対訳 |
第丗六 | 仏教は神仙の術に到底及ばないのではないか | |
第丗七 | 道家が不死を説くのに対し仏教が無常を説くのは何故か | |
結文 | 議題が三十七条であることの根拠について |
牟子は仏教に対する批判の的になっていた点についてよくまとめ、これに簡潔に答えています。そしてその反論に際し、これは上に記したいくつかの論題にもなっていることですが、牟子は仏典からの引用ではなく、むしろ儒教や老荘の典籍をこそ用いています。
これは当時の仏教に対する批判者の論難が、彼らそれぞれの依って立つ思想や歴史からしても矛盾し、あるいは無根拠で感情的なものであることを逆に突くのに有効な手法であったと言えますが、そもそも牟子は儒教や老荘自体を否定しておらず、それらも併せ奉じていました。これは先に述べたことの繰り返しとなりますが、『理惑論』は、あくまで仏教と儒教そして老荘が聖人の道として共通する点と相違する点とを明確にし、その上で仏教がより優れた道であることを示さんとしたものです。
そこでしかし、牟子は仏典をほとんど引用せず、ただ『論語』や『春秋』、『孟子』など儒教の経伝や『史記』などの史書、そして『老子道徳経』や『荘子』のいわゆる老荘を引くばかりとなっています。そもそも、儒教や老荘からのものとして投げかけられた仏教への批判や疑問は、その核心的教義である四聖諦や縁起、無我、空(無自性)などに触れようとしたものでなく、ほとんど仏教の表面的な点に終始したものとなっています。
けれども、それはむしろ当時の支那における儒家や道家の関心事や嗜好、そして牟子自身の仏教理解をありありと示したものと言えます。この点、仏教と外教との対論書という点では『理惑論』と同じ、紀元前2世紀中頃に西北印度一帯を支配した異邦人(ギリシャ)で仏教外の思想・視点を抱いていたメナンドロス王(ミリンダ王)と仏教僧との対論と伝承される、 Milindapañhā(『ミリンダ王の問い』)とは全く毛色の異なったものです。
『理惑論』は、ただ前漢という往古の支那における仏教受容の一過程を示すだけのものではありません。時を隔てた随・唐代における著名な学僧らもしばしば仏教の立場・見解を優れた言辞にて表したものとして言及し引用しているように、その後の支那仏教においても引き続き大きな価値ある書であったことが知られます。
『理惑論』にて述べられている、支那における仏教を信じる者にとっての儒教と老荘思想がいかなる位置にあるか、またどのようにそれらを考えるべきかの大枠は、そのままはるか後代に至るまで引き継がれたのでした。そればかりか、支那を範として仏教を受容した日本においても、それがほとんどそっくりそのまま継承されています。事実、平安最初期に著された空海の『三教指帰』はそれを如実に物語った書となっています。
『理惑論』において展開している儒者からの批判は、後代の明・清代の支那や李氏朝鮮などでも非常に拘られていた点であり、また日本の近世・近代においても問題にされていたのですが、どこまでも「名分」・「名目」に拘泥したものとなっています。そのようなあくまで名分・名目にこそ拘ろうとする姿勢、それは東アジアの政治および社会の一部において、今も非常に強く見られることです。それが少なくとも1800から2000年前から連綿と行われ続けていることは非常に面白く、また恐ろしいことでもあって、まさに因業であると言えたものです。
『理惑論』をそのような視点で読む人は学者でも少ないようですけれども、そこで問題とされごく簡単ではあっても展開した議論は、日本の近世において活発になされた儒教(朱子学・古学)や国学から発せられた廃仏(排仏)の言論を理解するにも非常に有益な、いや、不可欠のものとなっています。
そればかりでなく、『理惑論』において描かれる批判者の視点・意見は、現代においてもはや仏教を必要とせず、したがってその素養を備えなくなったほとんど多くの日本人の仏教に対する漠然としたイメージや理解(誤解)が、実は往古の支那人のそれとあまり変わりない、いや、ほとんど同じであるとすら言える点を多く見いだすことも出来るでしょう。したがって、『理惑論』を今またこの現代に読むことは、種々様々な点で今までの日本、そして今の日本を知る上でも未だ大きな価値あることです。
不佞はここに、それを幾ばくかであっても世人が目にしてその智の糧とすることを期し、紹介するものです。我々の日常的営為、そして社会的・文化的慣習や思想には、必ずその種、その因があります。けれども、それがいかなるものであったか、何であったかは、時を久しく経ていくうちに忘れ去られ、意識の上から消え去っていきます。しかし、それは我々の無意識のうちに世代を超えて刻み込まれ、時に強く明らかに、時に細々とまた連綿としてずっと後世にまで受け継がれ続けていることが多くあります。そしてそれが、ある場合には原因不明の思想的病魔、不合理な社会的因習というべきものとなっていることがある。
そこでその根底、その源流は何であるかと探り、それを明らかにして解決せんとする営みは、実は仏陀の説かれた「縁起」におけるそれと同一であり、したがって不佞はこれを仏道の一環として行うものであります。これが、特に仏教などに限らず広く我々人の智というものの歴史、多くの場合無意識的に流れるその系譜をたとい 僅かでも汲み取り、また未来の人に意識的に継いでいくことの小さな一助となれば欣幸。
貧道覺應 拝記
(*原文および訓読と現代語訳を併記して示してはいますが、現代語訳だけ読んでもその典拠や言葉・表現の由来など深く理解することは出来ません。原文・訓読の項にて難解な語や出典など脚注をできる限り細かく付していますので、まずそれを目にした上で現代語訳を読めばより確かに理解することが出来ると思われますので、面倒に感じられるかも知れませんが、まず原文・訓読の項によって読むことを勧めます。)
一.本稿にて紹介する『理惑論』は、『嘉興蔵(万暦版大蔵経)』(第178帙 第7冊)所収の『弘明集』に掲載されたものを底本としている。
一.原文および訓読、現代語訳に、上記三十七篇の番号を括弧《》に閉じて記しているが、これは相互に参照しやすいよう便宜的に行ったものであって原文には無い。
一.原文および訓読にては、底本にある漢字は現代通用する常用漢字に改めず、可能な限りそのまま用いている。これにはWindowsのブラウザでは表記されてもMacでは表記されないものがある。ただし、Unicode(またはUTF-8)に採用されておらず、したがってWeb上で表記出来ないものについては代替の常用漢字などを用いた。
一.現代語訳においては読解に資するよう、適宜に常用漢字に改めている。また、読解を容易にするために段落を設け、さらに原文に無い語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は括弧()に閉じてそれが挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。そもそも現代語訳は訳者の理解が十分でなく、あるいは無知・愚かな誤解に由って本来の意から全く外れたものとなっている可能性があるため、注意されたい。
一.現代語訳はなるべく逐語訳し、極力元の言葉をそのまま用いる方針としたが、その中には一見してその意を理解し得ないものがあるため、その場合にはその直後にその簡単な語の説明を下付き赤色の括弧内に付している(例:〈〇〇〇〉)。
一.『理惑論』には様々な漢籍からの引用がなされているが、現代語訳では引用箇所が一見して判別できるよう黄色の下線を引いて示している〈例:◯◯◯〉。引用文はまずその読み下し文を示し、その意を下付き赤色の括弧内に記し、またその典拠も続けて赤色括弧内に示した(例:〈〇〇〇〉)。
一.難読あるいは特殊な読みを要する漢字を初め、今の世人が読み難いであろうものには編者の判断で適宜ルビを設けた。近世の日本における例に倣い、仏教の術語は呉音にて、儒教の術語は漢音にて読んでいるが、どちらでもない場合は呉音にて読んでいるため、今一般に用いられる読みとは異なっている場合がある。
一.補注は、特に説明が必要であると考えられる人名や術語などに適宜付し、脚注に列記した。
懸命なる諸兄姉にあっては、本稿筆者の愚かな誤解や無知による錯誤、あるいは誤字・脱字など些細な謬りに気づかれた際には下記宛に一報下さり、ご指摘いただければ幸甚至極。
貧道覺應(info@viveka.site)