VIVEKAsite, For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒律講説

「戒律」という言葉

Śīla(尸羅)とVinaya(毘奈耶)

戒律とは、仏教の実践において先ず最も重要な、不可欠の要素です。

しかし、戒律というものが仏教の実践においてどのように重要であるかを説明する前に、まず「戒律」という言葉自体について知っておかなければならないことがあります。それは、戒律とは「戒」と「律」というそれぞれまったく異なる意味を持つ、本来は別個に用いられるべき原語であるśīlaシーラ(sīla)とvinayaヴィナヤの訳の複合語であることです。

そして、サンスクリットなどインド語にśīlavinayaシーラヴィナヤ、あるいはvinayaśīlaヴィナヤシーラという単語や用例はありません。「戒律」という単語は、仏教が伝えられた支那においてその受容過程で造られた言葉です。

戒の原語であるśīlaシーラ(sīla)であり、その原意は「習慣」や「癖」で、仏教においては特に「良い習慣」あるいは「道徳」の意として用いられる語です。対して律の原語であるvinayaヴィナヤの原意は「取り去ること」や「取り除くこと」、「引き裂くこと」あるいは「訓練」・「規則」で、仏教では特に出家修行者の行動規定、定めを指して用いられる語です。

僧俗問わないだけでなく、仏教・非仏教に限られず言われる「良い習慣」・「道徳」(śīla)と、出家者に限って説かれた「行動規定」・「定め」(vinaya)とですから、本来それらは峻別して用いられるべき言葉です。ところが、支那に仏教がもたらされてすぐ、その二つの言葉は混同して用いられています。

支那に仏教が伝えられたのは、今からちょうど二千年前の支那古代の王朝、後漢の明帝の時代のことであったと一般にされています。ある時、明帝が夢に「金人」が飛来するのを見たことをきっかけに、それは西方の「仏」という神であると知ったことから、西域(月子国)に使者を派遣。そこで使者が出会った二人のインド僧、 迦葉摩騰かしょうまとう竺法蘭じくほうらんによって『四十二章経しじゅうにしょうきょう』なる経典が訳出されたといわれます。それは史上初の漢訳経典となるものでした。そこで使者はその二人の僧と共に経典を携えて帰国し、洛陽の城外にあった鴻臚寺こうろじを僧の住まう場所として定められています。

寺とは本来、役所や役人、宦官を意味する語であって、鴻臚寺はまさに外交の為の役所、官の施設でした。しかし、そこが迦葉摩騰・竺法蘭の住まいとして当てられたことを契機として、以降は仏教施設であるとか僧侶の住まいとしての、今言われる意味での「寺」の称が用いられ始めています。そしてその寺は、二人が白馬に仏像や経巻を載せてきたということから白馬寺はくばじと命名された、と伝えられています。

その迦葉摩騰・竺法蘭により訳されたという『四十二章経』は、仏教についてまるで知らない者に対して説明するため、その基本的な考え方や仏教者のあり方などをごくごく簡単に、しかもアレコレ四十二項目に渡って箇条書きにした綱要書のようなものです。現代の学者にはこれを「支那撰述の偽経である」と云う者もありますが、文献学的にどうこういう以前に、その体裁からしても内容から言っても正しく経典とは言い難いものです。

しかしながら、最初の漢訳経典とされた『四十二章経』は後代の支那および日本への影響は非常に大きく、まさに経典であるとして古来特別視され、今なおよく言及されています。唐代の十世紀中頃の二人の禅僧(静・均)はこれを仏陀成道後における最初の説法であるなどとまで言っています(『祖堂集』)。『四十二章経』をして「仏陀最初の説法」などとする説は取るに足らない戯言に等しいものですが、曹洞宗では今もこれを仏祖三経の一つとして重んじています。

真に経典であるかなど別としても、実際『四十二章経』を見れば仏教の基礎的・根本的な事項を端的に説明しようとした内容に溢れ、仏教未伝の当時における支那人にのみ通用するものでなく、後人にもなおその入門書として価値あるものとなっています。これを作った人はそれなりに仏教を理解しており、何も知らない人でもわかるよう苦心して編纂したのでしょう。

そんな『四十二章経』の中で、出家修行者の律について「二百五十戒」という訳が用いられています。そしてまた同時に、在家者に対するものとして「五戒」という語も用いられたのでした。二百五十戒に該当するサンスクリットやパーリ語などインド語の語彙、原語は無く、それはあくまで出家者の行動規定(律儀・学処)におよそ二百五十ヶ条あることを強調しようと支那にて造られた称です。

佛言。辭親出家爲道。名曰沙門。常行二百五十戒。《中略》
佛言。飯凡人百。不如飯一善人。飯善人千不如飯持五戒者一人。
仏は言われた、「親元を辞して出家し道を為す者、それを名づけて沙門という。常に二百五十戒を行じる。《中略》」
仏は言われた、「凡人百人に食を供養すること(の功徳)は、一人の善人に食を供養することには及ばない。善人千人に食を供養すること(の功徳)は、五戒を護持する者一人に食を供養することには及ばない」

迦葉摩騰・竺法蘭訳『四十二章経』(T17, p.722a-c)

前述したように、出家の定めは「戒」ではなくて「律」であり、本来は全く異なるものです。律という漢字は、古代支那から「定め」・「法」・「規定」・「音律」という意で用いられており、ニ世紀初頭の後漢、許慎きょしんにより著された最古の字書『説文解字せつぶんかいじ』ではその意を「均布也(ひとしくく也)」としているので、二百五十戒でなく律という語を充てることも可能であったでしょう。しかし、支那では当初その違いが理解されず、いずれも同じようなものであろうとされ、「戒」と訳されたのでした。

いや、そもそもの事を云うと、śīlaシーラの訳として充てられた「戒」という漢字は、『説文解字』で「警也从廾持戈以戒不虞」と、「警」の意であるとされています。それは不虞ふぐ(不測の事態)に備えること、今の日本でも用いられる、まさに「警戒」という語の意に同じです。śīlaの原意については次項に述べますが、śīlaには警戒などという意味はありません。それは、その用をいわんとした意訳であったと言えなくもありません。しかし、やはりこれを最初に「戒」と訳したことは、そもそも誤解の始まりであったように思われます。

今一般に、戒律という言葉について、「戒と律とは本来その意味合いが異なる、別の語である」とまでは巷間云われ、それを理解する人はそれなりにあります。けれども、ではそのśīlaに対する「戒」、vinayaに対して「律」などといった漢訳で用いられた字義がそもそもどうであったかまで考え言った人は、今までまず無かったように思います。

(それらの言葉は久しく定着したもので今更変えることなど出来ません。しかし、そこまで翻って考えて見たならば、大仰な表現となりますが、従来あった不明の曇が晴れ、また新しい知見が開けることもある、かもしれません。)

さて、それから二世紀ほど後の支謙しけんなどの訳経家は、例えば仏陀のDharmaダルマ(教え)とVinayaヴィナヤ(定め)を「法律」と訳しているのと同時に、律については先例を踏襲してのことでしょうがまた二百五十戒という語も用いています。やがて、いつの頃からか「戒律」と一つの単語として扱われるようになり、さらには「森林」や「河川」などのように、それぞれほとんど同様の意味をもつ言葉の複合語とされるようになってしまいました。

ここでさらにもう一点、重要な語について述べておきますが、サンスクリットとパーリ語にはsaṃvaraサンヴァラという語があって、戒および律に絡んで非常によく用いられます。そのsaṃvaraサンヴァラの原義は「止めること」で、「防護」・「制御」の意として用いられ、漢訳では一般に「律儀」とされる語です。しかしながら、特に玄奘以前のいわゆる古訳や旧訳においては律儀でなく、「護」であるとか「戒」などと訳されています。

実際、サンスクリットとパーリ語の仏典には、saṃvaraśīlaサンヴァラシーラ(saṃvarasīla)あるいはśīlasaṃvaraシーラサンヴァラ(sīlasaṃvara)という語があって、玄奘以前の法顕などはこの語を護戒などと訳しているのに対し、玄奘は律儀戒と訳しています。法顕は他の箇所でsaṃvaraを戒と訳しているのですが、saṃvaraśīlaについて同じくその訳を用いたならば「戒戒」となって意味不明になってしまうため、「護戒」としたのでしょう。それは間違いとまで言えたものではありませんが、しかし従来の訳語などと整合性がつかなくなり、そのため理解に混乱をきたすものとなっています。

そこでまた、これは印度以来のことであって、ややこしく思われることでしょうけれども、律儀戒(saṃvaraśīla)という語は出家在家の双方に用いられ、在家者について律儀戒と言った場合は在家の戒が意味され、出家者について言った場合には出家の律のことを指すといったことになっています。

たとえば、旧訳の仏典で「比丘戒」とある場合、その原語はbhikṣusaṃvaraビクシュサンヴァラであってbhikṣuśīlaビクシュシーラではなく、そもそもそんな語は梵文にありません。そのように、漢語では戒となっていてもその原語がśīlaシーラでないことがままあり、この点にも充分な注意が必要です。これは翻訳という営為の難しさの顕れでもあるのですが、漢訳仏典には常にこの種の混乱、不正確な表現がつきまとっているのです。

この様な混同・混乱は、仏教が支那から直接、あるいは朝鮮経由で伝えられ、すべて漢籍によって学んできた日本においても踏襲され、戒と律それぞれの意味は原語であるサンスクリットなどインド語の意味や位置づけから正確に把握されることはほとんどなく用いられてきました。以上のことから、支那や日本の文献の中や現在も行われることがある仏教の儀礼や習慣の中で、「戒」と言いながら実はそれが「律」を意味していることが大変多くあります。

少々乱暴に現代にまで話を飛ばしてしまいますが、古代支那の仏教において生じた「戒律」という言葉は、(意味の混同や誤解がありながらそのまま認知された)仏教の術語としてだけでなく、「ユダヤ教の戒律」、「イスラム教の戒律」、「キリスト教修道院の戒律」などのように、それぞれについても実は適切とは言い難いのですが、仏教以外の思想・宗教についても通用する言葉となっています。

しかし、これは本末転倒となってしまいますが、仏教について言う際は、意味の混乱や誤解を避けるために、戒律という言葉の使用を避け、戒と律とを厳密にわけて用いたほうが良い場合があります。もっとも、先に指摘した「二百五十戒」をはじめ、「具足戒」・「捨戒」・「戒本」などと律や律儀などその他の語に対するものであるのにも関わらず、戒という字を用いた言葉が、すでに仏教の術語として定着して久しくあります。したがって、もはや戒と律とを言葉上で厳密に使い分けるのは既存の術語を使う限りは不可能です。

実際、菲才もここで戒律という言葉を用い、またその他の律に対して戒の字が用いられた術語の多くを用いています。したがって、ある程度、戒と律とのことを理解出来るようになるまでは、それらの術語が、戒と律とのどちらを指して言ったものであるかを、常に注意する必要があります。

支那における戒律の受容

ここから支那仏教の歴史に触れたものとなるため、少々込み入った話しとなります。

仏教が支那に伝わり、すでにあった儒教や老荘や神仙思想と対立や葛藤しながらも徐々に受け入れられ、印度や中央アジアなど西域の僧が次々到来するようになると、支那でも出家して僧となる者があらわれています。そして隋代には皇帝が代々信仰するまでとなり、国を挙げ翻訳事業が開始されるようになっていきます。

しかしながら、仏教者が何らか戒を守るものであることは支那でもその最初から知られてはいましたが、「出家者の定め」である律は伝えられておらず、出家するといってもそれはただ頭を丸めて袈裟衣をまとい何か祭祀を行う程度のことで俗人にまるで変わりないようなのが数世紀に渡り続いていたようです。

曇柯迦羅此云法時。本中天竺人。《中略》
以魏嘉平中來至洛陽。于時魏境雖有佛法而道風訛替。亦有衆僧未禀歸戒。正以剪落殊俗耳。設復齋懺事法祠祀。迦羅既至大行佛法。時有諸僧共請迦羅譯出戒律。迦羅以律部曲制文言繁廣。佛教未昌必不承用。乃譯出僧祇戒心。止備朝夕。更請梵僧立羯磨法受戒。中夏戒律始自于此。
曇柯迦羅どんかから〈Dharmakāla〉、支那では法時ほうじと云う。もと中天竺の人である。《中略》
魏の嘉平年中〈249-253〉に洛陽に到来した。その時、すでに魏には仏法が伝わっていたものの、しかしその道風は全く乱れたものであった。諸々の僧(の姿をした者)があるとはいえ、未だ三帰も戒も受けておらず、ただ髪を剃り落として俗と異なった姿をしているだけであった。もし斎懺の事があったとしてもただ祭祀するだけのことである。そこへ曇柯迦羅が(洛陽に)至って、大いに仏法を行じたのだ。そこで諸僧は共に、曇柯迦羅に戒律を訳出することを請うた。すると曇柯迦羅は、律蔵の曲制や文言は詳細で多岐にわたるものであるが、仏教を未だ理解していないのであれば(もし律蔵を訳出したとしても)決して依用されることはないであろうと考えた。そこでただ摩訶僧祇まかそうぎ〈大衆部〉の戒本〈律蔵に説かれた諸規定の要を簡略にまとめたもの〉を訳して、僧儀としてその朝夕の規矩に備えた。そして更に梵僧に請うて羯磨法こんまほう〈三師七証・白四羯磨〉に依って受戒した。中夏ちゅうか〈支那〉の戒律はこの時より始まったのである。

慧皎『高僧伝』巻一(T50, p.324c)

以上のように、慧皎によれば、三世紀中頃に中印度から来たった曇柯迦羅どんかから〈Dharmakāla〉により大衆部だいしゅぶの律蔵の戒本のみが訳出され、併せて僧の受戒がなされたのが支那における「戒律の始め」とされています。しかし、実際はその内実などまるで伴ない、ただ儀式を行った程度のことであったようです。それというのも、律を行うのにはその要略である戒本だけではどうにもならず、律蔵そのものが無ければなりません。しかしながら、それが曇柯迦羅によって訳されることはついにありませんでした。

「出家者の定め」の根拠となる律蔵そのものの伝来と翻訳は、その約百五十年余り後の弘始十一年〈409〉卑摩羅叉びまらしゃ〈Vimalākṣa〉弗若多羅ふにゃったら〈Puṇyatara〉、そして鳩摩羅什くまらじゅう〈Kumārajīva〉および曇摩流支どんまるし〈Dharmaruci〉らによって説一切有部せついっさいうぶの律蔵『十誦律じゅうじゅりつ』がもたらされ初めてなされています。そしてそれ以来、堰を切ったようにその他の部派の律蔵『四分律しぶんりつ』や『摩訶僧祇律まかそうぎりつ』・『五分律ごぶんりつ』など続々と支那にもたらされ訳出されています。

そしてまた、その同時期の玄始元年〈412〉、中印度出身の僧、曇無讖どんむせん〈Dharmakṣema〉が北涼に到来し、大乗の『大般涅槃経だいはつねはんぎょう』や『大集経だいじっきょう』・『金光明経こんこうみょうきょう』など後代に大きな影響を与える大乗経を訳出。さらに『菩薩地持経ぼさつじじきょう』・『菩薩戒本ぼさつかいほん』・『優婆塞戒経うばそくかいきょう』等を訳出しています。これがいわゆる支那における菩薩戒の伝来の嚆矢こうしとなります。さらに元嘉八年〈431〉には、同じく中印度〈一説に罽賓国〉求那跋摩ぐなばつま〈Guṇavarman〉師子国ししこく〈セイロン〉を経由して海路で建康〈南京〉に至り、『菩薩善戒経ぼさつぜんかいきょう』等を訳出。さらに南林寺に支那で最初となる戒壇を創立して受戒を行ったとされます。

以上のように、五世紀に至って支那に戒と律との典籍が次々もたらされて以降、支那でも俄然として戒と律への関心が高まり、その依行と研究とが盛んとなります。それは仏教が伝来してから350年を経た後のことです。

しかしながら、ではこれでようやく戒と律との違いや理解が正しく行われるようになったかというとそうではない。ここでさらに話をややこしくさせたのは、支那が仏教を受容したといっても、それが大乗一辺倒であったことでした。律は漸く伝わってそれを受けることは僧侶として至極当然のことであるという理解が広まる一方で、それと菩薩戒という大乗独自の戒との関係、その兼ね合いについて混乱する者が出ています。

特に『菩薩善戒経』や『菩薩地持経』(『瑜伽師地論ゆがしじろん』本地分中菩薩地)が印度からもたらされて後、『梵網経ぼんもうかい』や『菩薩瓔珞本業経ぼさつようらくほんごうきょう』という偽経が支那で捏造され、しかし真経であるとして次第に流行するようになると、律は小乗の人が行う劣ったものであって大乗の徒はそれを受け護持するべきではない、という見方が生じたのでした。というのも、それら偽経には実際そのように書かれているためです。

けれども、先行して伝わっていた律と地持戒(瑜伽戒)とは併持することこそ印度以来の伝統とされ、支那にそれはすでにある程度根付いていました。そのため、そのような理解は誤ったものであるとして概ね出家者は律と戒とをいずれも受け、支那仏教が急速に衰えていく宋代までは護持され続けています。

日本における戒律の受容と異見

日本における仏教受容も、戒律については支那のそれと少し似たような経緯を辿っており、仏教が伝わってからニ世紀余り後に、鑑真により戒と律とが正式に伝えられ、奈良の都は東大寺にて行われ始めています。天平勝宝六年〈754〉のことです。もっとも、日本には鑑真渡来以前から『菩薩善戒経』や『菩薩地持経』・『瑜伽師地論』に基づいたいわゆる瑜伽戒や、『梵網経』に基づく梵網戒などといったものがすでに伝わり、行われてはいました。しかし、その理解も実際も、正統とは到底言い難いものであったようです。事実、鑑真の渡来してしばらくすると、従来の僧とされていた奈良の諸大寺の人々と、鑑真一行の間で諍論が生じています。

いずれにせよ、鑑真の渡来により日本でも印度そして支那と同様の、といっても大乗におけるそれではありますが、戒と律とを受持し実行する伝統的体制が日本仏教にもようやく構築されています。それは二百年に渡る代々の天皇や公卿、そして諸々の学僧らによって非常に多くの時間と努力が費やされてのことです。

ところが、それからおよそ六十年後の弘仁九年〈818〉、唐の天台山にて数カ月間学び還った最澄が、日本で天台宗の立宗を許可されてから十二年後のことです。真の大乗教徒は律など不要であり、ただ大乗戒によってのみ人は出家できるしそうすべきであり、むしろそれが印度以来の伝統であるとした主張が、最澄によって四年間に渡り次々と帝(嵯峨天皇)に上奏(『山家学生式さんげがくしょうしき』)されています。

それは、従来の伝戒伝律のための努力をまったく無に帰す、いわば鑑真渡来以前に先祖返りさせようとするものでした。何よりも最澄がそう主張したような事実は印度および支那に無く、そして仏典に正当な根拠などありはしませんでした。実際、最澄がそのような主張をしたのは、立宗して間もない天台宗の僧徒の殆どが離散して残っていないという滅亡の危機に立たされていた政治的状況を打開するためで、最澄の純粋な宗教的信条に基づいたものとは到底見がたいものです。

当然、当時の僧尼を所管していた国の機関である僧綱そうごう や南都諸大寺の学僧はこれに猛反対し、そう主張した最澄に批判を加えています。その批判の逐一に対する反論を、最澄は実に細かに加えていますが、今見てもその反論はこじつけや論点のすり替え、あるいは単なる最澄の誤認など、無理の甚だ多いものとなっています(『顕戒論けんかいろん』)。

けれども結局、最澄の主張はその死の前後、朝廷から仏教としてではなくむしろ国家の制度として例外的に認められ、ついに日本天台宗において実行されていくようになったのでした。そして後代、日本天台宗から派生した曹洞宗や浄土教、そして日蓮教団などが最澄および天台宗のあり方を踏襲しています。ここにおいて、律とは小乗の劣ったものという偏見が非常に強固に形成されています。

そのように新たな宗派が次々天台宗から出ていく背景には、飛鳥時代からすでに支那からもたらされていた末法思想という時代観が、平安末期から鎌倉時代にかけて比叡山から出た僧の間で流行していたことにあります。末法とは、ただ仏の教えは伝えれているものの、実行する者はなくなり、仮に実行しても悟りは決して得られず、よって人に救いの道はない時代とする仏教の極一部における世界観の一種です。そしてその末法は、永承七年〈1051-52〉に始まると平安中期から比定されていました。

もはやその年をすでに超え、末法只中にあると考えた人の中からは、天台宗ではすでに律など捨てて久しかったのですが、律ばかりか戒すらももはや不要である、という主張が見られるようになっています。そのような思想を助長したのが『 末法灯明記まっぽうとうみょうき 』という書です。古代末期に最澄の著作として突如世に現れたものであったのですが、それは最澄の名を騙って捏造されたものでした。というのも、在りし日の最澄の思想・著作とあまりにその内容が撞着したものであって、捏造であることは疑いなく明白な書であるからです。ところが、『末法灯明記』に法然や親鸞、そして日蓮は非常に強い影響を受け、それぞれの思想・教義における核心に据え付けてしまっています。

(一昔前の昭和期中頃、『末法灯明記』の真偽を巡って激しい論争が生じていましたが、現在の仏教学会はこの書が最澄作であるかいまだ「真偽不明」などとし、もはや議論の対象としていません。もっとも、今これを最澄真作とよもや考える学者など絶えて無いと思われますが、いわゆる新仏教の諸宗派がその教義の核心に据えてしまっている書ということもあるのでしょう、学的には完全に放置されています。)

その中、特に今なお取りざたされる有名な一節がこれです。

末法唯有名字比丘。此名字爲世眞寶。更無福田。設末法中。有持戒者。既是恠異。如市有虎。此誰可信
末法にはただ「名字みょうじの比丘〈名ばかり・形ばかりの偽比丘〉」しか存在しない。(したがって)その名字の比丘を世間における真実とする以外、他に(世間に善果報をもたらし得る)福田ふくでんなど無い。たとえ末法において持戒の者があったとしたら、もはやそれは怪異である。市中に虎が現れるようなものだ。それを誰が信じるというのか

伝 最澄『末法灯明記』

この一節は当時の諸僧に強烈な印象を与えたようで、それを肯定するにせよ否定するにせよ、よく引用され言及されています。

平安初期に為された「律は劣った小乗のものであるから不要」とする最澄の主張、それは彼の弟子達によって権威づけられ、すでに絶対のものとされていました。そこに大流行を見た末法思想と、さらにそれを助長させ極端にするのに大きな役割を果たした最澄に仮託される『末法灯明記』の内容が相まみえ、その後の日本仏教は大勢として非常に極端な、仏教本来のあり方から逸脱し、ゆがんだ方向に加速し進んでいきます。

もっとも、鎌倉期初頭にはそのような頽廃した流れに対抗するものとして栄西が日本にもたらした最初期の臨済宗や、華厳宗の明恵、そして法相宗や真言宗から出て律宗を復興した覚盛や叡尊、忍性などがありました。特に叡尊や忍性によって復興された律宗は、世の貴賤問わず非常に信奉され、当時の日本として最大の教団を形成していましたが、戦乱期となって以降はその力を急速に失って姿を消しています。それに代わって、禅宗は武家に支持され、また浄土や日蓮の徒が特に農民や商人など民衆の中で大きな組織を持つに至ってそのまま江戸期を迎え、さらに今にまで至っています。

末法思想を背景として生じた浄土教(特に法然と親鸞)や日蓮の思想のいずれにおいても共通しているのは、何より重要であるのが兎にも角にも「ただひたすら信じること」であり、また口にその信仰内容を幾度となく唱えることであって、その違いは絶対的信仰に基づいて何事かするかしないかに過ぎません。そしてその何事かの中に(伝統的な)戒も律もなく、あるいは「信じることが戒」といった異説・珍説を唱えるのみです。禅宗においては最澄の主張を継いで戒について菩薩戒(梵網戒)をのみ言いはしますがまるで実行せず、また形ばかり修禅の格好を取り繕いつつその思想的中身は道家(老荘)のそれと似たようなもの、あるいは僧形の儒者の如きものとなり、また華や茶、詩文や書など文化的営為に携わるのみとなって今に至っています。

では、そのような天台の亜流でなく、戒と律と双方を重要とする思想を堅持した法相宗や三論宗、華厳宗など南都諸宗そして真言宗はどうかと言えば、それも持戒は重要とする思想を教学の中に含めるだけで、大勢としては誰も護らず、また再び護持しようとする何らの努力も全くなさぬままとなっています。

近世江戸期はその最初期から京都の真言宗出身の僧を中心とした戒律復興運動がなされて律宗が再び中興され、やがては宗派を越えた一定の成功を治め、明治大正期にまで細々と続けられていました。が、それも昭和初期に霧散して今や完全に消滅しています。

以上のような歴史的経緯により、特に市井しせい の人々が浄土や日蓮の思想やあり方をもって仏教であると捉えるようになったことから、戒律というものに対する無理解、あるいは戒律とは不要なもの、戒はともかく律などむしろ害悪とすらする見方、既成概念が醸成されています。それは、仏教などただ祖先崇拝や文化財保護のための一装置となって、それが何かもよく知られなくなった現代日本に至るまで漠然と継承されています。そして、それがそのまま現代の日本人における仏教観にも直結したものとなっています。

けれども冒頭述べたように、戒律とは仏教の実践において先ず最も重要な不可欠のものです。そこでそれが何故、どのように重要であるのかを云うのには、やはり原意どおり戒と律それぞれについて分ける必要があります。

非人沙門覺應