一。又我同法。不得飮酒。若違此者。非我同法。亦非佛弟子。早速擯出。不得令踐山家界地。若爲合藥。莫入山院。
一.また我が同法〈志を同じくする同志。弟子〉は、酒を飲んではならない。もしこれに違背するようであれば、我が同法ではない。また仏弟子でもない。(酒を飲む者は)速やかに 擯出〈追放〉し、山家〈比叡山〉の界地〈境界。境内〉に足を踏み入れさせてはならない。もし薬として用いる場合も、山院〈山内寺院〉に(酒を)持ち込んではならない。
『根本大師臨終遺言』(『伝教大師全集』, vol.1, p.299)
『根本大師臨終遺言』(以下、『臨終遺言』)とは、最澄がその死の二ヶ月前、弘仁十三年〈822〉四月に後に残す弟子たちへの言葉として伝わりそのように題されたもので、全十箇条からなっています。
他にも最澄の遺誡・遺言に類するもの諸本あります。中でも高弟 光定による『伝述一心戒文』は最も確かであり名の知れた、最澄の「遺誡」というべきものを一部含む書となっており、最澄および日本天台宗の最初期を知るのに不可欠の書となっています。
『臨終遺言』は、伝統的に文字通り最澄の遺言として伝持されてきたものですが、それが真に最澄によるものであるかどうかは現代の学問的には未だ定まってはいないようです。とは言え、それはここで問題でなく、これが最澄の遺言であると歴史的に見なされてきたことが重要であり、したがってこれを最澄の遺言として扱っています。
そんな『臨終遺言』の第二条が、飲酒に関するものとなっています。
最澄は、ただ「不得飮酒(飲酒することを得ざれ)」と、その理由も典拠も一々挙げることは全くせず、ただそう言っています。そもそも、「なぜ酒を飲んではいけないのか」は仏教徒としての常識ですから、その理由をわざわざ言う必要もないことです。そこで最澄は、酒を飲む者は「非我同法。亦非佛弟子(我が同法に非ず。また仏弟子に非ず)」と、自分の弟子でもなくましてや仏弟子でも無いと断じています。そして酒を飲む者があれば叡山から追放しろ、と具体的その対処も示しています。
しかし、それほどまでに「酒を飲むな」とその死に際して言わなければならなかったのは、最澄の周囲に「愛飲家」が甚だ多かったことの裏返しです。第二条にこれが挙げられているのは、まさに最澄が問題視すること急にして切なる事の証です。
ただし、これは最澄がその著『山家学生式』や『顕戒論』において、その弟子らは原則としてその受持は無用であるとした律蔵の所説に基づいてのことと思われますが、「若爲合藥。莫入山院(もし合薬の為にも、山院に入るること莫れ)」と言っていることからすると、「薬としての酒を用いること」は認めていたようです。あるいはそれは、先に示した『梵網経』所説の菩薩戒に対する智顗による注釈書とされる『菩薩戒義疏』の所説に従ったものであったかもしれません。
最澄や義真、光定、円仁 なども東大寺戒壇院にて受けていた、日本における具足戒の典拠である『四分律』には、飲酒について例外として治病目的であれば不犯であるとされているのです。
(ただし『パーリ律』・『摩訶僧祇律』・『十誦律』・『五分律』には、その規定が波逸提の中に無い。)
不犯者。若有如是如是病。餘藥治不差以酒爲藥。若以酒塗瘡一切無犯。
(比丘および沙弥などその他の出家者が、飲酒しても)不犯となるのは、もし何事かの病を得て、その他に効果的な薬がない時に酒を薬として服用する場合である。あるいは酒を瘡〈傷・腫れ物。皮膚疾患〉に塗るのはすべて無犯である。
仏陀耶舍・竺仏念訳『四分律』巻十六(T22, p.672b)
最澄はしかし、酒を山院に持ち込むことは禁止しています。これは、もし山家の僧でそのような病人が出たならば山下におろして療養させよ、ということになる。最澄が特にこの様に言っているのは、「これは薬としての酒である」などとうそぶいて山内、院内に酒を持ち込み酒を喰らう輩が現実に相当あったということの、これもやはり裏返しに違いありません。
そもそも、その直筆が伝わっている『山家学生式』においても、最澄は「酒を飲ませるな」などとその門弟の非法を取り締まるべきことを言っていました。
凡此天台宗院。差俗別當兩人。結番令加檢校。兼令禁盜賊酒女等。住持佛法。守護國家
《第八条》
およそこの天台宗の院においては、俗別当〈俗人の事務長官.朝廷によって任官する官職〉二人を指名し、当番制にして検校〈俗人の事務長官.朝廷によって任官する官職〉させ、かねて(住侶による)盜賊・酒・女等を禁じ、仏法を守り伝えて、国家を守護する。
最澄『山家学生式』「勧奬天台宗年分学生式」
(『伝教大師全集』, vol.1, p.15)
最澄が天皇に対して奏した「式」の案文にすら、このように飲酒を禁じるべきことに言及していることからすると、やはり当時の天台宗の僧徒が当たり前のように酒を飲み、また女に耽るものがあったのであろうと思われます。
就中、これを俗別当、すなわち比叡山を管理運営する在俗者(必然的に公家が任命され就任)によって天台僧の非法を取り締まらせると、わざわざ「天皇への上表」の中で言っていることはよくよく注意すべきことです。それは、天台宗の年分度者(学生)らが仏制に従わず、また師である筈の最澄の言う事も聞かず、比叡山で奔放に盗賊・酒・女に耽っていたことを暗に示す記述です。もはや彼が何を言っても統制など出来ず、官人にその取り締まりを任せる他なかった。それを明文化しているのは、そういうことでありましょう。
繰り返しますが、誰もやっていないことを強いて云い置き、諌める必要はありません。
立宗して十年余りしか経っていないにも関わらず、天台宗が衰亡の瀬戸際にあった当時、それ以上は宗徒を一人として失うわけにもいかないことから、最澄はそのような悪質な徒弟らを厳しく諌めて破門・放逐させることは出来ませんでした。したがって当時、最澄は一宗の長としての力を強く持ってなどおらず、比叡山には自浄作用など無かったと考えて良い。
比叡山のそのような様相は、何も今に始まったことでなく、また信長に焼かれる以前においてひどく見られたことでもなく、実は最澄の当時からすでにあったことでした。
これはすでに本稿の『梵網経』の項にて示したことでありますが、梵網戒において、酒について「販売すること」を十種ある極重罪(十重)のうちの第五とし、「飲むこと、飲ませること」を四十八種ある軽罪(四十八軽戒)のうちの第二としています。ここで重罪・軽罪といっても、それは双方を比較するとその罪に軽重の差異があることを示したものにすぎず、実際はいずれも決して犯してはならないと『梵網経』では相当に厳しく戒められています。
最澄はそんな梵網戒を「円頓戒」あるいは「一心戒」などと独自に名付け、ただそれのみを受持することによって出家者となり得、大乗の出家者はむしろそれが本来の正しいあるべき形だと主張していました。そして、天台宗徒に限っては、十戒ではなく十善戒を受けることによって沙弥とし、また梵網戒をのみ受けることに依って比丘とすることを国家の制度として認められるよう、天皇に申請していました。それを陳情したのが『山家学生式』であり、その主張に対する僧綱の批判に答えるべく表したのが『顕戒論』です。いわゆる「大乗戒壇」問題です。
(『山家学生式』は、別項最澄『山家学生式』にてその原文と対訳を詳細な解題を付して紹介している。参照のこと。)
しかしながら、それは最澄が主張したように印度以来の大乗僧の正しいあり方などでなく、全く印度でも支那でも前代未聞のことであり、また不合理な点もありすぎるほどに多々あったため、それが最澄の生前に許可されることはありませんでした。なにより、そんな最澄の主張は、現代しばしば評されてきたような「大乗をのみ希求する純粋な宗教的信条」から出されたものでは全然なく、その門徒が次々逃散して立宗間もないにもかかわらずその存亡が危ぶまれる危機に陥っていたのを打開するための、極めて政治的な動機・目的によるものでした。実際、『山家学生式』は政治的要望書です。
朝廷が最澄の要望を承認したのは、最澄の死後一週間を経た弘仁十三年〈822〉.六月十一日のことです。しかもそれは、その主張が仏教として正統であると認められたのでなく、ただ死んだ最澄への同情によってなされたものでした。いずれにせよ以降、日本天台宗はそのような日本独自のあり方をすることになるのですが、そこから派生した禅や浄土・法華などの諸宗派もまた、そのあり方を継承して具足戒を受けず、ただ梵網戒をのみ受けることで僧侶となったことにしています。
しかしさて、世間では「大乗戒は大らか穏やかであり、小乗律は形式的で厳しい」などと誤認している者が多く見られ、ひいては「大乗は酒について寛容である」などと誤解している人があります。ところが事実は全く逆で、少なくとも梵網戒は律よりその条項数こそ少ないものの、極めて厳しいものとなっています。梵網戒では小乗に比してその智慧も慈悲も優れていると自負する大乗の徒が、智慧を阻害し、故に慈悲にも反する酒を他に飲ませ、自ら飲むこと。ましてやこれを販売することなど、いわば「言語道断である」とされています。
もっとも、このような世間における誤解は、自らを菩薩だ、大乗教徒だなどといいながら、酒を公然と飲んで憚らなかった日本の僧尼の歴史的事実に基づいたもののようです。実際、古代以来、大寺院が酒を醸造・販売すらしており、それは「僧坊酒」などと称されています。
実は日本の清酒いわゆる日本酒は、中世の奈良は 菩提山寺( 正暦寺 )において誕生したものでした。菩提山寺は当時法相宗に属した大寺院です(現在は真言宗)。清酒発祥の地はなんと仏教寺院であり、これは当時も広く知られていたことです。法相宗にしろ真言宗にしろ、梵網戒を受持していたのは天台宗と同様で、さらに律や瑜伽戒なども兼ねて受持することをその建て前としてたのですから、これはもうどうしようもない。
バイロンは「事実は小説より奇なり」などと言いましたが、なるほど、確かにこれもまた冗談のような、しかし本当の話であります。
最澄によれば、酒を飲む者は天台宗徒でなくまた仏弟子でもありません。しかし、すると天台宗に最澄の弟子などほとんど誰もおらず、仏教徒など絶無だということであるのでしょう。そして酒を飲む者は北嶺から追放せよ、というならば、たちまち叡山から人はスッカリ無くなり、鳥獣の楽園となることでしょう。彼らの酒にまつわる行業がいかなるものであるか、それは現在の坂本周辺の住民や京都の祇園など繁華街の人々のよく知るところであります。特に京都市内のタクシー運転手にかかれば、この手の話題が尽きることはありません。
これは天台宗に限らずどの宗派でもほとんど同様に言えることでありますが、なんであれ「お祖師さまのお言葉」など、自身たちの都合が良い部分だけを拾い読みして切り貼りし、使えるものだけ使う便利な道具に過ぎません。「仏陀の金言」はもとより「お祖師さまのお言葉」といえど、自分たちのあり方に干渉するような言葉は、すべて無視しているのがその証です。実に面白い、そしてまた悲しい話であります。
たとえば天台宗で言うならば、「一隅を照らす」という言葉を「お祖師さまのお言葉」としてその宣伝文句に用いていますが、実は最澄はそうは言っておらず、恣意的に誤読した文言を便利に使っているに過ぎません。人は誤ることがありますから、その誤っていることが判明したならば、それを改めれば良い。けれども、その言葉が明らかに誤読によるものと判明している今なお、こじつけの弁をもって「これで良いのだ」などと使い続けることは、むしろ最澄に対する甚だしい不敬であるように菲才には思われます。最澄は書の文言について、非常に細かく神経質に扱い、誤読・誤用する他者を極めて厳しく批判する人であったのだから。
一時的・限定的に、「精進潔斎」・「修行」などと称して極めて激しい肉体的苦行につとめたとしても、それは物珍しいことではあるでしょうが、真に有り難いことではない。それを終えれば信者らにちやほやされて酒を飲み、あるいは女信者に手を出すなど奔放な生活に変じるより、酒ばかりでなく日常生活の中で細やかに自らの行いを制して死ぬまで努めることこそ、ありがたいことです。しかし実際、そういう人は文字通り「有り難い」。
道とは、いや、仏道とは、誰でもなし得ぬような非日常の激しい行為にあるのではなく、人皆の日常にもあって、それは激しい苦行や痛みの果てに一時現れるものでなく、縷縷としてでも弛まず絶え間なく努める日常のの営みに立ち昇るものです。
Bhikkhu Ñāṇajoti 貧衲覺應