齋戒を護する法に二門有り。一には衣食、二には行儀。初に衣食とは、衣は身を覆を謂ひ、食は身を資くるを謂ふ。次に行儀は、行は戒行を謂ひ、儀は律儀を謂ふ。衣に二有り、俗衣・法衣。食に二有り、請食・乞食。戒に二有り、比丘戒・菩薩戒。律に二有り、俗律・道律。
第一、二衣の法とは、俗衣は謂く三衣を除く外、皆是れ俗衣なり。是れ佛制に非ず、非法の衣なり。義淨三藏云く、神州の苾蒭、三衣を除く外、並に聖衣に非ず。其れ既に犯有り。理、服用し難し。乃至、服用すれば皆罪を得。頗著て西方に至る有れば、人皆共に笑ふ。耻を懐て裂て雜用に充つ。此れ卽ち皆、非法の衣服なり。若し黙して說かずんば、知んと欲する者の由無し。又、其の寒鄕には冬中は佛、俗衣を聽し、立播の服を用ふ。立播とは梵語なり。此に裹服衣と云ふ 作法別に在り。 此れ皆、雪山中、胡地の出家の人の用る所のみ。胡地の人、著て中印に到れば、中印の人、怕れて服用せず。地、熱するに依てなり已上、義淨の說なり。意を取て之を抄す。
然るに神州唐なり・日域、佛制に從はず、多く俗衣を蓄ふ。其れ理に應するや。但だ各ゝ云、多寒の國土には、佛百一物を聽すと。是れ律文に非ず。義淨三藏云く、大なるかな、慈父、巧に根機に應じ、善く人天を誘ふ。調御者と稱す。而も供身百一と云は四部の律文に未だ見ず。經中に其の言有りと雖も、故より是れ別時の意なり。俗徒の家具すら尚五十に盈たず。豈に釋子翻て百數を須用す容んや。道理を準験して、通塞知るべし文。何ぞ况んや如來、能く國土の寒温を照し、寒鄕に與て裹服衣を製す。大雪山中、諸胡の出家の人、皆此の服を用ふ。俗衣は併に之を用ひず。漢土・日域の寒、胡地の寒と度量するに倭漢兩國の寒は只十分の一なり。胡地は冬中、飛鳥落て死すと云ふ。又、大唐の北方は黄河水冰て人馬倶に歩して渡る。尚飛鳥は落ちず。又、日本未だ曾て流水の冰ること有らず。何ぞ况んや人馬の渡るに及んや。大雪山中の諸國は冬夏共に雪有り。若し大風には六月にも亦雪飛と云ふ。義淨三藏云く、西天に到り畢り、衆僧の威儀所用を視て𥩈に歎じて曰く、昔神州に在て自ら律を明すと言ふ。寧んぞ知ん、此に到て反て迷人と作んとは。若し歩を西方に移さずんば、何ぞ能く斯の正則を鑒ん文。希くは日域末代の佛法者、此の文を信じて多く俗衣を蓄ふこと勿れ。俗衣とは謂く、日本國の衣帷・小袖・長衣・袴等なり。本文に云く、神州の祇支胡衣なり、方裙・褌・袴・袍・襦、又筒袖・連脊、並に著用すれば皆罪を得云云。
法衣とは僧伽梨九條衣なり.・鬱多羅僧七條衣なり・安陀會五條衣なり。五條も亦内衣と名く。庸著の故なり。内衣とは又、裙を言ふなり。又、覆腋衣を言ふなり。七條亦、上衣と名く。常に上に著るが故なり。九條亦、王宮衣と名く。王宮并に聚楽等に入るの時に著るが故なり。此の三衣を用て、常に蚊虻・寒熱等の苦を防ぐ。亦、能く佛子の標相、福田と爲す。七條・九條を著けずして、俗人に向ふべからず。信施を食すべからず。五條を著て僧供を食す、是れ非法なり。又、僧祇律の中に十三資具有り。菩薩戒の中に一十八種物有り。具には別に列るが如し。其の三衣等、薄き物を用ふべからず。厚き絹布等を以て之を造れ。義淨三藏云く、絁絹は乃ち聖開す。乃至、五天の四部並に皆著用す。詎ぞ求め易きの絁絹を棄て得難きの細布を覓むべけんや。道を妨るの極、斯に在るか。聖制に非るを強て制す、卽其の類なり。乃至、已れが慢を増て、餘の欲を省く人を輕んず。若し𧖟殺絶つべしと云はば、衣食多く生を損す。螻蚓には曾て心を寄せず。蛹𧖟、一に何ぞ念ぜ見る。又、何ぞ酥酪を噉ひ、何ぞ皮鞋を履くや。絲緜を著るも同く斯の類なり。僧祇律に云、憍舎耶衣・欽婆羅衣・㲲衣、皆之を用ふ。佛、並に之を聽し玉ふ畧抄見るべし。此の三種は天竺最上品の衣なり。道俗・王民、共に著用す。但し唐土は絁絹多少なり。布は麤細共に得難し。日本は絹緜の類、頗る得難し。布は得易し。此の事、商量すべし。若し佛聽と號し、强て厚絹の類を覔るも、亦、當に道を妨ぐべし。
問。日本國は土風既に尚し。何ぞ之を改ん。
答。自ら土風を好むは偏執の然らしむるなり。謂ゆる世出世間、之有りと。但ゝ佛語を敬し、墮落を𢣷れば、何ぞ之を改めざらん。况や獨り自ら志を佛教に運ばヽ、諸天相資けん。魔黨僧に攝伏せらるること莫れ。
問。先代の法匠、豈に此の義を知らざらんや。然れども此の則無きは如何。
答。先代の事、誰か見たるや。一笑。
問。若し教の如くせば、豈に寒に耐んや。
答。佛語を謗ること勿れ。已に裹服衣を開し玉ふ。若し强て土俗を耻は、裹服衣の上に不連脊衣を著し、然る後に五條衣を著るに妨げ無し。此方は道宣律師、不連脊衣を聽す云云。今、此の國、徃徃に此の衣有り。
問。此の制然りと雖も、末世の人心、性獷麤多は此の儀を用ひじ。
答。自意に任す。強て勸ること能はず。但だ知んと欲る者の爲の故に示すのみ。廣くは聖教を見るべし。又、日本に惡法有り。道心者の衣服、法衣・俗衣倶に麤惡を以て稱して善しと爲す。律に云く、比丘、若し衣服穢るヽ寸は則ち諸天親近せず。鬼魅短を伺ふこと、穢狗の如くす等云云。之を學ぶべからず。
已上、二衣の儀を示し畢る法衣とは三衣なり。俗衣とは小袖等なり。
齋戒を護る法には二門ある。一には衣食、二には行儀。初めに衣食とは、衣は身を覆ものであり、食は身を資けるものを謂う。次に行儀とは、行は戒行を謂い、儀は律儀を謂う。衣には二種あって、俗衣と法衣である。食には二種あって、請食と乞食とである。戒には二種あり、比丘戒と菩薩戒である。律には二種あり、俗律と道律である。
第一、二衣の法について、俗衣とは三衣を除いた他は、すべて俗衣である。それらは仏制でなく、非法の衣である。義浄三蔵によれば、「神州の苾蒭(が着用している装束)は、三衣を除く他はいずれも聖衣ではない。それ自体がすでに(律に)違反している。理として(比丘は三衣以外の俗衣を)服用することは出来ない。乃至、服用すればすべて罪となる。(支那僧が着用している俗衣を)頗著けて西方に到ったならば、(その姿を見た天竺の)人々は皆、嘲笑する。(そこでその者はそれを)耻に思い、(着用していた俗衣全てを)裂いてしまって(雑巾や土壁に塗り込む繊維として)雑用に充てるのである。それらはまさしく全て非法の衣服である。(この事実を、支那の僧らに対して)もし黙して語ることがなければ、(法服について真に)知ろうと欲する者のよすが無きこととなろう。また、寒冷地方における冬の間は、仏陀は俗衣を聴され、立播の服を着用していた。立播とは梵語である。支那では裹服衣という その製法・着方は別にある。 これはすべて、雪山における胡地の出家の人のみが用るものである。胡地の人が(立播を)著て中印度に到っても、中印度の人は(立播が仏陀が許されたものであるとはいえ)怕れて着用することはない。(中印度の気候は立播を着るには)土地が熱すぎるためである」という以上は義浄の説であるが、その意を要約した。
ところが、神州唐である・日域では仏制に従わず、その多くが俗衣を所有している。それは理に応じたものであろうか。(そのような批判に対し、彼らは)ただ各ゝこのように云う、「多寒の国土においては、仏は百一物を聴された」と。しかし、そんな説は律文にない。義浄三蔵は、「実に偉大なことである、慈父は巧に人の能力や時機・立場に応じて、善く人々と神々を教え導かれた。『調御者』と称される所以である。しかしながら、『供身百一』などという言葉は四部派の律文に未だ見出したことはない。経の中にはその言葉があると言っても、もとよりそれは別時の意である。俗人の家具すらなお五十にも盈たない。どうして釈子はむしろ百種にも登る物品を用いる必要などあろうか。この道理をよくよく考え、その通塞を知らなければならない」と言われている。まして如来はよく国土による寒暖の差を鑑みられ、寒地の(出家者の)ために裹服衣を製作されたのである。大雪山中における諸々の出家の人々は皆この服を用いて、俗衣をさらに用いることは無い。漢土・日域の寒さと胡地の寒さとを比較したならば、倭漢両国の寒さなどただその十分の一に過ぎない。胡地では冬の間、(そのあまりの寒さから)飛鳥が落ちて死ほどであるという。また、大唐の北方は黄河の水が凍って人馬ともに歩いて渡ることが出来るほどとなるが、しかし飛鳥が落ちて死ぬほどまでではない。また、日本ではいまだ曾て流水が凍ったことなど無い。まして人馬が(凍った河を歩いて)渡るなどということもない。大雪山中の諸国は冬夏ともに雪がある。もし大風が吹いたならば六月であってもまた雪が舞うという。義浄三蔵は、「西天〈西印度〉に到着し、そこで衆僧の威儀や持物の用い方などを視た時、心中ひそかに感嘆して『以前、私が神州にまだあった時、律について詳しいなどと自負・自称していた。ああ、どうして知り得たであろうか、この印度に至ったならば、むしろ自らが迷人〈物事の真贋、是非を知らぬ者〉であったなどと。もし、歩みを(支那を出て)西方に移さなければ、どのようによくこの(支那における誤解や推測に基づくものでない、印度における)正則を手本とすることなど出来ようか』と思った」と書き残している。願わくは日域末代の仏法者らよ、この(義浄三蔵の残した)文を信じ、多くの俗衣を所有し着用することのないように。俗衣とは、日本国の衣帷・小袖・長衣・袴等である。本文には、「神州の祇支胡衣である、方裙・褌・袴・袍・襦、または筒袖・連脊など、いずれも著用すればすべて罪となる」とある。
法衣とは、僧伽梨九条衣である.・鬱多羅僧七条衣である・安陀会五条衣である。五条はまた内衣とも言われる。庸著のためである。内衣とはまた、裙を言う。または覆腋衣をも言うものである。七条はまた、上衣とも言う。常に上に著ける為である。九条はまた、王宮衣とも言う。王宮ならびに聚楽等に入る時に著けるためである。これら三衣を用いて、常に蚊や虻、そして寒熱等の苦を防ぐのだ。また、よく仏子の標相、福田となるものである。七条・九条を著けずに、俗人と対面してはならない。信施を食してはならない。五条を著て僧供を食すことは、非法である。また、『摩訶僧祇律』の中には十三資具が説かれている。菩薩戒の中では一十八種物が説かれる。その詳細は別に列挙される通りである。そのうち、三衣等には、薄い物を用いてはならず、厚い絹布等でもってそれらを仕立てなければならない。義浄三蔵は、「絁絹は聖開されている。乃至、五天の四部ではいずれも皆、著用されている。どうして手に入れ易い絁絹を用いず、得難い細布を求める必要があろうか。道を妨る極じゃここにあるというべきであろう。聖制でないことを強て制すること、それがまさにその類である。乃至、自らの慢心を増てて、他の欲を省く人を軽んじるものである。もし『𧖟殺絶つべし』と言うのであれば、そもそも衣食とは、多くの生を損って成り立つものである。螻や蚓にはかつて心を寄せたことなど無いのに、蛹𧖟だけはどうして偏に思いやるのか。また、どうして酥や酪を喰らいながら、何故に皮鞋を履くのか。絲緜を著るのも同じくその類である。『摩訶僧祇律』には、憍舎耶衣・欽婆羅衣・㲲衣、すべて用いられている。仏は、いずれもそれらを聴したまわれたのだ略抄を見よ。これら三種は天竺最上品の衣である。道俗・王民、共に著用するものである。ただし、唐土は絁絹は多少あるけれども、布は麤細ともに得難い。日本は絹緜の類は非常に得難いが、布は得易い。この事実を商量すべきである。もし仏聴と称して、強いて厚絹の類を求めようとするならば、また同じく道を妨げるものとなる。
問。日本国は、その土風として既に尚い。どうしてそれをわざわざ改る必要があろうか。
答。自らその土風を好むのは偏執の為せるところである。いわゆる(何を尊ぶかの価値観・立場の違いとして)世間と出世間とがある。但ゝ仏陀の言葉を敬い、墮落を恐れるのであれば、どうしてこれを改めないことがあろうか。ましてや独り自らその志を仏教に向けるのであれば、諸々の神々も共に(そのような者を)助けるであろう。魔党僧に摂伏せれることなかれ。
問。先代の法匠は、どうしてこの(諸律蔵に説かれ、義浄三蔵や報告し、栄西がここで主張する)義を知らなかったのであろうか。知っていたとしても、その儀則が(今に)無いのは何故か。
答。先代の(衣について正しい儀則を知らなかったなどという)事を、(今の時代の)誰が見たというのか。一笑に付すべき(愚問)である。
問。もし(仏の)教えの如くしたならば、どうして寒さに耐えることなど出来ようか。(いや、出来ようはずがない。)
答。仏語を謗ってはならない。(仏陀は寒地の出家者のため)すでに裹服衣を許されていたのだ。もし強いて土俗を耻るのであれば、裹服衣の上に不連脊衣を著て、そうして後に五条衣を著たとしても問題はない。支那では道宣律師は、不連脊衣を聴したという。今、この国でも徃徃にしてその衣はある。
問。(仏陀によって制された)規定ではそうなっていると言っても、末世における人々の心の性質は粗暴で粗野であり、そのような行儀を用いはしないであろう。
答。自意に任せる。強いて勧ることべきではない。ただ(出家の真面目を)知ろうと欲する者の為に、ここで示すだけである。より詳しくは聖教を見よ。また、日本に悪法がある。道心者の衣服は、法衣であれ俗衣であれ倶に粗悪であることを善しとする思想である。律には、「比丘は、もしその衣服が穢れた時には諸々の神々は親しみ近付こうとしない。むしろ魑魅魍魎が(その比丘を護るどころか、害しようと)その隙を伺うようになるのは、穢らわしい犬がつきまとうようなものである」等と説かれている。よって(衣服が粗悪であればあるほど良いなどとする悪法を)学び行ってはならない。
已上、二衣の儀を示し畢る法衣とは三衣である。俗衣とは小袖等である。