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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

栄西 『出家大綱』

訓読

第三に、二戒の法とは、比丘戒とは聲聞しょうもん具足戒ぐそくかい、四部の律藏の說是れなり。十師じゅっし五師ごしに依て得戒す。謂く、四波羅夷しはらい十三僧殘じゅうさんそうざん二不定法にふじょうほう三十尼薩耆さんじゅうにさぎ九十波夜提くじゅうはいつだい四波羅提提舎尼しはらだいだいしゃに一百衆學法いっぴゃくしゅがくほう七滅諍法しちめつじょうほう、合して二百五十戒にひゃくごじゅっかいなり。ならびに是れ小乗の學處がくしょなり。自調自度を以て實際涅槃を證す。但し未だ無上菩提に到らず。菩薩、若し二乗地にじょうち退墮たいだせば、則ち菩薩死と名く。然るときは則ち、今は其のじょうを取らず、只其のかいを取る。謂く、末代の道人、多く大乗におもむくが故、過を離れ非を防ぐを以て要と爲し、以ておなじく之を學すべし。天台止觀てんだいしかんに云く、出家の菩薩は六和ろくわ十利じゅうり、聲聞と同なり等云云。菩薩戒とは梵網ぼんもう三聚さんじゅ十重四十八輕じゅうじゅうしじゅうはちきょう是れなり。其の心、其の戒に從て純ら大悲般若の情をおこし、衆生に憎愛の差別しゃべつ無し。佛法に偏圓分別へんえんふんべつを離れ、行ずべきをすみやかに行じ、學すべきをたちまちに學す。是非を競諍きそはず、只あゆみを菩薩意地に進て人天の福田ふくでんと爲すべし。是れ菩薩戒なり。末代淺近の智慧を以て、佛法の雌雄をあらそふ莫れ。

このごろ有る大德だいとく、自ら戒藏を看讀かんどくして云く、山門別授さんもんべつじゅの菩薩戒は正に非ずとして破して云く、遠く七佛遺流しちぶつゆいるつ等云云。親く此の言を聞て、哀慟あいどう極り無し。其人已に魔網まもうに墮す。千佛も能く救ふこと無し。其の人、般若を生ぜんことを欲して、還て般若の種子をそうす。もっとも悲むべし。般若を學す者は惡すら尚憎むべからず。况や善をや。凡そ迷中の是非を觀達すれば、是非とも非なり。夢裏の有無は有無ともに無なり。其れ是れ般若なり。何に况や如來の說敎、區區くく大士の弘經品品ぐきょうほんほんをや。傳敎大師でんきょうだいし別授べつじゅの菩薩戒、何の過失かしつか有んや。我が大師、若し別授の菩薩戒を建立こんりゅうせずんば、此の土末代、持律の人無し。何に因てか戒緣を結ばん。いわんや彼の時、賢人明匠、其の人に乏からんや。何に况や別授の菩薩戒は、特によし有らんや口訣、別に有り庶幾こいねがはくは一門の同袍、彼がそしりはばかること莫れ。此の門に登て、退慢すること莫れ。然れば則ち半月半月はんがつはんがつ布薩ふさつし、日夜に十重四十八輕戒を誦して懈怠けたいすること勿れ。努力せよ、努力せよ。况や梵網ぼんもうの菩薩戒は、四部しぶ共に自誓受じせいじゅゆるす。若し爾らば末世、佛法絶てのち千里の内、能授戒の師無き時、一人㝛習しゅくしゅうに任せて無上菩提の心を發し、卽ち父母妻子を捨て、自ら頭を剃りひげを除く者、佛菩薩の形像ぎょうぞうの前に於て自誓受戒し、卽ち好相こうそうを得るのやから、豈に菩薩比丘ぼさつびくと名けざらんや。或は又、梵網八萬威儀中ぼんもうはちまんいぎちゅうに何ぞ五戒・八戒・十戒・二百五十戒を攝せざらんや。又、傳敎大師の元意有て、顯示すべからざるか。光定大師こうじょうだいし一心戒文いっしんかいもん安然和尚あんねんかしょう廣釋こうしゃくの文、具に之を載すべし。文、しげければ之を書せず。但し大師の元意、全く之を示すべからず。其の菩薩究竟くきょうの道理は只、互に相是非せず。若し別授の菩薩戒不正ふしょうならば其の戒を授け、其の戒を行ずる人の苦なり。なんじ、何ぞならん。道をそんじて惡道に隨せば、汝かわって苦を受くるや。汝、若し此の自是とし他を非とするの業に依て、惡道に隨せば、我能く汝を救はん。穴賢あなかしこ、穴賢。今より已後、只汝の自情を守り、傳敎大師別授の菩薩戒の正否を說くこと莫れ。大師已にいかむ。誰ぞ汝が謗難ぼうなんせんや。汝、大師を破して云く、七佛遺流を截つ云云。予、大師に代て汝を救て云く、三惡の門戸を開く。あはれむべし、哀むべし。善戒經ぜんかいきょうの文會釋有り。別文の如し、梵網經の意に異るなり。

現代語訳

第三に、二戒の法について、比丘戒とは声聞しょうもん具足戒ぐそくかい、四部の律蔵の説である。十師じゅっし五師ごしに依って得戒する。いわゆる四波羅夷しはらい十三僧殘じゅうさんそうざん二不定法にふじょうほう三十尼薩耆さんじゅうにさぎ九十波夜提くじゅうはいつだい四波羅提提舎尼しはらだいだいしゃに一百衆学法いっぴゃくしゅがくほう七滅諍法しちめつじょうほう、合わせて二百五十戒にひゃくごじゅっかいである。いずれもこれらは小乗の学処がくしょである。自調・自度をもって実際涅槃を証すのだ。ただし、いまだ無上菩提には到らない。菩薩がもし二乗地にじょうち退墮たいだしたならば、それを「菩薩の死」と名づける。そのようなことから、今はその(二乗の)じょうは取らず、ただそのかいをのみ取る。すなわち、末代の道人は多く大乗におもむくものであるが故に過を離れ非を防ぐをもって要とし、同じくこれを学さなければならない。天台の(湛然)『止観輔行伝弘決しかんぶぎょうでんくけつ』に、「出家の菩薩は六和ろくわ十利じゅうりにおいて声聞と同じである」等とある。菩薩戒とは梵網ぼんもう三聚浄戒さんじゅじょうかい十重四十八軽戒じゅうじゅうしじゅうはちきょうかいである。その精神、その戒に従って専ら大悲般若の情をおこし、衆生に対して憎愛の差別しゃべつを持たない。仏法において偏円分別へんえんふんべつを離れ、行ずべきことをすみやかに行じ、学ぶべきをたちまちに学ぶ。是非を競諍きそわず、ただあゆみを菩薩意地に進めて人天の福田ふくでんとなるべきである。それが菩薩戒である。末代における浅近の智慧をもって仏法の雌雄をあらそってはならない。

この頃、ある大徳だいとくが、みずから戒蔵を看読かんどくして「山門別授さんもんべつじゅの菩薩戒は正当ではない」として批判して云く、「遠くは七仏遺流しちぶつゆいるを断絶するものである」等と。親しくこの言葉を聞いて、(私は)哀慟あいどうして極ることが無かった。その人はすでに魔網まもうに墮ちており、千仏もよく救うことは出来ない。その人、般若を生じることを欲して、むしろ般若の種子を乾かしてしまったのだ。もっとも悲むべきことである。般若を学ぶ者は悪をすらなお憎んではならない。ましてや善についてはいうまでもない。およそ迷いの中における「是非」というものを観達したならば、その「是」も「非」もともに非である。夢の中での「有無」は「有」も「無」もともに無いのだ。そのような見解こそが般若であろう。ましてや如来の説教や様々な大菩薩によって広められる教えについては言うまでもない。伝教大師でんきょうだいしによる別授べつじゅの菩薩戒に、何の過失かしつが有るというのか。我が大師がもし別授の菩薩戒を建立こんりゅうしていなかったならば、この国の末代において持律の人など無い。何に因って戒縁を結ぶことが出来るというのか。ましてや(伝教大師の)当時、賢人や明匠など、その人が乏しかったなどということはなかった。どうして別授の菩薩戒には特に問題があったなどと言えようか口訣が別にある庶幾こいねがわくは(我が)一門の同袍よ、彼のそしりはばかることがないように。この門に登って退慢することのないように。さすればすなわち、半月半月はんがつはんがつ布薩ふさつし、日夜に十重四十八軽戒(の波羅提木叉はらだいもくしゃ)を読誦して懈怠けたいすることなくあれ。努力せよ、努力せよ。ましてや『梵網経ぼんもうきょう』の菩薩戒は、四部しぶに共通して自誓受じせいじゅゆるすものである。もしそうであるならば、末世に仏法が絶えてのち、千里の内によく授戒し得る師が無い時には、ただ一人その宿習しゅくしゅうに任せて無上菩提の心を発し、すなわち父母妻子を捨てて自ら頭を剃りひげを除いた者は、仏・菩薩の形像ぎょうぞうの前に於いて自誓受戒し、すなわち好相こうそうを得たやからは、どうして菩薩比丘ぼさつびくと名づけられないことがあろうか。あるいはまた、梵網の八萬威儀ぼんもうはちまんいぎの中に、どうして五戒・八戒・十戒・二百五十戒が包摂されていないことがあろうか。また、(ただ梵網戒を受けるのみで良いとした)伝教大師の元意があるが、顕示するべきでないであろうか。しかし、光定大師こうじょうだいしの『伝述一心戒文でんじゅついっしんかいもん』や安然和尚あんねんかしょうの『普通授菩薩戒広釈ふつうじゅぼさつかいこうしゃく』の文には詳細にこれを載せている。その文は繁多であることからこれを引用はしない。ただし、大師の元意の全てを示すことは出来ない。その菩薩究竟くきょうの道理はただ、互いに是非することではない。もし別授の菩薩戒が不正ふしょうであるというならば、その戒を授け、その戒を行ずる人の苦となるものである。なんじは、何かとなることがあろうか。(誰かが)道をそこなって悪道に隨ちたならば、汝が(その者に)かわって苦を受けるとでもいうのか。汝がもしそのように自らの主張を是とし他を非とする業に依って悪道に堕ちたならば、私がよく汝を救ってやろう。穴賢あなかしこ、穴賢。今より已後、ただ汝の個人的見解を口にせず、伝教大師による別授の菩薩戒の正否を説くことのないように。大師はすでに亡くなっているのだ。誰が汝の謗難ぼうなんに対して反論するというのか。汝は大師を批判して「七仏遺流を断絶する」と云った。私は大師に代わって汝を救って云おう、「(汝の言葉は)三悪の門戸を開くものである。あわれむべきことである、哀むべきことである」と。(自誓受戒による出家が決して成立しないことを説く)『菩薩善戒經ぼさつぜんかいきょう』の文会釈がある。別文の如しは、『梵網経』の意とは異るのだ。