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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

栄西 『出家大綱』

原文

第三二戒法者比丘戒者聲聞具足戒四部律藏說是也依十師五師得戒謂四波羅夷十三僧殘二不定法三十尼薩耆九十波夜提四波羅提提舎尼一百衆學法七滅諍法合二百五十戒也竝是小乗學處也以自調自度證實際涅槃但未到無上菩提菩薩若退墮二乗地則名菩薩死也然則今者不取其情只取其戒謂末代道人多趣大乗故以離過防非爲要以同應學之天台止觀云出家菩薩六和十利與聲聞同等云云 菩薩戒者梵網三聚十重四十八輕是也其心從其戒純發大悲般若之情於衆生無憎愛差別於佛法離偏圓分別應行速行應學怱學不競諍是非只進歩菩薩意地應爲人天福田是菩薩戒也以末代淺近智慧莫諍佛法雌雄

頃有大德自看讀戒藏云山門別授菩薩戒非正破云遠截七佛遺流等云云 親聞此言哀慟無極其人已墮魔網千佛無能救乎其人欲生般若還燥般若種子尤可悲矣學般若者惡尚不可憎况善哉凡觀達迷中是非是非倶非夢裏有無有無倶無其是般若也何况如來說敎區區大士弘經品品也傳敎大師別授菩薩戒有何過失哉我大師若不建立別授菩薩戒者此土末代無持律人因何結戒緣哉况彼時賢人明匠乏其人哉何况別授菩薩戒特有由乎口訣有別 庶幾一門同袍莫憚彼謗登此門莫退慢矣然則半月半月布薩日夜誦十重四十八輕戒勿懈怠努力努力况梵網菩薩戒者四部共聽自誓受若爾末世佛法絶後千里内無能授戒之師時一人任㝛習發無上菩提之心卽捨父母妻子自剃頭除鬚之者於佛菩薩形像前自誓受戒卽得好相之輩豈不名菩薩比丘哉或又梵網八萬威儀中何不攝五戒八戒十戒二百五十戒哉又有傳敎大師元意不可顯示歟光定大師一心戒文安然和尚廣釋文具可載之文繁不書之但大師元意全不可示之其菩薩究竟道理者只不互相是非也若別授菩薩戒不正者授其戒行其戒人之苦也汝何苦也損道隨惡道汝代受苦乎汝若依此自是非他之業隨惡道我能救汝穴賢穴賢自今已後只守汝自情莫說傳敎大師別授菩薩戒之正否矣大師已逝誰會汝謗難哉汝破大師云截七佛遺流云云 予代大師救汝云開三惡之門戸可哀可哀善戒經文有會釋如別文 異梵網經意也

訓読

第三に、二戒の法とは、比丘戒とは聲聞しょうもん具足戒ぐそくかい、四部の律藏の說是れなり。十師じゅっし五師ごしに依て得戒す。謂く、四波羅夷しはらい十三僧殘じゅうさんそうざん二不定法にふじょうほう三十尼薩耆さんじゅうにさぎ九十波夜提くじゅうはいつだい四波羅提提舎尼しはらだいだいしゃに一百衆學法いっぴゃくしゅがくほう七滅諍法しちめつじょうほう、合して二百五十戒にひゃくごじゅっかいなり。ならびに是れ小乗の學處がくしょなり。自調自度を以て實際涅槃を證す。但し未だ無上菩提に到らず。菩薩、若し二乗地にじょうち退墮たいだせば、則ち菩薩死と名く。然るときは則ち、今は其のじょうを取らず、只其のかいを取る。謂く、末代の道人、多く大乗におもむくが故、過を離れ非を防ぐを以て要と爲し、以ておなじく之を學すべし。天台止觀てんだいしかんに云く、出家の菩薩は六和ろくわ十利じゅうり、聲聞と同なり等云云。菩薩戒とは梵網ぼんもう三聚さんじゅ十重四十八輕じゅうじゅうしじゅうはちきょう是れなり。其の心、其の戒に從て純ら大悲般若の情をおこし、衆生に憎愛の差別しゃべつ無し。佛法に偏圓分別へんえんふんべつを離れ、行ずべきをすみやかに行じ、學すべきをたちまちに學す。是非を競諍きそはず、只あゆみを菩薩意地に進て人天の福田ふくでんと爲すべし。是れ菩薩戒なり。末代淺近の智慧を以て、佛法の雌雄をあらそふ莫れ。

このご有る大德だいとく、自ら戒藏を看讀かんどくして云く、山門別授さんもんべつじゅの菩薩戒は正に非ずとして破して云く、遠く七佛遺流しちぶつゆいるつ等云云。親く此の言を聞て、哀慟あいどう極り無し。其人已に魔網まもうに墮す。千佛も能く救ふこと無し。其の人、般若を生ぜんことを欲して、還て般若の種子をそうす。もっとも悲むべし。般若を學す者は惡すら尚憎むべからず。况や善をや。凡そ迷中の是非を觀達すれば、是非とも非なり。夢裏の有無は有無ともに無なり。其れ是れ般若なり。何に况や如來の說敎、區區くく大士の弘經品品ぐきょうほんほんをや。傳敎大師でんきょうだいし別授べつじゅの菩薩戒、何の過失かしつか有んや。我が大師、若し別授の菩薩戒を建立こんりゅうせずんば、此の土末代、持律の人無し。何に因てか戒緣を結ばん。いわんや彼の時、賢人明匠、其の人に乏からんや。何に况や別授の菩薩戒は、特によし有らんや口訣、別に有り庶幾こいねがはくは一門の同袍、彼がそしりはばかること莫れ。此の門に登て、退慢すること莫れ。然れば則ち半月半月はんがつはんがつ布薩ふさつし、日夜に十重四十八輕戒を誦して懈怠けたいすること勿れ。努力せよ、努力せよ。况や梵網ぼんもうの菩薩戒は、四部しぶ共に自誓受じせいじゅゆる。若し爾らば末世、佛法絶てのち千里の内、能授戒の師無き時、一人㝛習しゅくしゅうに任せて無上菩提の心を發し、卽ち父母妻子を捨て、自ら頭を剃りひげを除く者、佛菩薩の形像ぎょうぞうの前に於て自誓受戒し、卽ち好相こうそうを得るのやから、豈に菩薩比丘ぼさつびくと名けざらんや。或は又、梵網八萬威儀中ぼんもうはちまんいぎちゅうに何ぞ五戒・八戒・十戒・二百五十戒を攝せざらんや。又、傳敎大師の元意有て、顯示すべからざるか。光定大師こうじょうだいし一心戒文いっしんかいもん安然和尚あんねんかしょう廣釋こうしゃくの文、具に之を載すべし。文、しげければ之を書せず。但し大師の元意、全く之を示すべからず。其の菩薩究竟くきょうの道理は只、互に相是非せず。若し別授の菩薩戒不正ふしょうならば其の戒を授け、其の戒を行ずる人の苦なり。なんじ、何ぞならん。道をそんじて惡道に隨せば、汝かわって苦を受くるや。汝、若し此の自是とし他を非とするの業に依て、惡道に隨せば、我能く汝を救はん。穴賢あなかしこ、穴賢。今より已後、只汝の自情を守り、傳敎大師別授の菩薩戒の正否を說くこと莫れ。大師已にいかむ。誰ぞ汝が謗難ぼうなんせんや。汝、大師を破して云く、七佛遺流を截つ云云。予、大師に代て汝を救て云く、三惡の門戸を開く。哀むべし、哀むべし。善戒經ぜんかいきょうの文會釋有り。別文の如し、梵網經の意に異るなり。

脚註

  1. 具足戒ぐそくかい

    [S]upasaṃpadā/[P]upasaṃpanna. 比丘(あるいは比丘尼)たることを具える戒。比丘(比丘尼)となるには必ず受けなければならない儀礼を通し、僧伽の成員として受け入れられること。
    一般に受具足戒(受具)とはいわゆる「二百五十戒」・「比丘戒」を受けることである、と言われるが正確ではない。受具において授けられるのは比丘たることの僧伽からの認定、承認のみであり、併せて四波羅夷法のみ護持することが可能であるかの確認がなされる。

  2. 十師じゅっし五師ごし

    受具するのに必要な十人以上(辺境の地においては例外的に五人以上)の比丘の謂。一般に三師七証と言われる。この三師といわれる比丘のうち最低一人は比丘となってから十夏以上を経験した者で行学兼備でなければならず、また二人は五夏以上の者でやはり行学兼備かつ羯磨に堪能なものでなければならない。

  3. 四波羅夷しはらい

    波羅夷は[S/P]Pārājikaの音写で比丘にとっての最重罪となる四つの行為を制する学処。もしそのうち一つでも犯して明らかになればただちに比丘の立場を失い、四方僧伽から永久追放される。比丘尼の場合は八波羅夷。不応悔罪、断頭罪とも。

  4. 十三僧殘じゅうさんそうざん

    比丘にとって波羅夷罪に次ぐ重罪。もしそのうちの一つでも犯したならば、六夜(七日間)比丘としての資格・権利が剥奪され隔離される十三の行為を制する学処。仮にこれを犯したことを隠していた場合は、その期間だけまず別住(隔離)させられさらに何らかの課役がなされる。隔離期間および六夜を終えた後、所定の懴悔を廿人以上の比丘の前で行い、許されたならば出罪となる。

  5. 二不定法にふじょうほう

    何らかの罪に該当するが、いまだそれが何か確定し得ない二つの行為。

  6. 三十尼薩耆さんじゅうにさぎ

    尼薩耆は、[S]naiḥsargika prayaścittika / [P]nissaggiya pācittiyaの音写、尼薩耆波逸提(にさぎはいつだい)の略。比丘の所有物・所有財産に関する三十ヶ条(栄西は『四分律』に基づくため三十。その他の律蔵では以下の条項数に相違がある)を制する学処。これに該当する罪を犯した場合、まず制限される物品の所有権を僧伽に対して放棄した上で、三人以下の比丘に対して発露・懴悔したならば許される。所有権の放棄を伴うことから捨堕と漢訳される。

  7. 九十波夜提くじゅうはいつだい

    波夜提は[S]prayaścittika / [P]pāyattikaの音写。比丘あるいは出家者として相応しくない九十種の行為を制する学処。もし比丘がこれを犯したならば、三人以下の比丘に対して発露・懴悔すれば許される。

  8. 四波羅提提舎尼しはらだいだいしゃに

    波羅提提舎尼は[S]pratideśanīya/[P]pātidesanīyaの音写。特に食に関する比丘としてすべきでない四つの行為を制する学処。罪としては軽微なもので、一人の比丘に対して発露・懴悔すれば許される。

  9. 一百衆學法いっぴゃくしゅがくほう

    衆学は[S]Saikśa / [P]Sekhiyāの漢訳。比丘として相応しくない行い、振る舞いを制する学処。比丘としてというよりむしろ文化的人として非常識な行為を制限したもの。その中には明文化することが異常とすら思われる学処がいくつかあるが、それは僧伽はあらゆる階層の人を受け入れるものであるため、中には最低限の教育・行儀も備えていない者があるためであった。
    現在も南アジアや東南アジアの国際的な僧院には、非常に高度な教育を受け高い知能を有する比丘があるかと思えば、印度やバングラディシュなどの山間部出身の極めて教養がなく迷信まみれで行儀も悪い比丘が存在する。そのような出自や育ちが違いすぎる者が混成する場では、現実の生活上に種々の混乱が生じる。

  10. 七滅諍法しちめつじょうほう

    僧伽内で容易に解決できない争論が生じた際の解決方法に関する規定。

  11. 二百五十戒にひゃくごじゅっかい

    比丘が身に備えるべき諸々の規定、比丘戒の具体。総数としてちょうど二百五十であるのは『四分律』であって、その他の律蔵ではその総数に相違がある。比丘戒を二百五十戒と呼称することは、支那に『四分律』が伝来する以前からのことであり、二百五十戒は特に『四分律』のそれを特定して言ったものではない、あくまで概数である。

  12. 學處がくしょ

    [S]śikṣāpada / [P]sikkhāpadaの漢訳。sikkhā(学び・訓練)+ pada(足・足跡・場所・言葉・原因)で「訓練すべき事柄」・「学ぶべき所」の意。戒や律の具体的条項をいう語。

  13. 二乗地にじょうち

    聲聞(声聞)地と獨覺(独覚)地。いわゆる小乗の二地。菩薩乗(大乗)からしていまだ不完全とされる境涯。

  14. 其のじょうを取らず、只其のかいを取る

    『法華経』巻四「内祕菩薩行 外現是聲聞(内に菩薩行を秘し、外に是れ聲聞を現す)」を言ったものであろう。支那・日本において、非常に問題となったのは(中国撰述の偽経である)『梵網経』などの所説であった。そこでは大乗の菩薩は声聞と経律を共有してはならない、声聞の教に従ってはならない等と説かれているが、すると僧として律儀をどうすべきかの問題が生じる。大乗に律など存在せず、すなわち大乗独自の出家作法等、僧として生活するための具体的規定など皆無であるためである。そこで彼らがよく主張したのが「内祕菩薩行 外現是聲聞」であった。そもそも印度に『梵網経』がいうような思想が存在しないため、僧が律儀を備えるのは当然のことであり、印度以来の瑜伽戒など菩薩戒でそのような問題は生じなかった。『梵網経』などの存在以前にも、歴史的に律儀の伝来が仏教の伝来よりも3~4世紀も遅れていた支那も日本も、律儀に対する理解が本来からすればおかしなこととなっている。

  15. 天台止觀てんだいしかんに云く

    湛然『止観輔行伝弘決』巻四「如涅槃中處處扶律。今此亦爾。小爲方便。故知出家菩薩六和十利與聲聞同。六度四弘異於小行」(T46, p.254a)

  16. 六和ろくわ

    僧伽を構成する比丘・比丘尼が①身(礼拝)・②口(讃嘆)・③意(信心)・④戒(戒律)・⑤見(見解)・⑥利(施食・施物)において皆等しいこと。僧伽を和合させ円滑に運営するための根本原則。

  17. 十利じゅうり

    仏陀により律(学処)が制定された十の目的・動機。十句義(『四分律』)とも。①攝取於僧(僧をまとめる)・②令僧歡喜(僧を歓喜させる)・③令僧安樂(僧を安楽にさせる)・④令未信者信(未信の者をして信じさせる)・⑤已信者令増長(已信の者をしてその信をより増させる)・⑥難調者令調順(調伏し難い者を従順にさせる)・⑦慚愧者得安樂(慚愧する者は安楽を得る)・⑧斷現在有漏(現在の煩悩を断じる)・⑨斷未來有漏(未来に煩悩が起こることを断じる)・⑩正法得久住(正法を世に長らく留まらせる)。律に規定される諸々の条項は、以上の個および全にわたる利益をもたらすものとして制定された。

  18. 三聚さんじゅ

    三聚浄戒。大乗における六波羅蜜の戒波羅蜜の具体。律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の三種からなり、声聞乗・菩薩乗に説かれるあらゆる戒律を包摂したもの。
    ただし、ここで栄西は「梵網の三聚」と言っているが『梵網経』に三聚浄戒は説かれない。三聚浄戒という語を挙げるのは(四十八軽戒を除く)十重禁戒を説く『菩薩瓔珞本業経』。しかし日本では一般に、十重禁戒が同一であることから、『梵網経』と『菩薩瓔珞本業経』とを混成してしばしば理解された。

  19. 有る大德だいとく

    栄西はここで名を明示しないが、おそらくは貞慶であろう(あるいはその弟子戒如)。貞慶は当時、南都興福寺常喜院を拠点として律学の振興を図っていた。また、その半世紀近く前に延暦寺と園城寺の戒壇建立を巡る争いが飛び火し、再び勃発していた南都叡山の戒律論争に関わって『南都叡山戒勝劣事』を著し比叡山における大乗戒単受の伝統を激しく非難していた。したがって、栄西がどこでどのような形で貞慶と接触があったか不明であるが、その内容と当時の事情からすると「有る大徳」は貞慶本人、あるいはその周辺人物として良いと考えられる。

  20. 山門別授さんもんべつじゅの菩薩戒は正に非ず...

    最澄が生前その勅許を得ることを強く願い、ついにその死後から比叡山において行われてきた、ただ「梵網戒をのみ受けることに依って菩薩比丘たりえる」とした日本の天台宗における極めて特異な思想を非難した語。ここで「別授の菩薩戒」とあるが、比叡山における梵網戒の授受は、印度以来すなわち仏説の伝統的な具足戒を排除したものであって、ただ梵網戒のみを授けることで「比丘と自称するもの」であった。最澄は出家に関しても伝統説を廃棄し、これも何ら根拠の無いものであったが、十善戒にて出家得度の戒とすると主張した。当時、出家は正月八日以降に宮中にて行われるものであったが、それをも諸宗とは別に行うことを提案していたのである。これは天台宗徒が他宗に絶対に転宗出来ないようにするための、現代的にいえば「囲い込み戦略」を行政制度的に行わせようとするものであって、宗教的信条や仏教の正統な根拠に基づくものなどではなかった。
    批判者(おそらくは貞慶)は、そのような最澄およびその末流の主張が印度・支那以来の伝統になく、また経説・律蔵に正当な根拠がないことを「七佛遺流を截つ」と云ったのであろう。伝統的仏教としての立場からの批判。

  21. 何の過失かしつか有んや

    栄西は最澄の大乗戒についての特殊な主張には何一つ問題が無かったとここで主張している。しかし、そこには一つどころかあまりにも多数の問題があったため、最澄は当時、僧綱および南都七大寺から猛烈な批判にさらされていた。栄西が天台宗出身であって最澄を敬愛していたことからの言であろうが、おそらく栄西は戒律の重要性をみずから主張しておきながら、この問題の歴史的経緯と最澄と僧綱との争点を正しく把握していなかった。まさか栄西は、最澄の大乗戒の主張が仏教的な動機からでなく、純然たる政治的な動機からなされたものであったとは思ってもみないことであったろう。
    栄西は、最澄の主張にそった大乗戒の受戒に対する勅許が無ければ、「此の土末代、持律の人無し」などとも主張しているけれども、それは完全に倒錯した理解で、むしろ比叡山のそのような独自のあり方が政治的に許可されたことが日本仏教の無戒化を増長した大きな要因の一つとなっている。栄西はこれまで何らか典拠に則り理知的に論じていたけれども、こと比叡山の大乗戒に関わった途端、まったく感情的で無理筋な擁護論を長々と展開する。栄西における最澄への想いが端的に表れたものではあろうが、ここでの栄西の言辞は反知性的であり、なんら具体的なものでない。詳しくは別項、"最澄『山家学生式』"を参照のこと。

  22. 布薩ふさつ

    新月と満月の日の月二回、比丘と比丘尼それぞれが必ず行わなければならない僧伽における最も重要な儀式。まず、同一結界にある者全員が参加していることを確認した後、一人の長老比丘(比丘尼)が律の波羅提木叉(戒本)を暗誦するのをその他全員が静聴することによって行われる。
    しばしば「布薩とは毎月二回、僧が懺悔・反省する儀式」などと説明されるが誤り。なんとなれば、罪を犯して懴悔すべきことがある者は布薩に参加できず、布薩以前にそれぞれ相当の懴悔が行われるためである。布薩とは、僧伽が一堂に会して分裂しておらず、また各自が律儀の条項を再確認してその清淨であることを全体がやはり確認する儀式である。もし比丘で布薩の進行中に自ら罪を犯していたことに気づいても、その進行を止めてはならず、布薩が終わった後に別途相応の懴悔をするべきものとされる。

  23. 梵網ぼんもうの菩薩戒は、四部しぶ共に...

    『梵網経』は、もし菩薩戒を受けることを望む者で近くに好適の戒師が無かったならば、まずそれまでの自らの行業について(何らかの行によって)懴悔を七日以上行い、好相を感得したならば、自ら誓って受戒することが可能とされている。これに出家・在家の別はないが、その点を栄西は指摘している。しかし、『梵網経』に、その所説の戒を受けることにより比丘・比丘尼など出家となりえる、その立場が確立されるなどという説はない。このあたりの主張は、最澄のそれをなぞったものであると言えようが、おそらく栄西は『顕戒論』を見ておらず、したがってその主張は非常に雑なものとなっている。

  24. 好相こうそうを得るのやから、豈に...

    『梵網経』に「好相者。佛來摩頂見光見華種種異相(好相とは、佛來りて摩頂し、光を見、華を見るなど種種の異相なり)」とあるように、好相とは(夢か現に)尋常ならざる経験をすることとされる。『梵網経』では視覚的な例しか挙げられていないが、『占察経』では異香を嗅ぐなども好相とされ、必ずしも視覚的経験に限られない。しかし先の註.22にても述べたように、『梵網経』に好相を見たことで受戒が可能とは説かれるが、それで菩薩比丘になりえるなどという説は存在しない。それはむしろ『占察経』に基づく説であるが、『占察経』は支那でも代々間違いなく偽経とされ続けてきたのが、武則天のとき政治的に真経とされた曰く付きの典籍であった。なにより最澄はそのことを知っており、自身の大乗戒に関する主張の根拠として『占察経』を用いていない。

  25. 梵網八萬威儀中ぼんもうはちまんいぎちゅうに何ぞ五戒...

    『梵網経』にはその所説の戒のうちに五戒・八戒・十戒・二百五十戒を包摂するなどという説は存在せず、むしろ声聞・縁覚の経律を受持してはならないとすら言う条項(第八軽戒)がある。この栄西の見解は、『梵網経』と『菩薩瓔珞本業経』の説を合し、さらに円仁以来『占察経』の所説をも根拠として混同した当時の天台宗における理解に依ったものであろう。

  26. 光定大師こうじょうだいし

    最澄の徒弟の一人。弘仁元年(801)天台宗の年分度者として宮中で得度し、弘仁三年(812)東大寺戒壇院で受戒し比丘となった。弘仁九年以来、最澄が大乗戒の勅許を得ることを画策してからその助力をして奔走した。もっとも長く最澄に側仕えた人であったが、天台宗の長になることは遂になかった。

  27. 一心戒文いっしんかいもん

    光定『伝述一心戒文』。承和年間(834-848)に成立。最澄が大乗戒勅許を訴えてから得るまでの顛末を、側仕えて自らもそのために奔走した立場から記録した書。

  28. 安然和尚あんねんかしょう

    最澄の孫弟子。円仁の弟子として天台僧となり、顕密二教を修めたが中でも密教に重きをおいて台密の大成に導いた人。円仁・円珍からすでに『法華経』に対する密教の優位が主張されていたが、安然においてそれは非常に顕著なものとなり、天台宗をして「真言宗」と称するようになっている(『教時諍論』)。自身も渡唐を志したが叶わず、しかし円仁から受学しさらに当時の悉曇学の典籍・伝承などを修正した『悉曇蔵』を著したことでも知られる。
    栄西は自らも深く密教を学び受法していたが、おのずから特に安然を慕ってその著をよく読んでいた。

  29. 廣釋こうしゃく

    安然『普通授菩薩戒広釈』。安然が、最澄『顕戒論』や円仁『顕揚大戒論』を踏まえて著した日本天台宗における菩薩戒に対する注釈書。

  30. なんじ、何ぞならん

    栄西による論点のすり替え、感情的反論の極みと言える一節。この『出家大綱』において、衣・食・戒・律など多岐にわたりその乱れていることを嘆いて批判し、自らその護持と実行を盛んに推奨しながら、ここで天台を奉じる者として自らもその批判対象に含まれているとなると、「お前になんの関係がある」・「最澄はもはや死んで反論できないのであるから、誰がそれを解決できるのか」などという語まで口にしている点、失笑せざるを得ない。このような栄西のきわめて感情的・反理知的な弁は、逆に栄西にとっても合理的に反論し難い都合の悪いものであったことの証左と言える。

  31. 穴賢あなかしこ

    古文でしばしば用いられた定型句。「あな」は感歎詞、「かしこ」は形容詞「畏(かしこ)し」の語幹。穴賢はその当て字であって漢字自体に意味はない。その意には、①驚きをもって愼む感情を表す語、②人への呼びかけの語、③制止の呼びかけ(後に禁止の語を伴う場合)で「決して」「ゆめゆめ」を表する語、④文末に言って敬意を表す語、⑤物事の終わりを表す語などがあって、多多の用法がある。
    ここでは、後の「菩薩戒の正否を說くこと莫れ」に対応する③の意。すなわち、栄西は「最澄の主張にいちゃもんをつけるんじゃない」と制止している。

  32. 善戒經ぜんかいきょう

    求那跋摩訳『菩薩善戒経』。五世紀中頃、支那に初めてもたらされた菩薩戒を説く経典。『瑜伽師地論』(『菩薩地持経』)が広説する三聚浄戒の典拠。『瑜伽師地論』でも菩薩戒が自誓受の可能であることを説くけれども、ただし出家の律儀戒(具足戒・十戒)に関しては不可であるとする。そしてそれは印度以来の常識であり、支那においてもまた同様で、栄西が信奉した(支那の)天台宗および禅宗の学匠たちで自誓受によって菩薩比丘となることを許し、あるいは自らそうして菩薩比丘などと称した者など一人としていなかった。
    栄西はここで、そのような『善戒経』(系統の三聚浄戒)の所説と『梵網戒』の所説とは異なると言っているが、前述のように『梵網経』に自誓受によっていずれか出家者となることが可能などとする説は無い。

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