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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

栄西 『出家大綱』

訓読

第四に、二律の法とは、俗律ぞくりつとは土風方俗どふうほうぞくなり。此の土の作法、知るべし。能く世間譏嫌きげんを知て出家の律を全ふし、𤜛おかぜざらしむなり。謂く新制法しんせいほうの中につぶさなり。道律どうりつとは、佛法なり。佛、中印土ちゅういんどに出で中土ちゅうどの方法を以てす。謂く偏袒右肩へんだんうけん結跏趺坐けっかふざ等是れなり。

りつ大小だいしょう有り。小乗四部、一に大衆部だいしゅぶ、二に上座部じょうざぶ、三に根本有部こんぽんうぶ、四に正量部しょうりょうぶなり。ならびに是れ小乗の律儀なり。大乗は卽ち梵網・瓔珞ようらく等の菩薩の律儀なり。其の律儀は則ち小乗の威儀に異る。内に大悲を薫じて柔輭にゅうなんの相を表し、外に苦行に往して福田の儀を示す。㴱く菩提の道を學するに五種の竒特未曾有きとくみぞうの法有り。一には諸の有情に於て因緣有ること無けれども愛念を起す。二には諸の衆生の爲めに無量の苦を受く。三には煩惱熾盛しじょう難化なんけの衆生を方𠊳して調伏す。四には第一難解眞實の儀に入る。五には不思議神通の力に入る。是の如きの竒特、一切衆生とぐうせず已上、菩薩地持經第八巻門なり。是れ皆、律儀清淨の能く辯ずる所なり。我れ等、其の分を得ずと雖も、其の慈悲を運ぶ。何ぞ今生に辯ぜずや。

設ひ人の妨難をこうむるの時、人をして佛の法戒を破らざらしめんが爲に、其の謗家ぼうけを化し、或は會釋えしゃくを致して、我が妨を怨むの心を以て、其人の過失を出すべからず。榮西えいさい此の頃、種種しゅじゅ妨難ぼうなんふ。其の人は則ち弟子の中に多多なり。他門の中、又數有り。弟子、毎月布薩の次に四十八輕の因緣に依て自ら記す所有り。强て之を誹謗して己を顧みざれば、千佛も救ふこと無し。况や餘人をや。是れ齋戒の要に非ずと雖も、而も齋戒の功をしてむなしく墜さざらしめんが爲に之を誡む。有志の弟子、設ひ理を得れども、師に勝んことを諍ふこと勿れ。懈怠けたいすと雖も短を見ること勿れ。一字金輪いちじきんりんの法に云く、其の師短を見ざれ。貪染不淨を觀ぜよ云云。何に况や過に非るをや。又、他門の人、禪宗ぜんしゅう念佛ねんぶつするについもろもろの妨難を致す。其の人は皆、般若行人に非ず。よって難と爲すに足らず。

ひそかおもんみれば道樹三七どうじゅさんしちの夏、始て頓大とんだいの戒を結し、鹿苑ろくおん五年の冬、さら漸機ぜんきの非を制す。其只々ただただ末代にこうむらしめ、いざなっ寶所ほうしょに入らしむるなり。是れ則ち菩薩戒なり。大乘の道なり。現生げんしょうには戲論けろんを止め、當來には實果を得ん。予昔、在唐の時、粗此の略儀を書す。今、再治して以て同門の初學にのこす。廣律に於ては臨岸に退すべし。略儀に於ては誰か意に備へざらん。

時に正治二年しょうじにねん庚申歳こうしんさい初月六日 榮西記す

現代語訳

第四に、二律の法について、俗律ぞくりつとは土風方俗どふうほうぞくである。この国の(俗の)作法を知らなければならない。よく世間の譏嫌きげんを知って出家の律を全うし、(俗律と道律とを)犯さないようにするのである。いわゆる新制法しんせいほうの中に詳しい。道律どうりつとは、仏法である。仏は中印土ちゅういんどに生まれて中土ちゅうどの方法をもって生活された。いわゆる偏袒右肩へんだんうけん結跏趺坐けっかふざ等である。

(仏教の)りつには大小だいしょうの別がある。小乗には四部があって、一つには大衆部だいしゅぶ、二つには上座部じょうざぶ、三つには根本説一切有部こんぽんせついっさいうぶ、四つには正量部しょうりょうぶである。いずれもそれらは小乗の律儀である。大乗は『梵網経』・『菩薩瓔珞本業経ぼさつようらくほんごうきょう』等の菩薩の律儀である。その(菩薩の)律儀は小乗の威儀とは異っている。内には大悲を薫じて柔軟にゅうなんの相を表し、外には苦行を修して福田の儀を示すのである。深く菩提の道を学ぶのに、五種の「奇特未曾有きとくみぞうの法」がある。一つには諸々の有情において縁もゆかりもなかったとしても慈愛の想いを起すこと。二つには諸々の衆生の為に無量の苦しみを(代わって)受けること。三つには煩悩が盛んであって教化し難い衆生に対し方便でもって調伏すること。四つには最も難解なる真実義を悟ること。五つには不思議神通の力を得ること。これらのような「奇特の法」は、あらゆる衆生とは異なった、共通しないことである已上、『菩薩地持経』第八巻門である。これらはすべて、律儀清淨であるからこそよく達成できるものである。我々はいまだその一分として得られていないとしても、その慈悲をもってすれば、どうしてこの人生においてそれらを備えられないことがあろう。

たとえ(自分が)人からの妨難をこうむったとしても、人をして仏の法戒を破らさせない為に、そのそしる者をも教化し、あるいは会釈えしゃくを施して、自身に対する妨難を怨む心をもってその人の過失をあげつらってはならない。栄西えいさいはこの頃、種種しゅじゅ妨難ぼうなんっている。それをなす人は(我が)弟子の中に多多ある。他門の中にもまた数ある。弟子は毎月の布薩の次に、四十八軽戒の因縁に基づいて自ら記すところがある。強いてそれを誹謗して己を顧みることがなければ、千仏であっても救うことは無い。ましてや他の人ならば言うまでもない。これは斎戒の要ではないとはいえ、しかし斎戒の功をしてむなしくさせない為にこれを誡むのだ。志ある弟子よ、たとえ理があろうとも、師よりも勝れようとして諍ってはならない。(師が)懈怠けたいしていたとしても、その短所を見ることのないように。一字金輪いちじきんりんの法には、「その師の短所を見てはならない。その(短所を生み出す)貪染というものの不浄たることを観ぜよ」とある。ましてや過失でないことについては言うまでもない。また、他門の人が禅宗ぜんしゅう念仏ねんぶつすることについて諸々もろもろの妨難をなしている。そのような人は皆、般若を行ずる人ではない。したがって「難」とするにも足らないものである。

ひそかにおもんみたならば、(釈尊が)道樹どうじゅを遂げられた夏、始めて頓大とんだいの戒を結せられ、鹿野苑ろくやおん五年の冬には、更に漸機ぜんきの非を制されている。それは只々ただただ(仏滅後の)末代の人々のためであり、いざなっ宝所ほうしょに入らせるためであった。それが則ち菩薩戒である。大乗の道である。現世においては戲論けろんを止め、未来において実果を得るであろう。私が昔、唐に在りし時、あらあらこの略儀を書いていた。今、それを再治して同門の初学にのこす。広律については細かく示しはしなかった。この略儀については誰でもわかりえないことはないであろう。

時に正治二年しょうじにねん庚申歳こうしんさい初月六日 栄西記す