第二、二食の法とは、初に請食とは檀越の請、并に僧中の共淨食、是なり。次に乞食とは十三資具を帶、十八種物を㰎て次第に乞食するなり。此の食は皆、持齋食なり。持齋とは、旦晨、明相現てより午時に至る正に食時に合ふ。日、若し乃至一線一髪も西に移れば食時に合なはず。若し食すれば聖戒を犯ず。理、謹愼なるべし。如來在世の時、調達・善星と曰ふと雖も、二軍六群と曰ふと雖も、未だ曾て非時食を犯ぜす。何ぞ况や餘の純善の衆をや。又、如來の滅後、二種の僧菩薩僧・比丘僧、若し一髪も時移れば皆共に失食す云云。此の法を學ばざればあるべからず。律に云く、毘舎佉鹿母が佛に白すに由て、佛、旦晨に粥を喫することを聽し玉ふ。但し其の粥は字を書書して成らざるなり。若し字を書して字を成すは卽ち犯なり。或は飯を喫し、或は餅を喫すとも、皆飽くこと勿れ。是を小食と名け、亦、小飯と名く。然して午時に至て飯食を喫す。是を中食と名け、亦、時食と名く。仁王經に云ふ小飯・中食とは正に是なり。小飯とは食前の點心なり。中食とは午時の正食なり。此の頃、大宋國禪院の食法、正に其れ是れなり。但し粥、大に硬(石+㪅)し。聖制に合はず。義淨三藏の有部律に云く、五正食は、一に飯、二に麥豆飯、三に麨、四に肉、五に餅。五嚼食は一に根、二に莖、三に葉、四に華、五に果。若し前の五正食を食ひ已畢ば、後の五嚼食を食ふべからず。若し先づ後の五嚼食を食はば、尚前の五正食、随意に之を食て罪無し文。乳酪等は二五の數に非ず云云。意、二食正・嚼 分別の爲に、義淨有部律の文を出す。
有人謂く、肉食を聽すべしやと。此事、其の謂無し。今、大乗戒の人、食否、斟酌有るべし。若し此の文を出さざれば、此の土の人、二食を知らざらんが故に本文を出す。一向に之を用る寸は、則ち小乗依行の失有り。今は只々二食の體を知らしむるなり。之を意得べし。此頃、或人云く、食せずんば中を過と雖も之を食すべしと云云。此事、予昔、此の如く之を謂ふ。悔めるかな。今より後、是の法を謂ふこと莫れ。佛在世の時、佛并に諸比丘、或は失食すること有り。皆是れ中を過ぐの故なり。予門弟、持齋する者、此の惡儀を存せば、爲さざらんにはしかじ。愼むべし。予昔、持齋の者をして多く破ら敎め、斷酒者をして多く飮ま敎む。悔めるかな。其の時は佗の意に隨て之を爲すと雖も、全く自の罪と爲る。願は佛、消除し玉へ。今正に佛に對し過を悔ゆ。今より已後、之を爲すべからず。舎利弗問經に曰く、比丘、非時に食を請はば、事食の比丘、時を待て之を與へよ。若し非時に與へて食はしめば重罪を得云云。
亦、非時水の事、義淨三藏云く、淨瓶を持して水を畜ふ。其の水、旦晨に蟲を觀、蟲無き水、之を漉て瓶に盛る。乃至、非時に飮用するに失無し云云。又、殘食の事、律に云く、殘食の法を作して食するは犯無し云云。律に殘食と言ふは、餘食の事なり。必しも殘分にあらず。亦、諸食を食する時、佛の言く、比丘、飯を食す時、飢渇の時、兒の肉を食ふが如くにせよ。若しくは請食、若しくは乞食、先づ三分と作す。一分は三寳に施し、一分は貧人及び鳥獸に施し、一分は自食せよ。律に云く、一分は淨石の上に就て鳥獸に施せ文。若し請食は別請を得ざれ獨一、請に赴く、之を別と謂ふ。若し乞食の時、徃て惡家に至て食を得ば、必ず樹下に坐して食すべし但し日本は樹下清淨にあらず。若しは檀越の家に𠊳に隨て之を食せ。乞食に若し米等の生物を得ば、自手に食と作して喫することを得ず。若は人家、時に臨んで飯無くして飯と作して供せんと欲せば、日の影を瞻て待て食を受く。食を乞て只、幻身を支持せんと欲し、好味を得んことを欲せざれ。非時に食を得ば、安置して明日を待て食することを得ず。有るに隨て當座に人に分ち與て食して、自分を顧ること莫れ。若し自分を顧み、置て明日を待たば卽ち是れ破齋なり日本國の風、如何。尤も之を商量すべし。是只、佛、阿那律を制するの法に因で是の如くに云ふのみ。
若し食せんと欲する時、先づ淨手せよ。若し爾らざれば齋法を成ぜず。西方は直に手をもて食す。諸天等の法なり。如來も亦、此の法を用て制戒す。但し東方の諸國は爾らず。匙・箸を用ゆ。是れ不可なり。或は鄕風土俗と號す。若し爾らば、佛、何ぞ此を制せざるや。義淨三藏云く、西天の食法、唯々右手を用ゆ。但し病有る時、匙を開聽す。其の箸、則ち五天に聞かざる所、四部にも亦見ず。獨、東夏共に此の事有り。
今諸の小比丘、初心入道の法を知んことを欲して、書して新學の輩に傳ふ。若し在家出家、持齋せんと欲せば、先づ持齋の師に隨て齋法を受けよ。受け畢て必ず應に恭敬すべし。其の齋を成ぜんと欲する者は、朝に起て先づ齒木を嚼め。義淨三藏云く、毎日朝、須く齒木を嚼み、齒を疏し、舌を刮げ、務て如法清淨ならしめて、方に敬禮を行ずべし。若し其れ然らずんば禮を受け、他を禮する、共に罪を得云云。齒木を嚼む法、楊枝を削る時、大なる方を以て左右を刀の如く削るは、舌を刮んが爲なり。熟嚼して筆の如くにして齒を疏す。齒木の長短は意に隨ふ。本量は十二指なり。八寸四分に當る。初めは三寸許り。後に事有て之を長す。
明相現の時、粥を喫す。若し夜分には食すこと勿れ。若し夜分に食する寸は則ち非法なり。世人、多く之を悞る。律制を知らざるが故なり。義淨三藏云く、明相未だ出ざる時、怱に粥を食すべからず。寧ぞ知ん、一盂の粥を索めて四種の佛敎に違することを云云。愼しむべし、愼しむべし。粥を喫して後、餅并に果子を食ふ。但し多く飽くべからず。粗々先に之を示す。日本國、持齋絶るが故に。人飢ゆべきが故に必ず小食を聽す。必しも爲すべき事に非ず。但し、大峯・葛木・葛川の作法は律制に非ず。是れ別事なり。彼を學ぶべからず。
日中、時至て飯を喫する作法とは、
先、合掌して十佛名を唱ふ。
稽首薄伽梵 圓滿修多羅 大乗菩薩僧
功德難思議 仰憑大衆念
清淨法身毗盧遮那佛
圓滿報身盧舎那佛
千百億化身釋迦牟尼佛
當來下生彌勒尊佛
十方三世一切諸佛
大聖文殊師利菩薩
大聖普賢菩薩
大悲觀世音菩薩
諸尊菩薩摩訶薩
摩訶般若波羅蜜
次、咒願曰
三德六味 施佛及僧 法界有情 普同供養
五觀
一には物の功の多少を觀、二には己が德の厚薄を觀、三には良藥なりと觀、四には施主は是れ善知識なりと觀、五には道を得んが爲なりと觀。
六念 普賢經の文。又、別本の六念法有り
一に佛、二に法、三に僧、四に施、五に戒、六に天。
粥を喫する作法、之に同じ。但し咒願異る。其の咒願に曰、
粥有十利 饒益行人 果報無邊 究竟常樂
已上皆、合掌を用ゆ。
殘食の法、合掌。
今日得食 施與某甲 某甲於我 不計爲我 我當飯食
若し施主の供を受けば、則ち食畢て所有福業悉皆隨喜と唱へ、然る後に怱に復た齒木を嚼む。作法、具に先の如し。若し未だ齒木を嚼まざる以前、津を咽むべからず。若し津を飮む寸は、則ち非時を犯ず。徒に飢ども齋を成さず。
持齋の人、黄昏の時、出入厠に上がる。其の作法は、淨・觸の二瓶持して厠門に至り、淨瓶を以て淨處に置く。十四塊の土を以て淨板の上に置き、二七の土を二行に置く。之の外、㪅に一土を置く。然る後に觸瓶を取り、三塊の土を持して厠の裏に入る。既に事了れば、一塊を以て小𠊳處を洗ひ、次一塊を以て大𠊳處を洗ふ。後に一塊を以て畧々觸手を洗ひ、卽ち外に出て觸瓶を以て𠊳處に置き、淨瓶の處に就て一七塊の土を以て觸手を洗ふ。後に一七塊の土を以て合して兩手を洗ふ。若し童子有ば、淨瓶を持たしめて懸け洗ふ。若し爾る時は、則ち只一七の土を用ふべし。而後、又兩足を洗ひ、淨水を以て手を洗ふ。㪅に置ける一土を以て淨瓶を洗ふ。唐土には桑葉の末を用ひ、尤も垢を却るに宜し。已上は是れ畧儀なり。指南と爲すべからず。今、黄昏の時を用るは、是餘時は暇無きが故。
又、中以後に漉水嚢を以て水を濾て淨瓶に蓄へ常に飮むべし。之を非時水と謂ふ。但し常の食器を用ふべからず。別に㪅に非時水器を持つべきなり。湯藥に米穀の類を添へざれ。食と成るべからざるの物、非時にも服すべし。四分律に云く、辛苦甘醎の物、食と爲るべからずんば、盡形、非時に受て服すべし云云。謂く橘皮・朴・狼牙・甘葛・甘蔗糖等なり。但し甘葛等は作淨なるべし。作淨は水を添ふべきなり。
此の外、設ひ重病と雖も、遠行と雖も、死門に入ると雖も犯用すべからず。一生は是、夢の如し。何ぞ一旦食欲の心を以て、萬劫福田の報を亡ぜんや。持齋は現に諸天恭敬を受け、後に菩提を得。出家の人、若し長齋にあらずんば佛法を損ずる人なり。在家の人、若し六齋、年三長齋を勤めずんば、四部衆の數に非ず。世間に俗人の出家する者有て、之を入道と名く。入道と名くと雖も、此の佛法に入らざるが故に、不入道と名くべし。世間に僧人の遁世する者有て、之を聖人と號す。而も此の聖法を習はざるが故に、非聖人と名くべし。凡そ佛法は是れ長齋なり。凡そ聖法は是れ持戒なり。聖敎の制する所繁多なれども、而に只少分を出す。又、此の齋法は現證有り。腹病・脚病、必ず之を除く。如來の妙術、何ぞ空からんや。仰信すべし。若し大食小根の人、明相出で後、午時以前、度度食すも何の苦しきこと有らんや。故に跋陀梨比丘の如く、佛、午時前四度の食を聽し玉ふ云云。又、若し食を作すの人、僧未だ食せざるの前に一塵を甞めず。甞る寸は則ち觸食と成る。何に况や如法に一口を食ふをや。又、堪べくんば食を作す人、洗淨すべし。又、鹽梅を試むべからず云云。
第二、二食の法について、初めに請食とは、檀越の(その家などへ)招かれて振る舞われる食であり、并に(精舎など)僧伽に送られる共淨食である。次に乞食とは、十三資具を帯び、十八種物を携えて(家々を)次第に乞食することである。これらの食は皆、持斎食である。持斎とは、早暁に明相が現れてから正午に至るまでの、まさに(出家者として)食時に合うことの意である。太陽がもし一線・一髪であっても(正午を示す最も高い位置から)西に移ったならば(出家者としてふさわしい)食時ではない。もし(正午を過ぎて)食したならば聖戒を犯したこととなる。この理に謹んで従わなければならない。如来在世の時、調達や善星であっても、二軍六群の比丘であっても、未だかつて非時食を犯しはしなかった。まして他の純善たる衆であれば言うまでもない。また、如来の滅後でも二種の僧菩薩僧と比丘僧は、もし一髪たりとも時が(正午から)移れば皆共に失食したという。この法を学び従わないことがあってはならない。律に、毘舎佉鹿母が仏に申し上げたことにより、仏は早暁に粥を喫することを聴されたとある。ただし、その粥は、字を書いても形を成さないほど(米粒など溶けて柔らかいもの)でなければならない。もし字を書いて字の形が残るほどであれば犯戒となる。あるいは飯を喫し、あるいは餅を喫するにしても、いずれにせよ満腹となるまで摂ってはならない。これを小食と名づけ、また小飯と名づける。そうして午時となって飯食を喫する。これを中食と名づけ、また時食と名づける。『仁王経』にある「小飯」・「中食」とはまさにこの事である。小飯とは食前の点心である。中食とは午時の正食である。この頃の大宋国における禅院の食法は、まさにこれである。ただし、粥は(字を成すほどに)非常に硬いものであって、聖制に合致していない。義浄三蔵の(漢訳した)『有部律』には、「五正食とは、一に飯、二に麦豆飯、三に麨、四に肉、五に餅。五嚼食とは、一に根、二に茎、三に葉、四に華、五に果。もし前の五正食を食し終わったならば、後の五嚼食を食してはならない。もし先ず後の五嚼食を食したならば、なお前の五正食は随意に食しても罪とならない」とある。乳酪等は(正食と嚼食の)二種の五食の数には含まれないとされる。ここでの意は、(同じ食であっても律では異なって扱われる)二食正・嚼を分別する為に、義浄の『有部律』の文を引用した。
ある人は謂う、「肉食を聴すべきであるか」と。この事については、その謂は無い。今、大乗戒の人であれば、(肉を)食すか食さないか斟酌すべきことである。(肉を食べても良いと主張するために引用したのではないが、)もしこの文を出さなければ、この国の人は二食について知らないままであろうことから本文を出したのだ。一向にこの一節を(肉を食べても良いことの)根拠として用いたならば、則ち(梵網戒で制される)小乗依行の過失がある。今はただ「二食」ということの本質を知らしめただけのことである。これを意得よ。この頃、ある人が「(その日は何も)食していなければ中を過ぎていたとしても食したらよい」と云っていた。この事は私も昔、その通りのこと謂っていた。なんと悔めることであろうか。今より後は、そのようなことを謂ってはならない。仏在世の時、仏ならびに諸々の比丘は、あるいは失食することがあった。すべてそれは中を過ぎていたためである。私の門弟や持斎する者は、そのような悪儀を持っているとしたならば、為さないに如くものではない。愼むべきである。私は昔、持斎の者をして(非時食戒を)多く破らさせ、断酒者をして多く(酒を)飲ませていた。なんと悔めることであろうか。その当時は他の意に従ってそうしていたとはいえ、全く自らの罪となった。願くば仏よ、(我が罪業を)消除したまえ。今まさに仏に対し、(他に破戒を強いた)過ちを悔いる。今より已後、そのようなことを為さない。『舎利弗問経』に、「比丘が非時に食を請うたならば、事食の比丘は時を待てそれを与えよ。もし非時に与えて食させたならば重罪を得る」とある。
また、非時水について、義浄三蔵は、「浄瓶を持って水を畜えること。その水は早暁に(井戸などから汲み上げた中に)虫の有無を観察し、虫が無い水を漉して瓶に入れる。乃至、(その水であれば)非時に飲用しても過失は無い」と云う。また、残食について、律に「残食の法をなして(中断した食を再び)食しても違犯は無い」とある。律で「残食」と言うのは、余食の事である。必ずしも残飯(食べ残し)を意味する語ではない。また、諸々の食を食する時、仏が言われたのは、「比丘が飯を食す時は、飢渇の時に(自らの)子供の肉を食べるかのようにせよ」ということであった。請食であれ乞食であれ、(得た食を)先ず三等分にする。一分は三宝に施し、一分は貧人および鳥獣に施し、一分は自らが食せ。律に「(食の)一分は浄石の上において鳥獣に施せ」とある。もし請食を受ける際は、別請を受けてはならない独り請に赴くこと、これを別と謂う。もし乞食の時、往って悪家に至って食を得たならば、必ず樹下に坐して食さなければならない但し、日本は樹下は清淨ではない。あるいは檀越の家にてそれを食せ。乞食のとき、もし米等の生物を得たならば、自らの手で調理して喫することは出来ない。もしくは人家にて、(乞食あるいは請食の)時となっても飯は無く、(そこで炊いて)飯として供養しようとする者があれば、太陽の影を見るなど(食すのが正午を過ぎないよう時間を確認しつつ)待って食を受けること。食を乞うても、ただ(老いて病み、いつかは死んで滅びる)幻の如き身体を養うことのみ欲し、好味を得ることを欲せぬこと。非時に食を得たならば、それを保存して明日を待って食すことは出来ない。(乞食などで得た食にもし余剰があるならば)あるに従ってその場で人に分かち与えて食し、自分を顧ることがないように。もし(得た食について)自分を顧みて保存し、明日に持ち越したならばすなわち破斎となる日本国の風習はどうであろうか。もっともこれについて商量すべきである。これはただ、仏が阿那律を制した法に因ってこのように云ったのみ。
もし食そうと欲する時には、先ず手を浄めよ。もしそうしなければ斎法の護持とならない。西方は直に手でもって食す。諸天などの法である。如来もまた、その法をもって制戒されている。ただし、東方の諸国はそうではない。匙・箸を用いる。(実は、律の観点から言うと)それは不可である。(匙や箸を用いるのは)あるいは郷風土俗というものだ。もしそうであるならば、仏はどうしてそれを制されなかったのか。義浄三蔵は「西天の食法では唯々右手を用いる。ただし、病ある時には匙を(用いることが)聴されている。しかし箸は五天竺でも聞いたことのないものであり、四部(の律蔵)にもまた見えない。ただ独り東・夏が共にこの事がある。
今、この小比丘(たる私、栄西)は、(人々が)初心入道の法を知ることを欲して、書を著して新学の輩に伝えるものである。もし在家であれ出家であれ、持斎しようと欲するなら、先ず持斎の師に従って斎法を受けよ。受け畢たならば、必ずまさに(その戒師および戒そのものを)恭敬せよ。その斎戒を成就しようと欲する者は、朝起きたならば先ず歯木を噛め。義浄三蔵は、「毎日朝、すべからく歯木を噛んで歯を洗い、舌を刮ぐなど、つとめて如法清淨にしてから、まさに(上座・同法などに対して)敬礼を行うこと。もしそうしていなければ、礼を受けても他を礼しても、いずれも罪を得る」と云う。歯木を嚼む法について、楊枝を削る時は、その太い方の左右を刀のように削るのであるが、それは舌を刮ぐ為である。それをよく噛み込んで(先を)筆のようにしてから歯を洗うのだ。歯木の長さは随意である。本量は十二指である。八寸四分にあたる。初めは三寸ばかりであったが、後に事情があってこれを長くしたのだ。
明相が現われてから、粥を喫すること。もし夜分であったならば食してはならない。もし夜分に食したときには非法となる。世人は、多くこれを誤っている。律制を知らぬが故である。義浄三蔵は、「(夜が明けても)明相がいまだ出ない時には粥を食してはならない。どうして知り得ようか、一杯の粥を求めて四種の仏教に背いてしまうことを」と云う。愼むべし、愼むべし。粥を喫した後に、餅并に果子を食すことは出来る。ただし、多く飽くまで食してはならない。粗々先ず以上のことを示した。日本国において持斎が絶えて無くなっている故である。人々は必ず飢えるものであることから、(仏陀は)確かに小食を聴されはしたが、必しも(誰であれ粥を食べなければならないという)なすべき事ではない。ただし、大峯・葛木・葛川の作法は律の制ではない。それらは別事である。彼らに学んではならない。
日中、時が至って飯を喫する作法とは、
先ず合掌して十仏名を唱える。
稽首薄伽梵 円満修多羅 大乗菩薩僧
功徳難思議 仰憑大衆念
清淨法身毗盧遮那仏
円満報身盧舎那仏
千百億化身釋迦牟尼仏
当来下生彌勒尊仏
十方三世一切諸仏
大聖文殊師利菩薩
大聖普賢菩薩
大悲観世音菩薩
諸尊菩薩摩訶薩
摩訶般若波羅蜜
次に咒願して曰く、
三徳六味 施仏及僧 法界有情 普同供養
五観
一には物の功の多少を観、二には己が徳の厚薄を観、三には良薬なりと観、四には施主は是れ善知識なりと観、五には道を得んが為なりと観。
六念 『普賢経』の文。また別本の六念法がある
一に仏、二に法、三に僧、四に施、五に戒、六に天。
粥を喫する作法はこれに同じ。ただし、咒願が異る。その咒願に曰く、
粥有十利 饒益行人 果報無辺 究竟常楽
已上はすべて合掌して行う。
残食の法も合掌。
今日得食 施与某甲 某甲於我 不計為我 我当飯食
もし施主の供養を受けたならば、すなわち食を終えて「所有福業悉皆隨喜」と唱え、そうした後にすぐ復た歯木を嚼むこと。作法は具に先に示した通り。もしいまだ歯木を噛む前に津を咽んではならない。もし(歯を磨く前に)津を飮んだならば非時食を違犯となる。むやみに飢えたからといっても、(そのようでは)斎を成じたことにならない。
持斎の人は、黄昏の時に出入りして、厠に上がる。その作法は、淨と触の二瓶を持って厠の入り口に至り、浄瓶を浄処に置く。そして十四塊の土を浄板の上に置き、その二七の土を二列に置く。その外、さらにもう一土を置く。そうして後に触瓶を取り、三塊の土を持って厠の中に入る。そこで事が終わったならば、一塊をもって小便処を洗い、次に一塊をもって大便処を洗う。その後に一塊をもって畧々触手を洗い、外に出て触瓶をもって便処に置き、浄瓶の処で一七塊の土をもって触手を洗う。その後、一七塊の土をもって合わせて両手を洗う。もし(随行の)童子があったならば、浄瓶を持たせて(水を)掛けながら洗う。もしそうする時には、ただ一七の土だけ用いればよい。そうして後、また両足を洗い、浄水をもって手を洗う。更に置いた一土をもって浄瓶を洗う。唐土では、(土ではなく)桑葉の末を用いているが、もっとも垢を取るのに適している。已上は略儀である。指南としてはならない。今、「黄昏の時」と限定したのは、その他の時は(厳密にそうする)暇など無いためである。
また、中以後に漉水嚢をもって水を濾し、浄瓶に蓄えて常に飲むこと。これを非時水と謂う。ただし、(時食用の)常の食器を用いてはならない。別に更に非時水用の器を持つこと。湯薬には米穀の類を添えてはならない。食とはならない物ならば、非時においても服用してよい。『四分律』に、「辛・苦・甘・醎の物でも、(律の定義で)食となるものでなければ、盡形において非時に受けて服用しても良い」とある。例えば橘皮・朴・狼牙・甘葛・甘蔗糖等である。ただし、甘葛等は作浄したものでなければならない。その作浄には、水を混ぜることによってせよ。
その他、たとえ重病であったとしても、遠行であったとしても、死門に入っているとしても、犯用してはならない。一生とはこれ夢のようなものである。どうして一時の食欲の心をもって、万劫の福田の報いを亡くすようなことがあろうか。持斎は現に諸天から恭敬を受け、後には菩提を得る。出家の人で、もし長斎でなければ仏法を損ずる人である。在家の人で、もし六斎、年三長斎を勤めないのであれば、四部衆の数に入らない。世間では、俗人で出家する者を入道という。入道と言いながら、この仏法には入らないがために、不入道と名づけるべきである。世間では、僧であって遁世する者を聖人と称している。しかしながら、この聖法を習いはしないために、非聖人と名づけるべきである。およそ仏法とは長斎である。およそ聖法とは持戒である。聖教にて制されていることは非常に多いけれども、それを今はただ少分をのみ出して示した。また、この斎法には現証あるものだ。腹病や脚病など、(持斎すれば)必ずそれらは癒える。如来の妙術がどうして空しいことがあろうか。仰信すべきことである。もし大食であって小根の人であれば、明相が出でから後、正午以前であれば、度度食しても何の問題もありはしない。故に跋陀梨比丘のように、仏は正午前に四度の食を許したまわれたのだという。また、もし(在家で僧の為に)食を作る人ならば、僧がいまだ食していない前には極僅かであっても甞めるなどしてはならない。もし嘗めたならば触食となる。ましてや如法であっても(僧が手を付ける前に)一口食すことなどありえない。また、可能な限り、食を作る人は清潔にしなければならない。また、鹽梅を試みてはならない、といわれる。