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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

栄西 『出家大綱』

原文

菩薩比丘榮西簒

佛法者死海舟航迷路車馬久痾良藥長夜明燈其功甚㴱叵得而稱者歟爰濁惡之世已到知苦之機稍生後五百最初學戒之人間出般若弘經當於此時涅槃興法豈非今日又法華四行得境止觀三昧方行者也並是今時之要佛自記耳扶律說常是也厥佛法者齋戒爲命根不可不識其命根焉其五千軸經巻號佛法読誦而不行敎乎六十巻章疏稱圓宗論談而不從理乎當知仏法者佛妙儀也知其義辨其理行其儀之人方云佛法者也因茲粗示其儀則以濟末世耳夫經律論是券契也記錄佛法三學之理也譬如莊園券文以納箱底而問三農之月能耕作田地受用利潤看讀經律論隨其敎決擇身心繼佛跡亦復如是矣七佛通戒云諸惡莫作諸善奉行自淨其意是諸佛敎文一代金言八敎大抵只此一偈意也何依佛法乍出家不從佛誡哉勸誡時至持戒那倦苦輪責項不可不厄無常當額莫放逸眠於此榮西在唐之日伺聖敎錄律畧歸日本卽知時視機宜方勸齋戒隨勸皆應之喜哉千萬矣始自二十一歳至于滿五十歳斗藪兩朝三十餘年不得其感應今既得感應群機皆從仍續在唐之記錄併書以貽於末世若欲持齋戒者宜從此勸出家要如斯

時建久六年乙卯歳初冬十月乙卯建十日辛酉䘮考窓裏謹叙

訓読

菩薩比丘榮西簒

佛法は死海の舟航しゅうこう、迷路の車馬、久痾きゅうあの良藥、長夜じょうやの明燈。其の功、甚だふかし。得て稱すべからざる者か。ここ濁惡じょくあくの世、已に到り、苦を知るの機、やや生ず。後五百ごごひゃくの最初、戒を學するの人、間出げんしゅつす。般若はんにゃ弘經こうきょう、此の時に當り、涅槃の興法、豈に今日に非や。又法華ほっけ四行しぎょう、境を止觀しかん三昧さんまいまさに行ずる者なり。並に是れ今時のかなめ、佛自ら記し玉ふのみ。扶律說常ふりつせつじょう、是れなり。佛法は齋戒さいかい命根みょうこんと爲す。其の命根みょうこんを識らずんばあるべからず。其の五千軸の經巻きょうかんを佛法と號す。読誦して敎を行はざらんや。六十巻の章疏しょうしょ圓宗えんしゅうと稱す。論談して理に從はざらんや。當に知るべし、佛法は佛の妙儀なることを。其の義を知り、其の理をわきまへ、其の儀を行ずるの人を、方に佛法者と云ふなり。ここに因て粗ゝあらあら其の儀則を示して、以て末世をすくはんのみ。夫れ經律論は是れ券契けんけいなり。佛法三學の理を記錄するなり。譬ば莊園の券文けんもん、以て箱底そうていに納めて三農さんのうの月を問ひ、能く田地を耕作し利潤を受用するが如し。經律論を看讀して其の敎に隨ひ、身心を決擇けっちゃくして佛跡を繼ぐも亦復また是の如し。七佛しちぶつ通戒つうかいに云、諸惡作すこと莫く、諸善奉行ぶぎょうし、自其のこころきよくす。是れ諸佛の敎 一代の金言、八敎はっきょうの大抵、只ゝ此の一偈の意なり。何ぞ佛法に依て出家しながら、佛の誡に從はざらんや。勸誡、時至る。持戒、なんうまん。苦輪、うなじを責む。くるしまずんばあるべからず。無常、ひたいに當る。放逸に眠ること莫れ。此に於て榮西、在唐の日、聖敎を伺ひ律畧りつりゃくを錄し、日本に歸る。すなわち時を知り、機宜きぎを視て、方に齋戒を勸む。すすめに隨て皆之に應ず。喜しいかな千萬。二十一歳より始て滿五十歳に至り、兩朝りょうちょう斗藪とそうすること三十餘年、其の感應を得ず。今既に感應を得て群機皆從ふ。仍て在唐の記錄を續き、併書して以て末世にのこす。若し齋戒を持んと欲る者は、宜く此のすすめに從ふべし。出家のかなめ、斯の如し。

建久六年乙卯いつぼう、初冬十月乙卯建十日辛酉、䘮考窓裏そうりつつしんで叙す。

脚註

  1. 後五百ごごひゃく

    後五百歳の略。仏滅後の仏教がどのように盛衰するかを五百年を一期として五期にわけ、その最後の五百年すなわち第五期を後五百歳といった。この時代は闘争堅固といわれ、仏教者らそれぞれが自分の(誤った)説・主義に固執し、互いに主張しあって激しく争うとされた。日本仏教における時代観の一つ。末法思想の一端。
    平安中後期ごろから貴族らの間で末法思想が流行するようになるが、当時の天候不順や天災に基づく不況と飢饉、そして政治体制の混乱、度重なる延暦寺や興福寺など大寺院の衆徒らによる墮落と暴虐によって、それが紛れもない現実のものとして次第に弘く民衆にも受け止められていく。それはついに法然や親鸞による浄土教の唱導を生み出し、支持されていく基盤となる。栄西もやはり、そのような時代観・危機感を共有したが、それがまさに真なるものであると確信するに足る乱れた時代であった。
    しかし、栄西はむしろそのような時代であるからこそ戒律を根本として、般若・涅槃・法華などの教えを実行すべきと主張した。この態度は、やや後に主張し出される法然や親鸞あるいは日蓮などとのそれとは全く異なったものであった。

  2. 般若はんにゃ弘經こうきょう

    玄奘訳『大般若波羅蜜多経』巻三百ニ「爾時舍利子白佛言。世尊。甚深般若波羅蜜多。佛滅度已後時後分後五百歳。於東北方廣流布耶。佛言。舍利子。如是如是。甚深般若波羅蜜多。我滅度已後時後分後五百歳。於東北方當廣流布」

  3. 法華ほっけ四行しぎょう

    智顗がその著『摩訶止観』において「法華云。又見佛子修種種行以求佛道。行法衆多略言其四」として主張した、常坐・常行・半行半坐・非行非坐の四行(四種の修習法)を指した語。
    『摩訶止観』など智顗の重要典籍は、すでに天平の昔に鑑真により日本に初めて伝えられていたが、その修習は最澄が帰朝後、延暦寺にて創始されたものとされる。

  4. 止觀しかん三昧さんまい

    四行それぞれを修めることによって得られる三昧。三昧はsamādhiの音写で、集中した心の状態の意。三摩地とも。漢訳では定、等持などと言われる。

  5. 扶律說常ふりつせつじょう

    『涅槃経』の教説を智顗がその著『四念処』において「涅槃扶律」と表した語。これを章安灌頂が継いで「扶律顕常」といい、さらに荊渓湛然は「扶律説常」と表した。以降、この語は天台宗だけではなく、宋代の禅宗や律宗にてもまま用いられるようになった。
    その意は、『涅槃経』とは律の極めて重要なることを説き、律を守り行うことを手がかりとして、すなわち「律を扶け(助け)」として「仏性常住」の真理を明かしたものであるということ。

  6. 佛法は齋戒さいかい命根みょうこんと爲す

    律蔵のすべてに説かれる命題。律が僧によって正しく守れているか否かに依ってこそ、正法が世に久しくつたわるか否かが決定される、ということ。およそ現代の日本仏教界を除く、ほぼ世界中の仏教界における共通理解。「信じることが戒である」などという僻事ではなく、戒律無き仏教、戒律を重んじない仏教など決してあり得はしない。ただしそこで重要なのは、何が戒律であるか、戒律とは何かを正しく理解すること。

  7. 五千軸の經巻きょうかんを佛法と號す

    唐代の支那僧、智昇『開元釈教録』(『開元録』・『智昇録』)による訳経目録には、それまで訳経された二千二百七十八部(七千四十六巻)のうち当時現存するものとして一千百二十四部(五千四十八巻)が挙げられている。特に宋代となると太祖の勅命によって大蔵経を木版印刷にて編纂することとなるが、その際に基準とされたのが『開元録』であった。以降、大蔵経(一切経)すなわち経律論の三蔵とは「五千四十八巻」あるいは「五千余巻」であると一般に称されるようになる。
    しばしば仏法について八万四千の法門といわれることもあるが、それは「仏陀の教えの多種多様さ」をいうものであって、実際に八万四千種・八万四千巻の経律論があるわけでない。

  8. 六十巻の章疏しょうしょ圓宗えんしゅうと稱す

    圓宗とは天台宗および華厳宗が自宗をして「真円のように完全無欠なる教義の宗」とする自称。比叡山出身の栄西からすれば、圓宗とはただ天台宗である。ここで栄西は「六十巻の章疏を圓宗と稱す」と言うけれども、天台三大部併せても三十巻、五小部足しても四十巻に届かない。しかし、最初の入宋から帰朝した長寛三年〈1168〉、宋代に著された未請来の天台の新典籍三十余部六十巻を持ち帰って延暦寺第五十五世座主明雲に呈上している。栄西はここでそれらの新典籍をもって円宗と称したのであろう。

  9. 券契けんけい

    証文・証書。

  10. 券文けんもん

    証文。特に土地の権利書などの証書。

  11. 三農さんのうの月

    三農は、儒教の経書の一つ『周礼』にある語「三農九穀を生ず」に基づく語で、平地・山地・川沢における農耕を意味する。ここではそれぞれの土地・場所での農耕に適した時節の意。

  12. 七佛しちぶつ通戒つうかい

    七仏通戒偈。諸律蔵や諸阿含経、『法句経』などに説かれる、仏教の要を簡明端的に表した偈文「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」。

  13. 八敎はっきょう

    智顗による教相判釈、五時八教をいったもの。釈尊一代の説法を時間的に五つに区分したものを五時といい、その内容から八種に分類したものを八教という。すなわち八教とは仏教全体、仏陀の教え全ての意。

  14. 何ぞ佛法に依て出家しながら...

    「仏教のもとで出家しておきながら、なぜ仏教に従わないのか」というきわめて単純かつ根本的な問い。この問いは現代日本の僧職者らにも全く同様に投げかけられるべきものであろう。

  15. 兩朝りょうちょう斗藪とそうすること三十餘年

    栄西が最初に渡宋したのは仁安三年〈1168〉、28歳のことでわずか半年の滞在であった。それからおよそ二十年後の文治三年〈1187〉、47歳となって再び渡宋したがそれは印度の仏跡巡拝を志したものであったという。しかし宋朝の許しを得られず、そのまま宋に滞在すること四年。臨済宗黄龍派の禅を学び受けて帰国した。栄西は、自身が渡宋してからこの『出家大綱』を著すまでを「三十餘年」としている。
    ちなみに、栄西はここで両朝に斗藪してとは言っているけれども、斗藪とは[S]dhūtaの音写で「(欲を)振り払うこと」すなわち苦心修行することであって頭陀に同じであるが、宋での滞在は二回の併せても五年に満たない程度のものであった。

  16. 感應かんのう

    自らの修行がその証、果報を得ること。あるいは何事か通じ合うこと。

  17. 群機ぐんき

    人々。

  18. 建久六年乙卯いつぼう

    西暦1195年、栄西齢五十五。二回目の帰朝後四年のことである。この年、栄西は博多に日本最初の禅道場(宋代の禅院様式を模した寺院)、聖福寺を建立した。
    もっとも、栄西はこの序にては建久六年と記しているけれども、初めて『出家大綱』を草したのは文治五年〈1189〉、宋に滞在中のことであったという。この序の中、先に「在唐の日、聖教を伺ひ律畧を錄し、日本に歸る」といい、また「在唐の記錄を續き、併書して以て末世に貽す」としている中の、「在唐の日、聖教を伺ひ律畧を錄し」と「在唐の記録」というのがそれであろう。
    しかしまた、この『出家大綱』の結文には「予、昔在唐の時、粗ヽ此の略儀を書す。今再治して以て同門の初学に貽す」とし、その年は「于時正治二年庚申歳初月六日榮西記」として正治二年〈1200〉のことであるとしている。よって『出家大綱』は、文治五年〈1189〉に宋で撰述してから帰朝後に再訂・再々訂したものである。このことから、本書は栄西の「出家者としての根本的規範・指針を示した書」であって、自身もこれを後学のために重要なものと見做していた、思い入れある書であったことが知られる。

  19. 䘮考もこう

    考は亡父の意。栄西はこの年、父親を亡くしてその喪に服していたようである。

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