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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の爲に絶学を継ぐ

栄西 『出家大綱』

原文

護齋戒法有二門一者衣食二者行儀初衣食者衣謂覆身食謂資身次行儀者行謂戒行儀謂律儀衣有二俗衣法衣食有二請食乞食戒有二比丘戒菩薩戒律有二俗律道律

第一二衣法者俗衣者謂除三衣外皆是俗衣也是俗衣也是非佛制非法衣也義淨三藏云神州苾蒭除三衣外並非聖衣外並非聖衣其既有犯理難服用乃至服用皆得罪頗有著至西方人皆共笑懐耻裂充雜用此卽皆非法衣服也若黙而不說欲知者無由又其寒鄕冬中佛聽俗衣用立播者梵語也此云裹服衣作法在別 此皆雪山中胡地出家人所用耳胡地人著到中印中印人怕不服用地依熱也已上義淨說取意抄之 然神州唐也 日域不從佛制多蓄俗衣其應理耶但各云多寒國土佛聽百一物是非律文義淨三藏云大哉慈父巧應根機善誘人天稱調御者而云供身百一四部律文未見雖經中有其言故是別時之意俗徒家具尚不盈五十豈容釋子翻須用百數準験道理通塞可知 何况如來能照國土寒温與於寒鄕製裹服衣大雪山中諸胡出家人皆用此服俗衣併不用之漢土日域之寒與胡地寒度量倭漢兩國寒只十分之一也胡地冬中飛鳥落死云又大唐北方黄河水冰人馬倶歩渡尚飛鳥不落又日本未曾有流水冰何况及人馬渡哉大雪山中諸國冬夏共有雪若大風六月亦雪飛云義淨三藏云到西天畢視衆僧威儀所用𥩈歎曰昔在神州自言明律寧知到此反作迷人若不移歩西方何能鑒斯正則 希日域末代佛法者信此文勿多蓄俗衣俗衣者謂日本國衣帷小袖長衣袴等也本文云神州祇支胡衣也 方裙褌袴袍襦又筒袖連脊並著用皆得罪云云

法衣者僧伽梨九條衣也 鬱多羅僧七條衣也 安陀會五條衣也 五條亦名内衣庸著故也内衣者又言裙也又言覆腋衣也七條亦名上衣常上著故也九條亦名王宮衣入王宮并聚楽等之時著故也用此三衣常防蚊虻寒熱等苦亦能爲佛子標相福田矣不著七條九條不可向俗人不可食信施著五條食僧供是非法也又僧祇律中有十三資具菩薩戒中有一十八種物具如別列也其三衣等不可用薄物以厚絹布等造之義淨三藏云絁絹乃聖開乃至五天四部並皆著用詎可棄易求之絁絹覓難得之細布妨道之極在斯乎非聖制强制卽其類也乃至増已慢而輕餘省欲人若云𧖟殺可絶者衣食多損生螻蚓曾不寄心蛹𧖟一何見念又何噉酥酪何履皮鞋著絲緜同斯類也矣僧祇律云憍舎耶衣欽婆羅衣㲲衣皆用之佛並聽之畧抄可見 此三種天竺最上品衣也道俗王民共著用矣但唐土絁絹多少也布麤細共難得也日本絹緜類頗難得也布易得此事可商量若號佛聽强覔厚絹之類亦當妨道矣

問日本國土風既尚矣何改之答自好土風偏執令然謂世出世間有之但敬佛語𢣷墮落何不改之况獨自運志於佛敎諸天相資莫被攝伏魔黨僧

問先代法匠豈不知此義然而無此則如何答先代事誰見哉一笑

問若如敎者豈耐寒哉答勿謗佛語已開裹服衣若强耻土俗裹服衣上著不連脊衣然後著五條衣無妨歟此方道宣律師聽不連脊衣云云 今此國徃徃有此衣

問此制雖然末世人心性獷麤多不用此儀答任自意不能强勸但爲欲知者故示耳廣可見聖敎矣又日本有惡法道心者衣服法衣俗衣倶以麤惡稱爲善律云比丘若衣服穢則諸天不親近鬼魅伺短如穢狗等云云 不可學之已上示二衣儀畢法衣者三衣也俗衣者小袖等也

訓読

齋戒さいかいを護する法に二門有り。一には衣食えじき、二には行儀ぎょうぎ。初に衣食とは、衣は身をおおふを謂ひ、食は身をたすくるを謂ふ。次に行儀は、行は戒行を謂ひ、儀は律儀を謂ふ。衣に二有り、俗衣ぞくえ法衣ほうえじきに二有り、請食しょうじき乞食こつじき。戒に二有り、比丘戒びくかい菩薩戒ぼさつかい。律に二有り、俗律ぞくりつ道律どうりつ

第一、二衣の法とは、俗衣は謂く三衣さんねを除く外、皆是れ俗衣なり。是れ佛制に非ず、非法ひほうの衣なり。義淨三藏ぎじょうさんぞう云く、神州の苾蒭びっしゅ、三衣を除く外、並に聖衣しょうえに非ず。其れ既に犯ぼん有り。理、服用し難し。乃至、服用すれば皆罪を得。すこぶる著て西方に至る有れば、人皆共に笑ふ。はじいだいて裂て雜用に充つ。此れ卽ち皆、非法の衣服えぶくなり。若し黙して說かずんば、知んと欲する者の由無し。又、其の寒鄕には冬中は佛、俗衣をゆるし、立播りゅうばんの服を用ふ。立播とは梵語なり。此に裹服衣かぶくえと云ふ 作法別に在り。 此れ皆、雪山中、胡地の出家の人の用る所のみ。胡地こちの人、著て中印に到れば、中印の人、おそれて服用せず。地、熱するに依てなり已上、義淨の說なり。意を取て之を抄す。然るに神州じんしゅう唐なり・日域、佛制に從はず、多く俗衣を蓄ふ。其れ理に應するや。但だ各ゝおのおの云、多寒の國土には、佛百一物を聽すと。是れ律文に非ず。義淨三藏ぎじょうさんぞう云く、大なるかな、慈父、たくみに根機に應じ、善く人天を誘ふ。調御者ちょうごしゃと稱す。而も供身百一くしんひゃくいちと云は四部の律文に未だ見ず。經中に其の言有りと雖も、故より是れ別時の意なり。俗徒の家具すらなほ五十にたず。豈に釋子ひるがえりて百數を須用すべからんや。道理を準験して、通塞知るべし。何ぞ况んや如來、能く國土の寒温を照し、寒鄕に與て裹服衣を製す。大雪山中、諸胡の出家の人、皆此の服を用ふ。俗衣は併に之を用ひず。漢土・日域の寒、胡地の寒と度量するに倭漢兩國の寒は只十分の一なり。胡地は冬中、飛鳥落て死すと云ふ。又、大唐の北方は黄河水こおって人馬倶に歩して渡る。尚飛鳥は落ちず。又、日本未だ曾て流水の冰ること有らず。何ぞ况んや人馬の渡るに及んや。大雪山中の諸國は冬夏共に雪有り。若し大風には六月にも亦雪飛と云ふ。義淨三藏ぎじょうさんぞう云く、西天に到り畢り、衆僧の威儀所用を視て𥩈ひそかに歎じて曰く、昔神州に在て自ら律をあかすと言ふ。いずくんぞ知ん、此に到てかえって迷人とならんとは。若しあゆみを西方に移さずんば、何ぞ能く斯の正則をかんがみ。希くは日域末代の佛法者、此の文を信じて多く俗衣を蓄ふこと勿れ。俗衣とは謂く、日本國の衣帷かたびら小袖こそで長衣ながぎぬはかま等なり。本文ほんもんに云く、神州の祇支ぎし胡衣なり方裙ほうくんふんどしはかまほうはだぎ、又筒袖つつそで連脊れんじゃく、並に著用すれば皆罪を得云云

法衣とは僧伽梨そうぎゃり九條衣なり.・鬱多羅僧うったらそう七條衣なり安陀會あんだえ五條衣なり。五條も亦内衣と名く。庸著ようちょの故なり。内衣とは又、くんを言ふなり。又、覆腋衣ふやくえを言ふなり。七條亦、上衣と名く。常に上に著るが故なり。九條亦、王宮衣おうぐうえと名く。王宮并に聚楽じゅらく等に入るの時に著るが故なり。此の三衣を用て、常に蚊虻・寒熱等の苦を防ぐ。亦、能く佛子の標相、福田ふくでんと爲す。七條しちじょう九條くじょうけずして、俗人に向ふべからず。信施しんせを食すべからず五條ごじょうを著て僧供そうくを食す、是れ非法なり。又、僧祇律そうぎりつの中に十三資具じゅうさんしぐ有り。菩薩戒ぼさつかいの中に一十八種物いちじゅうはちもつ有り。つぶさには別につらねるが如し。其の三衣さんえ等、薄き物を用ふべからず。厚き絹布等を以て之を造れ。義淨三藏ぎじょうさんぞう云く絁絹あしぎぬは乃ち聖開しょうかいす。乃至、五天ごてん四部しぶ並に皆著用す。なんぞ求め易きの絁絹を棄て得難きの細布さいふもとむべけんや。道を妨るのきわみ、斯に在るか。聖制しょうせいあらざるをしいて制す、卽其の類なり。乃至、已れが慢を増て、餘の欲を省く人を輕んず。𧖟殺さんせつ絶つべしと云はば、衣食えじき多く生を損す螻蚓ろういんにはかつて心を寄せず。蛹𧖟ようさん、一に何ぞ念ぜ見る。又、何ぞ酥酪そらくひ、何ぞ皮鞋ひあいを履くや絲緜しめんつけるも同く斯のたぐいなり。僧祇律そうぎりつに云<憍舎耶衣きょうしゃやえ欽婆羅衣きんばらえ㲲衣じょうえ、皆之を用ふ。佛、並に之を聽し玉ふ畧抄見るべし。此の三種は天竺最上品の衣なり。道俗・王民、共に著用す。但し唐土は絁絹多少なり。布は麤細共に得難し。日本は絹緜の類、頗る得難し。布は得易し。此の事、商量すべし。若し佛聽ぶっちょうと號し、强て厚絹あつぎぬの類をもとめも、亦、當に道を妨ぐべし。

問。日本國にっぽんこく土風どふう既にたっと。何ぞ之をあらためん。
答。自ら土風を好むは偏執へんしゅうの然らしむるなり。謂ゆる世出世間、之有りと。但ゝただただ佛語を敬し、墮落を𢣷おそれれば、何ぞ之を改めざらん。况や獨り自ら志を佛教に運ばヽ、諸天相資けん。魔黨僧まとうそう攝伏しょうぶくせらるること莫れ。

問。先代せんだい法匠ほうしょう、豈に此の義を知らざらんや。然れども此の則無きは如何。
答。先代の事、誰か見たるや。一笑。

問。若し教の如くせば、豈に寒に耐んや。
答。佛語ぶつごそしることなか。已に裹服衣を開し玉ふ。若し强て土俗をはじるは、裹服衣の上に不連脊衣ふれんじゃくえを著し、然る後に五條衣を著るに妨げ無し。此方は道宣律師どうせんりっし、不連脊衣を聽す云云。今、此の國、徃徃おうおうに此の衣有り。

問。此の制然りと雖も、末世の人心、性獷麤多しょうこうそたは此の儀を用ひじ。
答。自意じいに任す。強てすすめること能はず。但だ知んと欲る者の爲の故に示すのみ。廣くは聖教しょうぎょうを見るべし。又、日本にっぽん惡法あくほう有り。道心者の衣服、法衣・俗衣倶に麤惡を以て稱して善しと爲す。りつに云く、比丘、若し衣服穢るヽときは則ち諸天親近せず。鬼魅きみ短を伺ふこと、穢狗えくの如くす等云云。之を學ぶべからず。

已上、二衣の儀を示し畢る法衣とは三衣なり。俗衣とは小袖等なり

脚註

  1. 齋戒さいかい

    齋は身を謹むこと。身体と言葉の行為において悪を作さぬよう努めること。あるいは、齋を特に「日の出から正午までの間においてのみ食を取ること」すなわち不非時食戒の意とし、戒はその他の戒律とする場合もある。栄西は『齋戒勧進文』にてその意で用いている。

  2. 請食しょうじき

    在家信者などからの食事の招待。また、それによる食事。栄西は『出家大綱』後半において、請食とは「檀越請并僧中共淨食是也」とし、檀越の招待によって「僧伽が同一箇所同一時に一堂に介して取る食」を請食としている。
    なお、ここで栄西がわざわざ「僧中共」としているのは、『梵網経』にて特定の僧が指名されての食事の招待、すなわち「別請」を厳しく禁制していることによる。しかし、別請は印度およびその周辺国ではごく当たり前に行われていたことであって、請食とは「僧中共」に限られたものでは本来ない。

  3. 乞食こつじき

    三衣をまとい、鉄鉢を携えて在家の家々を巡り、食物の布施を受けること。また、それによる食事。栄西は乞食とは「帶十三資具携十八種物次第乞食也」とする。

  4. 比丘戒びくかい

    比丘とは[S]Bhikṣuの音写で、仏教の正式な出家者。比丘戒とはいわゆる具足戒のことで、およそ二百五十項目からなる律のこと。数え年二十才以上でなければこれを受けることは出来ない。栄西は「聲聞具足戒四部律蔵說是也」とする。

  5. 菩薩戒ぼさつかい

    栄西は「菩薩戒者梵網三聚十重四十八輕是也」とする。
    支那・日本の仏教で菩薩戒と称されるものにはおよそ『瑜伽師地論』(『菩薩地持経』)・『菩薩善戒経』に基づく四重四十三軽戒いわゆる瑜伽戒と、『梵網経』に基づく十重四十八軽戒そして『菩薩本業瓔珞経』の十重禁戒の二系統がある。しかし、特に日本天台宗では、最澄が法相宗の徳一を不倶戴天の論敵して論争を繰り広げるなど教学的に受け入れ難いこともあって、瑜伽戒はほぼ全く顧みられない。よって栄西にとってもまた、菩薩戒といえば『梵網経』に基づく十重四十八軽戒、そして『瓔珞経』の十重禁の系統に限ったものであった。もっとも、栄西は『菩薩地持経』に言及はしている。

  6. 俗律ぞくりつ

    いわゆる法律。栄西は「俗律者土風方俗也此土作法可知矣能知世間譏嫌全出家律令不犯也謂新制法中具也」としている。俗律とは「土風方俗」すなわち習俗・風俗であるといい、また「新制法」であるという。この『出家大綱』が著された当時、鎌倉最初期に公式にあったのは養老律令であった。とはいえ、いわゆる律令制はすでに平安中期頃からほぼ空文化・形骸化して機能していなかった。しかし、朝廷の権威は依然として強くあり、特に位階に関する規定はなお有効であった。
    なお、栄西の当時は天皇・公家に変わって武家が台頭し、東国鎌倉に幕府を開いていた。しかし、その勢力は畿内など西国ではいまだ決定的でなかった。そして栄西はそのような時代の渦中にあって武家の支持を受けながらも、しかしその台頭を一過性のものと見ていた節がある。また、何より武家の世に成りかけていたとはいえ、彼らには政を担い、自身らのあり方を規定する成文法がいまだ無かった。ただ律令格式をある程度踏まえた道理をもって慣習的に政が行われていた。武家の成文法の成立は、本書が著された時からおよそ四十年後の貞永元年における「御成敗式目」の制定まで待たなければならない。

  7. 道律どうりつ

    出家者の律。栄西は「道律者佛法也佛出中印土以中土方法謂偏袒右肩結跏趺坐等是也」とする。栄西は義浄三蔵の『寄帰伝』における報告に依って、大衆部・上座部・根本有部・正量部の四を挙げる。が、支那では一般に印度には五部律があったと古来信じられており、それは法蔵部の『四分律』・説一切有部の『十誦律』・化地部の『五分律』・大衆部の『摩訶僧祇律』・飲光部の『解脱律』を謂うものであった。しかし、そのうち『解脱律』なる律蔵はついに支那に請来されなかった。特に日本では、鑑真和上以来『四分律』を主体とするのが主流であり、適宜その他の律蔵が参照されて行われた。
    なお、ここで注目すべきことは、栄西は「律に二有り、俗律と道律となり」といって、道律をいわゆるシューキョー的カイリツなどではなく、出家者の規律・規範・法律として理解していることである。実際、律とは出家者組織たる僧伽を正しくまとめ、在家からの支持を得て存続するためのまさしく法律であって、単に「仏様のお言いつけだから」「仏のご命令だから」などといった類のものではない。よって、栄西がこのように国家の法律と僧伽の律とを並列に並べ論じることは、律というものの見方として正しい。
    仏教の律とは、随犯随制といわれるように、なんらか不適当・不穏当な行為が比丘らにあった際に随時定められていった。律蔵はそのような故実の集成であり、ある意味で仏伝の一種ともいうべきものであるが、さらに制定されて以降も様々な事例が起こって改正されたり、その罪の範囲を定めるなど判例集ともいうべきものでもある。

  8. 三衣さんね

    出家者が原則としてただそれのみ着けるべきとされる三種の衣。僧伽梨・鬱多羅僧・安陀会の三種。

  9. 非法ひほうの衣

    非法とは「律の規定に反している事物」・「不適切」のことであって、それを時に不浄とも表現される。非法にしろ不浄にしろ、その漢字から想起されるところは極めて宗教的・消極的であろうが、「出家者に不相応、不適切」という程の意である。

  10. 義淨三藏ぎじょうさんぞう云く

    義浄は唐代の律僧(635-713)。法顕や玄奘など渡天の三蔵らの蹟を慕って自らも南海経由で印度に入り、およそ廿五年間、南海および印度諸国を遊歴し、多くのサンスクリット経典・律蔵を持ち帰った。帰国後は請来した経律の翻譯に励み、多くの重要な密教経典および新来の根本説一切有部の律蔵の漢訳を遺している。義浄はまた、印度及び南海諸国において見聞した僧伽のあり方などその詳細を記して『南海寄帰内法伝』(以下、『寄帰伝』)四巻を著した。
    ここで栄西が引いているのは、その巻二に「若爾神州苾芻除三衣外。並非聖儀。既其有犯。理難服用者。《中略》服用並皆得罪。頗有著至西方。人皆共笑。懷慚内恥。裂充雜用。此即皆是非法衣服也。若默而不説。知者無由」(T54. P214b-217a)とあるによる。
    本書において栄西は以降も頻繁に『寄帰伝』を引いてその論拠としている。これは栄西自身も実際に印度へ渡ろうとした意志が現れたものでもあったろう。そして、義浄三蔵がそうしたように、しばしば支那の律宗、特に道宣の教義を批判しているが、それもやはり栄西が支那などではなく、あくまで印度をこそ基準とせんとする志向の現れでもあったと思われる。もっとも、栄西が掴み得たのは支那における臨済禅であったため、実際はほとんど支那流とならざるを得なかった。

  11. 苾蒭びっしゅ

    [S]Bhikṣuのより正確な音写として「比丘」にかわってしばしば用いられる語。

  12. 立播りゅうばんの服

    義浄『寄帰伝』巻ニに「梵云立播者。譯爲裹腹衣。其所製儀。略陳形樣即是去其正背。直取偏袒。一邊不應著袖。唯須一幅纔穿得手。肩袖不寛。 著在左邊。無宜闊大。右邊交帶勿使風侵。多貯綿絮事須厚煖。亦有右邊刺合貫頭紐腋。斯其本製」とあるのを引いたのであろう。義浄は立播、すなわち裹腹衣がいかなる形状のものかを比較的詳細に伝えている。立播の原語は梵語でrepaあるいはrephaで「劣った」・「粗野な」・「低い」の意。この場合は要するに下着を指していったものであろう。その現物が如何なるものであったか支那にも本邦にも伝わっていないため、いくら『寄帰伝』に記述があるとは言え、具体的な形状は判然としない。チベット僧らが今も用いている装束に、それと似たものが伝わっている可能性はある。
    賛寧『宋高僧伝』巻四 安国寺元康伝に「終系曰。康師曳納播者何。通曰。梵言立播。華言裹腹衣。亦云抱腹形制如偏袒。一幅纔穿得手。肩袖不寛。著在左邊。右邊施帶。多貯綿絮。然是禦寒之服。熱國則否用此亦聖開。流于東土則變成色帛。而削幅綴于左右袖上垂之製曳」(T50.P727c)とあるが、これは『寄帰伝』をそのまま引いた言であったろう。

  13. 裹服衣かぶくえ

    「裹腹衣」の誤植。裹は「つつむ」・「おおう」の意であるが「服をおおう衣」では意味不明である。そもそも、出典である『寄帰伝』に「裹腹衣」とあることから覆服衣でないことは明白。

  14. 胡地こち

    胡はそもそも「牛の下顎の垂れた皮」あるいは「あごひげ」を意味する語であったが、支那の北方の遊牧民族らの多くが長いあごひげを蓄えていことから、転じて彼らを胡と称するようになった。やがて北方の遊牧民族に限らず、支那と印度を除く他国・地方を胡、胡地などというようになり、その地の出身者を胡人と総称するようにもなった。
    なお、国を挙げて盛んに仏教を信仰した随・唐代の支那では、中国とは印度のことを指す言葉でもあった。

  15. 義淨三藏ぎじょうさんぞう云く

    寄帰伝』巻二「大哉慈父。巧應根機。善誘人天。稱調御者。而云供身百一。四部未見律文。雖復經有其言。故是別時之意。且如多事俗徒家具尚不盈五十。豈容省縁釋子翻乃過其百數。准驗道理。通塞可知」(T54. P214b)。

  16. 調御者ちょうごしゃ

    如来の十号の一つ。調御丈夫とも。

  17. 義淨三藏ぎじょうさんぞう云く

    『寄帰伝』巻二「于時歎曰。昔在神州自言明律。寧知到此反作迷人。向若不移歩西方。何能鑒斯正則」(T54. P213c)。

  18. 本文ほんもんに云く

    『寄帰伝』巻二「且如神州祇支偏袒 覆膊方裙禪袴袍襦。咸乖本製。何但同袖及以連脊。至於披著不稱律儀。服用並皆得罪」(T52. P214a)。

  19. 祇支ぎし

    [S]saṃkakṣikāあるいは[P]saṅkacchikaの音写、僧祇支の略。仏陀がその教団を形成していく当初、比丘には原則として三衣のみがその装束として許されていたけれども、諸事情によっていわば下着の如きものとして更に二衣を必須のものとして制定されることとなった。その二衣のうち上に着るものが僧祇支である。基本的にその形状は長方形で左肩に掛け、そのまま右脇に回しこんでまた左肩上に安じる。あるいは右腋にて紐などで留めて着ける。いずれにせよ偏袒右肩で着けるが、実は着け方に厳密な規定は無いため、都合次第で通肩にても着る。
    ただし、ここで義浄は「神州の祇支」としており、それが本来の僧祇支とは違った、「支那において改変された非法のもの」であるとしている。そして栄西もそれを理解して「胡衣なり」と割注している。鎌倉期の戒律復興において、その代表者とされる興正菩薩叡尊は、やはり比丘ならば偏衫(後述)ではなく、仏制通りに僧祇支をこそ着すべきと考え、僧伽の行事においては偏衫でなく本来の僧祇支を着用していた。この態度は日本の第二期戒律復興というべき近世におけるその流れにおいて、慈雲飲光が引き継いでやはり僧祇支をこそ着用していたことが知られる。

  20. 庸著ようちょ

    膚著の誤植であろうか。安陀会、いわゆる五条は「肌に直接着るものであるから内衣という」というのである。
    安陀会はまた下衣ともいうが、実は五条は本来、上半身に纏うものではなくて下半身を纏う衣、いわば裙・腰巻きである。たとえば五条の最小限の大きさは「三輪を覆い得るもの」という規定が律にある。三輪とは臍と両膝のことであって、腰に巻いたときに臍と両膝が隠れるだけの大きさがなければならない、というのがその最小限の大きさである。そのような律の規定からすれば、安陀会は明らかに腰巻きであった。実際、今も南方に現存する分別説部(上座部)において、安陀会は腰に巻く衣である。もっとも、これは後述するけれども、律蔵にはまた下半身を覆うものとして涅槃僧(泥洹僧)が説かれる。それは安陀会の下に「着けても良い」下着である。やはりこれも実際、ビルマではいわゆる涅槃僧を用いる者はほとんどないが、セイロンには安陀会の下にいわゆる涅槃僧を着する者がある。
    さらに安陀会はまた作務衣とも言われる。安陀会が何故「作務衣」と言われるかは、寺の諸作業いわゆる作務をなすときには、最低限下半身を覆う衣だけでも着けていなければ素っ裸となってしまうためである。
    ところが、『南海寄帰内法伝』ではこれについて明瞭な記述がない。どうやら七世紀の中印度では安陀会は上半身に纏うものとして用いられていたようである。よって、安陀会をどのように扱うかの解釈に、印度における土地と時代による変遷あるいは違いがあったようである。いずれにせよ支那および日本では、安陀会はやはり特に上半身に着けるものであるとの理解のみが伝えられた。そしてさらに日本では律蔵を無視して種々の改変が行われて、もはや衣(袈裟)とはとてもいえない威儀五条などと称する衣装が着けられるようになった。結果、今に至るまで種々の、言うなれば頓珍漢な行儀が行われている。
    私見ながら、諸経律を誦読するに、やはり安陀会を主に上半身を覆う衣であると解するのは無理がある。南方と同様、安陀会はあくまで腰に巻く衣であると解し用いるのがもっとも合理的である。なお、作務衣と聞いて近年の日本の僧職者らが着用する藍染などの筒袖の上下を想起してはいけない。そもそも作務衣とは安陀会のことであった。僧があのような服を着用することに対し、その昔は相当な争議となったことがあったが、なしくずしに皆が着るようになり、ついに社会にもアレが僧の作業着だと認知されるようになってしまった。

  21. くん

    腰に巻く一枚布。腰巻き。法衣とは三衣のことであるけれども、僧祇支と裙とは比丘が着用を許された下着であって、下着であるがゆえに法衣とは言われない。

  22. 覆腋衣ふやくえ

    [S]saṃkakṣikāあるいは[P]saṅkacchikaの漢訳。僧祇支に同じ。覆肩衣とも言う。

  23. 福田ふくでん

    比丘とは俗人からの布施を受ける受け皿、布施という種を蒔いて功徳という稲穂を実らせる田であるということから、福田という。あるいは衣の形状は稲田に似せて作られたものであるが、それは比丘の象徴であるからかくいう。

  24. 七條しちじょう九條くじょうけずして...

    必ずしも正しい言ではない。比丘は精舎内にある時、またその寺坊内にある時であれば三衣を文字通り着用する必要はない。そしてそこに俗人など訪れてきた際に、これは状況によるけれども、七条・九条を必ず着けなければならないということはない。

  25. 五條ごじょうを著て僧供そうくを食す...

    五条すなわち安陀会を腰巻きの衣として用いるならば不合理な規定となるであろうが、実際このような規定は律蔵に無い。
    もちろん、僧供すなわち精舎内で比丘らが同所同時に取る食事の際には必ず七条すなわち鬱多羅僧を着していなければならない。あるいは請食で在家信者の家などに招かれての食事の際には、九条など大衣すなわち僧伽梨を着けて向かわなければならない。

  26. 僧祇律そうぎりつ

    大衆部の律蔵『摩訶僧祇律』四十巻。しかしながら、栄西はここで十三資具を説くものとして『摩訶僧祇律』を挙げているが該当しない。『根本説一切有部毘奈耶』など「根本説一切有部律」の誤りであろう。

  27. 十三資具じゅうさんしぐ

    比丘が個人的に所有・使用することが許された十三種の装束・物品。三衣・尼師壇那(坐具)・泥伐散娜(裙)・副泥伐散娜(副裙)・僧腳晕迦(掩腋衣)・副僧腳晕迦(副掩腋衣)・迦耶褒折娜(拭身巾)・木佉褒折娜(拭面巾)・雞舍缽羅底喝喇呵(剃髮衣)・建立缽刺底車憚娜(遮瘡疥衣)・鞞殺社缽利色迦羅(薬資具衣)。義浄もこれら十三資具について『寄帰伝』にて言及している。有部律にある通り、当時ナーランダーなどにあった根本説一切有部では、極当たり前に用いられていたのであろう。

  28. 菩薩戒ぼさつかい

    前述の通り、栄西にとって菩薩戒とは『梵網経』所説の十重禁戒に限定され、いわゆる瑜伽戒はまったく顧慮されていない。
    『梵網経』所説の十重四十八軽戒のうち第三十七軽戒に、比丘の義務として春秋の頭陀行、冬夏の座禅、雨季の安居を行うべきことを言い、常に三衣を着用して十八物を携帯しなければならないと説く。

  29. 一十八種物いちじゅうはちもつ

    梵網経』にて大乗の比丘が常に携帯・使用すべきとされる十八種の物品。楊枝・澡豆・三衣・瓶・鉢・座具・錫杖・香炉・漉水囊・手巾・刀子・火燧・鑷子・縄床・経・律・仏像・菩薩像。

  30. 三衣さんえ等、薄き物を用ゆべからず

    道宣による『四分律』の注釈書の一つ、『 四分律刪繁補闕行事鈔』(『行事鈔』)巻下に「若細薄生疏綾羅錦綺紗縠細絹等。並非法物」(T40. P105b)とあるのを引いたものであろう。

  31. 義淨三藏ぎじょうさんぞう云く

    『寄帰伝』巻二「凡論絁絹。 乃是聖開。何事強遮。徒爲節目。斷之以意。 欲省招繁。五天四部並皆著用。詎可棄易求之絹絁。覓難得之細布。妨道之極。其在斯乎。非制強制。即其類也。遂使好事持律之者。増己慢而輕餘。無求省欲之賓。内起慚而外恧。斯乃遮身長道。亦復何事云云。而彼意者。將爲害命處來傷慈之極。悲愍含識理可絶之。若爾者。著衣噉食。縁多損生。螻蚓曾不寄心。蛹蠶一何見念。若其總護者。遂使存身靡託投命何因。以理推徴此不然也。而有不噉酥酪不履皮鞋不著絲綿。同斯類矣」(T54. P212c-213a)。

  32. 五天ごてん四部しぶ

    五天とは東西南北および中印度。四部とは七世紀の印度の諸地方において勢力を持っていたという、説一切有部・大衆部・正量部・上座部の四部派。

  33. 細布さいふ

    麻布、あるいは綿布。

  34. 聖制しょうせいあらざるをしいて制す...

    ここで義浄が批判しているのは、支那の南山大師道宣など律宗における、絹を衣に用いるのは断じて避けるべきとする教義に対するものであった。律に従うべしとしてその詳細を研究・実行する律宗が、律蔵にて許しているものを禁じることは、確かに矛盾した態度であろう。少なくとも諸律蔵に記され伝えられている、諸比丘のあるべきようを規定されていた釈迦牟尼仏は、現代的基準とは勿論異なるものではあるが、極めて現実的態度をもってしていたことが知られるのである。
    なお、義浄のこのような批判に対し、後代の元照はその著『仏制比丘六物図』において「蓋し大慈の深行は、彼が知る所に非ず」などと反論している。しかし、これは全く反論になっていない。論点がズレている。ただし、道宣にしろ元照にしろ先徳の絹衣を禁じようとしたその動機、志は十分に理解されるべきであろう。

  35. 𧖟殺さんせつ絶つべしと云はば...

    𧖟は蚕の異字。これは義浄三蔵の言う通りであって、いかなる生命でもこれを害わずに自らの生命をつなぐことが可能であれば、まったく理想的である。しかしながら、いくら動物を殺して得られた肉、動物性蛋白質をまったく取らず、ただ野菜や果実などの植物のみを取ったとしても、その植物は農耕という殺生を伴う活動に依って得られたものである。
    因みに、現代では我々の用いる多種多様な薬剤も多大な生命の犠牲の上に作られたものである。なお、しばしば誤解されているけれども、仏教では植物をいわゆる生命とは見なしていない。ここでの生命とは「意識あるもの」・「輪廻するもの」である。すなわち、植物を傷つける、植物を摂取すること自体を殺生などと仏教では言わない。ちなみに、律では出家者が園芸・農耕に従事すること、植わった木々を傷つけることを禁じるが、それは「その木々が神々の住まいであるかもしれない」がためであるともされる。
    自らの命をつなぐのに、何らかの殺生から全く離れることは不可能のことである。そのようなことから、仏教ではその最初からより現実的に、殺生といってもそこに程度の大小や範囲を設定した。たとえば仏陀は肉食について、出家者はなんらか肉の食事を布施として受ける際に、その肉が「特に自分のために」殺して得られたもので無いことを「見ていない」「聞いていない」「疑いがない」ことを条件として許された。これを三種浄肉という。
    なお、律において用いられる「浄」という語は「適切」「適法」という意味であって、ようするに「律の規定に違反していない」との意である。よって律における不浄とは、「不適切」「律の規定に反している」という意である。多く誤解されている点であるが、浄とは決して「きよらか」・「清潔」、不浄とは「きたない」・「けがらわしい」などという意味ではない。
    ここでの議論は、現代における極端な菜食主義者と非菜食主義者との間や、捕鯨反対者と捕鯨容認者との間などで行われるそれと、ほぼまったく同様であろう。人はなにかを象徴として取り上げたならば、往々にしてその象徴のみが独り歩きして、あらぬ方向で諍いが発することがある。これに経済的あるいは政治的利害が絡んだならばもはや不毛の諍いとなる。いずれにせよ現代におけるそれは、実はまったく往古からしばしば繰り返されてきた論争であった。

  36. 何ぞ酥酪そらくひ...

    殺生を伴わない酥酪すなわちバターやチーズなどの乳製品を取ることと、必ず殺生を伴う皮革製品を用いることを同列にして論じることは正しくない。これについての義浄の論点はズレている。いや、あるいは、三蔵が渡天当時の印度において、すでに殺生を嫌うために肉食を忌避する人々・集団があって、その中では肉食を避けるならば当然、皮革製品も用いるべきではなく、また同時に乳製品も避けるべきものとの認識があったのかもしれない。義浄はただそれを受けて以上のように言った可能性も一応ある。
    現代の西洋における、ヴィーガンといわれる菜食主義者らにもまた同様の主張をする者があるが、菜食主義を突き詰めると同じ結論にいたるのであろう。したがってそれはある種、合理的なものである。

  37. 僧祇律そうぎりつに云

    『摩訶僧祇律』巻九「衣者欽婆羅衣劫貝衣。芻摩衣憍舍耶衣。舍那衣麻衣躯牟提衣」(T22. P302b)。ここでは衣として欽婆羅衣・劫貝衣・芻摩衣・憍舍耶衣・舍那衣・麻衣・躯牟提衣のみが挙げられているが、他の律蔵、たとえば『四分律』には十種の素材による衣が挙げられる。それらはおおよそ絹・麻・綿・毛による衣であって、種々の絹布を衣とすることが許されている。

  38. 憍舎耶衣きょうしゃやえ

    [S]kauseyaの音写。細絹布の衣。

  39. 欽婆羅衣きんばらえ

    [S]kambalaの音写。毛織物の衣。

  40. 㲲衣じょうえ

    上質の綿布による衣。

  41. 佛聽ぶっちょうと號し、强て厚絹あつぎぬの類をもとめ

    「仏陀が許されているのであるから、むしろ絹をこそ着すべし」といった物言いであれこれと選り好み、人より良い物を求めんとする輩はいつの時代にもあったのであろう。いわゆる「おためごかし」をいって、自己の非法を正当化する輩である。  栄西は絹の使用を厳禁とした道宣らの態度を批判しつつ、しかしその対局にある豪奢で華美な衣をこそ好んで求め、着けようとする者に釘をさしている。が、しかし、むしろ栄西はそのような者の範疇に入りかねない、いや、あるいは実際に入っていた人であったかもしれない。また栄西は、後に著した『日本仏法中興願文』において、自らを「賜紫阿闍梨」などと、紫衣を帝から下賜されたことを誇らしげに肩書として記している。この紫衣は、栄西に心酔した平清盛の異母弟平頼盛の上奏によって下賜されたものであるという。  栄西は本書で「聖制」「仏制」に度々言及して批判しながら、しかし自らが仏制からすれば絶対にありえない「紫衣」を下賜さらたことを誇るなどということは、まったく自己撞着した態度であろう。帝から賜ったものであろうが何であろうが、紫衣はどのように弁じようとも非法以外の何物でもない。なお紫衣は高価な絹衣であるが、それが高価であることと絹衣であることは、ここでは問題とならない。

  42. 日本國にっぽんこく土風どふう既にたっと

    「尚」は「ひさ(しい)」=「古い」とも読めるがここでは「たっと(し)」=「良い」・「高い」・「誇る」とした。いわゆる「吾が仏尊し」という偏狭なる、しかし古今東西の人間に見られる心情、主張であろう。鎌倉初期当時にもこのような思想を持つ者があったことが知られる。しかし、これに対し栄西は、「自ら土風を好むは偏執の然らしむるなり」とにべもなく断じている。
    これは栄西が仏教者としてマトモであった、ということもあろうけれども、二度におよぶ渡宋経験と、さらに印度へも渡ろうとした志向、国際感覚によっても言い得たものでもあったろう。その全てでは決して無いけれども、日本の高僧、中でも祖師とされた人のほとんど多くが日本を脱して唐や宋に渡り、当時は世界でも最高水準であった支那の多彩な文化を経験していたことは決して偶然ではない。

  43. 魔黨僧まとうそう

    禅のみなどではなく戒律を基軸としたいわば日本仏教の復興を目指した、比叡山出身の栄西にとって最初の障害となったものは、むしろ主として比叡山延暦寺の天台僧らであった。栄西自身は最澄を非常に尊敬し、また天台宗の中興を望んでいたものの、当時の延暦寺僧の墮落は甚だしく、戒律を守るだの仏説を尊んで実行するだの云う以前の人殺しも厭わぬ暴虐集団に成り果てていた。事実、後に叡山の僧徒は栄西の暗殺を企てている。
    本書の序における、「厥れ佛法は齋戒を命根と爲す。其の命根を識らずんばあるべからず。其の五千軸の經巻を佛法と號す。読誦して教を行はざらんや。六十巻の章疏を圓宗と稱す。論談して理に從はざらんや」という栄西の語は、当時の日本仏教界全体に当てはまるものでもあるが、主として延暦寺の僧徒らに向けたものであったとして可であろう。
    もっとも、仏教によって出家しながら仏教を行わず、仏の教えに従うなどといいながら仏の教えが何かも知らず、僧を名乗りながら戒も律も守らずその装束すら自らの勝手に改変。それらを正当であるとしつつ、しかし僧として享受し得る利益はなんとしてでもすべて得んとする態度をとる僧らの姿・態度は、現在の日本仏教界全体にもまったく同様に見られるものである。

  44. 先代せんだい法匠ほうしょう

    奈良期・平安期の高僧・先徳ら。栄西はここで「先の時代のことをお前は実際に見てそう言うのか?」と反論し、先の時代について批判的に考証することを避けている。よく言えば判断停止、悪く言えば考証すると自身に都合の悪い事実が露呈することを知っての逃げ口上である。
    しかしながら、事実としてまず平安中期に飛鳥・奈良期以来の僧服、特に袈裟衣の形態が乱れ大きく変化していた。それがまた平安末期・鎌倉初期、特に衣の形状・着法が変化している。これは栄西を始めとする入宋僧が、宋代の支那における威儀・行儀作法を至上のものとして日本に導入したことによる。実際、京の人々は栄西の門徒らの衣帯について「比來西師新唱禪法其徒衣服異製」(『日本禅宗始祖千光祖師略年譜』)と評している。どのように異製であったのか、どのように変化したのかは、奈良期・平安期・鎌倉期の仏像や高僧図(頂相)や高僧像を比較することによって容易く知られるであろう。また、時代を大きく隔てた鎌倉期にも多くの奈良期の高僧像が制作されているが、これには(多くの苦労があったであろうけれども)実に時代考証をよくした秀作が多数ある。これは少なくとも鎌倉期までは、奈良期・平安期の僧の装束についての知識・伝承があったことの証である。

  45. 佛語ぶつごそしることなか

    栄西は基本的に典拠を一々挙げ、また理を説き、さらに国際感覚豊かに自らの立場を明らかとしていることが『興禅護国論』などその他著作からも知られる。けれども時に栄西は、他からの批判に対して感情的・非理知的な反論をすることがあって、本書『出家大綱』の後半にもそれは見られる。この「若し教の如くせば、豈に寒に耐んや」という問いを「謗り」であると解して非難するのは感情的、あるいは権威主義的である。また、もし誤植でなく裹「腹」衣を裹「服」衣と理解していたとしたならば、栄西はただそれを『南海寄帰内法伝』を参照して言うのみであって、裹腹衣が具体的にどのような物か知らなかったのであろう。

  46. 不連脊衣ふれんじゃくえ

    褊衫(へんざん)に同じ。褊衫のその形状が、背部の中央が襟元から断ち別れていることから、不連脊衣といわれる。裙と共に着用することが必須。
    栄西にしろ道元にしろ、当時の律僧は言うまでもなく、日本の最初期における禅僧らは偏衫を著けていた。もっとも、栄西の装束について、「比來西師新唱禪法其徒衣服異製伽梨博幅直綴大袖」(『日本禅宗始祖千光祖師略年譜』)と近世言われている。しかし、これは虎関師錬『元亨釈書』における記述に基づいたものであろうが、そのような栄西が直綴(じきとつ)を着用していたという記述は本書の栄西の言から否定されるべきものである。直綴とは、偏衫と裙との上下を繋げて一衣とした服である。『元亨釈書』のそれは、栄西からやや後の禅僧らが直綴を一般に着用するようになっていたことを、その伝承に混入させたものであろう。なお、道元は宋に渡って師事した天童如浄への質疑を記録した書『宝慶録』にて、偏衫・裙こそ僧は着るべきであって直綴など決して着るべきではないと訓戒されていたことを記している。しかしながら、道元が日本に帰って曹洞禅を流布すべく活動して一門を為した時には、すでに直綴が禅僧らの間で流行しだしていた。道元はそのような潮流を、師の如浄の訓戒に全く反して容認し、自らすら着していた。
    現在、臨在宗にしろ曹洞宗にしろ禅宗の者はもっぱら非法とされた直綴こそ着し、偏衫を着用するものはほぼ全く無く、それが具体的にどのような物かを知る者すらほとんど無い。これは現在の支那仏教界においても同様である。今なお偏衫を比較的日常的に着用しているのは、律宗・真言律宗・真言宗の一部に限られる。もっとも、律宗と真言律宗(真言宗)との偏衫の着法には若干の異なりがあるが、それは西大寺の叡尊に由来する。

  47. 道宣律師どうせんりっし

    唐代の支那の律僧。晩年、終南山浄業寺に住して大いに講演を開いたことから南山律宗の開祖とされる人。支那には他に法礪の相部宗と懐素の東塔宗などの律宗があったが、道宣の南山律宗が最も隆盛した。日本に律を伝えた鑑真和上はその孫弟子にあたるため、日本の律の血脈はほぼすべて道宣律師の系統。『四分律』の注釈書や高僧伝など多くの著作を残したが、中でも『四分律刪繁補闕行事鈔』・『四分律刪補隨機羯磨疏』・『四分律含注戒本疏』は律三大部と言われ、律学者必読の最重要書とされた。

  48. 自意じいに任す。強てすすめること能はず

    栄西はこれまで「佛法は齋戒を命根と爲す、其の命根を識らずんばあるべからず。其の五千軸の經巻を佛法と號す、読誦して教を行はざらんや。六十巻の章疏を圓宗と稱す、論談して理に從はざらんや」あるいは「其の義を知り、其の理を辨へ其の儀を行ずるの人を、方に佛法者と云ふなり」と言い、「魔黨僧に攝伏せらるること莫れ」などと散々に非法の僧徒らへの批判の辞を述べているが、ここでは「自意に任す。強て勸ること能はず」と調子を違えた物言いとなっている。
    栄西はこの時、いまだ臨済禅を世に認知させてその勢力が盤石となったとは到底言い難いものではあったけれども、「卽時を知り、機宜を視て、方に齋戒を勸む。勸に隨て皆之に應ず。喜しいかな、千萬」と言い得る程にはその追従者や信奉者・同調者が出てきていた。よってこの「自意に任す」とは栄西の、そのような現実がむしろそのまま現れた言葉であると解するのが適していよう。
    栄西とほぼ同時代で、鎌倉期の戒律復興の先鞭をつけた人として実範が挙げられるが、栄西は実範よりも先に挙げられるべき最初の人であった。実際、やや後代の人無住一円による『雑談集』には栄西をして「持齋中興なり」と記されている。そもそも戒律を守り、仏説・仏制に従わんとすることは、自主的であってこそのものであって強制すべきことではない。仏説・仏制に従わずして仏僧を名乗り、種々の利益を貪る人を批判することは、また別の話である。

  49. 日本にっぽん惡法あくほう有り

    ここでの悪法とは悪しき慣習・悪しき価値観の意。栄西はここで「道心者の衣服、法衣・俗衣倶に麤惡を以て稱して善しと爲す」ことを悪法であると断じているが、粗悪の衣を良しとする見方はことさら日本に限った話ではない。まず釈尊ご在世の当時から粗悪衣をこそ着る頭陀行を貫いた仏弟子ら、たとえば摩訶迦葉尊者などが存したこと、そして釈尊もそれを称賛していたことが諸経論に明瞭である。また支那の諸大徳、天台の祖師らも粗衣をのみ着てその生涯を過ごしたことが知られ、それはまた支那でも称賛されてきた。それらの事実を踏まえ、また南山律宗の(仏制にある意味で反した)過度に絹衣を禁じる主義を激しく批判した栄西のこれまでの言からしても、これを悪法とまで断ずる栄西の態度は明らかにおかしく、一方に偏ったものである。
    実際、栄西が粗悪とは正反対のきらびやかな衣帯を着していたとする記述が『栂尾明恵上人伝記』にある。この伝記には多くの伝説等が含まれることが知られるが、そこには「或時上人對面の爲に彼寺にをはしける時、折節此僧正参内して皈られけるに、道に行合給ぬ。彼の僧正は、新車の心も及はむに乗て誠に美々敷躰也。上人はやつれたる墨染に草履さしはき給へり」とあって、栄西のここでの言と奇しくも合致する。栄西の日頃の生活は誠に慎ましいものであったとされるが、この点、少々不可解である。
    もっとも、同じく『栂尾明恵上人伝記』には、明恵上人の言葉として「上人常に語り給ひしは、光る物貴くは、蛍・玉虫貴かるべき。飛ぶ物貴くは、鵄・烏貴かるべし。不食不衣貴くは、蛇の冬穴に籠り、をながむしのはだかにて腹行ふも貴かるべし。学生貴くは、頌詩を能く作り、文を多く暗誦したる白楽天・小野皇などをぞ貴むべき。されども、詩賦の芸を以て閻老の棒を免るべからず。されば能き僧も徒事也、更に貴むに足らず」とあって、当時は打算的あるいは闇雲に粗末な格好・行儀をもって良しとする僧徒があったことが知られる。そのようにして周囲に自らが苦行者であると(偽って)売り込んでいたのであろう。明恵上人自身は、裸などではなかったけれども実に粗末な衣で済ましていたという。明恵上人はしかし、そのような極端な類の者を欺瞞であるとし、批判的に見ていたという。
    現代でも印度における印度教の行者にはこの手合があちこちに存在し、それで他者の気を引いて寄進をねだる者が多くある。これは印度や東南アジアで今も多く見られる、自身が片輪であることや重度の怪我を持ついわば障害者であることを見せびらかして強調しつつ、人々から金品をねだりまわる本職の乞食集団と同質のものであろう。その昔、日本の寺院境内で祭りなどがあると現れた、傷病軍人の乞食も同様であったと見て良い。

  50. りつに云く

    未詳。

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