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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山『中川寺實範律師伝』

戒律と春日明神

戒律の相承への春日明神の介在

仏教伝来から現代にいたるまでの日本仏教史上では三度、戒律の興廃をみています。

一度目は鑑眞大和尚渡来しておよそ百年後の豊安ぶあん僧正が没し、これを道静どうじょう律師が継いで後に漸く衰退。二度目は大悲菩薩覚盛や興正菩薩叡尊らが自誓受戒によって復興され唐招提寺・戒壇院および西大寺などで相承されるも、その後百五十年程してからいずれも漸く頽廃し、応仁の乱など戦乱期に入ると全く絶滅。

そして三度目。それは近世慶長年間に俊正明忍しゅんしょう みょうにん慧雲寥海えうん りょうかいら五人により、まさに中世の叡尊のそれを範として再び自誓受戒にて戒律復興されています。この流れにも栄枯盛衰、紆余曲折がありはしますが、江戸期という平和で比較的豊かな時代の中にあって、一部ではあっても全宗派的に持戒・持律の風儀が及び継続されました。

ところが、明治維新を迎えて生じた廃仏毀釈の嵐や富国強兵を目指すための西洋の文物礼賛や西洋化教育のため、仏教そのものに対する日本社会の理解も後援もまたたく間に失われていき現在に至ります。実質的に見れば、幕末から明治にかけて活躍した律宗の智憧法樹ちどうほうじゅ や真言宗の和田智満がその最後の人と言うべきで、その後をまともに継いだ人は見受けられません。現代における律宗では、唐招提寺の「最後の律僧」などとして昭和に生きた森本孝順の名を上げる者もありますが、その実際を考えたならば全く当たらない話です。

結果として現在日本に残った仏教やその寺院は、近世近代以来の祖霊崇拝を行うための術でしかなくて庶民にとってその内容などどうでもよく、あるいは観光地における旅情を誘うための一装置というほどでしか無くなって、ほとんど絶命してしまっているとして良い。

さて、そのように中世から近世にかけて二度の興廃を見た律相承の流れにおいて、これは中世から近世にかけて、それが断絶・廃退している期間は「春日明神が戒脈を預かる」という伝承が生じています。春日明神は仏教擁護の神であり、特には持戒持律の人を守護するものであって、戒律が断絶している際には来たるべき興律の人が現れた時、霊夢などの好相を示して、その人に春日神自らが預かっていた戒脈を伝えるというのです。

この項で紹介する戒山による『中川寺實範律師伝』には、まさにそのような伝承の片鱗が伝えられているのですが、先に示した『元亨釈書』には(霊夢についてはやや述べられているものの)春日神については言及されていません。しかし、この説は鎌倉末期から室町期にはすでにある程度世人に受け入れられており、元禄・宝永年間頃には通説となっていたようです。

律宗でも西大寺と唐招提寺・東大寺戒壇院・泉涌寺の主流となる四箇寺あって、それぞれが一門一派を形成(といっても、その四箇寺は結局、西大寺と唐招提寺・戒壇院・泉涌寺との二流に大別される)していましたが、そのほとんどがそのような伝承を是認しています。そして江戸後期、野中寺の律宗青龍派から出て正法律復興を提唱した慈雲尊者もまた、やはりそれと同じき認識を持っています。

では、そのような伝承は如何にして、いつごろ生じたのか。その手がかりとなる書として、『唐招提寺解とうしょうだいじげ』なる書があります。

この書は、鎌倉後期に撰述されたものかと見られていますが、実際の所不明で、いつ・誰によって著されたものか確かなことはわからず、その内容自体もその真偽の疑わしい説が散見されるものです。しかしながら、唐招提寺における中世の縁起を、その真義は別として比較的詳しく伝えるものであって、実範がいかにして興律を志したかの詳細が記されています。

凡尋再興之次第。此律宗自本興福寺東西兩堂衆依學之。而保安年中之比。律學殊廢怠。然間春日社御八講之時。學侶評議云。兩堂之律學以外衰微故。東大寺受戒之作法等。於今有若已也。尤一途可有沙汰歟。所詮於向後者。學侶之中稽古律宗。可興戒法云云 此事西金堂衆南勝房大快増傅聞。愁嘆無極。仍參中川實範上人之室申云。戒律宗旨。兩堂之本宗也。近來依無稽古之輩。滿寺取之可依學之由。及八講々群議歟。上人者佛家法匠南都明師也。早廻紹隆之賢慮。必至律法之再興之樣。預御計者尤可畏入之由申。上人聞此詞。浮涙於眼路。凝思於心府。戒壇受戒之法則一巻造之與南勝房給之。以爲指南。受戒之儀式無相違。云云其後實範上人對南勝房被仰之様者。律法陵怠。年序稍久。興行更非人力之所覃。我能可祈請。汝可致懇祈。實範上人專可仰春日權現之冥助。則企春日社七日之參籠。祈律法之興行之處。滿七日夜有靈夢。自招提寺戒壇上懸三銅樋二樋塵積無水。一樋有水流入。上人自合此夢。三樋教行果三也。二樋無水行果更表無。一樋有水律教猶示有。又有異説。大都如先。是有二銅樋。一樋無水。一樋有水。上人合此夢。二樋受隨之二義也。一樋無水表隨行之絶。一樋有水表受儀之有。是倂所願成就之靈夢。抑亦神明哀憐之千兆也。誠唐律招提寺者。律海之本所。戒水之根源也。爰知彼寺猶有明律先達淨行僧侶歟。
 およそ(中世における戒律の)再興の次第を見たならば、この律宗とは本来、興福寺の東西金堂の堂衆が学び伝えてきたものである。しかるに、保安年中〈1120-1124〉の頃から律学は殊の外衰退していた。そんな中、春日大社で行われた御八講〈法華八講〉の時、学侶らが評議する中で、
「(興福寺東西金堂の)両堂の律学は甚だしく衰微しているため、東大寺(戒壇院)の受戒の作法等はもはや有って無きが如き有り様である。これはなによりもまず対処しなければならない問題だ。すなわち、今後は学侶の中で律宗を稽古〈学習〉し、戒法を復興しなければならない」
などということとなった。そして、それを西金堂の堂衆たる南勝房大快増が伝え聞いて非常に嘆き悲しみ、中川実範上人のもとに参じて、
「戒律の宗旨とは、両堂〈東西金堂〉の本宗であります。(にも関わらず、)近頃は(律学を)稽古する輩が(両堂の堂衆に)全く無いことから、満寺〈興福寺僧一同〉これを取って依学すべしとなったとのことで、法華八講に出仕した講師〈学侶〉らが評議したのだとか。上人は仏法の法匠にして南都の明師であります。ただちに、紹隆〈先人の事業を継承して盛んとすること〉するための賢慮をもって、必ずや律法を再興なさって下さいませんか。もしお取りはらかい頂ければ、なにより恐れ入ります」
と申し上げた。上人はこの言葉を聞いて涙を流し、思いを心府〈心〉に凝らして、『東大寺戒壇院受戒式』一巻を造って南勝房に与え、それを指南とさせた。(これにより東大寺戒壇院における)受戒の儀式は確かなものとなったのである。その後、実範上人が南勝房に対して語って言うには、
「律法が頽廃してから、その年月はやや久しくなっており、これを復興するのにはもはや人の力が及ぶところではない。私はよくよく(戒律復興の願いを)祈請しなければならない。そなたも熱心に祈願せよ」
とのことであった。そこで実範上人は、「もっぱら春日権現の冥助を仰ぐべし」と春日大社にて七日間参籠することを企てた。そして、律法の復興を祈り続け、七日を経た夜に霊夢を見たのである。
その夢とは、唐招提寺の戒壇の上に三つの銅製の樋が掛かっており、そのうち二つの樋は塵が積もっており水が通らず、残りの一つの樋には水があって流入している、というものであった。上人は自らこの夢を解釈してみるに、「三つの樋とは教・行・果の三を意味するものであろう。二つの樋に水が無いのは行と果とが(当世には)もはや無いこと、一つの樋には水が有るのは律教〈律学〉が未だなお有ることを示したものであろう」というものであった。
 (もっとも、この上人の見たという夢については)異説がある。おおよそは先と同様であるが、それは(三つではなく)二つの銅の樋があって、一つの樋には水が無く、もう一つの樋には水が有る、というものであった。そこで上人はこの夢を解釈すると、「二つの樋とは(律学についての)受・隨の二義を著したものであろう。一つの樋に水が無いのは隨行〈実際に律を護持して行ずること〉の絶えたること、もう一つの樋には水が有るのは受儀〈律の規定する儀式・儀礼など〉のいまだ有ることを表したものであろう」というものであった。
 (そこで上人は)「これは所願成就の霊夢に違いなく、そもそも神明が(戒律復興の志を)哀憐したことの千兆である。誠に唐律招提寺とは律海の本所であり、戒水の根源である。これによって、唐招提寺には今なお律に詳しき先達で持戒清浄の僧侶があるのだろう」と知ったのである。

『唐招提寺解』(新版『大日本佛教全書』vol.64, pp.151c-152a)

ここで『唐招提寺解』は、『元亨釈書』にて「一夕夢自招提寺以銅筧通清水于中川覺以謂是好相也(ある夜の夢に、唐招提寺から銅筧によって清水が中川にまで通じ流れるのを見、目が覚めて「これはきっと好相に違いない」と思い至った)」とあった話について、そのとい のかかっている場所が「唐招提寺から(実範の住していた)中川にまで」というのが、ただ「唐招提寺の戒壇上」に変えられており、しかも樋の数が増えて水が流れ行くではなくその有無に変わって、それに仏教的夢解きが加えられ語られています。

あるいはそのような伝承が唐招提寺にあってそれを書き記したのか、あるいは『唐招提寺解』の著者が『元亨釈書』にある霊夢の話をより劇的に仕立てて創作したのかもしれません。そもそも実範はそれまで唐招提寺を訪れたことが一度も無かったようであるのに、夢であるとはいえ「唐招提寺の戒壇の上に樋があって」などと端から承知していたというのは実に不審であります。だからといってそう断じるのは早計ですが、『唐招提寺解』のこの一節は、『元亨釈書』の説を粉飾した伝承であるように、私には思われます。

いずれにせよ、実範が「ある夢」、それも樋に水が流れているという夢をきっかけとして唐招提寺を訪れ、それが元となって律学が再興されていった、という伝承がここに記されています。

このような話を理解するのに非常に重要な点となるのですが、日本の中世において、何か尋常成らざる夢を見るということは、その人の現実の世界での生き方・行動に非常な変化をもたらすほど大きな意味をもつものでした。時には「霊夢が売買される」・「吉祥な夢が騙し取られる」という、現代人の感覚からして一体どうやって?と理解できない事態が生じる程に。そのような当時の感覚・価値観について不明であると、現代このような話を知っても理解できないことになるでしょう。

さて、『唐招提寺解』が言うところでは、そもそも実範が戒律復興を志したきっかけというのが、興福寺の学侶が春日大社で行われた法華八講の法会において、それまでいわば東西金堂衆の特権というか特有のものとされた律学(および東大寺戒壇院における授戒の管掌)が甚だしく廃退していることを問題視したこと。そしてこれを堂衆から取り上げて学侶も学び、興福寺を挙げて共有すべしとしたことを一大事と見た、西金堂の堂衆である南勝房大快増なる者が、実範に泣きついたことです。

余談ながら、貞享元年〈1684〉、東大寺真言院の亮然重慶りょうねん じゅうけいによって撰述された『律宗図源解集りっしゅうずげんげしゅう』には、この『唐招提寺解』の所伝を採用しつつ、しかし当時荒廃・頽廃しきっていたとされる東大寺および唐招提寺の面目が立つよう、換言すれば歴史の改変を試みるが如くしてその経緯が記されています。

それにしても、かかる話が本当であったとしたら、ずいぶん情けのない話です。上に挙げた一節を文字通り読めば、堂衆の南勝房は戒律自体の衰退を嘆いて動いたのではなくて、自身ら堂衆の立場が脅かされると慌てたのが発端であった、というのですから。

「此律宗自本興福寺東西兩堂衆依學之」であると誇り、その立場を守ろうというのであれば、まず彼ら堂衆自身で奮闘努力すべきところであったでしょう。そもそも堂衆の堕落によってそのような事態となったのですから、嘆き悲しんで他に頼むなどというのはまさしくお門違いも甚だしいと評すべきことです。とは言え、藤原氏の比較的有力な家柄出身のしかも学徳勝れた実範であったからこそ、その持つ様々な力を頼みとされたのでしょう。今と昔とでは人は同じであっても、社会のありようは随分異なるものですから、今私が述べたような批判は全く的外れであるかもしれません。

仮にその発端は斯くあったとしても、実際に実範はその復興に尽力すべく動き出します。そこでしかし、それは実範独りの力のみでは果たし難いことであると自ら考え、春日明神に祈願。その結果見た霊夢に導かれて唐招提寺に至り、奇しくもそれが戒律復興への足がかりとなった、というのがその伝承です。いや、『唐招提寺解』には、衰退したとは言え縷縷として正統に唐招提寺に伝わっていた律を実範は子細無く相承して後に伝えたのだ、などと記されています。しかし、これは全く我田引水の妄説でありましょう。

そのような『唐招提寺解』所伝の真偽の程は今は置くとして、ここで春日明神が実範の戒律復興に介在したとされていることが、近世においては春日明神が伝律するとの伝承となったようです。春日明神自身が託宣や夢を通して「私が戒脈を預かって伝えるのだ」などと自ら明言したという伝承は今のところ見いだせていませんが、室町期に著されたと思われる『 聖誉鈔しょうよしょう 』には、春日明神が「戒法ヲ守リ玉ト云」う存在であるとの認識があったことが伝えられています。

一。春日大明神。大同年中託宣。以左眼護加我朝庭。以右目守護法相宗。云云 私云。是亦右御目ヲ以佛法
《中略》
又春日山ヨリ金招提西大。大明神諸神具足。御影向アリテ。戒法守リ玉ト云。夢ヲ見ル者アリ。眞不思議靈瑞共多ク侍ケリ。
一。春日大明神が大同年中〈806-810〉に託宣して云われたことには、「左の眼をもって我が朝庭を護加し、右の目をもって法相宗を守護する」とのことであった。これについて私見を述べれば、(春日明神は)右の御目でもって(法相宗ばかりでなく)仏法を守り玉われているということである。
《中略》
また春日山から金の橋が唐招提寺と西大寺に掛けられ、大明神が諸々の神を率いて御影向されて戒法を守られる、という夢を見た者がある。まことに不思議な霊瑞などが多くあったのだ。

『聖誉鈔』(新版『大日本佛教全書』, vol.72, p.4b-21c)

特に平安末期から鎌倉期以降には、僧が仏教の学や行そしてその守護などについて神明を頼みとし、ある場合には託宣を聞き、または夢を見、はてまたは籤を用いてその是非を判断していました。それは非常に真剣に受け止められる判断材料であったのです。

したがって、興律を志した人々が春日明神が明らかに関わったと思われる状況下で見たその夢、それが「道」を示した暗示と受け取られたことが、春日明神とは仏教、特には法相宗守護の神であるとする見方と相俟って、後代には伝律・興律を扶助するものであると理解されていったのだと思われます。鎌倉期の叡尊や覚盛など戒律復興に携わった僧にもまた、その類の話が種々伝わっています。

先に『沙石集』の一節を示しましたが、春日明神は時に僧をたしなめ、時に僧を称賛して擁護するものだという話は、決して突拍子の無いことで無く、むしろ当たり前に受け入れられていました。当時、日本の神明とは仏法を擁護するもの、すなわち神々もいわば仏教徒であり、あるいは仏菩薩の垂迹であるとする見方が一般的でした。そして夢あるいは神託とは、それは現代の人の及びもつかないほど重要なもので、それらを通して得た言葉や幻像は、実生活に大きな影響を及ぼすほどのものでした。

『沙石集』には、春日明神に限らず神々が仏教僧らの夢に現れてその怠惰と破戒無戒に呆れ、あるいはこれを励まし、あるいは正しきに導いたなどという話が随所に載っています。また、中世における戒律復興に関わった者のほとんど多くは法相宗興福寺の出身で真言兼学の人、あるいはもと真言宗でも興福寺に関わった人でした。そして特に法相宗を養護する神と位置づけられていた春日の社は興福寺の所管でした。

当時、密教的神道解釈によっていよいよ神仏習合は進められ、本地垂迹説もますます整備されていきます。

狂瀾を既倒に廻らす

嘉禎二年〈1236〉に覚盛および叡尊らによって行われた自誓受戒という方法は、主として法相唯識の典籍・教学に基づいて覚盛により考案されたものです。そもそも覚盛自身、そしてその学律の師であった貞慶も戒如もまた興福寺の紛れもない法相宗であり真言兼学の人でした。八百万の神などといわれる日本の神々のうち特に春日神こそ律の継承に関わるものとされた土壌は、興福寺に相伝された律宗の関係を見たならば、最初からあったということが出来ます。

余談ながら、先に当時の僧界は俗界の引き写しでもう一つの俗界であったなどと述べましたが、そのような興律に尽力した最初期の人々のほとんど多くが藤原氏の子弟であったことはある意味皮肉な話でもあります。しかし、その時代背景や当時の寺院・僧侶のあり方を鑑みた時、それを現実に成し得るのはその政治的・経済的な後援を得やすかった貴族出身、中でも藤原氏出身の学僧らとなったのは当然のことであったかもしれません。

あるいは、これは中世だけでなく近世にも言えることですが、そのような「もう一つの俗界」たる僧界に身を置いていた貴族僧らは、しかし仏教の素養も信仰も持っていはしたからこそ、自らそうすることは出来ずとも己の非法を顧みて恥じ、興律を志す者や遁世僧らを敬して熱心に後援したように思われるのです。

春日明神といえば、実範没してしばらく後に同じく持戒と修禅を重んじ、その後の日本仏教に大きな影響を与えた華厳宗中興の祖といわれる栂尾明恵上人にもまた、それにまつわる多くの奇瑞があったとされています。そして時を隔てた近世、慶長年中になされた俊正明忍律師ら五人による戒律復興は、明恵上人ゆかりの栂尾山高山寺に勧請された、まさしく春日・住吉両神の祠前においてなされたものでした。

意識的・無意識的いずれにせよ、日本における中世以来の戒律復興の流れにては、どのような形であれ常に春日明神のなんらか冥助があったと見なされてきたことは間違いありません。

これを見方を変えて言ったならば、中世近世においても、それが人の力ではいかんともしがたい、不可能とすら思えるほど困難なことであると考えられていたことの証とも言えます。たとえば解脱上人貞慶など、戒律復興を自ら志していながら、以下のように漏らしてもいます。

至戒律一道者。与昔大殊。雖歎無益。実是時代之令然也。半又土風之不応歟。《中略》
設雖(不)清浄(之)比丘。設雖不如法之軌則。其中。若一人二人。有知法人者。随分勝縁。豈可空哉。当時無続人者。将来方何爲。不只一宗之衰微。(雖)是四衆之悲歎也。
 戒律の一道については、昔と大いに異なっている。それを歎いたところで益などないとは言え、実にこれは時代〈末法〉のなせるところであろう。あるいは半ば(戒律とは日本の)土風〈風土〉にそぐわないものなのであろうか。《中略》
 たとえ(東大寺戒壇院における授戒の三師七証の僧らが)持戒清浄の比丘で無かったとしても、たとえ(律蔵の規定に違える)不如法の授戒法であったとしても、(三師七証の)その中に、もし一人二人でも仏法を知る者があれば、それが(後世のための)勝れた縁ともなるだろう。どうして(不如法の授戒であっても)意味など無い、虚しいものだと言えようか。今この戒の伝統を保つことがなければ、将来は如何ともし難くなってしまう。これは(律宗という)ただ一宗の衰微の問題ではない。四衆〈仏教徒全体〉の悲歎となるのだ。

解脱上人貞慶『戒律再興願文』(新版『大日本佛教全書』, vol.30, p.1a)

貞慶は「半又土風之不応歟(あるいは半ば(戒律とは日本の)思想風土にそぐわないものなのであろうか)」などと率直にいわば弱音を吐露しつつ、しかし如何ともし難く思えるそれを再び興起せんとの志を持って、実際に力を尽くしています。

その努力は、果たしてやや時を隔てて結実するのですが、しかしそれも応仁の乱を皮切りに戦乱の世となって潰えています。ところが、それはまた天下泰平の世を迎えた慶長の世に復興。これも二百六十年ほど継承されるも、明治維新という時代の波に呑まれ、また相次いだ大戦などにより再々度廃絶しています。そして現代、もはや戒律どころか仏教自体がもはや影を潜め、世のごくごく一部の人がこれを求め学ぶような世となっています。

またそのごく一部の人であったとしても、戒律など時代錯誤の前時代的産物であると見なしつつ、宗旨宗派に拘泥して我他彼此と切り分けることこそに熱心となってむしろ宗我を逞しくし、肝心の自心をいかに陶冶するかをなおざりとする者が多くあります。

あるいは「我、仏教を奉ず」などと言いつつ、しかしまるで仏典に根拠せず、あるいは堅白同異を論じて「私だけの仏教」・「私が考える、かくあるべき仏教」なるものを、むしろ真の仏教であると主張するような輩も少なくありません。それはまさに『瑜伽師地論』にいわれる「相似正法」に他ならないものです。

それもそのはず、仏法は斎戒を命根とするもの。戒や律をおざなりにしたままでは仏教を正しく理解することも行うことも、また後に伝えることも出来はしないためです。まさに実範はこのように言い遺しています。

戒是佛法壽命。衆生福田。三学依之立。七衆因之成焉
〈律〉とは仏法の寿命であり〈人が持戒持律する限りにおいて、仏教は正しくその教えを維持して後世に伝えることが出来る〉、衆生の福田である。三学〈仏教の修行階梯〉はこれに依って立脚し、七衆〈仏教徒全て〉はこれに因って成立する。

実範『東大寺戒壇院受戒式』(新版『大日本佛教全書』, vol.49, p.25c)

これは教条主義的・形式主義的に戒あるいは律を一向守らずんばあるべからず、などというものでは決してありません。が、「仏教は戒律あってこそのもの」であること、「戒律がまともに行われている限りにおいて仏教は正しく伝わり行われる」とは仏典に記されるものであり、また三国通じて古徳先達らがしばしば強調してきた定説。そして今も、仏教が伝わる国々にてその語の誠なることが認められる真理です。

では、それがもし已に滅んでしまっている時代に際して、人は如何にすれば良いのか。これは先に示した一節にあった語でありますが、虎関師錬はかく言います。

蓋絶而又興興而又絶其興絶之間世有人乎
思うに、(戒律が)絶えてはまた復興され、復興されてはまた絶えるというその興亡の時の流れの間にも、世には必ず「人がある」のだ。

虎関師錬『元亨釈書』巻十三 明戒六

それは決して容易いことでなく、むしろ不可能であり、もはやその努力など全く無駄と思えることかもしれません。まさしく「狂瀾きょうらん既倒きとう に廻らす」と表される様であります。しかし、たとえ時代をいくつか経ようとも、その時時の「人」があれば、その努力は必ず後世に実を結ぶ時が来ることでしょう。

それをまさしく歴史のうちに証した人の一人、それが実範です。

小苾蒭覺應 稽首和南