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智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山『中川寺實範律師伝』

戒律と密教、そして浄土

戒律と密教

皇家出身の者が続々出家し、また摂関政治が定着し本格化した特に平安中期以降、俗法として機能すべきはずの『養老律令』(僧尼令そうにりょう )はすでに空文化していました。いきおい日本仏教界は世俗の構造が当然のごとく持ち込まれ、本来仏教者からすれば最も重んじられて従われるべき戒律も全く顧みられず無視されるなど、その正統な伝承は絶えて無くなっています。

前項に上げた『沙石集』が伝える当時の仏教者らの様子が確かであったことを、律宗における伝承から証すものがあります。鎌倉後期の凝然により著された『 律宗瓊鑑章りっしゅうぎょうかんしょう 』巻六〈元は六十冊あったという内、ただ第六巻のみが現存〉です。これによれば、天平勝宝五年〈753〉に正統な律を唐から伝来した鑑眞による唐招提寺および東大寺戒壇院における法統〈戒律〉は、「豊安在世。律儀嚴整」とその三代目の孫弟子となる 豊安ぶあんまでは確かに伝えられ、僧徒らに厳持されていたといいます。

日本戒律。大和尚授之法進為第二祖。住唐禅院。弘通戒律。門人相続。次第承奉。招提一寺。戒律繁昌。諸寺僧侶。受戒之後。多住彼寺。五年一年研精律儀。後代漸廃。豊安在世。律儀嚴整。厥後学者随分不絶。乃至末代相続依承。雖不及昔儀。而宗緒不絶。諸宗法匠。戒科不没。長蔵〈長歳の誤植〉。道雄。長朗。義聖。真済。真然。慈覚。智証。長意。増命。興聖。平恩。願曉。聖宝。如此等哲。其数是多。内溢智海。外契律範。威動人天。証実賢聖。自後諸徳。戒徳随修。後代漸廃。行学倶没。七諸寺皆置律宗。後代漸廃不及講談。豊安没後経一百七十余年。至人王六十七代三条天皇御宇。此間律儀漸替不行。厥後経一百世余年。至人王第七十四代鳥羽天皇御宇。其間律儀墜没不行。厥時興福寺学英有実範大徳。隠居中川蘭若。酬興福寺欣西大徳雅請。披尋律藏。研精戒宗。作戒壇式。興隆律法。戒法中興。範公有功。
 日本の戒律は、大和尚〈鑑真〉がこれを法進ほっしん〈鑑真に唐から随行してきたその弟子。律と天台に精通していた。支那僧〉に授けて第二祖とした。(法進は、東大寺の)唐禅院に住んで戒律を弘通し、門人はそれを相続して次世代に継承していった。唐招提寺の一寺により、戒律(の学と行と)は繁昌したのである。諸寺の僧侶らは、(戒壇院にて具足戒を)受戒した後には、その多くが彼の寺に留まり五年あるいは一年、律蔵を研鑽していた。(しかし、それも)後代には漸く廃れていくこととなる。
 豊安〈律宗第三祖・東大寺戒壇院第四代和上・唐招提寺第五世〉の在世当時、律儀は(いまだ)厳整に護持されていた。その後もまた、学者らはその分にしたがって(学び行っており、律儀が)絶えるということはなかった。乃至、末代に相続継承されていったのである。(鑑真から豊安に至るまでの)昔ほどでは無いにせよ、律宗の伝統が絶えることはなかったのである。諸宗の法匠〈碩学・学僧〉らもまた、戒科〈戒律の学と行〉を廃することなどなかった。(例えて挙げるならば)長歳〈空海の直弟子の一人。真言僧〉・道雄〈華厳に精通していた空海の直弟子の一人〉・長朗〈華厳に通じた薬師寺の学僧〉・義聖〈華厳に通じた薬師寺の学僧〉・真済〈空海の高弟の一人。主として高雄山神護寺に住した〉・真然〈空海の高弟の一人。空海没後、高野山を継いだ〉・慈覚〈円仁。天台僧〉・智証〈円珍。空海の甥。天台僧〉・長意〈天台僧〉・増命〈天台僧〉・興聖〈未詳〉・平恩〈三論宗僧。西大寺の人〉・願暁〈三論宗僧。聖宝の師〉・聖宝〈三論宗の真言僧。行学兼備の人で、特に真言では最初期の事相における最重要の人〉、これらの賢哲がそれであり、その数も多くあったのである。その内心は智慧の海が溢れ、その外見は律の規範に適っていた。その威厳は人々と神々とを動かすものであり、(往古の仏教の)賢者・聖者の実なることを証するものであった。以後の諸大徳もまた、戒徳をその分に応じて修めていたが、後代漸く廃れ、(戒律の)行と学と共に没したのである。(南都の)七大寺〈東大寺・興福寺・元興寺・薬師寺・大安寺・西大寺・法隆寺〉にはすべて律宗を置いてはいた〈思託など鑑真の弟子により諸大寺に〉が、後代に漸く廃れていき、もはや談義〈議論。話題〉に及ぶことすら無くなってしまった。
 豊安没後〈豊安の没年は承和七年九月十三日(840)〉、百七十年余りを経て人王六十七代三条天皇の御宇〈976-1017〉に至るまでに、この国の律儀は漸く廃れて行われなくなっていく。さらにその後、百年余りを経て人王第七十四代鳥羽天皇御宇〈1103-1156〉に至る間には、律儀など全く没して行われなかった。そんな時、興福寺の学英に実範大徳があった。中川の蘭若〈[S]araṇya, [P]arañña. 阿蘭若の略。閑静な地、森林の意〉に隠居していたが、興福寺の欣西大徳の雅請に応えて、律蔵を紐解き戒宗を研鑽した。そして『東大寺戒壇院受戒式』を著して、律法を興隆したのである。戒法が中興したのは、実範公の功績によるものであった。

凝然『律宗瓊鑑章』巻六(新版『大日本佛教全書』, vol.30, pp.8c-9a)

この『律宗瓊鑑章』の記述にある通り、豊安の後を継いで律宗を管することになった道静(道浄)あたりから、律の学も行も次第に頽廃していったようです。そもそも当時の律宗において、五祖仁階そして六祖眞空と相承したまでは記録されているものの、それ以降はその名すらもまともには伝えられていないという惨状です。律の授受など何をか言わんや。

当然、実範の頃にはすでに戒も律も見る影も無い有り様でした。それでも、いわば通過儀礼としての授戒は東大寺戒壇院にて依然として行われてはいます。けれども、それは後代「軌則受戒」、無住の言によると「名ばかり受戒」などと揶揄されるもので、最初からそれを護持することも、いや、その内容をすら理解さえされることもなく行われる、空虚な儀礼に過ぎません。

そんな中、実範は戒律復興を志すようになっています。一体どうしてその志を起したのか、さらには志を起こしただけでなくどの様にそれを実行できたかというに、それは興福寺には律学を志すに至る種というべきものが一応存在していたためです。

当時、東大寺戒壇院にしろ唐招提寺にしろその寺勢も甚だ衰えて律学の伝承すら覚束なくなっており、律宗は主として興福寺東西金堂の堂衆どうしゅらが担うようになっていました。すなわち、法相宗興福寺内にあって東西両金堂は、戒壇院における通過儀礼としての授戒儀式の運営と律学の本拠であり、その堂衆らは律宗を本宗としていました。とはいえ、「律宗を本宗とする」などといっても名目上のことであって、まさしく実範が活動している頃の保安年間〈1120-1124〉には堂衆らによる律学の頽廃は、後に触れますが、目に余るものと学侶らに認識されていたようです。

南都においてすら律の依行はもとより律学の伝承すら覚束なくなっていた中、その復興を志して実際にその実現に向け具体的に動いた最初の人とされるのが実範でした。しかし、伝承によればそれはどうやら自主的・自発的なものではなく、一人の堂衆から律学の復興を依頼されてのことであったとされます。

なお、ここで興福寺の学侶と堂衆とは、日本仏教の僧職における立場の違いを示すもので、いわば身分・階級制の一種です。まず学侶とは、ほとんど貴族出身で学問に秀でた者が維摩会など数々の論議法会の役をこなしてこそ就任しえる官僧です。対して堂衆とは、一概に押しなべていうことは出来ないのですが、その大体が庶民の出や貴族の子弟でも下流出身の者らで占められるもので、堂塔の清掃や供華・荘厳などの運営を担う人足のような僧侶らのことです。比叡山で言うところの大衆だいしゅ、高野山で言うところの行人ぎょうにんです。

よって必然的に学侶は堂衆に対して上位にある存在でした。けれども、また堂衆は興福寺の僧兵の母体でもあり、学侶は堂衆に対して一方的・強制的に何事も成しえるというような単純な上下関係ではなかったともいわれます。

そもそも仏教僧とは、出自による区別・差別など絶対にしてはならず、その上下関係・席次はただ具足戒を受けてからの年数、これを法臈ほうろうとか僧臈・夏臈げろうというのですが、それに依ってのみ決定されなければならないものです。しかしながら、そのような規定など、戒も律もないような時勢にあっては、護られようはずもないことでした。いや、戒律伝来してまもない頃から、そして平安期にもなるとなおさら皇家公家が続々出家してそのような世俗の出自を持ち込んでいったことが、むしろ戒律の頽廃をさらに招いたと、私には思われます。

さて、実範は興福寺を出てから忍辱山円成寺に居を移し、おそらくそこで初めて真言密教を受法。その後、興福寺や東大寺からほど近い山中の中ノ川に本格的な密教寺院としての中川寺成身院を建立。それ以降、唐招提寺にて『四分戒本』を聞いたことを契機として、中川寺にて律を講説し、さらに興廃していた唐招提寺の復興を手掛けるなど、平安末期から鎌倉初期にかけて次第に盛んとなる戒律復興運動の先鞭を付けたのでした。そのようなことから、実範は中世における戒律復興の先駆者として、当時はもとより近世の戒律復興の流れにおいても敬され、必ず言及されています。

なお、実範の諸伝記ではここが前後して記されており不正確となっているのですが、実範は成身院を建立して後の永久四年〈1116〉、醍醐の秋に厳覚ごんかくから黎明期の小野流を曼陀羅寺(随心院)にて受法しています。

禪林小勧修十一代信覚弟子
權大僧都嚴覺
《中略》
實範 色衆四口・教授兼-誦経教授阿闍梨
少将上人 光明山教真灌頂弟子
永久四年十月十三日・昴-日- 於曼陀羅寺授之

『血脈類集記』巻四

日本に真言密教が空海によって伝えられて以降、いわゆる南都六宗の人が真言密教を受法し修めることは一般に見られたことで、法相宗や華厳宗あるいは律宗の人であるのに密教を修めているのはどういうことか、と不審に思うべきことではありません。南都六宗のいずれかに属している以上、真言宗の教学を全面的に受け入れはしていませんが、しかし真言密教といういわば実践法とそれに関わる教学は盛んに学ばれ、吸収されていたのです。特に華厳宗の場合、真言宗の教学ともほとんど矛盾も衝突もする点がなく、また空海が東大寺別当に就任して灌頂堂(真言院)も建立していたため、東大寺はかなり早い時点から密教を取り入れています。

そもそも当時、僧にとって諸宗兼学はごく一般的態度であって、一宗だけに拘泥して他を顧みないという方針こそ異常であったと言えます。

それは現代、鎌倉新仏教などと呼称される、法然や親鸞の主張した浄土教や日蓮の法華宗、そして禅でも特に曹洞宗において一般化した態度であり、まさに「新仏教」というべきものです。その影響はまた現代においても根強く続いており、彼等に始まる宗派意識や宗派観というべきものを、そのまま仏教学や仏教史を学ぶについてすら持ち込んで理解しようとする者が多くあります。

戒律復興に携わった者のほとんど多くが、これは後代の近世においても同様に言えることですが、真言密教もまた受法して修めていたことは、そのような古くからの流れがあってのことです。このあたりのことを押さえておかないと、たちまち「これは真言律の流れだ」などといった誤まった理解をすることになるため、注意が必要です。

戒律と浄土信仰

実範は、これはいつのことであるか不明なのですが、比叡山横川の天台僧明賢みょうけんから天台教学を受け、さらに并せて当時流行しだしていた恵心僧都源信由来の浄土教を学んだようです。それが後、実範が晩年浄土教に傾倒していく元となり、また浄土教高祖六哲の一人に数え上げられる因となっています。

この点について、やや話が逸れますが、参考までに指摘しておくことがあります。

実範が没して七十年程後の建暦元年〈1211〉、巷間にはほとんど知られていない人ですが、中世の仏教僧として極めて重要な人物の一人である 俊芿しゅんじょう が南宋の支那に渡って律や禅・天台などを学び、非常に多くの新来の典籍および書画を携えて帰朝しています。俊芿は、今でこそ真言宗泉涌寺派の祖とされ、あたかも真言宗の人であったかのようにされていますが、実際は天台教学をこそ主として奉じた天台僧とも云うべき人であって、行としては真言を兼修する律僧でした。

そんな俊芿が請来した文物の中、特にその後の日本仏教に多岐に渡って影響を與えたのは、唐末には衰亡していた南山律宗を南宋の天台教学の解釈を多分に持ち込んで復興しようとした、 元照 がんじょう 〈1048-1116〉の律に関する書典です。

元照は、支那の南山律宗を中興しようと力を尽くした人でしたが、奇しくも国は違えどほとんど同時代に生きていた実範に同じく、晩年には浄土教に傾倒しています。これは日本の源信により寛和元年〈985〉に著された『往生要集』がそれほど間を置かずに海を渡って宋に持ち込まれ、逆に宋代の支那における浄土教の隆盛を招いていたことに、それが間接的にではあったとしても基づくものであったと言うことが出来るものです。

『往生要集』には極楽往生を期しての臨終の作法が説かれていますが、それは紛れもなく南山律宗祖道宣『戒壇図経』など支那の律宗の典籍(および、義浄『南海寄帰内法伝』)に基づいたものでした。また、『戒壇図経』などにある祇園精舎に関する所伝は、その後も当時の道俗に直接的に大きな影響を与えており、たとえば『梁塵秘抄』や『平家物語』にその影を色濃く見て取ることが出来ます。

そのように、支那と日本とがそれまでのように一方的ではなく、相互に影響していたのが当時の律宗や浄土教でした。そして一見互いに相反する教義を有するものであると思われるであろう律と浄土教とが、実は表からは見えづらいことでも密接に関連して流布していたことは、先に述べたように近世にまで引き継がれており、より注目されるべき点であろうと私は思います。それは思想史的にも歴史的にも面白いことでありましょう。

それはまた宋代の仏教が、むろん日本僧らからすれば依然として高き山であったことは間違いありませんが、唐代に比して衰退していたことの証しとも言えます。

なお、俊芿は渡宋した際、以前から解決できずにいた比丘得戒としての菩薩戒受戒などについての数々の不審点を、彼の地の律宗の学僧らにぶつけています。その結果、支那の律僧らが俊芿の見解、それは最澄の菩薩戒に関する見解に直接基づいたものであったのですけれども、それに賛同する者すら現れてしまったという事実もあります。

(この件については大谷由加『入宋僧俊芿を発端とした日宋間「円宗戒体」論争』が勝れて詳しい。)

さて、実範や元照という、鎌倉期以降の律宗において非常に重要視される人らが浄土教をも奉じていたことは、中世から近世にかけての律宗の人々にも強く意識されており、その範とさえされるようになっていきます。

その後、中川寺は法相・天台・真言兼学寺とし、また律学の道場としても発展します。が、実範自身は、往時は巨大な境内と伽藍を構えていたという山城国の光明山寺に移り、そこでその生涯を閉じています。前述の通り、実範は晩年、浄土往生に想いを掛けていましたが、その臨終に際しては奇瑞があったなどと言われています。

そのように念仏者としてその最後に奇瑞があった、とされていることは、実は見逃してはならない点です。なんとなればそれは、「当時の見方として」その浄土信仰が成就したこと、正しかったことの証であるとされていたためです。といっても古代、たとえば奈良・平安の前期頃までは、なんらか悉地を得たり往生を遂げたとされた者の臨終に奇瑞があるはずだ、などという見方も伝承もないため、あくまで「当時の流行としての見方」であって普遍的なものではありません。

しかし、そのような当時の見方は、近世にまで浄土教徒のみならず律宗の僧徒らにも継承されていきます。