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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『慈雲大和上伝戒記』

原文

恭惟十善者有佛無佛性相常爾之法。而古先聖皇御宇内之明制也。固非如余小子以生得之福緣而詳悉焉。幸有所承。得潤于斯戒善矣。所承爲誰。忍綱和尚也。和尚從誰而受。洪善攝尊者也。尊者之師名慈忍猛律師。律師有三室灑。伯名慈門光公。叔名戒山堅公。季則尊者也。律師所師是眞空阿公。阿公受之于明忍大律師。大律師欲中興律儀也祈之于春日社而親受神託。春日者天兒屋根命。而垂跡于河内平岡。後移而在春日第三殿。唐鑑眞大師來朝也。自現而相遇曰。我是稱慈悲萬行菩薩。護如來正法云云其於律儀也再繼其絕。如餘處明之焉。此十善法與神明相表裏。有所由而來矣哉

小比丘慈雲敬識

寛政四年壬子冬十二月廿六日在于幻々舎而絕筆

神代よりたがはぬ道しふみとめて
  なほ幾千世のまもりともがな

現代語訳

うやうやしおもんみれば、十善じゅうぜん有佛無佛うぶつむぶつ性相しょうそう常爾じょうにの法にして、古先聖皇、宇内うだいを御するの明制なり。もとより余小子が如き生得の福緣を以て詳悉するに非ず。さいはいに所承有て、斯の戒善かいぜんうるほふことを得たり。所承、誰とか爲る。忍綱にんこう和尚なり。和尚誰によるかして受る。洪善攝こうぜんしょう尊者なり。尊者の師を慈忍猛じにんみょう律師と名く。律師、三室灑しっしゃ有り。はく慈門光じもんこう公と名け、しゅく戒山堅かいざんけん公と名く。は則尊者なり。律師の師とする所は是れ眞空阿しんくうあ公なり。阿公は之を明忍みょうにん大律師に受く。大律師、律儀を中興せんと欲するや、之を春日社かすがのやしろに祈てまのあたり神託を受く。春日は天兒屋根あまのこやねみことにして、跡を河内かわち平岡ひらおかに垂れ、後に移て春日第三殿にます。唐の鑑眞大師來朝するや、自ら現じてあひて曰く、我は是れ慈悲萬行じひまんぎょう菩薩と稱す。如來の正法を護す云云。其の律儀に於けるや、再び其のたへたるを繼ぐ。餘處よしょに之を明すが如し。此の十善の法、神明しんみょうと相ひ表裏ひょうりすること、由て來る所有るかな。

小比丘慈雲敬識

寛政四年壬子冬十二月廿六日、幻々舎に在て筆を絕つ

神代かみよよりたがはぬ道しふみとめて
  なほいく千世ちよのまもりともがな

脚註

  1. 十善じゅうぜん

    悪に対する十種の善行。①不殺生・②不偸盗・③不邪淫・④不妄語・⑤不綺語・⑥不悪口・⑦不両舌・⑧不慳貪・⑨不瞋恚・⑩不邪見。
    慈雲は十善こそ仏教の枠に留まらないあらゆる思想・宗教を超えた、人としての普遍の道であるとした。そしてそれは神道における核心であるともしている。

  2. 有佛無佛うぶつむぶつ

    仏陀が世に現れ、その教えが伝えられている世であるか否かを言った語。仏の出現が有ろうと無かろうと、十善が普遍の道であることを言わんとした語。

  3. 性相しょうそう

    万物の性(実体・本体)と相(現象・事象)。

  4. 宇内うだい

    天下。

  5. 戒善かいぜん

    戒を具えることによる善。あるいはその善なる果報。

  6. 忍綱にんこう

    忍綱貞紀。紀州和歌浦出身。野中寺から法樂寺に入って復興した洪善普摂の弟子で法樂寺中興二世となる。正徳六年〈1716〉二月廿九日、野中寺において受具。法樂寺にて長栄寺・光明院を復興した。その出身が和歌浦であったことから、いわゆる雑賀衆の後裔が忍綱の大檀越となり、堂舎整備にあたって寄進を受けた。その弟子のほとんど多くが紀州出身でしかも同じ和歌浦であり、慈雲はむしろ例外であった。
    慈雲が後に梵学を考究し、梵字悉曇を他に教えるようになったのは、まず忍綱が悉曇の相承者であったことと、それまで秘伝であったそれを公開して断絶を防ごうとしたことによる。忍綱の存在がなければ慈雲のその後の種々の活躍は無かった。寛延三年〈1750〉十二月七日没。世寿八十、法臘三十七歳。

  7. 洪善攝こうぜんしょう

    洪善普摂。ここで諱の一字を脱落させ記しているのは、諱の全てを示さないことによって敬意を表す当時の習慣。
    忍綱貞紀の師にして法樂寺中興の祖。もと宇治興善寺の禅僧ったが、同門の月舟宗胡の勧めによって巌松院にあった慈忍のもとに参じた。のち慈忍が野中寺に移るに従い、野中寺で受具。五夏を過ごした後、摂州の法樂寺を復興した。(曹洞宗)であ

  8. 慈忍猛じにんみょう

    槇尾山平等心王院にて自誓受戒して比丘となり、その後に宇治田原の巌松院に派遣されてその二世となり中興に勤めた人。やがて槇尾山と袂を分かち、天下の三僧坊とのちに謳われるようになる野中寺を中興した。巌松院にあるとき、西大寺長老であった高貴の帰依を受け、それまで西大寺に門外不出の秘伝であった菩薩流(松橋流)を皆伝された。

  9. 室灑しっしゃ

    [S].śiṣya / [P].sissaの音写。弟子、門人の意。慈忍には十人の弟子があったとされるから、ここでは高弟の意。

  10. 慈門光じもんこう

    慈門信光。京師の井口氏出身、寛永元年〈1624〉生(?)。初め洛西長遠寺任可禅師について出家した禅僧。後に槇尾山平等心王院に交衆し、寛文七年〈1667〉二月廿六日自誓受具し、慈忍を依止師とする。慈忍に従って巌松院から野中寺に移り、その第二世を継いだ人。後に河州黒土村福王寺を中興。宝永四年〈1707〉七月十日示寂、世寿八十四、法臘四十。

  11. 戒山堅かいざんけん

    戒山慧堅。戒山は筑後の人で、地元に鉄眼道光が来たって『大乗起信論』の講筵の席に参加して発心し、その元で出家した臨済宗黄檗派の禅僧であった。しかし、修行を進めるうちに持戒の必須であることに気づき、律学の師を求め上京。その途上、摂津の法巌寺にて桃水雲渓(洞水雲渓)に出逢って宇治田原の巌松院にあった慈忍律師の元に参じることを勧められ、その元に参じて長らく仕えた。戒山が受具したのは、野中寺に移住した寛文十年〈1671〉の冬十二月廿八日。なお、戒山の出家の師であった鉄眼は寛文九年〈1669〉、ようやく粗末な小堂が建てられたに過ぎない野中寺を訪れ、慈忍の元で菩薩戒を受けている。
    慈忍亡き後、戒山は諸方を遊行し、廃れていた湖東安養寺に入ってこれを中興。その第一世となった。安養寺に入って後には、律法の興隆を期して支那および日本の律僧三百六十餘人の伝記集成である『律苑僧宝伝』を著す。この著はいわば律宗および律学を広めるための大きな力、いわば啓蒙書として重要なものとなった。その後、慈門信光に次いで野中寺を継ぎその第三世となっているが、それはほとんど名目上のことであったという。
    戒山の優れた弟子に湛堂慧淑律師があり、彼もまた師の慧堅に倣って諸々の律僧の略伝の集成『律門西生録』を著した。その特筆すべき行業は、それまでのように律宗・真言宗・禅宗だけではなく、天台宗・浄土宗などさらに多くの宗派の僧らに戒律復興を波及させる一大立役者となったことにある。

  12. 眞空阿しんくうあ

    真空了阿。薩摩出身。槇尾山平等心王院の衆徒で、明忍・晋海・慧雲・友尊・玉圓により復興された律の法脈のその初期に連なる人。伝承では浪華川口の港にて対馬に渡らんとする明忍に出会い、そこで十善戒を授けられたという。寛永三年〈1626〉四月十日、槇尾山にて自誓受。共に受戒したのは槇尾山十世となる了運不生律師。
    その後の寛永十五年〈1638〉、野中寺を中興することとなる慈忍慧猛の師となり、また雲龍院の正專如周が改めて自誓受戒するに際しての証明師となるなど重要な役割を果たしている。正保四年〈1647〉四月廿六日示寂。世寿五十四歳。慈雲は真空了阿を「十善の系統」において、十善を俊正明忍から継いで慈忍に伝えた重要な人として位置づけている。

  13. 明忍みょうにん

    俊正明忍。慶長七年、近世における戒律復興の主導的人物。その戒律復興は中世の叡尊の遺跡を踏んで通受自誓受により、明忍他四人の僧によってなされた。しかし明忍は本来的ではない受法である自誓受に満足せず、本来の別受従他受による受戒を求めて支那に渡ろうと対馬に渡るが、ついに果たせず客死した。詳しくは別項「玄政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』」等その伝記を参照のこと。

  14. 春日社かすがのやしろ

    もとは藤原家一門の氏神を祭った社。タケミカズチノミコト、イワイヌシノミコト、アメノコヤネノミコト、ヒメガミの四柱が祀られる。
    戒律復興について、伝承では鑑真大和上以来もしくは明恵上人以来浅からぬ因縁ある神と考えられた。特に鎌倉期に僧俗・貴賎の信仰を集め、日本の護国神、あるいは仏法守護の神として尊崇された。慈雲にも春日明神に関する霊潭が伝えられている。

  15. 天兒屋根あまのこやねみこと

    天照大神が天岩屋に隠れた時、祝詞を奏したことによって神事宗源の神とされる。天孫降臨に従った五伴緒神の一柱で、中臣氏(藤原氏)の祖神とされる。

  16. 河内かわち平岡ひらおか

    神津獄。河内枚岡神社の淵源であった地。神武天皇即位以前、初めて天兒屋根命が祀られたとされる地。

  17. 慈悲萬行じひまんぎょう菩薩

    中世、春日神は藤原氏の祖神にとどまらず、仏教守護の神であると見なされ、また託宣して自ら慈悲萬行菩薩と称したとされる。

慈雲尊者について

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