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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

智廣 『悉曇字記』

訓読

第八の章は、半體はんだいnaアラて初章の字の上に加へて、rka阿勒アロキヤrk@a阿勒アロキヤと名く。生字三百九十有六 勒字は力德の反なり。下も同じ

第九の章は、半體のnaアラを將て、第二の章の字の上に加へて、rkya阿勒アロrky@a阿勒アロと名く。生字三百八十有四なり 若し祗耶は是れ耶の省ならば、亦た同く重を除く

第十の章は、半體na アラて、第三の章の字のうえに加へて、na阿勒アロna阿勒アロと名く。生字しょうじ三百九十有六なり 略は平上なり

第十一の章は、半體naアラを將て、第四の章の字の上に加へて、na阿勒アロna阿勒アロと名く。生字三百八十有四なり。

第十二の章は、半體のnaアラを將て、第五の章の字の上に加へて、na阿勒アロna阿勒アロと名く。生字三百八十有四なり。

第十三の章は、半體のnaアラを將て、第六の章の字の上に加へて、na阿勒アロna阿勒アロと名く。生字三百八十有四なり。

第十四の章は、半體のnaアラを將て、第七の章の字の上に加ふ。na阿勒アロna阿勒アロと名く。生字三百八十有四なり。

第十五の章は、nanananana波等の句のすえの第五の字を以て、おのおの當句とうくさきの四字の上に加へ、及びはじめの句のすえの字を、後の等の九字の上に加へて、naアウキャnaアンシャnaアンnaアンnaアンnaアウ等と名く。其れ必ず自重じじゅうせざれば、唯し二十九字なり。いんに由てあわせざればなづけ異章いしょうと爲す。おのおの阿・阿等の韻を用て之を呼べば、生字三百四十有八なり 盎の字は阿黨の反。安の字は並に阿亶の反。唵の字は阿感の反なり

第十六の章は、等の字體を用ひ、別の摩多またを以て之にあわすを、之をnaと謂ふ。字を成ずること三十有四なり 或は前の麼多を加へて成字の用を得ること有れども、遍能生に非ざれば、且く本字に𢴃て之を言ふ。今、訖里の麼多を詳にするに、祗く是れ悉曇の中の里字なり

第十七の章は、等の字體を用ひ、互ひにまじらへて之を加ふるに三十三字有り。もんに隨てしょうを受く。謂くna阿索アソキャ等なり。おのおの阿・阿等の韻を用て之を呼べば、生字三百九十有六なり。

第十八の章は、正章しょうじょうほか孤合こごうもん有り。或は當體とうだい兩字りょうじ、之をじゅうせば伹し字に依て大呼だいこせよ 謂く多闍吒拏等の字は各重成有るなり。或は異體いたいの字、之をじゅうせば、即ち連聲れんじょうして合呼がつこせよ 謂く悉多羅等、是れなり。或は通麼多つうまたを具せずして、孤合こごうもん爲り 即ち瑟吒羅等の字、三五の麼多に通ずること有り。或は十二の文を生ずと雖も、而も字源じげんついでならざれば、其れほ之れたり 即ち阿悉多羅等なりある異重いじゅうすと雖も、必ずしも重に依て以て之を呼ばず 此れ五句の末の字を、其の句の初めに加て、即ち盎迦等と名く。前の章に屬すなり。或は兩字りょうじ聯聲れんじょうして、文は其のあらわれ、こえは其のきにあらわ麼盎迦三合等の字を、莽迦等と云ふに似たるが如し。或は字は一にして而も分かれたり 沙字に沙と孚府珂の反と二音有るが如し。假借の猶し。或は麼多またを用る文に、重ねて其の麼多を増して、而もこえ必ず之を兼ねたり 部林二合の字、裒菩侯反力鉤反、第十一の摩多とに從ふが如し。或は形ち麼多に非ずして、ひと嚴字ごんじの文たり 字の上に仰月の畫有るが如し。或はじょうずる所れども、而も其の名をことにせり 謂く數字重じて一字を成るとも、而も其の下を必ず正しく呼び、中上をば連合して短に之を呼んで、必ずしも其の音を正しくせざる。上の娑、下の迦を阿索迦等と稱するが如し。或は其のこえ有て、而して其のかたち無し 此れ即ち阿索迦の章等の字なり。字に則ち阿無けれども之を讀む。皆な其の音を帶せり。或は字從り生ぜずして、獨り半體はんだいの文を爲す 怛達・祗耶等の如きは用いようは、則ち之有れども字體無きなり。或は字にけたる所有れば、則ち怛達たたつの文を加へて、而も音をひいて之を呼ぶ 迦佉等の字の下に達の畫有れば、則ち秸吉八反苦八反等と云ふが如し。或はみなもと、字に由て生じて異形いぎょうを増す 室梨字の如きは、猶し奢羅の象を有るを錯ばめて印文と成す。篆籕の若し。或は之を考るに、其のしょう、其のかたちに異となり 訖里・倶羅・倶婁等は、迦の省に從ふ。及び胡盧等の文は、麼多の異なり草隷の猶しれ則ち梵書ぼんしょ大觀たいかんなり。

現代語訳

第八の章は、半体はんだいnaアラ-ra(ra)の半体〉を初章の字の上に加えて、rka阿勒アロキヤrk@a阿勒アロキヤとする。生字三百九十六 勒字は力徳の反。以下、同じ

第九の章は、半体のnaアラを第二章の字の上に加えて、rkya阿勒アロrky@a阿勒アロとする。生字三百八十四である もし祗耶が耶の省とするならば、また同じく重字を除く

第十の章は、半体na アラを第三章の字のうえに加えて、na阿勒アロna阿勒アロとする。生字しょうじ三百九十六である 略は平声・上声

第十一の章は、半体naアラを第四章の字の上に加えて、na阿勒アロna阿勒アロとする。生字三百八十四である。

第十二の章は、半体のnaアラを第五章の字の上に加えて、na阿勒アロna阿勒アロとする。生字三百八十四である。

第十三の章は、半体のnaアラを第六章の字の上に加えて、na阿勒アロna阿勒アロとする。生字三百八十四である。

第十四の章は、半体のnaアラを第七章の字の上に加える。na阿勒アロna阿勒アロとする。生字三百八十四である。

第十五の章は、nanananana波等の句のすえの第五の字ña(ṅa)・ṅa(ña)・ṇa(ṇa)・na(na)・ma(ma)〉各々おのおの当句とうくさきの四字の上に加え、およびはじめの句のすえの字ña(ṅa)〉を後の等の九字の上に加えて、naアウキャnaアンシャnaアンnaアンnaアンnaアウ等とする。それは決して自重じじゅう〈同字の合成〉しないため、ただ二十九字となる。いんに由ってあわせないことから、名づけて異章いしょうとする。各々おのおの、阿・阿等の韻をもってそれを発すれば、生字三百四十八である 盎の字は阿黨の反。安の字はいずれも阿亶の反。唵の字は阿感の反

第十六の章は、-ra(ka)〉等の字体を用い、別摩多べつまたṛ(ṛ)・ṝ(ṝ)・ṛ(ḷ)・ḹ(ḹ)〉を以てそれに合わせたのを、naと謂う。字を成ずること三十四である 或は前の麼多を加へて成字の用を得ること有れども、遍能生に非ざれば、且く本字に𢴃て之を言ふ。今、訖里の麼多を詳にするに、祗く是れ悉曇の中の里字なり

第十七の章は、等の字体〈体文〉を用い、互いにまじらえてこれを加えると三十三字ある。(章の最初の)文字によって(その章の)しょうとする。謂わくna阿索アソキャ等である。各々おのおの、阿・阿等の韻を用いてそれらを発すれば、生字三百九十六である。

第十八の章は、正章しょうじょう〈第一から第十七章〉ほか孤合こごうもん〈第一から第十七章における規則に合致しない字〉がある。あるいは当体とうだい両字りょうじ〈同じ字二つ〉じゅうしたならば、ただ字に依って大呼だいこ〈二つの子音を別個でなく一つとして発音すること〉せよ 謂わく多・闍・吒・拏等の字は各々、重成がある。あるいは異体いたいの字〈異なる字同士〉じゅうしたならば、すなわち連声れんじょうして合呼がつこせよ 謂わく悉多羅等がそれである。あるいは通麼多つうまた〈十二韻〉を具することなく、ただ孤合こごうもんとなる すなわち瑟吒羅等の字は三五の麼多に通じることがある。あるいは十二の文を生じるけれども、しかし字源じげん〈体文〉ついでとならないことから、それはなおである すなわち阿悉多羅等である。あるいは異重いじゅうしたとしても、必ずしも重に依てそれを発しない これは五句の末の字をその句の初めに加え、すなわち盎迦等とする。前の章に屬す。あるいは両字りょうじ連声れんじょうして、文はそののちあらわれ、こえはそのさきあらわれる 麼盎迦三合等の字を莽迦等というのに似たようなものである。あるいは字は一つでありながら、しかも〈音〉が分かれている 沙字に沙と孚府珂の反の二音があるようなものである。仮借の如し。あるいは麼多を用いる文に、重ねてその麼多を増やして、しかもこえは必ずそれを兼ねる 部林二合の字、裒菩侯の反力鉤の反、第十一の摩多とに従うようなものである。あるいはその形は麼多でなく、ただ厳字ごんじの文〈字の装飾〉である 字の上に仰月の画があるようなものである。あるいはじょうずる所があっても、しかしその名をことにする 謂わく、数字を重じて一字としても、その(最も)下(の字音)は必ず正しく発し、中と上(の字)は連合して短に発し、必ずしもその音を正しくしない。上の娑、下の迦を阿索迦等と称するようなものである。あるいはそのこえはあっても、しかしその(字の)かたちは無い これはすなわち阿索迦の章等の字である。字にすなわち阿が無くともそれを読む。すべてその音を付帯する。あるいは字より生じることなく、ただ半体はんだいの文とする 怛達・祗耶等の用い方は、すなわち有るけれども字体(としては)無い。あるいは字にけた所があれば、すなわち怛達たたつの文〈母韻を脱落させる記号。virāmaに同じ〉を加えて、音をひきつめて発する 迦・佉等の字の下に怛達の画があれば、すなわち秸吉八の反苦八の反等と云うようなものである。あるいはみなもと〈体文三十四字〉が、字に由っては生じて異形いぎょうとなる 室梨字のようなのは、猶し奢羅の形象があるのを変形して印文とする。(支那における)篆籕のようなものである。あるいはこれを考えてみると、その生〈摩多あるいは体文の本字〉はそのかたち〈本来的な字形〉と異なる 訖里・倶羅・倶婁等は、迦の省に従う。および胡盧等の文は、麼多が異なること草書・隷書のようなものである。これがすなわち梵書ぼんしょ大観たいかんである。