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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

智廣 『悉曇字記』

原文

悉曇字記南天竺般若菩提悉曇

大唐山陰沙門智廣撰

悉曇天竺文字也西域記云梵王所製原始垂則四十七言寓物合成隨事轉用流演支派其源浸廣因地隨人㣲有改變而中天竺特爲詳正邊裔殊俗兼習訛文語其大較本源莫異斯梗概也頃嘗誦陀羅尼訪求音旨多所差舛會南天竺沙門般若菩提齎陀羅尼梵挾自南海而謁五臺寓于山房因從受焉與唐書舊翻兼詳中天音韻不無差反考覈源濫所歸悉曇梵僧自云少字學於先師般若瞿沙聲明文轍將盡微致南天祖承摩醯首羅之文此其是也而中天兼以龍宮之文有與南天少異而綱骨必同健駄羅國喜多迦文獨將尤異而字之由皆悉曇也因請其所出研審翻註即其杼軸科以成章音雖少殊文軌斯在効絶域之典弗尚詭異以眞言唐書召梵語髣髴而已豈若觀其本文哉俾學者不逾信宿而懸通梵音字餘七千功少用要。懿夫聖人利物之智也總持一文理含衆德其在茲乎雖未具觀彼史誥之流別而内經運用固亦備矣然五天之音或若楚夏矣中土學者方審詳正竊書簡牘以記遺文古謂梵書曰胡文者案西域記其閻浮地之南五天之境楚人居焉地周九萬餘里三埀大海北背雪山時無輪王膺運中分七十餘國其總曰五天竺亦曰身毒或云印度有曰大夏是也人遠承梵王雖大分四姓通謂之婆羅門國佛現於其中非胡土也而雪山之北傍臨葱嶺即胡人居焉其字元製有異良以境隣天竺文字參渉所來經論咸依梵挾而風俗則效習其文粗有増損自古求請佛經多於彼獲之魚魯渾淆直曰胡文謬也

其始曰悉曇而韻有六長短兩分字十有二將冠下章之首對聲呼而發韻聲合韻而字生焉即a上聲短呼@a平聲長呼等是也其中有r.紇里二合等四文悉曇有之非生字所用今略也其次體文三十有五通前悉曇四十七言明矣聲之所發則牙齒舌喉脣等合于宮商其文各五遍口之聲文有十此中ra曷力遐三聲合也於生字不應遍諸章諸章用之多屬第八及成當體重或不成字如後具論也llam.羅聲全闕生用則初章通羅除之一除羅字羅鑒反餘單章除之二除囉羅二字即第二第三及第八第九第十章也字非重成簡於第一故云餘單章也重章除之三重成也即第四五六七及第十一已下四章也異章句末爲他所用兼下除之六即盎迦章字牙齒舌等句末之第五字爲上四字所用亦不可更自重故除之也 自除之餘各遍能生即kakha佉等是也生字之章一十有七各生字殆將四百則梵文彰焉正章之外有孤合之文連字重成即字名也有十一摩多囉此猶點畫兩箇半體兼合成文阿阿等韻生字用十摩多後字傍點名毘灑勒沙尼此云去聲非爲摩多訖里章用一別摩多里耶半體用祗耶兼半體囉也

初章將前三十四文對阿阿等十二韻呼之増以摩多生字四百有八即kak@a等是也迦之聲下十有二文並用迦爲字體以阿阿等韻呼之増其摩多合于聲韻各成形也 khaga伽等聲下例之以成于一章次下十有四章並用初章爲字體各隨其所増將阿阿等韻對所合聲字呼之後増其摩多遇當體兩字將合則容之勿生謂第四章中重lla羅第五重vva房柯反第六重mma麼。第七重nna那等是也十一已下四章如次同上之四章同之除

第二章將半體中ky@a祇耶合於初章迦迦等字之下名kya枳也ky@a枳耶生字三百九十有六枳字幾爾反今詳祗耶當是耶字之省也若然亦同除重唯有三百八十四先書字體三百九十六然將祗耶合之後加摩多夫重成之字下者皆省除頭也已下並同也

第三章將ra囉字合於初章迦迦等字之下名kra 迦上略上kr@a迦平略平生字三百九十有六上略力價反下略力迦反上迦下迦並同略之平上取聲他皆效之也

第四章將la攞字合初章字之下名kla迦攞kl@a迦攞生字三百八十有四攞字洛可反

第五章將va嚩字合初章字之下名kva迦嚩上kva^ 迦嚩平生字三百八十有四嚩字房可反

第六章將ma麼字合初章字之下名kma迦麼km@a迦麼生字三百八十有四

第七章將na曩字合初章字之下名kna迦那kn@a迦那生字三百八十有四

訓読

悉曇しったん字記じき南天竺般若菩提悉曇

大唐山陰さんいん沙門智廣ちこう

悉曇しっだん天竺てんじく文字もんじなり。西域記さいいききに云く、梵王ぼんおうの所製なり。原始、のりるること四十七言しじゅうしちごん物にせて合成ごうじょう事にしたごう轉用てんよう支派しいは流演りゅうえんして其の源、やうやく廣し。地に因り人に隨てすこし改變かいへんあり。而も中天竺ちゅうてんじくを特に詳正しょうせいと爲す邊裔へんえい殊俗しゅうしょく、兼て訛文がもんを習へり。其の大較だいこう本源ほんげん、異なることしとふに、斯れ梗概こうがいなり。このごろこころみ陀羅尼だらにじゅして、音旨いんしとぶらひ求るに差舛しゃせんする所多し。南天竺なんてんじくの沙門般若菩提はんにゃ ぼだい、陀羅尼の梵挾ぼんきょうもつて、南海なんかいより五臺ごだいえつして山房さんぼうやどれるにおうて、ちなんで從ひ受けたり。唐書とうしょ舊翻きゅうほんと、兼て中天の音韻おんいんとをつまびらかにするに、差反さほん無きにあらず。源濫げんらん考覈こうげきするに歸する所、悉曇なり。梵僧ぼんそう自ら云く、少字しょうじにして先師般若瞿沙はんにゃ くしゃに學して、聲明しょうみょう文轍ぶんてつまさ微致びちを盡くせりとす。南天は摩醯首羅まけいしゅらの文をとしく。此れ其れ是れなり。而も中天ちゅうてんかねるに龍宮りゅうぐうの文を以てす。南天と少しき異ること有れども、而も綱骨こうこつ必ず同じ。健駄羅けんだら喜多迦きたかの文、ひとまさ尤異ゆういなりとす。而ども字のよし、皆な悉曇なり。ちなみに其の所出しょしゅつを請ふて研審げんしん翻註ほんちゅうす。即ち其の杼軸ちょじくしなじなにして、以て章を成す。音、少しきことなりと雖ども、文軌ぶんき斯れ在り。絶域ぜついきの典をかんがへて、詭異くいたうとぶにはあら眞言しんごんの唐書を以て梵語ぼんごよぶ髣髴ほうふつなるのみ。に其の本文ほんもんを觀るにしかんや。學者をて、信宿しんしゅくへずしてはるかに梵音に通ぜしめん。字、七千に餘りこう少くして用るに要なり。おおいなるかな聖人しょうにん利物りもつの智なり。總持そうじの一文に理、衆德しゅどくを含むること、其れれに在るをや。未だつぶさに彼の史誥しこう流別りゅうべつを觀ざると雖も、而も内經の運用、まことに亦た備はれり。然れども五天ごてんしらべ、或は楚夏そかごとし。中土ちゅうどの學者、まさに詳正をつまびらかんせよ。ひそか簡牘かんどくを書して、以て遺文いぶんを記す 古へ楚書を謂て胡文と謂ふは、西域の記を案ずるに、其の閻浮地の南に五天の境に、梵人居たれり。地の周り九萬餘里、三埀は大海、北背は雪山なり。時に輪王の運に膺ること無ければ、七十餘國に中分す。其れを總じて五天竺と曰ふ。亦た身毒と曰ひ、或は印度と云ひ、有ひは大夏と曰ふ是れなり。人遠く梵王に羕けたり。大に四姓を分かつ雖も、通じて之を婆羅門國と謂ふ。佛、其の中に現じ玉へり。胡土には非ず。雪山の北の傍ら、葱嶺に臨で即ち胡人居り。其の字、元より製して異ること有り。良に以みれば、境ひ天竺に隣て、文字參はり渉れり。來る所の經論、咸く梵挾に依て風俗す。則ち其の文を效ひ習ふに粗ぼ増損有り。古へより佛經を求請するに、多く彼に於て之を獲たり。魚魯渾淆して、直に胡文と曰ふは謬りなり

其の始めに悉曇と曰ふ。而もいんつ有り長短ふたつに分れて字十有二なり。將に下の章のはじめにかぶらしめて、しょうに對して呼て而も韻をはつす。聲、韻にかなつて、字、しょうず。即ちa 上聲、短に呼べ@a 平聲、長に呼べ等、是れなり。其の中に、r.紇里キリ二合等の四つの文、悉曇に之れ有れども生字しょうじ所用しょように非ざれば、今は略すなり。其の次に體文たいもん三十有五なり。さきの悉曇に通じて四十七言明なり。聲の發する所は則ちぜつこうしん等なり。きゅうしょうかなつて、其の文、おのおの五つなり。遍口へんこうしょうの文に十有り。此の中にraアラ 曷・力・遐の三聲合なりは、生字に於て諸章に遍ずべからず 諸章に之を用れば多くは第八に屬し、及び當體重と成り、或は字と成らず。後に具に論じるが如しllam.ラン聲は全く生用しょうようけつせり。則ち初章より通じてラン、之を除くこと一つ除ける羅字は羅鑒の反餘單章よたんしょうには之を除くこと二つ 囉・羅の二字を除くなり。即ち第二・第三、及び第八・第九・第十の章なり。字、重成に非ず。第一に簡ぶが故に、餘單章と云ふなり重章じゅうしょうには之を除くこと三つ 重成なり。即ち第四・五・六・七、及び第十一已下の四章なり異章いしょうには句の末へ、他の爲に用ひれ、下もを兼て之を除くこと六つ 即ち盎迦の章の字なり。牙・齒・舌等の句の末の第五の字、上の四字の爲に用ひ所れて、亦た更に自重すべからず。故に之を除くなりこれのぞいておのおの遍く能く生ずなり。即ちkakha等、是れなり。生字しょうじの章は一十有七なり。おのおの字を生ずること殆ど將に四百になんなんとして、則ち梵文ぼんもんあらわなり。正章しょうじょうほか孤合こごうもん有り。連字れんじ重成じゅうじょう、即ち字の名なり。十一の摩多また有り。アラは此れ點畫てんがごと兩箇りょうか半體はんだい兼合けんごうして文を阿・阿等の韻、字を生ずるに十の摩多を用ふなり。後の字の傍らの點を、毘灑勒沙尼と名く。此には去聲と云ふ。摩多と爲るに非ず。訖里の章には、一の別の摩多を用ふ。里耶は半體なり。祗耶を用て、半體の囉を兼たり

初章はさきの三十四の文もつて、等の十二韻に對して之を呼んで増すに摩多を以てす。生字四百有八なり。即ちkak@a等是れなり。迦の聲の下の十有二の文は、並びに迦を用て字體と爲して、阿・阿等の韻を以て之を呼んで其の摩多を増す。しょういんに合しておのおの形を成すなり。khaga等の聲の下、之に例して、以て一章を成す。次、下も十有四章まで、並に初章をもつて字體と爲す。おのおの其のす所に隨て、阿・阿等の韻を將て、所合しょごう聲字しょうじに對して之を呼んで、後に其の摩多を増す。當體兩字の將に合せんとするに遇ふときは、則ち之をれて生ずることなかれ。謂く第四章の中の重のlla、第五の重のvva 房柯の反、第六の重のmma、第七の重のnna等、是れなり。十一已下いげの四章は、次での如く上の四章に同なるを以て之に同じく除く。

第二の章は、半體はんだいの中のky@a祇耶ギヤを將て、初章の等の字の下に合して、kyaky@aと名く。生字三百九十有六 枳字は幾爾の反。今、祗耶を詳するに、當に是れ耶字の省なり。若し然ば亦た同く重を除て、唯だ三百八十四有るべし。先づ字體三百九十六を書て、然して祗耶を將て之を合して後に摩多を加へよ。夫れ重成の字は、下なるは皆な頭を省除するなり。已下、並びに同じ

第三の章は、raアラ字を將て、初章の等の字の下を合して、krakr@aと名く。生字三百九十有六 上の略は力價の反。下の略は力迦の反。上の迦、下の迦、並に略の平上に同じく、聲を取るなり。他皆な之に效へ

第四の章は、la字を將て、初章の字の下に合して、klakl@aと名く。生字三百八十有四 攞字は洛可の反

第五の章は、va字を將て、初章の字の下に合して、kvakva^と名く。生字三百八十有四 嚩字は房可の反

第六の章は、ma字を將て、初章の字の下に合して、kmakm@aと名く。生字三百八十有四。

第七の章は、na字を將て、初章の字の下に合して、knakn@aと名く。生字三百八十有四。

脚註

  1. 智廣ちこう

    唐代の人であるという以外、ほとんどその詳細が明らかでない僧。ここで自らを山陰沙門と称しているが、しかし山陰がどこかすら比定出来ない。あるいは越州山陰県(現在の浙江省紹興市周辺)、すなわち支那東部の東シナ海沿岸部を意味し、その出身であったか。

  2. 悉曇しっだん

    [S]siddhaṃの音写。√sidh(成就する・達成する・完成する)の過去分詞(sidh+ta⇒shiddha)の名詞化した中性名詞で、siddhaṃはその主格単数形。その文字自体が「完成されたもの」という賛辞であったか。梵語では今一般にsiddha mātṛkā(完成された字)と称される。
    しかしながら、本書において「悉曇」とは、その文字体系のうち特に十二字(あるいは十六字)の母音についてのみ言うものであって、文字体系すべてを指す称ではないことに注意
    悉曇は七旦とも書かれ、「しったん」と読まれるが、「しっだん」と読むのがその原語siddhaṃからして、また往古に義浄がこれを「悉談」と音写して伝えていることからも正しい。ただし、近世後期の慈雲は悉曇という語について、「siddhāṃ。これを外々の傳の梵文は。siddhaṃと引點なしに書することも有り。今の相承はsiddhāṃシダアンなり。常に言ときは七旦シッタンと呼べし。正く十八章傳受のときはsiddhāṃ悉曇シダアンと呼べし」としている。慈雲は「法隆寺貝葉」を見ており、そこに「siddhaṃ」と引点が付されておらず「siddhaṃ」とされていることを知っていた。しかしながら、相承を非常に重要視した慈雲は、悉曇の原語について空海が『梵字悉曇并釈義』において(誤って)伝えたものを相承としては正であるとし、これを「シダーン」と読むべきとした。

  3. 天竺てんじく

    古代支那におけるインドの称。語源未詳。支那ではまた身毒あるいは賢豆とも称していたが、玄奘は印度(indu)というのが正しいとし、その意は月であるとした。

  4. 西域記さいいきき

    玄奘『大唐西域記』(以下、『西域記』)巻二「詳其文字。梵天所製原始垂則。四十七言也。寓物合成隨事轉用。流演枝派其源浸廣。因地隨人微有改變。語其大較未異本源」(T51, p.876c)。ただし、ここで引かれる一節は後半部に少しく異なる点がある。

  5. 四十七言しじゅうしちごん

    梵字の悉曇(母音)・体文(子音)における四十七音とその字。この一節において玄奘は『大唐西域記』にて「四十七言也」(T51, p.876c)とするが、義浄は『南海寄帰内法伝』巻四にて「本有四十九字」(T54, p.228b)と報告しているように、その依る書によって根本の字として挙げられるものに四十七字から五十一字まで所説ある。
    しかしながら、やはり玄奘がそう言ったように、四十七字をその根本とする説が正しい。なぜそう言うかは本書を見ることによって理解できるであろう。

  6. 物にせて合成ごうじょう

    なんであれあらゆる物に対し、何か一音あるいは音の組み合わせを以てその名とすること。例えば、我々が今「世界」または「宇宙」あるいは漠然と「場」と称するものに対し、梵語でloka(ローカ)と云い、梵字悉曇でlokaと書くようなこと。例外はままあるものの、梵語においてlo(lo)あるいはka(ka)などただ一字のみでは意味を成さないが、その音・字の組み合わせによって単語となり、意味を生じること。

  7. 事にしたごう轉用てんよう

    動作を表す語(動詞)には、その主体の数により種々の活用の別があること。また語根から諸々の名詞等を転じて生じさせ、その名詞の性(男性名詞・女性名詞・中性名詞)により活用の別があること。梵語の文法を意味した言。

  8. 中天竺ちゅうてんじくを特に詳正しょうせいと爲す

    日本では悉曇の相承、その字形と発音において中天竺と南天竺の異なりがあると云われ、特に真言宗では中天竺を正統とする見方があるが、それは先ず玄奘のこの一説に基づく。

  9. 殊俗しゅうしょく

    変わった風俗や習慣。異俗。異習。しゅぞく。

  10. 大較だいこう

    あらまし。概略。

  11. 本源ほんげん

    ここでは四十七言、すなわち梵字悉曇の四十七字の字形。

  12. 梗概こうがい

    あらまし。概略。

  13. 陀羅尼だらに

    [S]dhāraṇīの音写。読誦し三昧に入ることにより念慧の力を強めて事物をよく記憶させるもの。呪、総持、能持、能遮などと漢訳される。
    『大般若経』巻三百四十七「汝等若能受持如是甚深般若波羅蜜多陀羅尼者。則爲總持一切佛法」(T6, p.785a)
    『仏地経論』巻五「陀羅尼者。増上念慧能總任持無量佛法。令不忘失。於一法中持一切法。於一文中持一切文。於一義中持一切義。攝藏無量諸功徳故名無盡藏」(T26, p.315c)

  14. 差舛しゃせん

    違い誤っていること。

  15. 般若菩提はんにゃ ぼだい

    [S]Prajñabodhi. 本書の著者智廣の梵学の師。智廣に同じくその詳細が伝えられていない人。一説に空海が師事した醴泉寺の般若三蔵かとも云われるが、伝承と撞着して諸々の不審があり、まず異なるであろう。

  16. 梵挾ぼんきょう

    梵本。梵字で書かれた典籍。特に乾燥させた多羅葉の本末を断ち切って長方形にし、裏表の表紙に同形の木板で挟みこみ、それらの中央部に二箇所小さな穴を開けて糸を通し綴じたもの。

  17. 五臺ごだい

    五台山。現在の中国北部、山西省にある山脈の主峰五山。文殊菩薩の住処たる清涼山として古来、支那ばかりか印度・西蔵からも信仰された霊山。

  18. 舊翻きゅうほん

    玄奘以前の古訳・旧訳の仏典。特にそこで為された梵字の音写。

  19. 考覈こうげき

    考えて調べること。こうかく。

  20. 少字しょうじ

    小字。幼名。ここでは幼少、幼い頃の意。

  21. 般若瞿沙はんにゃ くしゃ

    [S]Prajñaghoṣa?(智音?). 般若菩提の師として挙げられるが一切未詳。

  22. 聲明しょうみょう

    [S]śabda-vidyā. 梵語の音韻・文法学。印度における伝統的五種の学問、五明の一。

  23. 摩醯首羅まけいしゅら

    [S]Maheśvara. 大自在天。いわゆるŚiva神。

  24. 中天ちゅうてんかねるに龍宮りゅうぐうの文を以てす

    智廣が般若瞿沙から聞いた、梵字悉曇は梵天の所製ではあるが、中天竺ではそれを根本としつつ「龍宮の文」を交えたものが行われているとする伝承。ここで「龍宮の文」とはいかなる意味であるか明瞭でない。しかし、一つの可能性として、八世紀の中印度にて形成されたNāgarī(後代のDevanāgarī)文字が、まさに八世紀の中印度にて流通しだしていたこと示唆する一節であるか。であるとするならば、般若菩提は智廣にこれを話し、しかし智廣はいわゆる悉曇以外に文字が印度に有り、また新たに有り得ることを理解出来ずこのように記したか。ここに云う「兼ねる」ということがどういうことか。我が推測が正しいとして、その一例は日本に伝わる「法隆寺貝葉」にある幾つかの字に見ることが出来る。例えばlo字である。本書でla字はloという字体で記されるが、「法隆寺貝葉」ではloである。この本体となるla字は、印度で現行のDevanāgarīの字体とほぼ同様であるが、摩多の点じ方は悉曇のそれである。まさに字が「兼ね」られているのをここに見ることが出来よう。
    後代、安然は『悉曇蔵』において悉曇の相承に四種ありとし、智廣がこのように記したことを根拠とし、さらに龍樹が『華厳経』を龍宮にて得て伝えたなどという伝承を斟酌して合し、そのうちの一つは龍樹が龍宮から受けたものとした。「二承龍宮者賢劫千佛四佛已出各至法盡皆移龍宮。今我釋尊滅後初五百年小乘教興。諸大乘經皆移龍宮。後五百年大乘教興。龍樹菩薩入海取經。所傳中天兼龍宮文者即是也」(T84, p.372a)。しかし、これは安然による臆説の甚だしきものの一つであって、印度および支那にこれを支持する伝承はない。

  25. 綱骨こうこつ

    核心。大綱の骨髄、或る事物の根本。

  26. 健駄羅けんだら

    Gandhāra. 現在のパキスタン・ペシャワール周辺部。

  27. 喜多迦きたか

    未詳。
    この語について、安然は『悉曇蔵』にて「其北天竺犍駄羅國喜多加文。其雪山北胡地文字元制有異」(T84, p.365b)あるいは「犍駄羅國喜多迦文是北天本。迦字可作加字。或與加字同音。故便書之」云々(T84, p.372c)などと説明を加えようとしているが臆説。

  28. 杼軸ちょじく

    書。あるいは文章を構成すること。

  29. 絶域ぜついき

    外国。遠く離れた地。

  30. 詭異くいたうとぶにはあら

    当時の支那僧らにおける外国語に対する、それがたとえ印度におけるものであったとしても、いわゆる中華思想に基づいた見方を示した一節であろう。このようないわば弁解の辞ここで述べていることは、当時異国の字記を筆することに対していくらかでも奇異な眼があり、あるいは批判する者があった証に他ならない。

  31. 髣髴ほうふつ

    ぼんやりとしてはっきりしない様。

  32. 信宿しんしゅく

    二晩、同じ場所で泊まること。ここでは二日の意。

  33. 總持そうじ

    陀羅尼(註.12)に同じ。

  34. 史誥しこう

    史は朝廷において書を司る官名。誥は天子や王から家臣への言葉、勅命・王命。ここでは天竺における勅命や歴史を記した書の意。印度ではそれを[S]Nīlapiṭa(ニーラピタ)と云い、玄奘はそれを尼羅蔽荼と音写している。智廣はここで玄奘などを念頭に「実際に印度にいかなくとも」の意で言ったのであろう。『大唐西域記』巻二「至於記言書事各有司存。史誥總稱謂尼羅蔽荼 唐言青藏 善惡具擧災祥備著」(T51, p.876c)

  35. 五天ごてん

    印度を東・西・南・北・中と五つの地方に分けた称。

  36. 楚夏そか

    楚は春秋戦国時代の七雄の一で、渭水と長江の間に展開した古代国家。ここでは辺境の意。夏は黄河中流域にあった古代国家。古代の支那人は黄河中流域を中原といい、その限られた範囲を世界の中心と見てそれ以外の地方を蛮夷とした。ここでは中央の意同じ支那でも時代と土地により、使う文字は同じであっても、その発音が異なっていたこと。

  37. 中土ちゅうど

    支那。

  38. 簡牘かんどく

    文書。紙のない、あるいは貴重な時代に、竹や木などを削って書いたもの。

  39. 魚魯渾淆ぎょろこんこう

    魚と魯の字が似て誤りやすいこと。『抱朴子』内篇・遐覧「故諺曰、書三寫、魚成魯、虚成虎(故諺に曰く、書は三たび写せば魚は魯と成り、虚は虎と成ると)」に基づく語。一般に「魯魚亥豕(ぎょろがいし)」。

  40. いんつ有り

    韻とは響き、音声。ただし、本書において智廣は原則として「韻」と「聲(声)」とを別物としている点に注意。「声」は子音について言うものとしている(但し、一部ではただ「音」の意味でも用いている)。
    ここでの韻とは、母音のうち特にa (a)・i (i)・u (u)・e (e)・o (o)・aṃ (aṃ)の六つを指す。

  41. 長短ふたつに分れて字十有二なり

    智廣は先に挙げた六字を短韻とし、その長韻はā (ā)・ī (ī)・u (ū)・ai (ai)・au (au)・aḥ (aḥ)があって計十二字となるとする。そして、その十二韻を基本とし、以下に述べる子音に適用させるべきことが云われる。

  42. 紇里キリ二合等の四つの文

    悉曇(母音)のうち、先に挙げられた十二韻以外の四字、すなわちṛ (ṛ)・ṝ (ṝ)・ḷ (ḷ)・ḹ (ḹ)。これらは現実にはほとんど用いられない音であり、実際本書においてもその用例を幾つか示すのみであるため、悉曇(母音)ではあっても別個に扱われる。おそらく、たとえばパーリ語など印度における俗語にこれら四つの母音は欠いてないことからも、印度でも一般には他の音が代用されていたのであろう。しかし、梵語(サンスクリット)はその音を厳密に保存したのであろうが、やはり所用はそれほど多くなかったようである。

  43. 生字しょうじ

    母音を示すいわば記号のうち十点。すなわち摩多の(-ā)・(-i)・(-ī)・(-u)・(-ū)・(-e)・(-ai)・(-o)・(-au)・(-ḥ)の十点。摩多については後述(註.59)。

  44. 體文たいもん

    [S]vyañjana. 子音。また字母(じも)と云う。

  45. ぜつこうしん

    五類声(ごるいじょう)、あるいは五五相随声(ごごそうずいしょう)とも。梵語の子音のうち、後述する遍口声を除いた廿五字の発音の仕方として、口中にてその発せられる部位により五つに分類したもの。
    ・牙声([S]kaṇṭhya. 軟口蓋音)
    歯声([S]dantya. 歯音)
    ・舌声([S]mūrdhanya. 反舌音)
    喉声([S]tālavya. 口蓋音)
    ・唇声([S]oṣṭhya. 唇音)
    以上の五類声のうち歯声および喉声について、その訳語の順に混乱、あるいは訳としての錯誤が見られる。歯声と喉声は梵語本来の順からいえば倒錯しており、歯声はその第四に、喉声はその第二に挙げられるべきもの。したがって、これら漢訳された五類声について、特に第二と第四については原語と異なってその要を云い得たものでないことに注意しなければならない。この誤りによる後代への影響は非常に大きく、梵字の発音理解に甚だしい混乱をもたらした。

  46. きゅうしょう

    古代支那の音楽における五つの基本音階、宮・商・角・徴・羽の五音(ごいん)の最初の二音を例示し、その全てを言わんとした語。
    この一説から、智廣は梵語の五類声と支那の五声(五音)とを同じものであると考えていたことが知られる。実際、この一説を根拠に後代、五類声のいずれが五声の何に該当するか日本で諸説乱立した。
    しかし、そのような理解は最初から誤ったものであって、五類声と五声に関連性は全く無い。

  47. 遍口へんこうしょうの文に十有り

    五類声以外の子音を遍口声、あるいは満口声(まんこうしょう)といい、本書ではこれにyaralavaśaṣasahallaṃkṣaの十字を挙げる(※遍口声として挙げれられる字数には諸説あるが、本書では十)。

  48. raアラ 曷・力・遐の三聲合なり

    ra字であるraを何故に日本では「アラ」などと(サンスクリット本来的にありえない読みを)訓じるのか?その原因は本書における智廣のこの自註にある。智廣は般若菩提からraの発音を聞いたとき、これを「曷力遐の三聲合(曷・力・遐の三聲合なり)」と理解していたのである。梵語のraの音が「曷・力・遐の三音」から成っている、という特殊な理解は、あるいは般若から音韻学の一環として聞いたことも一応考えられるであろう。しかし、智廣がここで梵字でなく漢語で示しているということから、その可能性は極小さい。もし印度の音韻学由来の特殊な理解であれば、(そのような理解が印度にあったとは寡聞にして知らないが)raについて同じく梵字で示したであろう。そこでまた智廣は、raの半体rka(後述)を冠する文字を「阿勒~」と音写、すなわち「囉」を阿勒としている。
    まず、「曷・力・遐」の各字は日本で「ア・リ・カ」と読まれた。そしてまた「阿勒」を往古の日本人は「アロ」と読んだ。したがって、ra字および囉は仮名で「アラ」と訓じられるようになったのである。しかしながら、「アラ」と訓じられていても、日本語でそのままはっきりと「アラ」と発音してはならない。これはあくまで反舌で「ra」を発音すべきことの表記として理解すべきものである。例えば現代、英語にてLとRの発音の違いを教え、その発音が出来ない生徒に対して、Rの場合は「ウラ」と云えというようなものである。実はこの智廣の自註がどういうことか往古の日本でもよく理解されず、それら三字の反切である等と混乱した解釈を生んでいた。そこで慈雲は反切とする説を否定し、最初の「曷」は発音する前の口の形、その勢いを示したものであるなどという理解をしている。
    なお、音写として充てられている漢字「囉」は、不空が梵字を漢語に音写するに際し、それがlaでなくraであることを示し、両者の混同を防ぐために新たに作り出したもの。
    以上の経緯によって日本でra字を伝統的に「アロと訓じ表記してきたこと」は致し方ないことながら、しかし実際にこれを日本語で「あろ」などと発音することは梵語としてありえず、全く誤りとなることに注意。悉曇の発音について、空海や円仁、宗叡など入唐して印度僧などから直接その韻を聞いた者、特に漢語を話し得た者ならば、まずその発音はおおよそ正しく為し得たであろう。そしてそれが日本語や漢語の音韻とも異なるものであることを、その表記方法は必然的に漢語に頼らざるを得なかったとしても、当初の先師らはきっと理解していた。そこで現代の我々も、日本語としての表記と実際の発音は確実に違っていたと考えなければならない。

  49. 當體重とうたいじゅう

    同じ字を切り継ぎして別の字とすること。自重に同じ。
    ここではrraの当体重であるrraは、その法則からすれば第三章と第八章とにも有るべき字であるが、第十八が特に当体重を摂める章であることから、それらの章からは除くことを言ったもの。

  50. 生用しょうよう

    生字(註.42)を点じること。llam.字にはすでに空点(anusvāra)が付されており、原則としては、これにさらに重ねて生字(摩多)を点じることは出来ないことから、生用を欠くとする。

  51. 餘單章よたんしょう

    第二・第三・第八・第九・第十章の総称。単章とは、ただ体文一字すなわち単字に十二点(摩多)を付す章であることから第一章のこと。例えば第二章は第一章の体文三十四字にya(ya)字を下に合わせる章ではあるものの、yaが体文であっても摩多の用を兼ねるものであることから、その他の重章に比して軽く、しかし単章ではないことから余単章と称される。

  52. 重章じゅうしょう

    第四・五・六・七・十一・十二・十三・十四章の総称。

  53. 異章いしょう

    第十五章の異称。第十五章のみ、その他の章における規則にそぐわない字を収録する特異なものであることによる称。

  54. 盎迦あうきゃの章

    第十五章の初めの字がṅka(ṅka)盎迦であることに基づく異称。これをなぜ盎迦などと音訳しているかは本書に後述。

  55. これのぞいて

    本稿にて底本とした澄禅本では「自除之餘」を「之を除いて自り餘は」と読み下しているが、慈雲はその読みを誤りであると断じの之を除いて餘は」と読むべきであるとしている。慈雲の読みが正しいであろう。

  56. 生字しょうじの章

    十八章のうち孤合章(第十八章)を除いた十七章すべて。

  57. 正章しょうじょう

    生字の章に同じ。十八章のうち第十八章を除いた十七章すべて。一定の規則に基づいた章であることによる称。

  58. 孤合こごうもん

    第十八章に摂せられる字。第十七章までの規則次第と合わず、独り特異な章であることから第十八章は孤合章といわれる。どのように異なるかは本書を次第して観ることにより明らかとなる。

  59. 連字れんじ重成じゅうじょう

    必ずしも定かでないが、一説に連字は異体重(異なる字の切継)、重成は同体重(同じ字の切継)。

  60. 十一の摩多また有り。アラは此れ點畫てんが...

    この原文の一節「有十一摩多囉此猶點畫」は、ここで一応それに従って記したように底本(澄禅本)では「十一の摩多有り。囉は此れ點畫の猶し」と読み下されている。これは澄禅独自の読みでなく、中世以来の読みに準じたものであった。しかし、慈雲はその読みを「有ルが囉ハ此レ點畫ノ猶シと訓ずるは非也」と誤っているとし、宗叡『悉曇私記』(以下、『林記』)における読み「問下文皆云摩多今何云摩多羅 答此具彼略文如設利羅云舎利也」に従って「摩多囉」を本来の語であるとし、「十一の摩多囉有り。此れ點畫の猶し」と読んでいる。これも慈雲の読みが正しいであろう
    摩多囉はおそらくmātāraḥの音写で「母」を意味する女性名詞mātṛの主格複数形。そして本書にて多く用いられる「摩多(麼多)」は同じくmātṛの主格単数形mātāの音写。いずれにせよ、その原語に則して言えば母音のことであるが、本書において摩多は特に母音の十二点画を意味していることに注意。
    ところで、慈雲はここに云われる「十一摩多」について、十二韻からa(a)とaḥ(aḥ)とを除き、別摩多のṛ(ṛ)を加えた十一字と解している。しかし、ここでの智廣の言「阿・阿等の韻、字を生ずるに十の摩多を用ふ」に従っていえば、ただ十二韻からaḥ(aḥ)を除いた十一韻を指したものと思われる。
    點畫(点画)とは、十二韻のうち例えばi(i)は-i(-i)、o(o)は-o(-o)など、体文に付してその韻を変える時に用いるいわば記号。

  61. 兩箇りょうか半體はんだい

    半体とは体文の字の半分。子音を二つ以上組み合わせて一つの字を作ることを切継(きりつぎ)というが、その場合には各字の上あるいは中あるいは下半分を切り取り、もしくは変形させたものを用いる。例えばṛ(ṛ)の半体は-ṛ(-ṛ)など、字によっては大きく変化する。上部の半体の場合、母韻を脱落させてその子音を先とし、下部の半体の場合はその音が後となって母韻を伴う。
    ここで「両箇の半体」とは、ra(ra)の半体llam.(r-)とya(ya)の半体-ya(-ya)を意味する。その二箇の半体を合せばr-(rya)となる。
    また半体にはもう一義あり、体文の変形とされない独自の字、あるいは記号をいう。たとえば、後述する-ya祇耶という字や、母韻を脱落させる点画「怛達(たたつ)」も半体と云われる。

  62. 毘灑勒沙尼びさるしゃに

    [S]visarjanīya. 語末にḥを付す点画-ḥ。今一般にvisarga(ヴィサルガ)と言い、悉曇学ではこれを涅槃点と言う。

  63. 訖里キリの章

    第十六章。その初めの字がkṛであることに依る称。

  64. 里耶リヤ

    r-(rya)

  65. -ya祇耶ギヤ

    ya(ya)の半体ya(-ya)。なぜya也(ya)の半体である筈のyaを、本来無い音である祇を付して「祇耶」などと表記するのか。
    それはyayaの「省」と見るのと「別体」、すなわち独立した一箇の字と見るのと二つの見方があったことに基づいたものであった。智廣は一応、これを別体として本書で扱っており、そのため「耶」でなく「祇耶」であるとしたようであるが、同時に省略(半体)であるとの見方も述べており、その自註において断りをいれている。あるいは(その真偽はともかく)印度においてそのような見方があることを般若菩提から聞き、智廣は伝えているのかもしれない。
    しかしながらその発音については半体一字の場合の特別の称であって、他字と合成して連字に読んだ場合は「耶」と読むと解された。これに絡めて漢語の四声を以て様々に説明されてきたが、それ以外に方法が無かったため致し方ないことであるものの、いずれも見当違いの説である。今の見地からすれば、要は本来の字体と半体とを表記の上、読み分けるために付した便宜の称と理解するべきであろう。

  66. さきの三十四の文

    体文(子音)三十五字のうち、llaṃ(llaṃ)を除いた三十四字。

  67. おのおの其のす所

    第二章から第七章は、第一章の体文三十四字に、順にya(ya)・ra(ra)・la(la)・va(va)・ma(ma)・na(na)を能合の字としてその半体を下に合成し、第七章以下は、それら六章の各字に、ra(ra)の半体を上に合成すること。

  68. kya

    ka(ka)+ya(ya)=kya(kya)
    ka(k-)はka(ka)の半体。

  69. 已下いげ、並びに同じ

    第三章以下の諸章はいずれもこの例に倣うこと。ただし、第八章は単章であり、第十五章は異章であることから例外として除く。

  70. kra

    ka(ka)+ra(ra)=kra(kra)
    ra(ra)を能合の字として下に付す場合、その半体は-ra(-ra)となる。
    ここで不審であるのは、ra囉(ra)の半体`-ra(-ra)を合したものであるにも関わらず、何故にkra(kra)を「迦囉」とせず「迦略」と対訳しているのかという点である。慈雲はこれについて、囉は本来四声の入声であるが、これを異体字と合した場合、それが上声あるいは入声となることを示すために「囉」でなく「略」とされている、と理解している。智廣は自身のこのような音訳の用い方、使い分けた理由について何ら言及していないため、その真偽は不明である。
    いずれにせよ、このような音写に用いる字の不統一は、智廣が(支那人である彼自身が理解した)その微細な音の異なりを極力正確に漢語に写し表現しようとした結果のことであったろう。しかし、それはより後代の、しかも異邦の者には種々の混乱を引き起こすことになった。今、我々はローマ字表記によってこれを極簡単に単純に見ることが出来るが、当時の日本はもちろんそのような手立てがなく、古代から中世まではあくまで漢語における四声や反切をのみ頼りとした。そして近世、江戸時代中期からは、唐末に編纂された『韻鏡』のような支那の古音を伝える典籍を頼りとするようになったが、それ以外に梵語の音を探る手立てが無かった。したがって、その理解は非常に迂遠で、時として明後日の方向に飛躍したものとならざるを得なかった。

  71. kla

    ka(ka)+la(la)=kla(kla)

  72. kva

    ka(ka)+va(va)=kva(kva)

  73. kma

    ka(ka)+ma(ma)=kma(kma)

  74. kna

    ka(ka)+na(na)=kna(kna)

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