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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

智廣 『悉曇字記』

原文

第八章將半體na囉加初章字之上名rka阿勒迦 rk@a阿勒迦生字三百九十有六勒字力德反下同

第九章將半體na囉加第二章字之上名rkya阿勒枳耶rky@a阿勒枳耶生字三百八十有四若祗耶是耶省亦同除重

第十章將半體na囉加第三章字之上名na阿勒迦略na阿勒迦略生字三百九十有六略平上

第十一章將半體na囉加第四章字之上名na阿勒迦羅na阿勒迦羅生字三百八十有四

第十二章將半體na囉加第五章字之上名na阿勒迦嚩na阿勒迦嚩生字三百八十有四

第十三章將半體na囉加第六章字之上名na阿勒迦麼na阿勒迦麼生字三百八十有四

第十四章將半體na囉加第七章字之上名na阿勒迦那na阿勒迦那生字三百八十有四

第十五章以nanananana波等句末之第五字各加於當句前四字之上及初句末字加後耶等九字之上名na盎迦na安遮na安吒na安多na唵波na盎耶等其必不自重唯二十九字不由韻合名爲異章各用阿阿等韻呼之生字三百四十有八盎字阿黨反安字並阿亶反唵字阿感反

第十六章用迦等字體以別摩多合之謂之na訖里成字三十有四或有加前麼多得成字用非遍能生且𢴃本字言之今詳訖里之麼多祗是悉曇中里字也

第十七章用迦等字體參互加之有三十三字隨文受稱謂na阿索迦等各用阿阿等韻呼之生字三百九十有六

第十八章正章之外有孤合之文或當體兩字重之伹依字大呼 謂多闍吒拏等字各有重成也 或異體字重之即連聲合呼 謂悉多羅等是也 或不具通麼多止爲孤合之文 即瑟吒羅等字有通三五麼多也 或雖生十二之文而字源不次其猶之孤即阿悉多羅等也或雖異重不必依重以呼之此五句之末字加其句之初即名盎迦等屬前章也 或兩字聯聲文形其後聲彰其前如麼盎迦三合等字似云莽迦等也或字一而名分如沙字有沙孚 府珂反二音猶假借也或用麼多之文重増其麼多而音必兼之 如部林二合字從裒菩侯反力鉤反與第十一摩多也 或形非麼多獨爲嚴字之文 如字之上有仰月之畫也 或有所成而異其名 謂數字重成一字而其下必正呼中上連合短呼之不必正其音如上娑下迦稱阿索迦等也 或有其聲而無其形 此即阿索迦章等字字則無阿讀之皆帶其音也 或不從字生獨爲半體之文 如怛達祗耶等用則有之字體無也 或字有所闕則加怛達之文而音掣呼之 如迦佉等字下有達畫則云秸吉八反苦八反等也 或源由字生増于異形 如室梨字猶有奢羅之象錯成印文若篆籕也 或考之其生異之其形 訖里倶羅倶婁等從迦之省及胡盧等文麼多之異猶草隷也 斯則梵書之大觀焉

訓読

第八の章は、半體はんだいnaアラて初章の字の上に加へて、rka阿勒アロキヤrk@a阿勒アロキヤと名く。生字三百九十有六 勒字は力德の反なり。下も同じ

第九の章は、半體のnaアラを將て、第二の章の字の上に加へて、rkya阿勒アロrky@a阿勒アロと名く。生字三百八十有四なり 若し祗耶は是れ耶の省ならば、亦た同く重を除く

第十の章は、半體naアラて、第三の章の字のうえに加へて、na阿勒アロna阿勒アロと名く。生字しょうじ三百九十有六なり 略は平上なり

第十一の章は、半體naアラを將て、第四の章の字の上に加へて、na阿勒アロna阿勒アロと名く。生字三百八十有四なり。

第十二の章は、半體のnaアラを將て、第五の章の字の上に加へて、na阿勒アロna阿勒アロと名く。生字三百八十有四なり。

第十三の章は、半體のnaアラを將て、第六の章の字の上に加へて、na阿勒アロna阿勒アロと名く。生字三百八十有四なり。

第十四の章は、半體のnaアラを將て、第七の章の字の上に加ふ。na阿勒アロna阿勒アロと名く。生字三百八十有四なり。

第十五の章は、nanananana等の句のすえ第五だいごの字を以て、おのおの當句とうくさきの四字の上に加へ、及びはじめの句のすえの字を、後の等の九字の上に加へて、naアウキャnaアンシャnaアンnaアンnaアンnaアウ等と名く。其れ必ず自重じじゅうせざれば、唯し二十九字なり。いんに由てあわせざればなづけ異章いしょうと爲すおのおの阿・阿等の韻を用て之を呼べば、生字三百四十有八なり 盎の字は阿黨の反。安の字は並に阿亶の反。唵の字は阿感の反なり

第十六の章は、等の字體を用ひ、別の摩多またを以て之にあわすを、之をnaと謂ふ。字を成ずること三十有四なり 或は前の麼多を加へて成字の用を得ること有れども、遍能生に非ざれば、且く本字に𢴃て之を言ふ。今、訖里の麼多を詳にするに、祗く是れ悉曇の中の里字なり

第十七の章は、等の字體を用ひ、互ひにまじらへて之を加ふるに三十三字有り。もんに隨てしょうを受く。謂くna阿索アソキャ等なり。おのおの等の韻を用て之を呼べば、生字三百九十有六なり。

第十八の章は、正章しょうじょうほか孤合こごうもん有り。或は當體とうだい兩字りょうじ、之をじゅうせば伹し字に依て大呼たいこせよ 謂く多・闍・吒・拏等の字は各重成有るなり。或は異體いたいの字、之をじゅうせば、即ち連聲れんじょうして合呼がつこせよ 謂く悉多羅等、是れなり。或は通麼多つうまたを具せずして、孤合こごうもん爲り 即ち瑟吒羅等の字、三五の麼多に通ずること有り。或は十二の文を生ずと雖も、而も字源じげんついでならざれば、其れほ之れたり 即ち阿悉多羅等なりある異重いじゅうすと雖も、必ずしも重に依て以て之を呼ばず 此れ五句の末の字を、其の句の初めに加て、即ち盎迦等と名く。前の章に屬すなり。或は兩字りょうじ聯聲れんじょうして文は其のあらわれ、こえは其のきにあらわ 麼盎迦三合等の字を莽迦等と云ふに似たるが如し。或は字は一にして而も分かれたり 沙字に沙と孚府珂の反と二音有るが如し。假借の猶し。或は麼多またを用る文に重ねて其の麼多を増して、而もこえ必ず之を兼ねたり 部林二合の字、裒菩侯反力鉤反、第十一の摩多とに從ふが如し。或は形ち麼多に非ずして、ひと嚴字ごんじの文たり 字の上に仰月の畫有るが如し。或はじょうずる所れども、而も其の名をことにせり 謂く數字重じて一字を成るとも、而も其の下を必ず正しく呼び、中上をば連合して短に之を呼んで、必ずしも其の音を正しくせざる。上の娑、下の迦を阿索迦等と稱するが如し。或は其のこえ有て、而して其のかたち無し 此れ即ち阿索迦の章等の字なり。字に則ち阿無けれども之を讀む。皆な其の音を帶せり。或はり生ぜずして、獨り半體はんだいの文を爲す 怛達・祗耶等の如きは用いようは、則ち之有れども字體無きなり。或は字にけたる所有れば、則ち怛達たたつの文を加へて、而も音をひいて之を呼ぶ 迦・佉等の字の下に達の畫有れば、則ち秸吉八反苦八反等と云ふが如し。或はみなもと、字に由て生じて異形いぎょうを増す 室梨字の如きは、猶し奢羅の象を有るを錯ばめて印文と成す。篆籕の若し。或は之を考るに、其のしょう、其のかたちに異となり 訖里・倶羅・倶婁等は、迦の省に從ふ。及び胡・盧等の文は、麼多の異なり草隷の猶しれ則ち梵書ぼんしょ大觀たいかんなり。

脚註

  1. ra-アラ

    -ra(ra)の半体(上)。既述(本稿①-註.47)したように、「囉」とは不空が梵字を漢語に音写するに際し、それがlaでなくraであることを示すため、新たに作り出した文字の一つ。日本でこれを何故「アラ」などと読むようになったかは、ここで智廣が続いてその二合の文字rkaを「阿勒迦」、すなわちra-「囉」を阿勒としたことに基づき、これを往古の日本人が「アロ」と記したことによる。
    伝統的には、なんであれra-囉と切継した一字をのみ読む場合には「アラ~」あるいは「アロ~」と読むけれども、他字と合して単語として読む場合、たとえば一切を意味するsarva(sarva)は「薩羅婆(サラバ)」として「ア」を読まないなどと理解されてきた。しかし、一字であれ連字であれ、表記上は「アラ」とされていても、実際に日本語として「アラ」と発音することは明らかな間違いであり、あくまで表記上の便宜のためであったと理解しなければならない。

  2. rka阿勒アロキヤ

    ra(ra)+ka(ka)=rka(rka)

  3. rkya阿勒アロ

    rka(ra)+rka(ka)+ya(ya)=rkya(rkya)
    yaの半体は場合によってka-となる。yaの半体は-ya

  4. na阿勒アロ

    ra(ra)+ka(ka)+rka(ra)=rkra(rkra)
    rkaの半体(下)はrka

  5. na阿勒アロ

    rka(ra) +rka(ka)+la(la)=rkla(rkla)

  6. na阿勒アロ

    rka(ra)+rka(ka)+va(va) =rkva(rkva)

  7. na阿勒アロ

    rka(ra)+rka(ka)+ma(ma) =rkma(rkma)

  8. na阿勒アロ

    rka(ra)+rka(ka)+ma(na) =rkna(rkna)

  9. nanananana

    それぞれka迦(ka)は牙声、ca遮(ca)は歯声、ṭa吒(ta)は舌声、ta多(ta)は喉声、pa(pa)波は唇声の句(音列)の最初。

  10. 第五だいごの字

    牙声の句の第五ka(ṅa)(ṅa
    歯声の句の第五ña(ña)
    舌声の句の第五ṇa(ṇa)(ṅa
    喉声の句の第五na(na)(ṅa
    唇声の句の第五ma(ma)

  11. はじめの句のすえの字

    ka(ṅa)

  12. naアウキャ

    ṅa(ṅa) +ka(ka) =ṅka(ṅka)
    naに同じ(ṅaṅaの異体)。
    単字では「哦」(日本では「ギャウ」等と訓じられる)と音写されるṅa(ṅa)が、何故に「迦盎」などと全く異なって対訳されるのか。これについて、智廣は何の理由も述べていない。
    後代、日本の宗叡はここで音が何故に変わるか何らの註釈も付していない(『林記』)。しかし、安然はṅaṅaṅaṅaṅaの五字について、『大日経疏』巻十四に「若見仰等五字。當知即大空之點也。大空離一切諸相」とあることに依って、「大日疏云。仰等五字各加上字以連前字皆如空點。野等九字以連前字。前字之音皆如涅槃」などと云い、さらに「然夫一切大空涅槃本音皆有自體三類之音。一切大空涅槃連聲皆有下字三類之音。盎迦章字亦有自體三類之音。其字連聲亦有上字三類之音。所以悉曇章中大空且呼脣内之聲。涅槃且呼喉内之聲。既有外内豈無中間」として、(率直に言って不可解な)独自の連声説によって説明しようとしている(『悉曇蔵』・『悉曇十二例』)。これについて、慈雲は「ṅaṅaṅaṅaṅaの五字は空點を主とる字なり。それゆへṅa等の五字。本音の如きのギヤウと呼ばずに。音を轉じて盎迦安遮等と呼フなり。此ノṅa等の五字空轉を主ることは大日経奥疏に出づ。此ノ五字を自在の義と云フ。天竺字源の第十章は。此ノ十五章の建立と。法は同なれども音は別なり。na誐葛二合 na倪拶二合 ṇṭa拏哳二合 等なり。天竺も國に依て異傳あるか。又安然などの三内の空點と云フことを建立して。ウは喉無い。ンは舌内。ムは唇内などゝ云はれしは能イ加減な妄説なり」と、『大日経疏』に基づいて音が変わるとする説をいうものの、安然の説は全否定している。『大日経疏』で空点に通じるとした説は要するに、それら五字がすべて鼻音であることを言ったもの。
    結局、これは何やら思想的迂遠な話でなく、例えばṅa(ṅa)とka(ka)を合するとṅaの母音aが脱落してṅkaとなるが、支那人である智廣の耳には母音を伴わない子音のみのṅが盎と聞こえたということに過ぎないのであろう。これを今強いて片仮名で表したならば「ガカ」となるが、それはローマ字を前提としてこそそう云えたものである。漢字をのみ頼りとした往古の日本では無論そのようなことは出来ず、唐代の智廣が意図した音とは異なって「盎」を「アウ」と読み、あるいは他の鼻音四字もすべて「ア」にかかる音であるとして理解した。特に近世中期以来、『韻鏡』に依って梵字の対訳につけられた漢字の音を理解しようとする動きがある程度一般化するが、それによってむしろ例えば「盎」を「アウ」あるいは「アン」であると読む以外の可能性はなくなった。以下同。

  13. naアンシャ

    ña(ña) +ca(ca) =ñca(ñca)

  14. ṇṭaアン

    ṇa(ṇa) +ṭa(ṭa) =ṇṭa(ṇṭa)

  15. ntaアン

    na2(na) +ta(ta) =nta(nta)

  16. naアン

    ma(ma) +pa(pa) =mpa(mpa)

  17. naアウ

    ṅa(ṅa)+ya(ya) =ṅya(ṅya)

  18. 自重じじゅう

    同字の切継。例えばṇṇa(ṇṇa)など。

  19. いんに由てあわせざればなづけ異章いしょうと...

    ここに云う「韻」は第二から第七章、そして第八から第十四の前後七章において合成される、ya(ya)・ra(ra)・la(la)・va(va)・ma(ma)・na(na)の遍口声のうち六つの体文(子音)。第十五章は、それら前後七章のように遍口声の諸字をもって合成しないことから「異章」とされる。

  20. 字體じたい

    体文の各字それ自体。ṛ(ka)からṛ(kṣa)までの三十四字。

  21. 別の摩多また

    別摩多。摩多であっても別個に扱われる四音・四字。すなわちṛ(ṛ)・ṝ(ṝ)・ṛ(ḷ)・ḹ(ḹ)。

  22. na

    ka(ka)+ṛ(ṛ) =kṛ(kṛ)
    ṛṛ(ṛ)の半体。ただし、後述するように、智廣はṛṛ(ḷ)の半体と誤認していたらしく、その誤謬は後代の日本の学僧らを混乱させている。

  23. さき麼多また

    十二摩多。

  24. 成字じょうじ

    体文。

  25. 遍能生へんのうしょう

    十二摩多すべての音を点じること。十二摩多によって一字に遍く十二音を生じさせること。
    したがって、第十六章はただ初二(aa)と後二(aa)の摩多にのみ依って四字づつを出すに留まる。

  26. まさしく是れ悉曇しっだんの中の字なり

    ここで智廣はnaを悉曇(母音)の中の里、すなわちna(ḷ)の半体であると自註している。しかしながら、それは智廣の錯誤であって、実際はna(ṛ)の半体であり、智廣の音訳でいえば「紇里」としなければならないものであった。あるいは写本の過程で「紇」の一字が脱落した可能性も一応考えられる。
    もし、これが脱字でなく智廣の誤解による記述であったならば、この点から智廣が般若菩提から悉曇を習ったのが、必ずしもすべて筆受でなく口受であったことが知られる。そして智廣も、悉曇のnanaの音の区別が出来なかったものと思われる。
    この誤りはそのまま後代に引き継がれ、多くの場合、nanaの半体であると理解されてきた。この点、よくよく注意しなければならない。

  27. 互ひにまじらへて

    慈雲は「参互と云フは。たがひに入り雜ること。此ノ十七章は齒音の字をもて牙音に加へ。遍口章をもて齒音に加へ。如此たがひに參合するゆへに參互と云フ」と理解している。

  28. もんに隨てしょうを受く

    章の最初の文(文字)をその章の異称とすること。

  29. na阿索アソキャ

    sa(sa)+ka(ka)=ska(ska)
    本来、ただ「ska(スカ)」とすべき発音に何故「阿」を付して呼ぶかは本書に後述。

  30. 孤合こごうもん

    『林記』は「第十八章孤合之文者孤獨也此章字母不生猶如孤獨故稱号孤也二字兼合故名爲合」といい、(その他の章と異なり)字母が十二字を生ぜず孤独であるために孤合であるとする。しかし、慈雲はその説を否定し、「孤合と云フは。孤はみなしごと云フ字。幼而無父謂之孤とあり。上の十五章までは能合所合次を失せず。第十七章は。能合の字は次第ならねども。所合の字は次第を守る。此十八章は能合ともに次第を守らず。中間はずれにて。はなるゆへに孤合と云フ。合とは。合字がおもになるゆへに。中に半體の字もあれども。少在屬無するなり。林記に此ノ十八章は十二韻を生ぜぬゆへに孤合と云フとあるは非なり」とする。慈雲の説が正しいであろう。
    一章から十七章までの規則に外れ、収められない独特の字。生字としてあり得るその他の文字一切が本来的にはここに摂せらるが、その数無量と言われるため、ただその例として数字のみ示される。

  31. 當體とうだい兩字りょうじ

    同字同音の二つの字(体文)。

  32. 大呼たいこ

    ニ音を一音とすること。同字同音の合成である字を一音として発音すること。

  33. ジャ

    tta(tta)・jja(jja)・ṭṭa(ṭṭa)・ṇṇa(ṇṇa)

  34. 異體いたいの字

    異なる字(体文)。

  35. 連聲れんじょう

    [S]saṃdhi. 梵語には語根から単語を作る時に語根の音を変化させる内連声と、二つの異なる語が連接する時に音変化させる外連声の二種があり、いずれも厳密な規定がある。ただし、ここでは梵語の連声を云ったものでなく、合成された梵字の発音について、支那人である智廣が理解した仕方を意味していることに注意。例えば、aaaの異体合字であるśṭra(stra)は「satara(サタラ)」などと発音してはならず、最後の体文以外の母音は脱落させて「stra(ストラ)」と発音すべきこと。
    ここで智廣が云った連声については日本において独自に理解され、安然は四種または十五種連声と云ったが、後(鎌倉時代)に二種連声説が唱えられ、真言宗はそれを正統とするようになる。

  36. シッ

    śṭra(stra)

  37. 通麼多つうまた

    通摩多。aāiīuūeaioauaṃaḥの十二韻の点画。別摩多を除いた通常の韻。

  38. シュ

    śṭra(śṭra)
    日本では後代(平安中期以来)、これを「一体不絶の連声」と称した。

  39. 三五さんご麼多また

    『林記』はこの語について「文通三五摩多讀之者此等字體隨用通第三第五摩多」といい、摩多の第三(i)と第五(u)の意であるとする。『悉曇蔵』もこれと同じき理解をしている。
    しかしながら、慈雲は宗叡の理解を否定し、「三五摩多とは。三五は少々の義なり。數字書きつらねたる無點の字を。其ノ中の一兩字に摩多の轉聲を讀ムを云ふ」とし、三五に少々の意という用例が支那の古典等にあることをその文証として出している。慈雲の理解が必ずしも正しいと確証は持てないが、宗叡の説明では意味不明である。

  40. 字源じげんついでならざれば

    ここで字源とは体文を意味し、aaaaaに始まる体文の次第に、第十八章が従っていないこと。

  41. シッ

    śṭra(stra)
    第十七章に同じく、śṭra(a)など無いけれども、その音を語頭に加えて発音すべきものと智廣はしているが、なぜこのようなことを云ったか全く不可解。

  42. 異重いじゅうすと雖も、必ずしも重に...

    異なる字を重ね合成した字が、(智廣が云う意味での連声にも依らず)その構成する元の字の音に必ずしも依らないこと。

  43. アウキャ

    ṅkha(ṅkha)

  44. 兩字りょうじ聯聲れんじょうして文は其のあらわれ...

    ここに云う「文」とは、例えばma(mṅka)におけるṅa(ṅa)字であり、「其の」とはma(ma)字。そこで「聲は其の前きに彰る」とは、ṅa字の音が上のma字と連なって、それぞれ母韻を脱落して、下部のka(ka)字より先立つこと。

  45. アウキャ三合等の字を莽迦モウキャ等と...

    ma(麼 / ma)+ṅa(盎 / ṅa)+ka(迦 / ka)の三字を合した字ma(mṅka)(異体mṅka)の発音が「莽迦」となること。これを後代、日本では「モウキャ」と読んだ。

  46. 字は一にして而も分かれたり

    ここに云う「名」とは音の意。一字でありながらその音が二つあること。

  47. ṣa(ṣa)

  48. 假借かしゃ

    漢字の造字あるいは用字を説明する六書の一つ。あることを表す字がない場合に、既存の音を持つ字を借りて表記すること。いわゆる当て字。

  49. 麼多またを用る文に、重ねて其の...

    摩多を二つ点じて、その双方の韻を必ず発すること。

  50. ロヲン二合の字

    ṣa(bhrūṃ)
    bha(bha)とra(ra)の二合に、ū(ū)の摩多(第六)-ū(-ū)を点じ、さらに重ねて摩多(第十一)-ṃ(-ṃ)、いわゆる空点を付した字形。このように二つの摩多を点じることを両重摩多という。

  51. 嚴字ごんじの文

    文字の装飾(荘厳)。通常の空点(anusvāra)はmaであるが、天の下に仰月点を付して装飾し、maとすること。例えばma(aṃ)をma(aṃ)とするなど、それが付されたところで音と意味に変化は無く、ただ装飾する文様。ひいては摩多の点画を、その字形にしたがって装飾的に縦横に引き伸ばしたものも厳字とされる。

  52. じょうずる所れども、而も其の...

    体文を数字合成した字には、その発音が必ずしも合成した字の音を明瞭に反映したものでないものがあること。切継した時の最下の字は母韻を伴い必ず明瞭に発音するが、その最上あるいは中に合成した字の音は母韻が脱落しているため子音のみの短声となる。ここで「名」とは音の意。

  53. キャ

    na(ska)

  54. 其のこえ有て、而して其のかたち無し

    その字に無い音を伴うこと。具体的には第十七章のna(ska)は、その字には無い阿(a)を語頭に付して発すべきとされること。

  55. り生ぜずして、獨り半體はんだいの...

    ここに云う「字」とは体文。半体には、体文を元とし省略してその上下いずれか半分の形を取ったものであるのと、体文を元としない独自のものの二種ある。ここに云う「獨り半體の文爲り」は後者の意。

  56. 怛達たたつの文

    怛達という語が梵語の音写であったのか、支那でこれを示すために特に作られたものであったのかなどその由来不明。慈雲はこの語について「怛達と云は何義と云ことをしらず。亦古人の説もみえず。杲寶の説。夢中の夢なり。按ずるに怛は悲なり憚なり。人の死をの義なり。漢武帝曰。支體傷トキハ則心㦫怛すとあり。怛義なるべし。達は生なりと訓ず。活の義しるべし。爾れども事臆説にちかし。後の考をまつ」と一定の説得力ある私見を示しながら、やはり不確かであるとしている。
    梵語では一般にvirāma (virama)といい、子音のあとに母音が無いことを示す記号-あるいは-。体文に怛達を付すことによって母音を脱落させる。ただし、それは現在一般に用いられるデーヴァナーガリーの場合であり、本書にて示される梵字悉曇の場合、怛達の用い方はデーヴァナーガリーのそれと若干異なる。

  57. 字にけたる所有れば、則ち...

    「字にけたる所有れば」とは、例えばka(ka)字の場合ならば、頭部が欠落したk。頭部を欠くことにより付帯する母韻(a)が脱落するが、しかしそれだけでは「死字」といって字として用を成さない。そこで「則ち怛達の文を加へ」、すなわちその底部に怛達の-あるいは-を加えてkとすることにより、その字の純粋な子音「k」のみを表すものとされる。「而も音を掣て之を呼ぶ」とは、子音のみとなることから音が抑制され、いわば促音のようになること。ここでの「掣」は「引き伸ばす」の意でなく、「抑制する」・「控える」の意。
    怛達は死字を活かすものであることから、命点(みょうてん)または活点(かつてん)とも称される。

  58. みなもと、字に由て生じて異形いぎょうを増す

    「源」は三十四の体文。ある場合には標準的な字形を変形させて用いられること。字によってはいくつか異体があること。

  59. na(śrī)

  60. シャ

    na(śra)

  61. 印文いんもん

    字形を変形させ印章のようにした字。

  62. 篆籕てんりゅう

    篆書。支那にて印章を作るのに、その字を大篆や小篆の字形とすること。ここでは印度においてもna(śrī)を支那の篆書のように変形させて象徴的に用いていたことを云う。

  63. 其のしょう、其のかたちに異となり

    「其の生」は摩多あるいは所合の字を付す体文の本字を云い、「其の形」は本来の字形。それが摩多を点じる時や他の字と合成する場合に変形するものがあることを云う。例えばna(ka)字。

  64. 等は、の省...

    訖里はna(kṛ)、倶羅はna(kra)、倶婁はna(krū)。迦の省とはk-(k-)。k-字が特にそうであるように、本字に摩多を点じる場合や他の能合の字と合成する場合に、その字形が変じること。

  65. hu(hu)とru(ru)
    ここでは第五摩多(甌点)を例としてha訶(ha)字などに点じた場合、通常ならばhu胡(hu)となるが、甌点はまた別の形をとってhu(hu)あるいはhu(hu)とし得ることを示している。そしてra囉(ra)字に第五摩多を点じた場合は、通常ならばru盧(ru)となるであろうが、また他にru(ru)として可であり、むしろ後者が一般的でよく通用するなど、摩多にも場合によって幾つか異なる形態があることを云う。
    なお、ここに挙げられる「胡盧」という語について、安然は『悉曇蔵』にて「krū是胡盧也」と、これをkrū(krū)一字のことであると理解しているが、それでは文脈と合わない。
    因みに日本の上古にはhaの発音を正しく写す文字がなかったため、kaに転じられて「か」とされた。しかしその後、それが種々の撞着をもたらすことから「aha( アカ)同用」などと云われるようになり、ha字は「あ行」の音に通用するものとされて、胡は「ク」であるとともに「ウ」とも読み得るなどという理解に至った。ha(huṃ)が「ウン」と訓じられるのは以上の理由による。

  66. 草隷そうれい

    草書と隷書。

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