次應受觀智密要禪定法門大乗妙旨。夫欲受持法。此法深奧。信者甚希。不可對衆。量機密授。仍須先爲説種種方便。會通聖敎令生堅信決除疑網。然可開曉。
輸波迦羅三藏曰。衆生根機不同。大聖設敎亦復非一。不可偏執一法互相是非。尚不得人天報。況無上道。或有單行布施得成佛。或有唯脩戒亦得作佛。忍進禪惠。乃至八萬四千塵沙法門。一一門入悉得成佛。今者且依金剛頂經設一方便。作斯修行乃至成佛。若聞此説當自淨意寂然安住。於是三藏居衆會中不起于坐。寂然不動如入禪定可經良久。方從定起遍觀四衆。四衆合掌扣頭。珍重再三而巳
三藏久乃發言曰。前雖受菩薩淨戒。今須重受諸佛内證無漏清淨法戒。方今可入禪門。入禪門巳。要須誦此𨹔羅尼。𨹔羅尼者。究竟至極同於諸佛。乗法悟入一切智海。是名眞法戒也。此法祕密不令輒聞。若欲聞者。先受一𨹔羅尼曰
唵 三去昧耶薩坦鑁
此陀羅尼令誦三遍。即令聞戒及餘祕法。亦能具足一切菩薩清淨律儀。諸大功德不可具説 又爲發心。復受一𨹔羅尼曰
唵 冐地卽多塢地波那二合野弭
此𨹔羅尼復誦三遍。即發菩提心乃至成佛。堅固不退。又爲證入。復受一𨹔羅尼曰
唵 卽多鉢囉二合底丁以切吠尾禮切引曇去迦嚕轉舌迷
此陀羅尼復誦三遍。即得一切甚深戒藏。及具一切種智。速證無上菩提。一切諸佛同聲共説。又爲入菩薩行位。復受一𨹔羅尼曰
唵 嚩日羅二合滿吒上藍鉢囉二合避捨迷
此陀羅尼若誦三遍。即證一切灌頂曼荼羅位。於諸祕密聽無障㝵。既入菩薩灌頂之位。堪受禪門。巳上受無漏真法戒竟
又先爲擁護行人。受一陀羅尼曰
唵 戍駄戍駄
先誦十萬遍除一切障。三業清淨。罪垢消滅。魔邪不嬈。如淨白索易受染色行人亦𡭗。罪障滅巳速證三昧。又爲行者授一𨹔羅尼曰
唵 薩婆尾提 娑嚩二合賀引
持誦之法。或前彼兩箇𨹔羅尼。隨意誦一箇。不可並。恐興心不專
夫欲入三昧者。初學之時。事絶諸境屏除縁務。獨一靜處半跏而坐巳。須先作手印護持。以檀惠並合竪。其戒忍方願。右押左正相叉著二背上。其進力合竪頭相拄曲。開心心中少許。其禪智並合竪。即成作此印巳。先印頂上。次印額上。即下印右肩。次印左肩。然後印心。次下印右膝。次印左膝。於一一印處。各誦前陀羅尼。七遍乃至七處訖。然後於頂上散印訖。即執數珠念誦此𨹔羅尼。若能多誦二百三百遍。乃至三千五千亦得。毎於坐時。誦滿一洛叉。㝡異〈易の誤植であろう〉成就。旣加持身訖。然端身正住如前半跏坐以右押左不須結全跏。全跏則多痛。若心縁痛境即難得定。若先來全跏坐得者㝡爲妙也。然可𥄂頭平望。眼不用過開。又不用全合。大開則心散。合即惛沈。莫縁外境。安坐即訖。然可運心供養懺悔。先㯹心觀察十方一切諸佛。於人天會中爲四衆説法。然後自觀己身。於一一諸佛前以三業虔恭禮拜讃嘆。行者作此觀時。令了了分明如對目前。極令明見。然後運心於十方世界。所有一切天上人間。上妙香華幡蓋飮食珍寶種種供具。盡虚空遍法界。供養一切諸佛。諸大菩薩。法報化身。敎理行果。及大會衆。行者作此供養巳。然後運心於一一諸佛菩薩前。起殷重至誠心。發露懺悔。我等從無始來至于今日。煩惱覆心久流生死。身口意業難具陳。我今唯知廣懺。一懺巳後。永㫁相續。更不起作。唯願諸佛菩薩以大慈悲力。加威護念攝受我懺。令我罪障速得消滅 此名内心祕密懺悔。㝡㝡妙妙なり
次に應に受觀智密要禪定法門、大乗の妙旨を受くべし。夫れ法を受け持んと欲はば、此法の深奧にして、信ずる者は甚だ希なり。衆に對すべからず。機を量て密に授けよ。仍て須らく先づ爲に種種の方便を説て、聖敎を會通して、堅信を生ぜしめ、疑網を決除すべし。然して開曉すべし。
輸波迦羅三藏の曰く、衆生の根機、不同なり。大聖の設敎、亦復た一に非ず。一法に偏執して互相に是非すべからず。尚ほ人天の報を得ず。況や無上道をや。或は單に布施を行じて成佛を得る有り。或は唯だ戒を脩して亦た作佛を得る有り。忍・進・禪・惠、乃至八萬四千の塵沙の法門、一一の門より入て悉く成佛を得。今は且く金剛頂經に依て一方便を設く。斯の修行を作さば乃ち成佛に至らん。若し此の說を聞かば、當に自ら意を淨め、寂然として安住すべし。是に於て三藏、衆會の中に居して、坐を起たず。寂然として動ぜず、禪定に入るが如くして、經るべきこと良や久し。方に定より起て遍く四衆を觀じ玉ふ。四衆、掌を合し頭を扣て、珍重すること再三なるのみ。
三藏、久しくして乃ち發言して曰く、前に菩薩の淨戒を受くと雖も、今須く重ねて諸佛内證の無漏清淨法戒を受くべし。方に今、禪門に入るべし。禪門に入り巳て、要ず須く此の𨹔羅尼を誦すべし。𨹔羅尼とは究竟至極、諸佛に同じ。法に乗じて一切智海に悟入す。是を真法戒と名く也。此の法、秘密にして輒く聞かしめざれ。若し聞かんと欲せん者には、先づ一の𨹔羅尼を受て曰く、
唵 三去昧耶薩坦鑁
此の陀羅尼を三遍誦せしめて、即ち戒及び餘の秘法を聞かしめよ。亦た能く一切菩薩の清淨律儀を具足す。諸の大功德は具さに説くべからず。又、發心の爲、復た一の𨹔羅尼を受て曰く、
唵 冐地卽多塢地波那二合野弭
此の𨹔羅尼、復た三遍を誦せしめよ。即ち菩提心を發して乃ち成佛に至るまでに堅固不退なり。又、證入の爲、復た一の𨹔羅尼を受て曰く、
唵 卽多鉢囉二合丁以切吠尾禮切引曇去迦嚕轉舌迷
此の陀羅尼、復た三遍誦せしめよ。即ち一切甚深戒藏を得。及び一切種智を具して、速に無上菩提を證し、一切の諸佛同聲にして共説す。又、菩薩の行位に入るが爲、復た一の𨹔羅尼を受て曰く、
唵 嚩日羅二合滿吒上藍鉢囉二合避捨迷
此の陀羅尼、若し三遍を誦さば、即ち一切灌頂曼荼羅位を證す。諸の秘密を聽くに障㝵無し。既に菩薩灌頂の位に入らば、禪門を受るに堪へたり。巳上、無漏の真法戒を受け竟ぬ。又、先ず行人を擁護せんが爲、一の陀羅尼を受て曰く、
唵 戍駄戍駄
先ず十萬遍を誦して一切障を除く。三業清淨にして、罪垢消滅し、魔邪嬈げず。淨白索の染色を受け易きが如く、行人も亦た𡭗り。罪障滅し巳れば速に三昧を證す。又、行者の爲、一の𨹔羅尼を受て曰く、
唵 薩婆尾提 娑嚩二合賀引
持誦の法は、或は前に彼の兩箇の𨹔羅尼を、意に隨て一箇誦せよ。並ぶべからず。恐くは心を興して專らならず。
夫れ三昧に入んと欲する者は、初學の時、事に諸境を絶て縁務を屏除せよ。獨一静處に半跏して坐し巳て、須く先ず手に印を作して護持すべし。檀・惠を以て並べ合せ竪て、其の戒・忍・方・願は、右にて左を押して、正に相ひ叉へ、二背の上に著けて、其の進・力合せて竪て、頭相ひ拄へ曲げ、心心中を開くこと少し許り。其の禪・智を並び合せ竪つ。即ち此の印を成作し巳て、先ず頂上を印し、次に額上を印して、即ち下りて右肩を印し、次に左肩を印せよ。然して後に心を印し、次に下て右膝を印して、次に左膝を印す。一一の印處に於て、各の前の陀羅尼を誦すこと七遍。乃し七處に至り訖り、然して後に頂上に於て印を散し訖らば、即ち數珠を執て此の陀羅尼を念誦せよ。若し能く多く誦すこと能ふれば、二百三百遍、乃至三千五千することも亦た得。毎に坐する時、誦すこと一洛叉を滿ずれば、㝡も成就し易し。旣に身を加持し訖りて、然して端身に正しく住して、前の如く半跏坐すべし。右を以て左を押し、全跏を結ぶこと須いざれ。全跏すれば則ち痛み多し。若し心に痛境を縁ずれば、即ち定を得難し。若し先來り全跏坐するを得る者は㝡も妙と爲す也。然して頭を𥄂くして平に望むべし。眼は過開を用ひず、又、全合を用ひず。大ひに開けば則ち心散じ、合せば即ち惛沈す。外境を縁ずること莫れ。安坐すること即ち訖り、然して心を運んで供養し懺悔すべし。先ず心を㯹して十方の一切諸佛を觀察する。人天會の中に於て四衆の爲に説法し玉はんと。然して後に、自ら己身を觀ぜよ。一一の諸佛の前に於て、三業を以て虔み恭 て禮拝し讚嘆し上ると。行者、此の觀を作さん時、了了分明ならしむこと目前に對するが如くすべし。極めて明かに見せしめ、然して後に心を運ばせ、十方世界に所有の一切の天上人間の上妙の香華・幡蓋・飲食・珍寶と種種の供具もて虚空を盡し、法界に遍じて、一切の諸佛諸大菩薩、法報化身、敎理行果、及び大會衆に供養し上れ。行者、此の供養を作し巳て、然して後に、一一の諸佛菩薩の前に運心せよ。殷重至誠の心を起して、發露懺悔す。我等、無始より來た今日に至るまで、煩惱、心を覆て久しく生死に流れ、身口意の業、具に陳ること難し。我れ今、唯だ知て廣く懺す。一び懺巳て後、永く相續を㫁て、更に起作せず。唯だ願くは諸佛菩薩、大慈悲力を以て加威護念し玉ひて、我が懺を攝受して我が罪障をして速かに消滅を得せしめ玉へと 此を内心祕密懺悔と名く。㝡㝡妙妙なり。
時期。その受者にとって受戒するに最良であろう時機。▲
upāya. 手段・方策。▲
会釈。一見、互いに矛盾・相反するかの教えを、矛盾なきよう合理的に会釈すること。▲
様々に説かれる仏教の、ある一つの教えに偏執し、それこそ最高・最上のものであってその他は偽あるいは劣等のものであるとし、他と無益な論争に終始すること。
現代にも非常によく見られる手合が存在したことは、この『無畏三蔵禅要』の内容が説かれた八世紀の支那に限らず、そのはるか以前の龍樹の当時でも同様であり、それはその論書などから看取されよう。それはさらにさかのぼって釈尊在世の当時にもあったことが経説から知られるのである。すなわち、そのような思考や主張は人の性に基づいたものであり、しかしそれがほとんどの場合、なんら自身に益しないものであることが、はるか昔から言われ続けている。▲
ここでは本来の一乗思想が述べられている。ただし、ここで善無畏が「或は単に布施を行じて成佛を得る有り。或は唯だ戒を修し亦た作佛を得る有り」と言っているのは、八万四千のどの教えから入ろうとも、やがては三学・六波羅蜜を満足して成仏に至る、ということを述べているのであって、たとえば日本で生じた一向や選択、専修など、いずれか「一つの教え・方法だけ」で充分であるなどとする態度を勧めているわけでも是認しているわけでもないことに注意。この『無畏三蔵禅要』がそのような構成で説かれているように、三学の階梯を踏み行うこと、六波羅蜜を行ずることは自明の大前提であり、その術の一つとして、密教がここで開示されている。▲
不空訳『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』。
一般に善無畏は『大日経』系の密教の相承者であると言われるが、しかしここではまさに『金剛頂経』に基づいた瑜伽法を伝授している。実際、本書に説かれる真言の数々には『金剛頂経』の五相成身観にて説かれる真言が含まれている。▲
出家・在家の仏教徒全体の称。比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷。▲
三昧耶戒。『無畏三蔵禅要』では、真法戒・無漏真法戒とも称されている。▲
禅を修める教え。ここでは、特に支那において生じた禅宗のそれを意図したものでなく、密教の修定すなわち瑜伽法について言った語。これは仏教の修道における大原則である三学、すなわち戒・定・慧の階梯に則っての言であり、先ず菩薩戒の受持した上で、次に定を修めるべきことが述べられている。▲
dhāraṇī. 専ら誦することによって集中した心の状態、三昧を獲得させるもの。陀羅尼や真言とは、古代印度の言語の一つであるサンスクリットで説かれたものである。支那に仏教が伝わった際には当初、印度でその表記に用いられていた悉曇(ブラーフミー文字の一種)は用いられず、その発音を漢字で音写することによって受け入れられた。そもそも梵語と漢語とでは言語系統も体系も全く異なり、その発音についても相当な隔たりがあったが、これを極力正確に写し取るために、やがて幾種類かのいわば発音記号が併記されるようになった。▲
oṃ samayastvaṃ.
ただし、音写の傍訓は「唵 三去昧耶薩坦鑁三合」とすべきところ。
ここで「三去昧耶」とある中の「去」は、支那語の声調(四声)である去声を意味し、「三」を去声にて発すべきことを示す。なお「三合」はその直前の三文字が切継の合成字であって子音の連続であることを示す。▲
悉曇は「oṃ bodhicitamutpādayami」となっているが梵語として不正。音写の傍訓も不適切であり悉曇と合致していない。これを写本した者は悉曇をまともに読むことも出来ず、ただ形だけ写し取っていたに違いない。
悉曇の記述に従えば「唵 冐地卽坦多二合塢地波二合那野引弭」。「引」はその直前の音が長音であることを示す。
梵語として正しくは、
「oṃ bodhicittamutpādayāmi.」
(oṃ bodhicittaṃ utpādayāmi.)
であろう。なお、この陀羅尼も『金剛頂経』に説かれるものであって『大日経』ではない。一般になされている、善無畏はただ『大日経』の相承者であったという単純な思い込みは捨てるべきである。▲
悉曇は「oṃ citaprativaidhaṃ karomi」となっているが一部不正。正しくは、
oṃ cittaprativedhaṃ karomi.
であろう。正確な悉曇の表記は対訳において朱字にて示し、その発音もラテン文字にて併記している。以下同様。▲
悉曇は「oṃ vajramatalaṃ praveśami」となっているが梵語として不正。正しくは、
「oṃ vajramaṇḍalaṃ praviśāmi.」
であろう。▲
abhiṣeka. 本来は王位を継承する儀式のことで、次に王となる者の頭に聖水を注ぐ儀礼を伴うことから灌頂と言ったが、その儀礼を仏教が取り入れて「法の位を継ぐ」・「教えを継承する」際の儀礼を示す語となった。ここでは、菩薩として密教の教えを受けることの意。▲
maṇḍala. 原意は円・丸い物であるが、転じて完全無欠なものを表する語となり、真理あるいは密教自体を形容する語ともなった。また一般には、密教において説かれる、様々な尊格が種々に描かれた円形や方形の土壇や、いくつか図形が組み合わせられ、また尊像などが描かれた複雑な図像を言うようになった。▲
悉曇は「oṃ śutha śuthā」となっているが不正。あるいは、
「oṃ śuddha śuddha.」
であろう。▲
samādhi. 三摩地。集中し安定した心の状態。▲
悉曇は「oṃ sarvavite svāhā」となっているが不正。正しくは、
「oṃ sarvavide svāhā.」
であろう。▲
mudrā. 密印。手指で様々に形作る形のこと。この一節では如何に印を結ぶべきかが示される。▲
洛叉はlakṣaの音写で、印度における数詞で十万の意。▲
五根すなわち眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の対象である、五境すなわち色(事物)・声(音)・香(匂い)・味(味)・触(触感)のこと。諸々の外的な認識対象。▲
観想は、眼を閉じ、心像として極めて明瞭に、あたかも眼前にあるかのようになるまで修習しなければならない。そのように心像として明瞭に観想し得る意識の状態は、深く集中して他に意識をそらすことのない、定と念とが極めて強く働いている時にこそなり得るものである。したがって、観想をそのように明瞭になし得ていることは、自心が三昧にあることの一つの証となる。故に密教、瑜伽の修定において、観想をありありとすることは甚だ重要となる。▲
法身・報身・化身の三身に同じ。「本稿.①, 脚注.17」に既出。▲
仏陀の教えとその理と修行と証果、すなわち仏教の意。▲