三摩耶戒(三昧耶戒)とは、特に密教において説かれる誓約です。三昧耶仏戒・秘密三昧耶仏戒などとも呼称されます。誰であれ密教を受法するのには、必ずその事前に具えておくべきものです。しかしながら、今の日本では一般に、受法する以前に三摩耶が授けられることはなく、ただ受法した証となる灌頂を受ける前に授けられるものとなっています。
灌頂とは、[S]abhiṣekaの漢訳です。もとは印度における王位即位や立太子の際の儀礼をしなければならないいう語です。即位する王子が、その頭頂に香水や香油などを灌がれる儀礼を伴うことから、漢語でそのように意訳されます。密教ではその法を受ける者、そして受け終わった者に、受法の証として必ず授けなければならないものとされます。それは、王位でなく法位に就くといった意味によってなされるのです。
古来、真言と天台の日本密教においては、おおよそ三種の灌頂が行われてきました。
僧俗問わず行われる結縁灌頂、あるいは密教を本格的に学ぶ前に受けるべき受明灌頂(学法灌頂)、そして三密瑜伽法を残らず伝授したその仕上げとして行われる伝法灌頂(具支灌頂)の三種です。それら灌頂の行う前、受者にまず必ず授けられるべきものが三摩耶戒です。
今から1200年ほどの平安の昔、唐に渡って真言密教を授かり日本にもたらして真言宗を開いた人、空海もまた、三摩耶を密教受法の初めに受けてから様々な灌頂を受けています。
二十四年二月十日。准勅配住西明寺。爰則周遊諸寺訪擇師依。幸遇青龍寺灌頂阿闍梨法號惠果和尚以爲師主。其大徳則大興善寺大廣智不空三蔵之付法弟子也。弋鈎經律該通密蔵。法之綱紀。國之所師。大師尚佛法之流布。歎生民之可拔。授我以發菩提心戒許我以入灌頂道場。沐受明灌頂再三焉。受阿闍梨位一度也。肘行膝歩學未學稽首接足聞不聞。
延暦二十四年〈805〉二月十日、(唐の皇帝の)勅によって西明寺に滞在した。そこで諸寺を周遊し、依るべき師を探して訪ねたところ、幸いにも青龍寺の灌頂阿闍梨、法名が恵果和尚にめぐり逢い、師主として仰ぐこととなった。大徳〈恵果〉は、大興善寺の大廣智不空三蔵の付法の弟子である。(恵果は)経と律とに精通し密教に通達された仏法の綱紀と言うべき人であり、国師として崇められていた。大師〈恵果〉は、仏法が世に広まることを願い、人々を導くべきことに心を砕かれていた。私〈空海〉に(密教を)授けるに際しては先ず発菩提心戒をもってしてから灌頂道場に入壇することを許された。(私、空海は)受明灌頂に入壇することは再三であり、阿闍梨位を受けること〈伝法灌頂〉はただ一度であった。肘で進み膝で歩むかのようにしていまだ学んだこと無きを学び、頭を垂れ(恵果の)足に触れて礼拝しつついまだかつて聞いたことの無かった教えを聞いたのである。
空海『御請来目録』(『定本 弘法大師全集』, Vol.1, p.3)
真言宗では伝統的に、ここ空海が記している密教を受法する以前に授けられたという「発菩提心戒」は、いま云うところの三摩耶戒と同じものであるとされています。
例えば、伝統的に空海の真の遺誡とされ、文献学界でも空海真撰であるとされてきた(けれども近年は偽撰説が提出されている)いわゆる『弘仁遺誡』では、以下のように三摩耶戒について記されています。
密戒者所謂三摩耶戒。亦名佛戒。亦名發菩提心戒。亦名無爲戒等。
密戒とは、いわゆる三摩耶戒である。(三摩耶戒は)また仏戒ともいい、また発菩提心戒ともいい、また無畏戒ともいう。
空海『遺誡』(『定本 弘法大師全集』, Vol.7, p.392)
ところで、ここで空海が三昧耶戒の異称であるとした「発菩提心戒」には、恵果の師であった不空によるとされる『受菩提心戒儀』という、いわば発菩提心戒の授戒次第があります。そこでしかし、その説に拠れば、空海の言う三摩耶戒と『受菩提心戒儀』のいう発菩提心戒とは別物のように思われます。
『受菩提心戒儀』では、まず受者は諸仏・密教・諸菩薩・菩提心に礼拝、そして供養。次に自身のそれまでの罪過を懺悔して、あらためて三宝に帰依(三帰依)。そうした後に、発菩提心戒を受けるべきことが説かれています。
次應受菩提心戒
弟子某甲等 一切佛菩薩次誦受菩提心戒眞言曰
從今日以往 乃至成正覺
誓發菩提心
有情無邊誓願度 福智無邊誓願集
佛法無邊誓願學 如來無邊誓願事
無上菩提誓願成
今所發覺心 遠離諸性相
蘊界及處等 能取所取執
諸法悉無我 平等如虚空
自心本不生 空性圓寂故
如諸佛菩薩 發大菩提心
我今如是發 是故至心禮
唵冐地喞多母怚波二合那野引彌
次に、まさに菩提心戒を受けよ。弟子たる我等は、一切の仏・菩薩らよ、次に、受菩提心戒真言を誦す。
今日よりこのかた、ついに正覚を成すに至るまで、
誓って菩提心を発す。
有情〈生けるもの〉の数は尽きぬとも、救わんことを誓願す。
福徳と智慧とは尽きぬものとも、集め積むことを誓願す。
仏陀の教え〈真理〉は尽きぬとも、学ぶことを誓願す。
如来の数は尽きぬとも、仕えることを誓願す。
この上ない最高の菩提を成就することを誓願す。
いま起こしたところの覚心〈菩提心〉は、諸々の性相、
五蘊・十八界及び十二処等、能取・所取の執着から遠離す。
諸法は悉く無我であり、平等にして虚空のようなものである。
自心は本不生にして、空性・円寂なるが故に。
諸仏・菩薩のように、大菩提心を発し、
我もまた今、同様に(大菩提心を)発す。
このことから(諸仏・諸菩薩を)至心に礼拝す。
唵冐地喞多母怚波二合那野引彌
不空訳『受菩提心戒儀』(T18, p.941a)
以上のように『受菩提心戒儀』では、菩提心戒の内容とされるのは、今一般に用いられているものとは訳語の相違があって若干異なるものの、いわゆる五大願に他なりません。そして、この五大願が示されたあと、ここで言う覚心〈菩提心〉というものがいかなるものか簡潔に示されます。
ここで注意すべきは、それはいわゆる「戒」などというものではなく、菩提心を起こすこと自体を意味したものであることです。実際、続いて説かれている、日本で一般に発菩提心真言と言われるものの意は以下のとおり。
唵冐地喞多母怚波二合那野引彌
oṃ bodhicittamutpādayāmi.
オーム 私は菩提心を起こす。
そもそも『受菩提心戒儀』では三昧耶という言葉がどこにも用いられていません。そこででは、なぜ伝統的に三摩耶戒と発菩提心戒とが同一視されるのか。それは、三摩耶という語の意を知ることによって、理解することが出来るでしょう。
三摩耶(三昧耶)とは、[S]samayaの音写です。その意味は多義に渡り、時間・調整・平等・約束・誓い・契約・協定あるいは暗示・標示、はてまたは苦の終焉などです。
けれども、『大毘盧遮那成仏神変加持経』すなわち『大日経』について善無畏が詳細に注釈したのを一行が筆記したという『大毘盧遮那成佛経疏』いわゆる『大日経疏』では、密教において強調される三摩耶について、以下のように定義されています。
三昧耶是平等義是本誓義是除障義是驚覺義。
三昧耶〈三摩耶〉とは平等の義、本誓の義、除障の義、驚覚の義である。
一行記『大毘盧遮那成仏経疏』巻九 入漫荼羅具縁品第二之余
(T39, p.674c)
『大日経疏』では、三摩耶に「平等」・「本誓」・「除障」・「驚覚」の四つの意義があるとしながら、総じて三摩耶とは「一切如来金剛誓誠(一切如来金剛誓誡)」すなわち「すべての如来の堅固なる誓い」であるとしています。これは結局、三昧耶をして四種に意味づけながらも、samayaの本来の意味の一つである「誓い」という義を根本としたものであると言えます。
「三摩耶戒」とはいわれるものの、しかしそれはいわゆる戒(śīla)ではなく、また律儀(saṃvara)や学処(śikṣāpada)でもなく、「誓い(praṇidhāna / pratijñā / samādāna)」です。印度から直接密教が伝わっったチベットにおける三摩耶の理解と比したならば、そう理解することが印度以来の伝統に叶い、また適切であると言えます。
そこでその誓いとは、これをあらぬ方向で「ホトケサマ♪」に対して為すべきものと理解する輩がたちまち湧くことでしょうが、そうではない。それは我々が空なる世界でいたずらに生死流転し、苦しみの只中にあることを幾分かでも知り、しかしそこから誰であれ脱する可能性を知り、あるいは信じて、自ら決意し、自らに誓うものです。
『大日経疏』の上に挙げた一節の中略した箇所において、何故そのように三摩耶には四つの意義があると言うか、その具体的な説明がなされています。上ではそれら全てを引用するのは冗長となるため略したので、以下に要約したものを表にして示してます。
- | 意義 | 理由 |
---|---|---|
1 | 平等 | 如来が三昧耶を現証する時、すべての衆生の身語意の三業が如来のそれと、また禅定と智慧と実相身とは、畢竟等しいと知るため。 |
2 | 本誓 | 如来が三昧耶を見証する時、すべての衆生は成仏する可能性(仏性)を有することを知る。故に、あらゆる方便をもって、彼らすべてを無上菩提に導かんと誓願するため。 |
3 | 除障 | すべての衆生は、如来の法身を備えているにもかかわらず、無明によってそれを覚知出来ないでいる。けれども、三昧耶によれば、その障りたる煩悩をすべて盡きさせるため。 |
4 | 驚覚 | すべての衆生は、無明の眠りについているために、功徳を覚知出来ないが、真言をもってすれば目覚めさせ得る。また、深い禅定にある諸菩薩を驚覚し活動せしめる。さらに、真言行者が三昧耶を説いた時には、諸仏をすらこの三昧耶を憶持して違越することが無いため。 |
やはり、今しがた述べたように、これらは四種の意義というよりも、三摩耶という「一切如来金剛誓誠」、要するに「誓約」には、四種の効能・働きがあると言ったものだと把握するのが妥当に思われます。
『大日経』には、その三摩耶の意味を表し、その誓約内容を尽くすものとして陀羅尼(dhāranī)が説かれていますが、それが「入仏三昧耶持明」です。三昧耶においてもっとも重要な、欠くべからざる真言です。
南麼三曼多勃馱喃一阿三迷二咀履二合三迷三三麼曳四莎訶五
namaḥ samantabuddhānaṃ asame trisame samaye svāhā.
『大毘盧遮那成仏神変加持経』巻二 入漫茶羅具縁真言品第二之余
(T18, p.12c)
「重要な、欠くべからざる真言」などと言っても、これをただ壊れたレコーダーのように意味もわからずただ繰り返し何百万遍唱えてみても、まるで意味などありません。それでは陀羅尼でも真言でもないただの蒙昧なるジュモンを馬鹿の一つ覚えで繰り返すだけであり、しかもそれを日本的に訛りに訛った発音でやったならば、もはやジュモンとすら言えないものです。
この一連の語にはいかなる意義があって、それを真言としてどのように解するべきか。入仏三昧耶陀羅尼の意義について、『大日経疏』では以下のように注釈されます。
南麼三曼多勃馱喃阿三迷咀履三迷三麼曳沙訶
初句自歸命一切諸佛。如上釋。次句云無等次云三等。連下句言之。即是無等三平等三昧耶也。復次阿是諸法本不生義。即是法界體性。娑是諦義。迷是三昧義。麼是自證大空 亦是我義。世尊證此三昧時。諦觀一一衆生心力普門漫荼羅皆等於我。是故更無待對無可譬類。名爲無等也。三等爲三世等三因等三業道等三乘等。即是轉釋前句。所以無等之意。呾履謂心如實相。一切塵垢本來不生。三世如來種種方便。悉皆爲此一大事因縁故。即是除障之義也。結云三昧耶者。即是必定師子吼説諸法平等義故。立大誓願當令一切得如我故。欲普爲衆生開淨知見故。以此警覺衆生及諸佛故。是故此三昧耶。名爲一切如來金剛誓誠。若不先念持者。不得作一切眞言法事也。
南麼三曼多勃馱喃阿三迷咀履三迷三麼曳沙訶
namaḥ samantabuddhānaṃ asame trisame samaye svāhā.
初めの句〈Namaḥ samantabuddhānaṃ〉は「一切の諸仏に帰命す」という意で、上に既に釈したのと同じである。次の句〈asame〉は「無等」、その次〈trisame〉は「三等」の意である。これらをさらに次の句に連ね、その意を言ったならば「無等・三平等は三昧耶なり」となる。
また次に、阿〈a〉とは「諸法本不生〈ādianutpāda〉」の義であって、すなわち法界体性〈すべての存在の本質〉を示したものである。娑〈sa〉は諦〈satya〉の義、迷〈me〉は三昧耶〈samaya〉の義、麼〈ma〉は自証の大空〈mahāśūnya〉であり、または我〈mama〉の義である。
世尊はこの三昧を証される時、諦かに「それぞれ衆生の心中における普門曼荼羅は、みな我に等しい」と観察される。このことから、さらに待対すべきものなど無く、譬類すべきものも無いことを「無等」と言われた。「三等」とは、三世等しく、三因等しく、三業道等しく、三乗等しいことであり、前の句を転釈したものである。よって「無等」の意となる。
咀履〈tri〉とは(ta+raであって)、「心の如実相〈tathā〉は一切の塵垢〈rajas〉が本来不生である」ことの義となる。 三世の如来の種種の方便は、悉くその全てがこの一大事の因縁の為のものである。そしてそれが「除障」の義である。
結して云えば、三昧耶とはすなわち(仏陀が)確固として獅子吼〈喝破〉し、諸法の平等なることの義を説かれる故に、大誓願を立ててすべての衆生〈生けるもの〉をして我〈仏〉と同様ならしめようとする故に、あまねく衆生の為に浄らかな知見を開かんと思う故に、それによって衆生および諸仏を驚覚する故に、この三昧耶〈samaya. 三摩耶〉を名けて「一切如来の金剛誓誠〈異本では金剛誓誡〉」とする。もし、先に(この三昧耶を)念持していない者には、いかなる真言の法事も行うことは出来ない。
一行記『大毘盧遮那成仏経疏』巻九 入漫荼羅具縁品第二之餘
(T39, p.675a)
『大日経』に説かれる入仏三昧耶陀羅尼は、『大日経疏』において「一切の諸仏に帰命す。無等・三平等は三昧耶なり」の意であるとまず訳されます。しかし、そのような訳は、それも重要ではあるのですけれども、この陀羅尼の本質ではありません。
もっとも重要であるもの、それは続けて梵語の一音・一字に集約されてその意義が併せ示される、この陀羅尼の密教的理解です。それは、そのような理解がなければ「密教の仏教としての価値」がほとんど、いや、まったく無くなるものです。
しかし、以上の如き、本来のサンスクリット文法から全く離れた密教的解釈は、一般的仏教いわゆる顕教(特に中観)を確かに学び解しておかなければ、到底理解できるものではありません。せいぜいが「ホトケサマとビョードーなのです!みんなビョードー!」などといった、言う方も聴く方も何も訳が分かっていないという、落語のような状態となることでしょう。
現代、そのような浅っぺらい理解をして云う輩の大体多くがいわゆる団塊世代以降の左傾教育を身に染み込ませた者であるでしょうが、しかし、そのような手合があるのは今に始まったことではないようです。
佛教の中には、上下尊卑の境に其差別有。なしと云べからずじゃ。平等と云ことを。山を崩し谷を塡みて一樣にすることの樣に思ふは。愚痴の至りじゃ。窮屈過ぎたことじゃ。
仏教の中には上下尊卑の違いにその差別がある。無いとは言えないのだ。平等ということを山を崩して谷を埋めて平らかにすることのように思うのは、愚痴の至りというものである。あまりに窮屈〈四角四面〉というものだ。
慈雲『十善法語』巻第二 不偸盗戒 安永二年癸巳十二月八日示衆
いや、そもそも、まずは「真言とは何か」を知っておかなければならない。
ところが、これについて現代の僧職者らや密教学者であっても全く理解しておらず、妙ちくりんなこねくり回しや、まるで頓珍漢な説明をする者が多くあります。しかしそれは、『大日経疏』に実に明瞭に示されています。その一節において、その例として三摩耶の真言が挙げられて、いかに理解すべきかが説かれているのです。
復次經中自説諸眞言相。初偈云正等覺眞言。言名成立相。如因陀羅宗。諸義利成就者。此明如來眞言通相也。今但約最初三昧耶眞言説之。言謂一一字。皆是一種入法界門。如言阿三迷者。阿字是無生門。娑字是無諦門。麼字是大空門也。名謂此一一字門共成一名。阿名爲無。三迷名爲等。若更合之。即是無等也。成立爲籍此衆名。始終共成一義。如初句云無等。次云三等。次云三昧耶。共相成立。即是無等三平等三昧耶也。復次如以多名共成一句。所謂諸行無常等。乃至綜此多句共爲一偈。然後義圓。即是諸行無常是生滅法生滅滅已寂滅爲樂等。皆是眞言所成立相。餘皆放此。如因陀羅宗者。因陀羅是天帝釋異名。帝釋自造聲論。能於一言具含衆義。故引以爲證。世間智慧猶尚如此。何況如來於法自在耶。
また次に、経の中に自ら諸々の真言の相〈特徴・有り様〉が説かれる。初めの偈に「正等覚の真言の言・名・成立の相は、因陀羅宗の如くして、諸の義利を成就す」とあるのは、如来の真言の通相〈共通する特徴〉が明かされたものである。今は一応、最初の三昧耶の真言を例として、これ〈真言の通相〉を説く。
「言」とは、一つ一つの字はすべて一種の入法界門であること。阿三迷〈asama〉についていえば、阿〈a〉字とは無生〈anutpāda〉の門であり、娑〈sa〉字とは無諦〈satya〉の門であり、麼〈ma〉字とは大空〈mahāśūnya〉の門である。
「名」とは、この一つ一つの字門の組み合わせで一つの名となること。阿〈a〉をもって無とし、三迷〈sama〉をもって等とする。もしこれらをさらに合したならば、それで無等〈asama〉となる。
「成立」とは、そのような様々な名をもって、始終の組み合わせで一つの意味が成ること。たとえば、(入仏三昧耶の陀羅尼の)最初の句で無等〈asama〉と云い、次に三等〈trisama〉と云い、次に三昧耶〈samaya〉というように、組み合わさってその相が成立するのである。すなわちこれは、無等三平等の三昧耶である。
また次に、多くの「名」が組み合わされて一句を成立させるというのは、いわゆる「諸行無常」などがそれである。および、これら多くの句をすべてまとめて一偈とし、そしてなおその意味は完全である。すなわち、それは「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」などである。それらは、すべて真言というものの成立する有り様である。他(の真言)についても皆、この例に倣って理解せよ。
「因陀羅宗の如くして」というのは、因陀羅〈Indra〉とは帝釈天の異名である。帝釈天は、自ら聲論〈Vyākaraṇa. 梵語文法〉を造り、よく一言一言に詳細で様々な意味を含ませた。そのために(世間では梵語文法が)しばしば引き合いに出され、論拠とされている。俗世間の智慧においてもそのようであるのだから、如来の法においてはなおさら(一言一言に詳細で多くの意味を含ませることが)自在であるのは言うまでもない。
一行記『大毘盧遮那成仏経疏』巻七 入漫荼羅具縁品第二之余
(T39, p.649c)
これは真言というものの本質を明かしている非常に重要な箇所でありますが、以上のように三摩耶の真言が内包する意義も開陳されています。
その注釈文で最初に挙げられている、そして顕教・密教を問わず、大乗において最も根本的かつ最重要な主題である、阿字すなわち諸法本不生(本初不生)すなわち法界体性などといったことについて。それは「まずは密教を学び修め、後で必要な点だけ顕教を学べば良い」だとか「密教を修めれば顕教も次第に、おのずからわかるようになる」などということが、絶対にないものです。
これは先に述べたことの繰り返しとなりますが、三摩耶は、ただ外的な行動規範などでなく、またただ単なる「誓い」というのでもなく、我々が生死流転の苦海にあることを知り、また諸法本不生すなわち無自性空について理解することがその根底になければなりません。詳しくは後述しますが、空性の理解なくして、三摩耶の本質を理解することは出来ません。
これに関連した空海による真言についての言葉に、以下のようなものがあります。
法身有義。所謂法身者諸法本不生義。即是實相。 《中略》
名之根本法身為源。從彼流出稍轉為世流布言而已。若知實義則名真言。不知根源名妄語。
法身にの義がある。いわゆる法身とは本不生の義であって、すなわちそれが実相である。《中略》
名の根本とは法身を源とするものである。それより流出して次第に転変し、世間に行われる言語となる。もし(あらゆる声字の)実義〈「本不生」等の諸々の声字に象徴される真理〉を知ったならば、それ〈ありとあらゆる音・言語〉は真言となり、その根源〈あらゆる音が開示している「本不生」などの真理〉を知らないままならば、(世間のあらゆる音・言語は)妄語である。
空海『吽字義釈』(『定本 弘法大師全集』 Vol.3, p.38)
海阿闍梨がここでいう「根源」とは、顕教にて様々な手段により示されている一切法の無自性空であること、また阿字に集約して評される本初不生たることです。
これは、たとえば世間で「初心の者でも修習可能の密教瞑想法」だとか「もっとも易しく、かつまた深遠な修習法」などとして宣伝されている阿字観だとか、密教僧が行なう身口意の三密瑜伽のうち核心的な修習となる字輪観などに連なる、非常に大きな主題です。これを知らず、また誤解したままでいたならば、仏教の範疇からしてとんでもない見解を持つ者となってしまうでしょう。
実際、真言宗においては江戸前期、顕教に対して密教の優越性というものを殊更に主張しよう試み、空海そして密教を絶対視しするあまりにむしろ大いに誤解し、釈尊そして縁起法を公然と完全否定した驚くべき人がありました。将軍綱吉などの信をうけ、江戸湯島の霊雲寺を開いた浄厳覚彦です。
浄厳は、密教の事相面において経軌に忠実に基づいての安祥寺流の再編成という特筆すべき業績を残し、その故に今も真言の僧職の人々から非常に讃仰されている人です。あるいはまた、慶長七年〈1602〉より再び復興された戒律について、鎌倉期の叡尊や覚盛らによって刷新され復興した律宗に対し、あくまで真言宗という枠内で律というものを再解釈してその独自性を強調しつつ、戒律の護持を強調。多くの僧俗の人びとに授戒した、江戸期の戒律復興運動の流れに連なる人でもあります。
しかし、彼については特に事相面ばかりが取りざたされ、現代もてはやされているのですが、「まさに外道」と呼ばれるにふさわしい、その教相についての惨憺たる見解はほとんど知られていません。浄厳がいかに非仏教なる、外道そのものと評し得る思想を抱いていたかが知られていないのは、現在の真言密教における大抵の事相家や法式に詳しいなどと言われる人々に、それを理解するだけの知識と能力がまるで欠けているためであるのでしょう。
(別項「実恵『阿字観用心口決』」を参照のこと。)
あるいは諸経論の所説を専心に学習し、あるいは深く諸法の真相を思惟することもなく、ただ(漠然とした、しかしながら篤い)信仰などというものをもって日々に礼拝し、漫然と瞑想していくうちに「自然と」理解されていくといった如きものでは、仏教は到底ありません。
たとえば、「花は紅、柳は緑」などと禅宗で言われ、それは世間でも人口に膾炙される言葉でありましょう。が、それは取り方一つでまるっきり逆の意味にもなり得る言葉です。そのような表現・理解は日本人の最も好むところかもしれません。しかしながら、「自然と」覚る、「自然の流れに身をまかせ」て全き悟りに至る、などということは決して無い。もし、それが可能だというならば、釈尊をはじめとする過去の聖者・賢者は一体どうして多大な時間と労苦を費やし、あるいは菩提の華を開き、あるいは賢者の高みへようやく至ったというのか。
あるいは、これは『大日経』に説かれるものではありませんが、いわゆる三昧耶戒の真言として一般には以下の真言が知られています。これは、後述する『無畏三蔵禅要』という典籍に説かれる真言です。今に伝わる密教の諸々の儀式儀礼にて用いられています。
唵 三去摩耶薩怛鑁
oṃ samayastvaṃ.
オーム 汝は三昧耶なり。
『無畏三蔵禅要』(T18, p.944a)
現在、真言宗ではこの真言を「おん さんまや さとばん」と読み、天台宗では「おん さまやさたばん」と読むなどして相異なっています。真言宗と天台宗のいずれの読み方にせよ、そのサンスクリット本来の発音、すなわちカタカナ表記でいえば「オーム サマヤストヴァン」という発音からすれば、訛りに訛り、まるで誤り異なった(「真言」とは到底言えない)ものとなっています。それでもこの三昧耶の真言などは「まだマシ」なほうです。
往古の三蔵らが梵語で説かれた真言陀羅尼をなんとか漢字音に写し取るために、いわゆる音写・音訳がなされてきました。しかし、漢字というものは支那でも時代や地方によって発音が大きく異なっており、各時代に梵語の音を正しく伝えようとの努力がなされてきてはいたようですが、その故からも本来の梵語の発音は漢字音によって今に正確に伝えられ得るものではありません。
そのようなのが、また音や言語体系が異なる印度とも支那とも日本に伝えられ、奈良時代や平安時代にその本来の音を伝えようとする努力が払われています。ただ過程、その歴史の中で、印度語や胡語の音写であった語が、そのまま日本語の語彙に取り入れられ根付いたものがあります。例えば「菩提」や「瑜伽」などがそれです。定着した日本語として、それらの語を普段は「ぼだい」だとか「ゆが」などと読んでも構いはしません。それは例えば、本来英単語でものが、日本独自のカタカナ読みの語となって定着したようなものです。
しかし、こと真言についてとなれば事情は全く異なります。これも喩えていうならば、日本語におけるカタカナ英語で「ガレージ」だとか「アルコール」だとか言うのは構わなくとも、しかし英語としては全く駄目であって、それぞれ「ガラージ」だとか「アルカホール」と言わなければ全然通じないし、誤っているようなものです。いや、そもそも英語としてはそのようなカタカナ表記などしてはならず、やはり英語としてgarageやalcoholと表記し、それをそのまま英語として発音しなければならない。すなわち、真言陀羅尼は本来的に悉曇など印度文字によって記述され、それをそのまま読まなければなりません。
このように言うと「それは現代的な考え方だ」などと言う者があるかもしれない。しかし、実は昔から日本でもまっとうな学僧や密教僧らの間では梵字についてそのような問題意識が持たれており、悉曇に和字でふりがなをふったり真言陀羅尼を漢字で表現したのを用いるのは邪道であって、誤りの元であると考えられていました。よって、これは決して現代的な考え方などではありません。
例えば真言宗の正統を継承して日本に伝えた最初の人、空海はまさにこの点について、以下のように述べています。
釋教者也本乎印度。西域東垂風範天隔。言語異楚夏之韻文字非篆隸之體。是故待彼翻譯乃酌清風。然猶眞言幽邃字字義深。随音改義賒切易謬。粗得髣髴不得清切。不是梵字長短難別。存源之意其在茲乎。
釈教〈仏教〉は印度を本としたものである。西域〈印度〉と東垂〈極東〉とでは、風範〈風儀〉を非常に隔てている。(西域の)言語は楚夏〈支那〉の韻とも異なり、文字は篆・隸の書体ではない。したがって、その翻訳を待ってこそ(仏教という)清風を酌むことが出来るのだ。しかしながら、なお真言とは幽邃なものであって字字の義は深遠である。音にしたがって義を改める〈梵語を音写した漢字表記〉のでは賒切〈音の長短や促音等〉に謬りが生じ易い。およそ髣髴〈ぼんやりとして不明瞭なこと〉を得ることは出来ても、その清切〈正確な音〉を得ることは出来ない。この梵字でなければ(厳密にすべき音の)長短を別かち難い。(仏典の原語たる梵字という)源が(翻訳してもなお)存るべき意味はまさに茲に在る。
空海『御請来目録』(『定本 弘法大師全集』, vol.1, p.26)
そこでやはり、典拠にそう明記されており、またそもそも原語たるサンスクリットからしてこれを「さん」と読むことは全くありえないので、これはどうしても「さんまや」などと読まず「さまや」と読まなければならない。もっとも、そのようなことを言い出せば、それはおよそほとんど全ての現代日本で用いられている真言・陀羅尼に該当してしまう問題となります。
これはその伝承過程も印度から直接で無く、漢語を経由しているなど色々と複雑であり、また奈良・平安期から日本語自体の発音も変化したりしているなど、仕方のない事もあります。そして、そもそも梵語と日本語とでは言語系統が全く異なり、人によっては正しく発音出来ないばかりでなく、音が違っていることすら理解できないこともあるでしょう。
このような事態に対し、江戸中期に堕落していた仏教の復古、戒律の復興に尽力されたのみならず、梵語を独学で相当な程度まで理解していった空前絶後の人、慈雲尊者が取ったような態度、すなわち「本来を理解している者はそれを行えば良い。けれども、(無理解・無能力の者が)その本来をすることもない」などといった態度をもってするのが、ひとまずは穏当であるでしょう。
意味などからきし無い、いわば慣習・因習として真言を読むのか、真言を密教における真言として読むのかの態度の違い、あるいは場合の違いです。
空海は真言というものを以下のように表現し、それを斯く斯く然然と説くことについての見解を述べています。
真言不思議 觀誦無明除 一字含千理 即身證法如
行行至圓寂 去去入原初 三界如客舍 一心是本居
問陀羅尼是如來祕密語。所以古三藏諸疏家皆閉口絶筆。今作此釋深背聖旨。如來説法有二種。一顯二祕。為顯機説多名句為祕根説總持字。是故如來自説字字等種種義。是則爲祕機作此説。龍猛無畏廣智等亦説其義。能不之間在教機耳。説之默之並契佛意。
真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く。一字に千理を含み、即身に法如を証す。
行行として円寂に至り、去去として原初に入る。三界は客舎の如し。一心は是れ本居なり。
問ふ。陀羅尼は是れ如来の秘密語なり。所以に古の三蔵、諸の疏家、皆な口を閉じ筆を絶つ。今ま此の釈を作る、深く聖旨に背けり。
如来の説法に二種有り。一には顕、二には秘。顕機の為めに他名句を説き、秘根の為めに総持の字を説く。是の故に如来、自ら字字等の種種の義を説き玉へり。是れ則ち秘機の為に此の説を作す。龍猛・無畏・廣智等、亦た其義を説けり。能不の間、教機にのみ在り。之を説き、之を黙する。並びに仏意に契えり。
空海『般若心経秘鍵』(『定本 弘法大師全集』Vol.3, p.11)
例えば玄奘の五種不翻などによって支那以来、一般に「陀羅尼不翻」と言われ、顕教においても真言や陀羅尼を翻訳することは一種の禁忌(タブー)とされてきました。しかし空海は、例えば今引いた『般若心経秘鍵』において、その禁忌を破っているという自身への批判を想定し、以上のように反論しています。
また、空海によれば「真言不思議 觀誦無明除 一字含千理 即身證法如《真言とは不思議なものである。一字に千理を含むその字義を観察しつつ誦したならば、自身の無明を除き、この身・人生において菩提を証す》」などといったものです。いや、そもそも『大日経疏』において、「真言の教え」というものがいかなるものであるかは、以下のように明々として宣揚されています。
經云。祕密主云何眞言法教者。即謂阿字門等。是眞言教相。雖相不異體體不異相。相非造作修成不可示人。而能不離解脱現作聲字。一一聲字即是入法界門故。得名爲眞言法教也。至論眞言法教。應遍一切隨方諸趣名言。但以如來出世之迹始于天竺。傳法者且約梵文。作一途明義耳。
経〈『大日経』巻二〉に「秘密主〈金剛薩埵〉よ、真言法教〈真言密教〉とは何であろうか。それはすなわち阿字門(一切諸法本不生)である云々」と(毘盧遮那〈Vairocana. 大日如来〉により)説かれていることについて、それがまさに真言の教相〈教えの特徴〉である。その相〈姿・特徴〉は体〈本質〉に異なったもので無く、その体は相に異なったものでは無い。(このような真言の)相は(何者かによって)創造されたものでなく、(何故そうであるかの所以を)人に示すことなど出来はしない。それはしかし、「解脱」を離れること無しに、声字〈音と文字〉として現にある。一つ一つの声字は、(それぞれあらゆる存在が無自性空・本不生であるという真理を象徴・開示しているものであって)すなわち法界に入る門であるから「真言法教」と言う。これをさらに敷衍して言ったならば、真言法教とは、あらゆる方角のあらゆる趣〈境涯・生命のあり方〉における言葉において普遍なるものである。ただし、如来が世に出られたのが天竺〈印度〉であったことから、その法〈教え・真理〉を伝える者らは、仮に(印度の言語である)サンスクリットを例とした一つの方法により、その意味を明らかにしているのに過ぎない。
一行記『大毘盧遮那成佛経疏』巻七(T39, p.651b-c)
実は、これは現在の日本において密教者を自称する真言宗や天台宗の僧職者らの大部分も完全に誤認している点ですが、真言陀羅尼とは必ずしも「サンスクリットでなければならない」というものではありません。釈尊が印度に生を受けて仏教が始まり、またその故に当然ながらその地の言語である梵語によってその教えが説かれ伝えられてきたものであるために、それを敬し、梵字悉曇によって真言を学び、また言うに過ぎません。
そのようなことから、真言は梵語の語彙を前提としており、やはり梵語に対する一定の理解が必須となります。そして、ついでに言うならば、そのように梵語の言葉の文字一字にて表される、一般的仏教すなわち顕教の教理への理解無しには、真言として説かれる一連の言葉・音をどれほど口にしたところで、それはまるで意味の無い迷信・意味不明で無意味な言葉の羅列の類となります。
真言密教の本質は、この世のあらゆる言語を構成する音あるいは字というものは、いずれもこの世のあらゆる存在・事象が縁起・無自性であるという真理を開示したものである、という点にあります。よって当然、「梵語であるから真言である」、「真言であるならばそれは梵語でなければならない」などと言えたものでは決して無い。
であるならばなおさら、その一つ一つの字や音でもって表される意義が、その意図する内容がわからなければ、わかろうとしなければ、ただオウムや九官鳥が空虚な音節を繰り返すに等しいもので、その意味も価値もまずありません。それは、「バカの一つ覚え」というにすら値しない。
これは、引用元の文脈を無視した恣意的なものとなりますが、空海の著作の中に、次のような言葉があります。
能誦能言鸚鵡能為。言而不行何異猩猩。
よく誦し、よく言うだけならオウムでも出来ることである。しかし言うだけで行じることがなければ、猩猩〈猿の妖怪〉と何ら違いはないであろう。
空海『秘蔵宝鑰』巻中(『定本 弘法大師全集』, Vol.3, p.135)
いや、この場合は以下の言葉が妥当でしょうか。
妙薬盈篋。不嘗無益。珍衣満櫃。不著則寒。
妙薬が箱の中に満ちていたとしても、それを服用しなければ薬効などありはしない。珍衣が櫃に満ちていたとしても、それを着ることがなければ寒いままである。
『遍照発揮性霊集』巻十 「答叡山澄法師求理趣釈経書」
(『定本 弘法大師全集』, Vol.8, p.205)
真言宗、真言陀羅尼宗の核心としての、真言そして陀羅尼。そして、これを核とする諸々の瑜伽法(瞑想法)いわゆる「三密瑜伽」もしくは「三密加持」。それは、ただ紙面・文字上で斯く斯く然然と書いてあることを読んで学ぶ「だけ」で、その謳われている内容を理解し、またその功徳が期待できるものではないでしょう。それは、いま引いた空海が最澄からの密教受法についての頼みを、慇懃無礼に断っている手紙に、長々と書かれているとおりでありましょう。
海阿闍梨は、その著作の中で「三密加持すれば速疾に顕わる」と言い、また「即身に法如を証す」と謂い、であるからが故に、真言密教というものが勝れた教えであることを主張しています。しかしながらそれは、今の真言門徒が好んで頻繁に口にする、「理屈などさておき、とにもかくにもオダイシ様とホトケ様を信じ、日々熱心に拝んでいればそのうち解るのだ」であるとか、「学者的理屈など知らなくとも、日々にただただ行法していれば次第に体得出来るのだ」などと言えるようなものでは全く、断じてない。
いや、そもそもそれは仏教ではない。なぜ、そのように断じ得るのか。
実際問題、現実として(少なくとも現在の真言宗においてそのように言う輩の)誰一人として「速疾に顕われ」ておらず、また全然「即身に法如を証」してはいないことが、ただ拝んでどうにかなるものではないことの、その確固明白たる証であるためです。その厳然たる事実は、諸経論の文証を挙げるなどしたとしても、どうにも反論しようがない。
そのような事態は、日本史上、ただ仏教についてだけというにとどまらず諸方面に大なる業績を遺すも、もはやとうの昔に逝去してない偉大な人、かの空海自身からすれば生前予想だにしなかった、実に鬱々たる悲劇というべきものでありましょう。けれども反面、空海の死後百年頃から、弟子筋の観賢や仁海などにより、真言宗の政治的運動・経済的動機によって「弘法大師」として恣意的に超人化されたことを嚆矢とし、爾来、次第に妖怪・怪異の如きまったくの別モノに祀り上げられ、しかしながら現代に至るまで篤く崇め奉られている事態たるや、それに関知せずしてただ傍見する者からすれば、まこと奇妙奇天烈で愉快な喜劇でもあります。
世間では、あるいはそのような事態をして「文化だ!」などと言い、もしくは実際は案外いい加減で曖昧な「伝統」などという言葉で修飾したならば、たちまち賞賛し得る事柄とすることも出来るでしょう。それは、現実に行われてもいることです。