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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『無畏三蔵禅要』

訓読

次に應にひろく誓願を發すべし。我れ久しく有流うるに在て、或は過去にかつて菩薩の行を行じ、無邊の有情うじょうを利樂せり。或は禪定を修し勤行ごんぎょう精進しょうじん三業さんごうを護持せり。所有恒沙ごうしゃの功德、乃し佛果に至るまでに、唯だ願くば諸佛菩薩、慈願力を興して加威護念し玉て、我をして斯の功德に乗じて速かに一切の三昧門と相應し、速かに一切いっさい𨹔羅尼門だらにもんと相應し、速かに一切いっさい自性清淨じしょうしょうじょうを得せしめ玉へと、是の如く廣く誓願を發して退失せざらしめば、速かに成就を得。

次に應に氣を調ふことを覺すべし。調氣ちょうきとは、先ず出入の息を想へ。自身の中の一一の支節、筋脈より、亦た皆な流注るちゅうす。然して後に、口より徐徐にして出づと。又、此の氣を想へ、色白きこと雪の如し、潤沢なること乳の如しと。なを須く其の至る所の遠近おんごんを知て、還て復た徐徐にして鼻より入て、還て身中にあまねからしめよ。乃至、筋脈に悉く周遍せしめよ。是の如く出入すること各三たびに至らしめよ。此の調氣を作して、身をしてわずらひ無からめ、冷、熱、風等悉く皆な安遍 異本「適」 ならしめよ。然して後に定を學すべし。

輸波迦羅しゅばきゃら三藏の曰く、汝、初學の人、多く起心動念きしんどうねんをそれ、進求しんぐ罷息やめて、專ら無念むねんを守て、以て究竟くきょうと爲すとは、即ち増長をもとめるに不可得也。夫れねんに二種有り。一には不善念、二には善念なり。不善の妄念は一向に須らく除くべし。善法の正念は、復た滅せしめざれ。真正しんしょう修行せん者は、要ず先づ正念増修して、後に方に究竟清淨にいた 異本「至」 るべし。人の射を學ぶに、久しく習て純熟するが如し。更に心想を無くして行住、つねじょうともなり。をちず畏れず、心を起て、進學をくことをわずらひと爲せ。

次に應に三摩地さんまぢを修すべし。言ふ所の三摩地とは、更に別の法無し。𥄂じきに是れ一切衆生の自性清淨心じしょうしょうじょうしんなり。名づけて大圎鏡智だいえんきょうちと爲す。上、諸佛より、下、蠢動しゅんどうに至るまで、悉く皆な同等にして増減有ること無し。但し無明妄想の客塵きゃくじんの爲に覆る所たり。是の故に生死しょうじ流轉るてんして作佛さぶつを得ず。行者、應に安心あんじん静住じょうじゅうすべし。一切の諸境を縁ずること莫れ。かりに一の圎明えんみょうなほ淨月じょうがつの如きを想へ。身を去ること四尺なり。前に當て面に對して高からず下からず。量は一肘いっちゅうに同じて圎滿具足せり。其の色、明朗にして内外ないげ光潔なり。世に方比する無し。初めには見ずと雖も久久に精研して、ついで當に徹見し巳るべし。即ち更に觀察して漸く引て廣からしめよ。或は四尺、是の如く倍増して、乃至三千大千世界に滿ぜよ。極めて分明ふんみょうならしめよ。將に出觀せんと欲せば、是の如く漸く略して還て本相に同ぜよ。初觀の時は月の如似ごとし。遍周の後は復た方圎無し。是の觀を作し巳て、即便ち解脱一切蓋障三昧げだついっさいがいしょうざんまいを證得す。此の三昧を得る者を、名けて地前じぜん三賢さんけんと爲す。此に依て漸進して法界に遍周する者を、經の所説の如く、名けて初地しょじと爲す。初地と名くる所以ゆえんは、此の法を證して昔に未だ得ざる所を、今初めて得て大喜恱だいきえつを生ずるを以てなり。是の故に初地を名けて歡喜かんぎと曰ふ。亦た解了を作すこと莫れ。即ち此の自性清淨心は、三義を以ての故に、猶ほ月の如し。一には自性清淨の義、貪欲の垢を離るが故に。二には清涼しょうりょうの義、瞋の熱惱を離るが故に。三には光明の義、愚癡の闇を離るが故に。又、月は是れ四大所成しだいしょじょうにして、究竟して壊し去れども、是れ月は世人共に見るを以て、取以とりもって喻へと爲して、其れをして悟入せしむ。行者、久久に此の觀を作して、觀習成就すれば延促えんそくを須ひず、唯だ明朗みょうろうを見て更に一物無し。亦た身と心とを見ず。萬法ばんぽう不可得ふかとくにして、猶ほ虚空の如し。亦た空解くうげを作すこと莫れ。無念等を以ての故に虚空の如しと説くとも、空想くうそうと謂ふには非ず。久久に能く熟すれば、行住坐臥、一切の時處に作意さい不作意ふさいともに、任運に相應して罣礙けいげする所無けん。一切の妄想、貪瞋癡等の一切の煩惱、㫁除を假ずして、自然に起せず。しょう、常に清淨なり。此に依て修習しゅじゅうして乃し成佛に至れ。唯だ是れ一道にして、更に別のことはり無し。此は是れ諸佛菩薩の内證の道なり。諸の二乗外道の境界に非ず。是の觀を作し巳らば、一切の佛法、恒沙ごうしゃの功德、他に由らずして悟る。一を以て之を貫して、自然に通達す。能く一字を開て無量の法を演説し、刹那せつなに諸法の中に悟入して、自在無㝵むげなり。去來こらい起滅きめつ無く、一切平等なり。此を行じてようやく至らば昇進の相、久くして自ら證知すべし。今あらかじめ説て能く究竟くきょうする所に非ず。

現代語訳

次に、まさに弘く誓願を発せ。「私が久しく(生死海に)流転してきた中、あるいは過去にかつて菩薩の行を行じ、数えきれないほどの有情を利楽してきた。あるいは禅定を修して勤行精進し、三業を護持してきた。そのような計り知れない功徳が、乃し仏果に至るまで、ただ願くは諸仏菩薩よ、慈願力を起こして加威護念したまい、私をしてその功徳に乗じて、速かに一切の三昧門と相応し、速かに一切の陀羅尼門と相応し、速かに一切の自性清淨を得せしめたまえ」と。このように広く誓願を発して退失させなければ、速かに成就を得るであろう。

次に、まさに気を調えること〈prāṇāyāma〉を学ぶがよい。調気とは、先ず出入の息を観想せよ。「自身の中の一一の手脚、筋脈より、またすべて流注する。そうして後に、口より徐徐に出ていく」と。また、この気を観想せよ。「色は白く雪のようであり、潤沢である様はまるで乳のようである」と。そのようにして、須くその(気が)至る所の遠近を知って、還ってまた徐徐に鼻より入り、還って身中に遍からしめよ。乃至、筋脈に悉く周遍させよ。そのように(気を)出入すること各々三度に至るまでする。この調気を行って、身に患い無きようにし、冷、熱、風等全て快適とさせよ。そのようにして後、定を学べ。

輸波迦羅三蔵は言われた。
「汝ら、初学の者は、しばしば心が乱れて念〈smṛti. 注意〉の動じることを恐れ、(念を)強め深めようとするを止めて、むしろ無念〈ここでは「なんら心が働いていない状態」、いわゆる「無」〉であろうと努めて、それを究竟だと考えたならば、さらに増長〈心をさらに開発・陶冶すること〉を求めても得ることは出来ない。そもそも念には二種ある。一つは不善念、二つには善念である。不善の妄念はひたすらに須く除け。善法の正念は、また滅してはならない。真正修行する者は、かならず先ず正念を修めて強くし、後に究竟清淨に至るであろう。あたかも人が弓射を学ぶ時、久しく習って次第に習熟していくようなものである。さらに心想を無くして、歩く時も留まる時も、つねに定と共となる。(心が)乱れることを嫌がらず恐れず、心を奮い立たせて、定学を深めんとする意志を欠くことを患いとせよ」と。

次に、まさに三摩地〈samādhi〉を修めよ。言うところの三摩地とは、これ以外に(求めるべき)別の法など無い。直にこれ一切衆生の自性清淨心〈無自性空・本不生なる心の本質〉である。これを名付けて大円鏡智という。上は諸々の仏陀から、下は小さき虫などに至るまで、(その本質として)悉く全て同等であって増減の有ることは無い。ただし(諸仏以外は)無明・妄想という客塵(煩悩)によって覆われている。その故に生死流転して作仏〈成仏.解脱〉出来ないのだ。行者はまさに心を安んじ静かにあれ。全ての認識対象に心惑わされることなかれ。仮に、一つの円形の、あたかも清らかな月のようなものを観想せよ。(その位置は)身体から離すこと四尺〈約120cm〉ばかり。前方にあって高からず低からず、その大きさは一肘〈約45cm〉ほどであって円形である。その色は明朗であって内外ともに光り輝き、世に比較できるものが無い。初めのうちは観想出来なくとも、久しく継続して研鑽したならば、ついにありありと現前するかのようになる。そのしたならば、更に観想して、漸くその大きさを広げてゆけ。あるいは四尺ほどまでに同様に倍増させ、乃至、三千大千世界に遍く広げてゆけ。極めて明瞭に観想せよ。まさに観想を終えようとするならば、先と同じように漸く収斂させて、ついには本相〈最初の大きさ.一肘〉に同じくせよ。初観の時はあたかも月のようとする。遍く広げていった後には、方形・円形など形をはない。この観想を成就したならば、すなわち解脱一切蓋障三昧の証得である。この三昧を得る者を、名づけて地前の三賢〈十住・十行・十廻向〉という。これからまた漸く進んで法界に遍からしめる者を、経の所説のように、名づけて初地〈十地の最初の位〉という。初地と名づける所以は、この法を証して未だかつて得たことの無い境地を、今初めて得て大喜悦を生じることによる。この故に初地を名づけて歓喜と言う。(もし、三昧を成就し初地に至ったとしても、)解了〈「悉地を得た。全く理解した」と驕ること〉をなしてはならない。すなわち、この自性清浄心は、三つの意義によって、あたかも月のようなものである。一つは自性清浄の義。貪欲の垢を離れているためである。二つには清涼の義。瞋恚の熱悩から離れているためである。三つには光明の義。愚痴の闇から離れているためである。また、月とは四大〈地大・水大・火大・風大〉からなるものであって遂には壊れゆくものであるけれども、月は世人が皆見るものであるから、これを以て喩えとし、それ〈自性清浄心〉に悟入させるのだ。行者が、久しくこの観想を行じて観習成就したならば、(時間の)長短もおぼえず、ただありありと(心が満月輪のように輝くのを)見ることだけあって、他に何もない。また(自らの)身体と心とをすら認識することもないであろう。万法〈あらゆる事象・事物〉は不可得〈無自性空・中道・仮名〉であって、あたかも虚空のようである。また、ここで空解〈無自性空を虚無主義的理解すること〉をなしてはならない。(そのような境地においては)なんら認識することすらないために、それを虚空のようであると説きはするが、空想〈虚無主義〉を云っているのではない。久しく(この観法に)よく習熟したならば、行住坐臥、そのすべての時と場所において、意識的・無意識的共に、ただ行なうままに行いながら妨げとなるものも無いであろう。すべての妄想、貪・瞋・癡などすべての煩悩は、強いて制し断ずることも無く、自然に起こることもない。その(行者の心の)性は、常に清淨となる。この法に依って修習して、乃し成仏に至れ。(成仏に至るには)ただ一道のみあって、さらに別の理は無い。これは諸仏菩薩の内証の道である。諸々の二乗、外道らの境界ではない。この観を修し終わったならば、すべての仏法、無量の功徳を、他に依ることなく悟るであろう。一を以ってこれを貫いて、自ずから通達する。(それと同じように、本不生を意味する阿字)一字を開いて無量の法を説き示し、刹那に諸法の中に悟入して、自在無礙である。(諸法は)去ることも・来ること・起こること・滅することも無く、すべて(無自性空であるという点において)平等である。これを行じて漸く(悉地へと)至ったならば、(自身の境地が)昇進した相を、久しくして自ずから証知するであろう。今、このように説いたからといって、それで完結するものではない。(自らが実際に精進して修め、自ら実際に体験しなければならないことである。)