この項で紹介しているAsibandhakaputta Sutta は、セイロンを中心に展開し現在に至るまで主として東南アジアに伝わった分別説部(上座部)にてパーリ語で伝持されてきた三蔵の経蔵のうち、Saṃyutta Nikāya, Saḷāyatanavagga(相応部六処篇)に収録されている小経で、その主題は「人は死した他者を救うことが出来るのか」・「仏陀は死者を救うことが出来るのかどうか」です。
Asibandhakaputtaとは、とある村(聚落)の長で、Nigantha Nātaputtaすなわちジャイナ教祖Mahāvīraの信徒であったという人の名です。彼はニガンタ・ナータプッタの命を受け、釈尊を論駁するために遣わされ、用意していた問いを投げかけます。「儀式・儀礼などによって、他者をその死後において救うことが出来ると主張する者があるが、そのようなことを仏陀も可能なのか?」という問いです。
ここにアシバンダカプッタがいう「救う」とは、生ける者がなんらかの儀礼・儀式を行うことによって、死者のこの世への心残りなどから解放させ、天界に生まれ変わらせる(あるいは仏教の目指す涅槃・解脱を得させる)ことです。それに対し仏陀は、直接その問いに答えること無く、逆に様々な譬喩を示しつつアシバンダカプッタに問うことによって、「そのようなことは誰であれ、どのような方法であれ不可能である」ことを彼自身に理解させています。
この『アシバンダカプッタ・スッタ』は、特にそのような死者の救いについて仏教としての明確な答えを示していることから、「葬式仏教」と揶揄される現今の日本仏教各宗派、そしてそこに属するほとんど全ての仏教者らの思想・ありかたを覆すもの、真っ向から否定する経典としてしばしば取り上げられます。そこで仏教として問題となるのは、日本仏教各宗派の葬儀というもののほとんどがその建前上、(しかも高額な導師料なるものを請求することを前提に)「引導を渡す」ということを行っていることにあります。「引導を渡す」とは亡者をしてジョーブツさせる、あるいは悟らせる、ということです。
(しばしば、勘違いしている人がありますが、仏教者が葬式を行うことが問題なのではありません。)
しかしながら、誰であれ死者を救うことなど出来ません。
けれども仏教は、ただ「死者を救うことなど出来ない」などと説くものだけではない。そもそも、「人は人を救うことは出来ない。ただその人自身を除いては」・「私を救ってくれる全能の神・創造主・救い主など存在しない」というのが仏教の核心ともいうべき主題です。仏陀はかく説かれます。
attā hi attano nātho, ko hi nātho paro siyā.
attanā hi sudantena, nāthaṃ labhati dullabhaṃ. .
自分自身こそが自分の主である。他者がどうして(自分の) 主であろうか。
自分をよく調えたならば、得難き主を得る。
KN. Dhammapada, Attavagga 160.
また同じくこのようにも説かれています。
attanā hi kataṃ pāpaṃ, attanā saṃkilissati.
attanā akataṃ pāpaṃ, attanāva visujjhati.
suddhī asuddhi paccattaṃ, nāñño aññaṃ visodhaye.
自ら悪を行えば自ら汚れ、自ら悪を行わざれば自ら浄まる。
(己が)浄きも浄からざるも、それぞれ(の自業自得)である。
人は他者を浄めることができないのだ。
KN. Dhammapada, Attavagga 165.
自己ではない他のより優れた存在、たとえば神や超人とされる存在などに寄りすがり、その超常なる力による救いを求めること。それは往古の印度や欧州・中東においてだけではなく、現代の日本においてもまたしかりであって、もちろん例外もいくつか認められるでしょうけれども、洋の東西も問わず見られる人の行為であるのでしょう。そして一般に、宗教とはそのようなものであると見なされています。
しかしながら、仏教の見地からすると、救いあるいは清めというものは、他人から与えられるものでも、祈りや儀式を通して何か他の超常なる力によって得られるものでも決してない。たといその他というのが仏・菩薩であったとしても。
たとえば釈尊は、Dhotakaという名の道を求めて勤めるバラモンからの真摯な問いかけに対し、このように答えられています。
“passāmahaṃ devamanussaloke, akiñcanaṃ brāhmaṇamiriyamānaṃ. taṃ taṃ namassāmi samantacakkhu, pamuñca maṃ sakka kathaṃkathāhi”.
“nāhaṃ sahissāmi pamocanāya, kathaṃkathiṃ dhotaka kañci loke.dhammañca seṭṭhaṃ abhijānamāno, evaṃ tuvaṃ oghamimaṃ taresi”.
“anusāsa brahme karuṇāyamāno, vivekadhammaṃ yamahaṃ vijaññaṃ. yathāhaṃ ākāsova abyāpajjamāno, idheva santo asito careyyaṃ”.
“kittayissāmi te santiṃ, (dhotakāti bhagavā) diṭṭhe dhamme anītihaṃ. yaṃ viditvā sato caraṃ, tare loke visattikaṃ”.
(ドータカ曰く)
「私は、神々と人々との世界において、何も所有すること無しにある(真の)バラモン〈印度の伝統的宗教者。ここでは釈尊のこと〉を見ます。すべてを見るお方よ、私はあなたを礼拝します。釈迦族のお方よ、私を諸々の疑惑から解放したまえ!」
(世尊は答えられて曰く、)
「ドータカよ、私は世間における、いかなる疑惑もつ者も救うことは出来ないであろう。ただ(汝自身が)最上の真理を全く解したならば、それによって汝はこの激流を渡るであろう」
(ドータカ曰く)
「バラモンのお方よ、どうか憐れみを垂れて、出離の法を私に示したまえ。私はそれを解したいのです。私はそれを、虚空のように悩み乱れること無く、この生において安らかに、依りすがること無く、行いたいのです」
(世尊は答えられて曰く、)
「私は、伝え聞くことなどに依らない、(みずからが今ここにおいて)ありありと体験し得る平安を、汝に説き示すであろう。(ドータカよ、)汝はそれを知って、よく気をつけて行い、世間の執着を乗り越えよ」
KN. Suttanipāta, Dhotakamāṇavapucchā 1069-1072.
比類なくこの上ない人、仏陀釈尊は、その行くべき道と歩み方とを懇切に示されるものの、誰一人として救ってくれることはありません。いや、たといそれを真から望んだとしても、道理として、ただ一人として救うことは出来ないことを、ここで仏陀は宣言されています。
あるいは、これも比較的知られたもので本経との関連でよく取り沙汰されますが、仏ご在世の昔における優れた尼僧らの言葉を伝える偈文集Therīgāthāの中には、以下のようなものがあります。
udahārī ahaṃ sīte, sadā udakamotariṃ.
ayyānaṃ daṇḍabhayabhītā, vācādosabhayaṭṭitā.
“kassa brāhmaṇa tvaṃ bhīto, sadā udakamotari.
vedhamānehi gattehi, sītaṃ vedayase bhusaṃ”.
jānantī vata maṃ bhoti, puṇṇike paripucchasi.
karontaṃ kusalaṃ kammaṃ, rundhantaṃ katapāpakaṃ.
yo ca vuḍḍho daharo vā, pāpakammaṃ pakubbati.
dakābhisecanā sopi, pāpakammā pamuccati.
ko nu te idamakkhāsi, ajānantassa ajānako.
dakābhisecanā nāma, pāpakammā pamuccati.
saggaṃ nūna gamissanti, sabbe maṇḍūkakacchapā.
nāgā ca susumārā ca, ye caññe udake carā.
orabbhikā sūkarikā, macchikā migabandhakā.
corā ca vajjhaghātā ca, ye caññe pāpakammino.
dakābhisecanā tepi, pāpakammā pamuccare.
sace imā nadiyo te, pāpaṃ pubbe kataṃ vahuṃ.
puññampimā vaheyyuṃ te, tena tvaṃ paribāhiro.
(プンナー曰く、)
「私は(出家する以前、)水運び女として、貴婦人たちに罰せられることを恐れつつ、また怒りの言葉を浴びせられるのを恐れつつ、寒く感じるときであっても常に(水を汲むため)水の中に入っていました。バラモンよ、あなたは誰を恐れて常に水の中に入るのですか?あなたはひどい寒さを感じて、体を震わせているではないですか」
(水浴するバラモン曰く、)
「おおプンナーよ、あなたは実に私が(水浴という)善い行いをなし、悪しき行いを断っていることを知っていながら、(そのような)質問をしているのだな。老いた者でも若き者でも誰であれ、たとい悪しき行いをなしたとしても、彼は水浴によって悪しき行いを消し去ることが出来るのだ」
(プンナー曰く、)
「いったい誰が、無知でありながら(あなたのような)無知なる者に、「水浴によって悪しき行いを消し去ることが出来る」などという(愚かな)ことを語ったのでしょうか?」
「(もしそれが真実であるならば、)蛙や亀や蛇や鰐など、その水の中にうごめくもの全ては(何もせずとも、死後には)必ず天界に赴くこととなるでしょう」
「(そして、また)羊の屠殺人・豚の屠殺人・漁師・鹿の狩人・盗賊・死刑執行人など、悪しき行いを為す者らもまた、水浴によって悪しき行いを消し去ることが出来ることになるでしょう」
「そしてもし、これらの水が、汝が以前に為した悪を流し去ってしまうのであれば、これら水は(同じように汝が為した善い行いの)功徳をも流し去ってしまうでしょう。であれば、それによってあなたは(善を志向していたはずが、善でもなく悪でもない)何者でもない者となってしまうでしょうに」
「バラモンよ、あなたが(宗教的・盲目的な)恐れによって常に水の中に入るようなことなどされぬようにしなさい。バラモンよ、寒さであなたの皮膚を害わぬようにしなさい」
KN. Therīgāthā, Soḷasanipāta, Puṇṇātherīgāthā
日本では、それを宗教的効果あるもの、ブッキョーのシュギョーの一環であるとして、奇声を上げながら経や陀羅尼・題目なんどを誦しつつ、極寒の中でも水を浴び続けたり滝に打たれたりする人々が今なお多くあります。そして極寒の日には、冷水を浴び続ける人からもうもうと水蒸気が立ち上ることがある。
あるいは寒さを忍ぶというのとは正反対に、護摩行を長期間あるいは長時間行う中で、顔に火膨れが出来るほどの熱さに堪えながら裂帛の気合をもって真言陀羅尼を延々と唱える人々がまま見られます。それは時に、何やら凄まじい非常なる迫力ある光景として、ある場合には神秘的で魅力的なものとしてすら、それを観ずる人々に迫ることもあるでしょう。
そして、そのような者があまりに多いことから、それを行うことなどない人であっても、いや、別段仏教に興味も信仰も持っていない人であればなおさら、仏教の修行とはそういうものであるとして眺めることになる。
上に示した経の一節が示しているように、そのような類の輩は、釈尊がご健在であった遠い昔のインドにおいても存在していました。しかしながら、そのような行為になんら意味の無いことは、すでに仏陀ご自身およびその弟子方らによって断言されていることです。