Kesamutti suttaとは、その昔南アジアはセイロンを拠点として成立し、やがて東南アジア各地に伝わって今に至る分別説部大寺派(上座部)がパーリ語によって伝持してきた三蔵のうち、Aṅguttara Nikāya, Tikanipāta(増支部三集篇)に収録されている一小経です。
欧米では、この経の内容がKālāmaという氏族の者たちへの教えであることからKālāma Suttaと通称され、広く愛読されています。これは英語での綴りであって正確でないのですが、欧米ではKalama Sutta と綴られ、呼称されてもいます。
カーラーマといえば、仏陀が出家して間もない時に師事されていたということで知られている、極めて深い定〈無処有処定〉に達していたというĀlāra Kālāmaなる修行者の氏族です。
同内容のものが漢訳経典の中にないこともあり、日本では未だそれほど知られていない経典ですが、特に西洋では仏教の根本的態度を簡潔に説きあかす至宝として、その信奉する所の教えの大乗小乗の別なく奉持されています。この教えは仏教徒の憲章であると。実際、この経典の一説は、現代における仏教について語られる書の多くで、仏教思想の勝れた所以の一つとして事あるごとに引用されています。
大乗の典籍で類似した思想を説いたものとしては、これもまた往古の日本には伝わらなかったもので今でも一般にはほとんど知られていませんが、印度から西蔵に仏教をもたらした尊者Śāntaraksita(寂護)による、Tattvasamgrahaという大変に優れた綱要書があります。そのTattvasamgrahaの一偈に、Kesamutti suttaの所説とよく合致する仏教徒としての姿勢が極めて簡潔に説かれています。
tāpācchedācca nikaṣātsuvarṇamiva paṇḍitaiḥ |
parīkṣya bhikṣabo grāhyaṃ madvaco natu gauravāt ||
(私の言葉は、)私への敬意によるのではなく、よく吟味されてから賢者によって受け入れられなければならない。比丘たちよ、あたかも黄金が、火と切断と練磨によって、はじめてその純粋であることを認められるように。
Śāntaraksita, Tattvasamgraha, 3587
さて本経の主題、それを要約すれば以下の様なものです。
この世には数多くの「教え(思想)」を説く者があり、それぞれ「我が教えこそ真理である、我が奉じる説こそ真実である」と主張して譲らず、また他の説を「虚妄である」として批難する者がある。けれども、それを聞く者としては、その多様性とそれぞれ矛盾する思想内容によって判断に窮し、むしろそれらすべてへの疑惑と不審とを増すばかりである。そこで、それらが果たして真理であるかどうか、そのいずれが真実であるかを判断する基準は何か、ということです。
カーラーマの人々は、仏陀の弟子や信者ではありませんでした。ただ当時、仏陀すなわち真理を全く覚った人であるらしいなどと、世間で評判となっていたゴータマという沙門〈自由思想家・遊行者〉が、たまたま自身らの村ケーサムッタにやってきていたことから、いわば興味本位で会ってみようと思い立ち、その思想を聞いてみたまでのことであったようです。そこには沙門や婆羅門〈インド教の司祭〉を一応尊敬してもてなす、という当時の印度における社会通念や慣習もあったのでしょう。
するとそこで、それまでも村を訪れてきた種々様々な沙門や婆羅門らの相異なる主義主張を聞いていたカーラーマ達は、一体誰が本当のことを言っているのか、というごく当たり前で素朴な疑問を、釈尊の説を聞く前からぶつけています。それに対する釈尊の答えは、まさに現代いうところの功利主義に他ならない態度を採るべきというものであって、その判断を下す基準を示したのでした。その結果、その場に列していたカーラーマ達は皆、仏陀の弟子となったとされます。
釈尊が示されたその基準は、2500年あまりもの星霜を廻らし、さらに種々様々な思想・価値観に溢れ混迷した現代においても、今なお色褪せることなく世人に珍重される金言です。
その思想・教義が真偽をいかにして弁別・判断すべきかを説かれるにあたり、仏陀は「我が説こそ正しいものであるから、まず我れに従え」、「私の説こそ優れており、他は誤り劣っている」などということを一切口にされず、ただ以下のような十の憲章をまず示されています。
1. | mā anussavena | 風説に依らない。 |
---|---|---|
2. | mā paramparāya | 伝承に依らない。 |
3. | mā itikirāya | 伝聞に依らない。 |
4. | mā piṭakasampadānena | 聖典集の所伝に依らない。 |
5. | mā takkahetu | 推論に依らない。 |
6. | mā nayahetu | 公理〈定式化された理解〉に依らない。 |
7. | mā ākāraparivitakkena | 類比に依らない。 |
8. | mā diṭṭhinijjhānakkhantiyā | (他者により)深慮された見解への同意に依らない。 |
9. | mā bhabbarūpatāya | 有能そうな外見の者の言葉に依らない。 |
10. | mā samaṇo no garūti | その沙門が(自身の)師であるという理由に依らない。 |
釈尊は何事か真実に関わることを判断するのに、これら十項目の憲章を示され、そのいずれかによってただちに判断を下すのではなく、まず自らが確かめるべきことを勧めています。
一応、念のために確認しておきますが、仏陀は列挙されたこれら十の事柄に依ることを「完全に退けよ」・「何も信じるな」などとは説かれてはいません。これらは「ただそのような理由だけで従うなかれ」、「ただそれだけを根拠に信じるなかれ」といういわば忠告です。
その上で釈尊は、「ではどのようにして、何を基準として、我々はその説の真偽を弁別すべきか」を示されています。それはまた、この経説の核心となる最も重要な点となっているのですが、それはその思想が自らの貪・瞋・痴に基づく行為につながるものであるか否か、四無量心を持つのに資するものであるか否か、というものでした。
ところが、皮肉なことに、本経を知る者があっても往々にしてその核心部をまるごと等閑視し、ただ上記の如き十の憲章をあげつらうのみでその核心として、単純に「仏陀は何事も信じるなと言ったのだ」として済ましてしまう早合点の不束者が非常に多くあります。けれども、それは片手落ちどころか見当違いも甚だしい誤解であって、本経の説について正鵠を射たものでは全くありません。
仏陀釈尊とほぼ同時代の賢人、支那の孔子〈前551-479〉は、この仏陀の教説に一つ通じるこのような言を残しています。
学而不思則罔
学びて思わざれば則ち罔し
『論語』為政
これはいわばごく当たり前であろうと思われることなのですが、その当たり前が出来ない、出来なくなるのが人の性というものなのでしょう。
また、釈尊より時代をやや下る時の同じく支那において、性善説を説いたことで今もよく知られている儒者、孟子〈前372頃-289頃〉もまた、この教説に通ずる言葉を残しています。
悉書信則不如無書
悉く書を信じれば則ち書無きに如かず
『孟子』尽心下
これも今でも人が学問するに際し特に心しておかなければならない、いわば真の科学的態度といえる反証主義に通じる主張であって、まさに金言です。
そしてまた、ギリシャの哲人らのうちストア学派やエピクロス派などを淵源とする、近代から現代に至るまで繁栄をみせている経験主義、実証主義、実用主義など啓蒙思想はてまたは実存主義でも、これに共通する態度が採られています。
そのような態度を、今からおよそ二千五百年前のソクラテスなどが活躍したのと同時代に仏陀が説かれているということもあり、西洋人そして西洋思想の影響を多分に受けた人々から、などと云うと教育を受けた現代日本人はおおよそすべて当てはまることになりますが、「仏教とは宗教と言うよりもむしろ哲学ではないのか」という見方がなされることがしばしばあります。