Evaṃ me sutaṃ – ekaṃ samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati jetavane anāthapiṇḍikassa ārāme. Tatra kho bhagavā bhikkhū āmantesi – "bhikkhavo"ti. "Bhadante"ti te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ. Bhagavā etadavoca – "bhaddekarattassa vo, bhikkhave, uddesañca vibhaṅgañca desessāmi. Taṃ suṇātha, sādhukaṃ manasi karotha; bhāsissāmī"ti. "Evaṃ, bhante"ti kho te bhikkhū bhagavato paccassosuṃ. Bhagavā etadavoca –
"Atītaṃ nānvāgameyya, nappaṭikaṅkhe anāgataṃ;
Yadatītaṃ pahīnaṃ taṃ, appattañca anāgataṃ.
"Paccuppannañca yo dhammaṃ, tattha tattha vipassati;
Asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ, taṃ vidvā manubrūhaye.
"Ajjeva kiccamātappaṃ, ko jaññā maraṇaṃ suve;
Na hi no saṅgaraṃ tena, mahāsenena maccunā.
"Evaṃ vihāriṃ ātāpiṃ, ahorattamatanditaṃ;
Taṃ ve bhaddekarattoti, santo ācikkhate muni".
"Kathañca, bhikkhave, atītaṃ anvāgameti? 'Evaṃrūpo ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ samanvāneti, 'evaṃvedano ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ samanvāneti, 'evaṃsañño ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ samanvāneti, 'evaṃsaṅkhāro ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ samanvāneti, 'evaṃviññāṇo ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ samanvāneti – evaṃ kho, bhikkhave, atītaṃ anvāgameti.
"Kathañca, bhikkhave, atītaṃ nānvāgameti? 'Evaṃrūpo ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti, 'evaṃvedano ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti, 'evaṃsañño ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti, 'evaṃsaṅkhāro ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti, 'evaṃviññāṇo ahosiṃ atītamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti – evaṃ kho, bhikkhave, atītaṃ nānvāgameti.
"Kathañca, bhikkhave, anāgataṃ paṭikaṅkhati? 'Evaṃrūpo siyaṃ anāgatamaddhāna'nti tattha nandiṃ samanvāneti, evaṃvedano siyaṃ…pe… evaṃsañño siyaṃ… evaṃsaṅkhāro siyaṃ… evaṃviññāṇo siyaṃ anāgatamaddhānanti tattha nandiṃ samanvāneti – evaṃ kho, bhikkhave, anāgataṃ paṭikaṅkhati.
"Kathañca, bhikkhave, anāgataṃ nappaṭikaṅkhati? 'Evaṃrūpo siyaṃ anāgatamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti, evaṃvedano siyaṃ … evaṃsañño siyaṃ… evaṃsaṅkhāro siyaṃ… 'evaṃviññāṇo siyaṃ anāgatamaddhāna'nti tattha nandiṃ na samanvāneti – evaṃ kho, bhikkhave, anāgataṃ nappaṭikaṅkhati.
"Kathañca, bhikkhave, paccuppannesu dhammesu saṃhīrati? Idha, bhikkhave, assutavā puthujjano ariyānaṃ adassāvī ariyadhammassa akovido ariyadhamme avinīto sappurisānaṃ adassāvī sappurisadhammassa akovido sappurisadhamme avinīto rūpaṃ attato samanupassati, rūpavantaṃ vā attānaṃ, attani vā rūpaṃ, rūpasmiṃ vā attānaṃ; vedanaṃ…pe… saññaṃ… saṅkhāre… viññāṇaṃ attato samanupassati, viññāṇavantaṃ vā attānaṃ attani vā viññāṇaṃ, viññāṇasmiṃ vā attānaṃ – evaṃ kho, bhikkhave, paccuppannesu dhammesu saṃhīrati.
"Kathañca, bhikkhave, paccuppannesu dhammesu na saṃhīrati? Idha, bhikkhave, sutavā ariyasāvako ariyānaṃ dassāvī ariyadhammassa kovido ariyadhamme suvinīto sappurisānaṃ dassāvī sappurisadhammassa kovido sappurisadhamme suvinīto na rūpaṃ attato samanupassati, na rūpavantaṃ vā attānaṃ, na attani vā rūpaṃ, na rūpasmiṃ vā attānaṃ; na vedanaṃ… na saññaṃ… na saṅkhāre… na viññāṇaṃ attato samanupassati, na viññāṇavantaṃ vā attānaṃ, na attani vā viññāṇaṃ, na viññāṇasmiṃ vā attānaṃ – evaṃ kho, bhikkhave, paccuppannesu dhammesu na saṃhīrati.
"Atītaṃ nānvāgameyya, nappaṭikaṅkhe anāgataṃ;
Yadatītaṃ pahīnaṃ taṃ, appattañca anāgataṃ.
"Paccuppannañca yo dhammaṃ, tattha tattha vipassati;
Asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ, taṃ vidvā manubrūhaye.
"Ajjeva kiccamātappaṃ, ko jaññā maraṇaṃ suve;
Na hi no saṅgaraṃ tena, mahāsenena maccunā.
"Evaṃ vihāriṃ ātāpiṃ, ahorattamatanditaṃ;
Taṃ ve bhaddekarattoti, santo ācikkhate muni".
"'Bhaddekarattassa vo, bhikkhave, uddesañca vibhaṅgañca desessāmī'ti – iti yaṃ taṃ vuttaṃ idametaṃ paṭicca vutta"nti.
Idamavoca bhagavā. Attamanā te bhikkhū bhagavato bhāsitaṃ abhinandunti.
Bhaddekarattasuttaṃ niṭṭhitaṃ paṭhamaṃ.
このように私は聞いた。ある時、世尊は舎衛城〈Sāvatthi〉の祇樹給孤独園〈Anāthapiṇḍikassa ārāma〉に留まっておられた。そこで、世尊は比丘たちに告げられた。
「比丘たちよ」
「尊者よ」
と、彼ら比丘たちは世尊に応えた。すると世尊はこのように告げられた。
「比丘たちよ、私は汝らに『聡しき一つの拘り〈Bhaddekaratta〉』の説示〈uddesa〉とその分別〈vibhaṅga〉を説き示そう。汝らはよく意を用いて聴きなさい。私は説くであろう」
「そのように、大徳よ」
彼ら比丘たちは世尊に応えた。世尊はこのように告げられた。
「過去にすがることなく、未来を俟つことなかれ。過去、それは捨てられしもの。未来、それはいまだ到らざるもの。
現在の事物〈dhamma〉、それをその場、その場にて明らかに観る。支配されることなく、動じることなく、それを知って心に確固たらしめる。
今日こそ努力の為されるべき時である。誰が明日の死を知れようか。実にいかなる交渉も、死の大軍と交わすことは出来ない。
このように、昼夜〈ahoratta〉おこたることなく熱意もってあること、それはまさしく『聡しき一つの拘り』である、と寂静なる牟尼は説く」
「比丘たちよ、ではどのように人は過去にすがるであろうか?『過ぎ去った時には、このような姿形〈rūpa. 色〉があった』と、彼はそこに喜びを見出す。『過ぎ去った時には、このような感覚〈vedanā. 受〉があった』と、彼はそこに喜びを見出す。『過ぎ去った時には、このような想い〈saññā. 想〉があった』と、彼はそこに喜びを見出す。『過ぎ去った時には、このような心の働き〈saṅkhāra. 行〉があった』と、彼はそこに喜びを見出す。『過ぎ去った時には、このような意識〈viññāṇa. 識〉があった』と、彼はそこに喜びを見出す。比丘たちよ、実にこのように、彼は過去にすがる」
「比丘たちよ、ではどのように人は過去にすがることがないであろうか?「『過ぎ去った時には、このような姿形があった』と、彼はそこに喜びを見出すことがない。『過ぎ去った時には、このような感覚があった』と、人はそこに喜びを見出すことがない。『過ぎ去った時には、このような想いがあった』と、人はそこに喜びを見出すことがない。『過ぎ去った時には、このような心の働きがあった』と、人はそこに喜びを見出すことがない。『過ぎ去った時には、このような意識があった』と、人はそこに喜びを見出すことがない。比丘たちよ、実にこのように、人は過去にすがることがない」
「比丘たちよ、ではどのように人は未来を俟つであろうか?『未来の時に、このような姿形があるように』と、人はそこに喜びを見出す。『未来の時に、このような感覚があるように』と人はそこに喜びを見出す。『未来の時に、このような想いがあるように』と、人はそこに喜びを見出す。『未来の時に、このような心の働きがあるように』と、人はそこに喜びを見出す。『未来の時に、このような意識があるように』と、人はそこに喜びを見出す。比丘たちよ、実にこのように、人は未来を俟つ」
「比丘たちよ、ではどのように人は未来を俟つことがないであろうか?『未来の時に、このような姿形があるように』と、人はそこに喜びを見出すことがない。『未来の時に、このような感覚があるように』と、人はそこに喜びを見出すことがない。『未来の時に、このような想いがあるように』と、人はそこに喜びを見出すことがない。『未来の時に、このような心の働きがあるように』と、人はそこに喜びを見出すことがない。『未来の時に、このような意識があるように』と、人はそこに喜びを見出すことがない。比丘たちよ、実にこのように、人は未来を俟つことがない」
「比丘たちよ、ではどのように人は現在の諸々の事物において支配されるであろうか?比丘たちよ、ここに愚かな凡夫〈puthujjana〉が、聖者〈ariya〉にまみえず、聖者の教え〈ariyadhamma〉に親しまず、聖者の教えに導かれず、善男子〈sappurisa〉にまみえず、善男子の教え〈sappurisadhamma〉に親しまず、善男子の教えに導かれず。人は、姿形が自我〈atta. 我〉であると見なし、あるいは姿形あるものを自我と見なし、あるいは自我において姿形(がある)と見なし、あるいは姿形において自我(がある)と見なす。感覚が自我であると見なし、あるいは感覚あるものを自我と見なし、あるいは自我において感覚(がある)と見なし、あるいは感覚において自我(がある)とみなす。想いが自我であると見なし、あるいは想いあるものを自我と見なし、あるいは自我において想い(がある)と見なし、あるいは想いにおいて自我(がある)とみなす。心の働きが自我であると見なし、あるいは心の働きあるものを自我と見なし、あるいは自我において心の働きあるもの(がある)と見なし、あるいは心の働きあるものにおいて自我(がある)とみなす。意識が自我であると見なし、あるいは意識あるものを自我と見なし、あるいは自我において意識(がある)と見なし、意識において自我(がある)と見なす。比丘たちよ、実にこのように、人は現在するものごとにおいて支配される」
「比丘たちよ、ではどのように人は現在するものごとにおいて支配されることがないのであろうか?比丘たちよ、ここによく(教えを)学んだ聖なる弟子〈ariyasāvaka〉が、聖者にまみえ、聖者の教えに親しみ、聖者の教えに導かれ、善男子にまみえ、善男子の教えに親しみ、善男子の教えに導かれる。人は、姿形が自我であると見なさず、あるいは姿形あるものを自我と見なさず、あるいは自我において姿形(がある)と見なさず、姿形において自我(がある)と見なすことがない。感覚を…乃至…。想いを…乃至…。心の働きを…乃至…。意識が自我であると見なさず、あるいは意識あるものを自我と見なさず、あるいは自我において意識(がある)と見なさず、あるいは意識において自我(がある)と見なすことがない。比丘たちよ、実にこのように、人は現在するものごとにおいて支配されることがない」
「過去にすがることなく、未来を俟つことなかれ。過去、それは捨てられしもの。未来、それはいまだ到らざるもの。
現在の事物、それをその場、その場にて明らかに観る。支配されることなく、動じることなく、それを知って心に確固たらしめる。
今日こそ努力の為されるべき時である。誰が明日の死を知れようか。実にいかなる交渉も、死の大軍と交わすことは出来ない。
このように、昼夜おこたることなく熱意もってあること、それはまさしく『聡しき一つの拘り』である、と寂静なる牟尼は説く」
「比丘たちよ、私は汝らに『聡しき一つの拘り』の説示とその分別を説き示そうとそのように言い、そのようなことから、ここにこれを説いた」
これが世尊の説かれたことである。心にかなった彼ら比丘たちは世尊の言葉を喜んだ。
『バッデーカラッタ・スッタ』第一竟
日本語訳:Ñāṇajoti
Sāvatthi.古代の北印度はガンジス川中流域(現インドのウッタル・プラデーシュ州サヘート・マヘート)にあった都市。コーサラ(Kosala)国の都として栄え、仏陀はここに頻繁に滞在され、多くの教えを説かれた。時の国王パセーナディ(Pasenadi)は仏陀に帰依し擁護した。しかし王の没後、仏陀の晩年には隣国マガダ(Magadha)国によって滅ぼされる。▲
Jetavane anāthapiṇḍikassa ārāma.サーヴァッティにあった僧院。「ジェータの林にある孤独な者に施す者の園」の意。「孤独な者に施す者」すなわち貧困や孤独にあえぐ人々に施しをしていた人の名はスダッタ(Sudatta)と言った。マガダ国にて偶然仏陀に出遇い、その教導に浴するやその場で帰依。故国コーサラに還ってから修行者たちのための僧園とするべく、国王の子の一人ジェータ(Jeta)が所有していた林を譲り受け、仏教教団に寄進したためにこの名がある。日本人であるならばほとんどの者が耳にしたことのあるであろう『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の祇園精舎の「祇園」はこの語頭と語尾の文字をとってつけた略称。精舎は僧院・僧園の意。後代、仏教の僧院でも名だたる大きなものとなった。
ジェータ王子は最初、スダッタから林の買取の申し出に難色を示して無理難題を言ったが、結局スダッタの仏陀への信仰と熱意に負け、その林を譲った。伝承では、その後のジェータ王子について、腹違いの王子ヴィドゥーダバが王位を継承したとき、釈迦族を屠ることへの協力を拒んだために殺されてしまったという。▲
bhagavant.幸ある人の意。仏陀のこと。▲
bhadanta.尊者の意。▲
Bhaddekaratta.bhadda+eka+rattaからなる複合語。bhaddaは「吉祥な」・「幸いな」あるいは「賢い」との形容詞。rattaは形容詞としては「染められた」・「赤い」の意から転じて「(煩悩に)心が染まった」の意としても用いられ、名詞(中性)とした場合は「夜」の意。これを如何様に訳すべきかは議論のあるところで、本訳では仮に「聡しき一つの拘り」としたけれども、あくまで一応のことである。一般にはしばしば「吉祥なる一夜」・「良き一夜」などとしても訳されている。
分別説部における解釈(注釈書)ではこの語について、“Tattha bhaddekarattassāti vipassanānuyogasamannāgatattā bhaddakassa ekarattassa”、すなわち「このbhaddekarattassaとは、観察すること(vipassanā)の専修(anuyoga)を具足(samannāgata)する者に、吉祥なる(baddha)一つの(eka)染著(ratta)のあることである」とされる。さらに復註書を瞥見すれば、“Ekā ratti ekaratto, bhaddo ekaratto etassāti bhaddekarattaṃ, vipassanaṃ paribrūhento puggalo. Tenāha – "vipassanānuyogasamannāgatattā"ti”すなわち「一つの染著でekarattaである。聡き一つの染著(ある者)がbhaddekarattaである。観察することを増大させる者である。その故に(注釈書にて)言われるのである、『観察することの専修を具足する者に』と」とある。rattaは「染まった」ひいては何事かに「頓着した」を意味する語でもあり、煩悩に染まったことを意味し、あるいは「喜びを得ること」の意である。その場合、「今現在をのみ観察することに頓着すること」または「現在に専心することから喜びを得ること」と解され、それはbaddha(吉祥な)ものであるという。
では漢訳仏典ではBhaddekarattaをどのように訳され解されていたか参照すると、『中阿含経』巻四十三「温泉林天経」などに同様の偈頌が説かれているが、訳されずに「跋地羅帝」と音写されているのみであって参考にならない。
一般にそうされているように、文字通りに訳せば「吉祥なる一夜」もしくは「聡き或る夜」となるけれども、偈の内容と一致せず、なぜ「一夜」または「或る夜」なのか意味不明である。その偈と本経の内容と、特にekarattaを一夜などと解した場合、これらがどう関連するものかと全く釈然としない。以前、南方諸国の僧院にて修道していたとき、パーリ語に随分通じたセイロンとビルマの学僧らにこれを尋ねた所、ほとんどこれは「賢き(吉祥な)染著」を意味するとの返答であった。確かにそのように理解すれば意味も通じるが、これはサンスクリットからの理解をもってしたものでないため、サンスクリット文献でこの語があればその意は明瞭となるであろう。文献学者には、何に基づいての言であるか未詳であるが、この偈は仏教独自のものではなく仏陀の当時、沙門(自由思想家)のなかで通じて用いられていた格言のようなものであったろうとする者がある。▲
uddesa.注釈書では“Uddesanti mātikaṃ.”すなわち「説示とは要項(摩夷)である」であるという。mātikāとは、māta(母)からの派生語で「母の」というのが本来の意味であるが、しばしば教えの要項・主題を示す簡略な文言を意味する。そこから広説され、さまざまな教えが展開する(生み出される)ためである。
ここでは以下に説かれる偈頌が説示であり、その後にその意味内容が詳説(広説)される。▲
vibhaṅga.整理分別して注釈すること。注釈書では“Vibhaṅganti vitthārabhājanīyaṃ.”「分別とは、詳細(広説)に分かつことである」とする。▲
atītaṃ nānvāgameyya.直訳すれば「過ぎ去ったものに随い行くべきでない」あるいは「過去に戻るべきでない」。注釈書は“Atītanti atīte pañcakkhandhe. Nānvāgameyyāti taṇhādiṭṭhīhi nānugaccheyya.”、「過去とは、過去における五蘊において(の意)。随い行くべきでないとは、渇愛と見とによって随順するなかれ(の意)」という。
ここでは昔を思い出すことを制しているのでなく、過去の(記憶と言うよりもむしろ)「思い出」に対し、あれこれと執着することを制する。「昔(あの時・あの頃)は良かった」・「あの良き日々よ、もう一度」、あるいは「昔のほうが良かった」などという種の回顧を作さないこと。▲
appaṭikaṅkhe anāgataṃ.直訳すれば「未だ来たざるを期待するな」。注釈書は“Nappaṭikaṅkheti taṇhādiṭṭhīhi na pattheyya.”、「期待するなかれとは、渇愛と見とによって、求めることなかれ(の意)」とする。現実に基づかず、「未来の自分はこのようであれ」などと妄想しないこと。▲
asaṃhīra.a+saṃ+√hṛ.「揺るがせられない」・「負かせられない」。諸々の事象やそれからの刺激に対し、心が征服されないこと、奪われないこと。▲
saṅgara.約束や同意、または戦い、さらには災難を意味する語。こでは、戦いの意と捉えてもその文意が大きく異なることは無いであろうが、分別説部では交渉・約束の意としている。“Saṅgaroti hi mittasanthavākāralañjānuppadānabalarāsīnaṃ nāmaṃ, tasmā ayamattho vutto.”▲
muni.聖者・仙人のこと。通俗的語源解釈によれば「沈黙を守る人」の意とされる。ここにいわれる「寂静なる牟尼」とは、仏陀のことであるとされる。
注釈書:"Rāgādīnaṃ santatāya santo buddhamuni ācikkhati."(愛欲を破壊せる寂静なる善き人、仏陀牟尼が説く)▲
rūpa.いわゆる物質すべてを意味する語。漢語仏教圏ではこれを「色」と伝統的に訳して言う。
分別説部の阿毘達磨においては、色法に十八色(ある色のその状態からさらに細分して二十八色とも説かれるが、色法そのものとしては十八のみ)を数えて恒常不変の本質、真実在として見る。▲
vedanā.内外の刺激に対する感受。漢語仏教圏における伝統的術語では「受」、あるいは旧訳では「痛」。
仏教では受を分類して楽・苦・不苦不楽(捨)の三受、あるいは身体的と肉体的との苦楽を別して、楽・苦・喜・憂・不苦不楽(捨)の五受を数える。▲
saññā.表象。外界からの刺激を受け、あるいは過去の記憶や想像をもとに、心にその対象を思い描くこと。伝統的には「想」。▲
saṅkhāra.感受と表象に基づいた諸々の心の働き。伝統的には「行」。ここで挙げられているいわゆる五蘊のうち、もっとも理解しにくく訳し難い語。
文脈によっては、例えば十二縁起では身体と言葉と心の行為が何らか結果を引き起こす力あるいはその行為そのものを意味する。また諸行無常などといわれるときには「形作られたもの一般」を意味するなど様々。▲
viññāṇa.受・想・行などの精神作用の主体。いわゆる心、意識。伝統的には「識」。分別説部においては、心(citta)と意(mana)と識(viññāṇa)とは同義語であって全く同じであるが、大乗の唯識では異なる意識の階層を示す語とされる。▲
puthujjana.普通の人、凡庸の人、あるいは教育のない者。▲
ariya.形容詞としては「聖なる」、名詞としては「聖なる者」。仏教、特に声聞乗(小乗)においては、四向四果のいずれかに至った者、すなわち預流以上に至った者の意。▲
ariyadhamma.聖者によって説かれる教え。仏陀の教え。▲
sappurisa.善い人、有徳の人・高潔なる人の意。▲
atta.サンスクリットではātman.rūpaṃ attato samanupassati。古来、漢訳仏典では我と訳され、現代も一般にそのまま用いられる。我(atta)とは、元来「気息」を意味した語であると言われるが、それが転じて生気、身体そして自我とその意味が変容してきたという。ついには、私という存在の根底にあってこれを支える自我そのもの、永遠不滅の霊魂を示す語となった。ここでの我はその後者の意。
仏教では「私といわれるもの」を構成しているのは五蘊であると見なすが、その五蘊それぞれの何処を探しても、我すなわち永遠不滅の霊魂や恒常不変の実体など見いだせないことからanatta(サンスクリットでanātman)、すなわち漢訳で無我あるいは非我(玄奘三蔵の訳語)を説く。それは無常・苦・涅槃寂静などと共に仏教を象徴する語の一つ。
以下、色(rūpa)を始めとして、受(vedanā)・想(saññā)・行(saṅkhāra)・識(viññāṇa)の五蘊それぞれについて同様に説かれていく。▲
ariyasāvaka.sāvakaは一般に声聞と訳されるが、原意は「教えを聞くもの」であり「弟子」のこと。ここではariyaを付していることから、仏弟子のうちでも特に聖者に達した者。▲