『箭喩経』、それは巷間、仏教の思想が説明される時、およそ必ずと行っていいほど俎上に載せられる「毒矢の喩え」を説いた小経です。
これが収録されるのは東晋時代に漢訳された『中阿含経』第六十巻、その第二百廿一経です。上座部(分別説部)が伝えたパーリ語による経蔵では、漢訳の中阿含に対応するMajjhima Nikāya(中部)のMajjhimapaṇṇāsapāḷi(中五十篇) Bhikkhuvagga(比丘品)の第三経、Cūḷamāluṅkya sutta(小マールンキャプッタ経)です。
(ビルマの第六結集本ではCūḷamālukya suttaとあって、綴りがやや異なる。)
「毒矢の喩え」によって道を示された人の名は、本経において鬘童子とされる、パーリ語ではMāluṅkyaputtaあるいはMālukyaputtaです(以下、マールンキャプッタ)。マールンキャプッタとは、マールンキャー(Māluṅkyā)という名の母親のプッタ([P]putta)、すなわち子であることからの名で、本名でなく通称であったのでしょう。漢訳で鬘童子とされているのは、Māluṅkyaを鬘、puttaを童子としてのことです。
なお、パーリ経蔵にはCūḷamāluṅkya suttaに続いてMahāmāluṅkya sutta(大マールンキャプッタ経)なる経が収録されています。これは『中阿含経』第五十六巻に収録される『五下分結経』(第二百五経)に対応したもので、いずれも仏陀がマールンキャを対象(対告衆)として教えを説いた小経となっています。後者は『箭喩経』やCūḷamāluṅkya suttaに比して、『箭喩経』のように比較的平易で大衆向けのものでなく、専門的な内容を説くものであるためでしょうが、ほとんど知られていません。しかし、真に仏教を学び修める人にとって基礎的でありかつ重要な内容を説いたものとなっています。
本経において、仏陀がマールンキャプッタに対して説かれたこと、それを端的に言えば、仏道を修める者として、知るべきこと、あるいは知ろうと求めることと、知る必要の無いこととをはっきり峻別せよ、ということです。そしてその峻別する基準は、ただ四聖諦に関わるか否か、すなわち自らが涅槃を得るに不可欠であるかどうか、自ら解脱するに資するかどうかである、とされています。
本経における説示はまた、ただマールンキャプッタにのみ対してでなく、およそ広く人々に対して「仏教に対して何を求めるべきか」を示したものともなっています。
マールンキャプッタは仏陀に対し、以下の十の問いに対する明快な答えを出すことを要求していました。
No. | 漢文 | パーリ語 |
---|---|---|
1. | 世有常 世は常にあり |
sassato loko 世界は常住である |
2. | 世無有常 世は常にあること無し |
asassato loko 世界は常住ではない |
3. | 世有底 世は底あり |
antavā loko 世界は有限である |
4. | 世無底 世は底無し |
anantavā loko 世界は無限である |
5. | 命即是身爲 命即ち是れ身 |
taṃ jīvaṃ taṃ sarīran 命と身体とは同一である |
6. | 命異身異 命異なり、身異なる |
aññaṃ jīvaṃ aññaṃ sarīran 命は他のもの、身体は他のもの |
7. | 如來終 如来終わる |
na hoti tathāgato paraṃ maraṇā 如来は死を越えて存在しない |
8. | 如來不終 如来終わらず |
hoti tathāgato paraṃ maraṇā 如来は死を越えて存在する |
9. | 如來終不終 如来終りて終わらず |
hoti ca na ca hoti tathāgato paraṃ maraṇā 如来は死を超えて存在し、 かつ存在しない |
10. | 如來亦非終亦非不終 如来亦終るに非ず 亦終らざるに非ず |
neva hoti na na hoti tathāgato paraṃ maraṇā 如来は死を越えて存在しないのでもなく、 存在するのでもない |
(※Cūḷamāluṅkya suttaでは、7.と8.の順番が逆。)
以上のように、その第一から第六までの六つは、現代からすればこれらは「哲学的問い」でも「形而上学的問い」でもないでしょうが、世界(宇宙)は永久に存在するのか、世界に果てはあるのか、生命とは何か、という素朴な、しかし今に至るまで未だその答えが出されていない問いです。
続いて残りの四つは、如来という存在に対しての疑問で、輪廻からの解脱を完全に果たした如来は特にその死後どのように在るのかを、問うたものです。如来という存在について、当時もそれがどのようなものか理解されておらず、そこで非常な興味がもたられていたのでしょう。
そしてその問いは、いわゆる四句分別(tetralemma)となっています。四句分別とは、仏教における因明(論理学)の用語で、「有・無・亦有亦無・非有非無」あるは「自・他・共・無」の四つの仮定を立て、そのいずれでも無いことを論証するものです。
しかし、仏陀は、マールンキャの問いに一切答えることなく、そもそもそのような問いの答えを求めることが修行者として全く意味をなさないもので無益であり、むしろ苦の元にすらなると答えられています。そして仏陀が人に説き示していることは、あくまで四聖諦であり、智慧と得、覚りを得、涅槃を得るに資するものだけであると云われます。「説くべからざると爲らば則ち説かず、説くべきは則ち説く。當に是の如く持すべし。當に是の如くに學すべし」と。
なお、以上の十種の問いに対して仏陀が全く答えられなかったことについて、これを今一般に「十無記」といいます。
ただし、実はこのマールンキャによるものと同じ十の問いは、中部の他の経(Aggivaccha sutta)にて外道(仏教以外の思想家・宗教家)からもなされており、そこでは「如来の死後」に関する四種の問いについて仏陀が回答されています。もっとも、回答といっても、その問いに仏陀は正面から答えられておらず、如来であれ解脱者であれ、それは「未来において生じることのない存在〈無生法〉である(āyatiṃ anuppādadhammaṃ)」とのみされています。そもそも、その問いが四句分別となっていることからすると、そのいずれであるとも答えようが無かったことでしょう。
しかし、本経でマールンキャプッタが知りたいと思った事柄の回答を、如来という存在については別として、いま仏教に求める人などまずいないと思って間違いない。あるいは現代、彼と同じような問いを持つ人は、数学および物理学、あるいは化学を学ぶなど理系の門を叩くことです。
現代、特にほとんどの日本人にとって仏教に対して求めることと言えば、まずは死者の弔いや死者の救い、祖霊崇拝の儀礼が「サービス」として提供されることであり、次に商売繁盛や病気平癒、あるいは悪霊退散などといった祈祷に過ぎません。いや、そのような風習・習俗の裏には、まったく無意識にではあるでしょうが、十無記のうち第五・第六に関する思考や見方が潜んでいるとは言えます。
その中、特に死者の弔いについて云うならば、仏教が人の葬式や法事など儀礼をすることは確かにあり、現今の日本仏教においてはそれが最大の役割となっています。しかし、実はそもそも仏教では死者を救うことなど誰一人として出来ないと説かれます。死者を弔うということが、死者を救う、安んずるということを意味するのであれば、今の寺はもとより家の仏壇や墓でやっていることに何の意味も、期待される効果も全くありません。
寺であれ仏壇前であれ墓前であれ、そこでモジャモジャ・チンチン・ゴーンとやりながら唱える者も聞いている者も意味もわからぬ漢文であれパーリ文であれ唸ってみたところで、「死者がこれで喜ぶ」ことは決してなく、「あの人はきっと私達をいつも思ってくれている」であるとか「ご先祖さまが見守っている」ことなども無い。
(死者を救うことは出来ない。それが明確に説かれた経典として、別項「Asibandhakaputta sutta(アシバンダカプッタ・スッタ)」がある。参照のこと。)
そもそも、今の日本人の多くが行っている、といっても最近はそれも次第に減ってきていますが、祖先を敬うであるとか、祖霊を祀るという習俗は、思想的には仏教などほとんど全く関係がありません。祖霊がどこかにあって定期的にこれを慰撫しなければならないという儒教の思想と仏教の説く生死流転(輪廻)、それはむしろ互いにまったく撞着、齟齬したものです。
(そのようなことから、仏教が伝来した支那人は、仏教の輪廻について激しく反発し、それを受け入れられず、やがて庶民の間では「仏教的に祖霊を慰撫する」という儀礼を生み出していくようになります。)
日本人がそのように祖霊信仰に入れあげるようになったのは、特に近世の江戸期から日本人が儒教をその精神的また道徳的核とし、また寺請制度の中で習慣として行い出してからのことで、今行われているのはその名残りです。実際、仏教の葬式といいながら、いずれの宗派であっても、ただ仏教風の皮を適当に被せて見かけ上はそう装っているに過ぎません。その内実は往古の支那の風習を継いだ儒教の「礼」そのものです。いわゆる死後の戒名をつけること然り、位牌を祀ること然り、三周忌の法事を行うこと然り、それらはまったく支那における儒教の儀礼です。
ところが、儒教など全く知らず学ばず、もちろん仏教も知らず、故にその意味も意義も由来もまったくわからずいながら、現代の人々がそれらに未だ固執していることは実に面白いこと、滑稽であるとすら言えます。しかし、社会的風習というのは得てしてそういうものであるのでしょう。
今も仏教に対し、マールンキャプッタの疑問に類する事柄をもって向かってもその明確な答えが出されることが無いのは当然として、そのような死者をいかに扱うか、弔うかなどを仏教に求めても得られる答えはありません。そもそも、それは本質的には全く無益なことです。
仏教を知ろうと思ったきっかけ、学びだした契機が、身内・親族の死であった、何か死にまつわる辛く重い苦しみを抱いてからという人もあることでしょう。しかし、その「死者の弔い」という思い、霊があってその供養を待っている、「供養しなければ」等といった思考を持ちこんで仏教の門に入りこれを眺めてみても、ついに得られるものはなく、むしろ迷いに迷いを重ね、自ら苦しみを生んで果てることはなくなります。
仏教を求めて人が観るべきこと、その核として持つべきこと、それは本経でも明示されているように四聖諦です。では、その四聖諦とはいかなることか、ここで簡潔に示せば以下の通り。
1. | 苦聖諦(苦諦) dukkha ariyasacca |
この世界に存在することは「苦」を本質としているという真理。四苦八苦・三苦。 |
---|---|---|
2. | 苦集聖諦(集諦) dukkhasamudaya ariyasacca |
「苦」の本源についての真理。無明・渇愛を因縁として生起すること。縁起法。 |
3. | 苦滅聖諦(滅諦) dukkhanirodha ariyasacca |
「苦」の滅についての真理。その本源がなくなり、「苦」が滅した状態、すなわち解脱・涅槃について。 |
4. | 苦滅道聖諦(道諦) dukkhanirodhagāmī paṭipadā ariyasacca |
「苦」の滅へと導く道についての真理。いかにして無明・渇愛を超克し、「苦」を滅するかの術。八聖道(八正道)・三学(戒・定・慧)。 |
さらにこの具体的内容を知らんとする人があれば、また別の経論に直接あたって段階的に学び知ることを勧めます。
しばしばこの四聖諦について、小乗(声聞乗)における教えであるとか一段浅い真理であると言う見方が、あたかも大乗の見解であるかのように紹介されますが、それは甚だしい謬見と言えたものです。仏陀の教えはこの四聖諦が核心であって、大乗であれ小乗であれここから逸脱するものではありません。もしこれを逸脱するのであれば、それはもはや仏教ではありません。
『箭喩経』の主題はあくまで「解脱を求める者が知るべきことは四聖諦である」ということです。しかし、その中「知るべきこと、求めるべきこと」に対する態度として、一つ通じたものを伝える説話を載せる支那の古典があります。春秋時代(前五世紀頃)の道家、列子が遺したとされる『列子』です。
秦穆公謂伯樂曰。子年長矣。子姓有可使求馬者乎。伯樂對曰。良馬。可形容筋骨相也。天下之馬者。若滅若沒。若亡若失,若此者絕塵弭轍。臣之子皆下才也。可告以良馬。不可告以天下之馬也。臣有所與共擔纆薪菜者。有九方皋。比其於馬。非臣之下也。請見之。穆公見之。使行求馬。三月而反。報曰。已得之矣。在沙丘。穆公曰。何馬也。對曰。牝而黃。使人往取之。牡而驪。穆公不說。召伯樂而謂之曰。敗矣。子所使求馬者。色物。牝牡尚弗能知。又何馬之能知也。伯樂喟然太息曰。一至於此乎。是乃其所以千萬臣而无數者也。若皋之所觀。天機也。得其精忘其麤。在其內而忘其外。見其所見。不見其所不見。視其所視。而遺其所不視。若皋之相者。乃有貴乎馬者也。馬至。果天下之馬也。
秦の穆公〈春秋時代、前七世紀の秦の王〉が伯楽〈孫陽. 馬の名鑑定人とされた人〉に言った、
「君も年老いてしまったものだ。君の姓〈親族〉に馬を求めさせ得る者があるだろうか?」
伯楽は対えて言う、
「良馬とはその姿形や筋骨を見ればわかるものです。(ところが)天下の馬ともなれば、(その特徴が)ほとんど無いようであって(どこをどう見れば良いか)捉えがたく、全く無いようであって(ようやくこれが特徴かと思っても)消えてしまうようでもあり、しかしそのような馬ならは塵を巻き上げることもなく、その走った跡を残しもしません。臣の子は皆、才能の無い者ばかりであります。良馬を見分けることは出来ましょうが、天下の馬を見分けることなど出来はしません。(しかし)臣には共に縄を背負って薪を菜る者があって、九方皋といいます。これがその馬に於ける(目利き)は、臣に劣らない者です。どうか、その者にお会いください」
穆公は九方皋に会い、行かせて馬を求めさせた。すると三ヶ月後に帰り、報告して云うには、
「ようやく天下の馬を得ることが出来ました。沙丘に在ります」
とのこと。穆公は、
「どのような馬であるか」
と聞くと、
「牝馬であって黃毛であります」
という。そこで人を遣わして馬を取りに往かせると、(その使者の報告によれば)牡馬であって驪であった。穆公は落胆し、伯楽を呼び出して言った、
「失敗した。君が馬を求めさせた者は、(毛の)色も(性別の)牝牡すらも見分けられないではないか。それがどうして馬の目利きなど出来ようか」
すると伯楽は、喟然として大きなため息をついて言った。
「まさかそれほどまでに至っていたとは…。九方皋は臣〈伯楽〉に千万倍も優れた稀有の者であります。九方皋が観る所はもはや天機です。その精を得てその麤を忘れ、その內を察してその外を忘れ、その見るべき所を見て、その見る必要のない所を見ない。その視るべき所を視て、その視る必要のない所は放置する。九方皋が(馬を)見立てるその能力は、(彼が見立てるどんな優れた)馬よりも貴ぶべきものです」
のち馬が届けられると、果たして天下の馬であった。
『列子』説符
この九方皋の馬の見立ての話は、禅家の語録や考案にそのまま転用出来るであろう実によく出来た話であり、また示唆に富むものです。そもそも支那にて生まれた禅宗というものが、道教の影響を多分に受けて成立したことを想えばそれも当然です。
しかし、これは『箭喩経』にて仏陀が説かれた態度にまさしく通じたものであって、憶念してしかるべき古典の一節でありましょう。もっとも、たとえ九方皋のように何かに対して抜群に優れた目利きの持ち主であって、その選び抜いた事物が大変に価値あるものであったとしても、これと同じ事を現代やったならば、たちまち納品ミスであるとか仕様書と異なるとか契約違反であるとかそれは大変な問題になるに違いありません。
世の中では「本質が大事だ」・「本質を見定めろ」などと簡単に言い、それはその通りです。しかしながら、事物の本質を見定めることは、普通の人にとってそう簡単なことではありません。人は一般に、その日常においてそれほど深く物事を考えてなどいないし、そもそもアレコレ考えること自体、出来ない者のほうが圧倒的に多くあります。
しばしば「衆愚」などと言われますが、実際その歴史を観、また世間の有り様を眺めてみたならば、人一般を「賢い」などとは到底見ることは出来ません。
衆愚の諤諤たるは一賢の唯唯には如かず。
世間の愚かな多数の者がアレコレ述べ立てることが、一人の賢者の「そのとおりである」という言葉に勝ることはない。
人は事物を観ているようで観てなどおらず、諸々の事象に実は自ら触れ、感じていながらも、感じていることに気づきもせず、そもそも気づこうとすらせずして、自ら見たいものだけを見たいように見、聞きたいことだけを恣意的に聞いているに過ぎません。
これは修辞としてそのように言っているのではなく、現実としてその通りであることを、人が真に修禅に打ち込んだ時、目の当たり知ることになるでしょう。
モノの真贋、その好悪を見抜くのには知識と経験を要し、また多くの場合、生まれ持った一定の才知が必要です。そして仮にその本質を知って理解出来たとしても、日常生活するうちにそれを忘れてしまう。一体何故自分がそうしているのかの目的も本質も失ってしまうことがあります。
たとえば、ここは仏教を講説しているので仏教を引き合いにしますが、日頃からブッキョー、ブッキョー言っていたとしても、ともするとそれはたちまち「空念仏」となり、ただ惰性でそう言っているに過ぎなくなります。というのも、それは他でもない、まさに私自身のことであり、その恥ずべき様であってそれをよく自覚して知っているからです。
『箭喩経』は極短い小経であり、その内容もごく単純なものです。そこで人はこれを軽視し、等閑視して、より難解で高尚なブッキョーのあれこれを知りたがるものです。けれども、ここで仏教者として、いや解脱を求めて道を修める者に対して説かれる態度は、最も基本的で故に最も重大なものです。これを自ら仏道を学び修めるを生きる 指針とし、その階梯を自ら昇る人が一人でも現れることを期して。
愚衲覺應 識
一.本稿にて紹介する『箭喩経』は、「万暦版大蔵経(嘉興蔵)」(東京大学総合図書館蔵)の第七十四帙第六冊所脩のものを底本としている。
一.原文および訓読にては、底本にある漢字は現代通用する常用漢字に改めず、可能な限りそのまま写し用いている。これにはWindowsのブラウザでは表記されてもMacでは表記されないものがある(ブラウザにより表記できない文字は□と表示される)。ただし、Unicode(UTF-8)に採用されておらず、したがってWebブラウザ上で表記出来ないものについては代替の常用漢字などを用いている。
一.原文、読解および現代語訳には、読解および相互に参照するのを容易にするために段落を設けた。
一.難読あるいは特殊な読みを要する漢字や単語など、今の世人が読み難いであろうものには編者の判断で適宜ルビを設けた。特殊な読みを要する字に付したルビは、『類聚名義抄』および『字鏡集』の例から適宜選び付したものである。ただし、ルビについては旧仮名遣いを用いず、現代通用する仮名遣いを用いた。
一.現代語訳においては読解に資するよう、適宜に常用漢字に改めた。さらに原文に無い語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は括弧()に閉じてそれが挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。そもそも現代語訳は訳者の理解が十分でなく、あるいは無知・愚かな誤解に由って本来の意から全く外れたものとなっている可能性があるため、注意されたい。
一.現代語訳はなるべく逐語訳し、極力元の言葉をそのまま用いる方針としたが、その中には一見してその意を理解し得ないものがあるため、その場合にはその直後にその簡単な語の説明を下付き赤色の括弧内に付している(例:〈〇〇〇〉)。
一.補注は、特に説明が必要であると考えられる語に適宜付し、脚注に列記した。
一.本論に引用される経論は判明する限り、すべて脚注に『大正新脩大蔵経』に基づいて記している。その際、例えば出典が『大正新脩大蔵経』第一巻一項上段であった場合、(T1, p.1a)と記している。
懸命なる諸兄姉にあっては、本稿筆者の愚かな誤解や無知による錯誤、あるいは誤字・脱字など些細な謬りに気づかれた際には下記宛に一報下さり、ご指摘いただければ幸甚至極。
非人沙門覺應
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