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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

慈雲『根本僧制』

原文

第一。一切事須依律而判。不得顧人情及任已臆

正法律中は、内秘菩薩行外現声聞儀を規模とす。三世の諸佛、報土の薬師弥陀等、みな出家形なり。大論に、文殊弥勒みな声聞衆中に入て位に随て坐すと云へり。

密教に、大日如来は首陀会成道の相なれば、菩薩形宝冠天衣なり。此は別に伝あることなり。通途は声聞の式を本とす。故に剃髪染衣の式衣鉢護持の法、みな律蔵に詳なり。

後人、大乗律の中に剃髪染衣、衣鉢等の式有べしと云。暗推の説なり。故に此根本制に律蔵に依を第一とす。

例を挙ば、梵網経楞厳経等に、身臂指を焼て佛に供養せずば、出家の菩薩にあらずと。この焼身の徳衆罪を滅すと説り。律文には此事制なり。作吉羅を犯ずる也。此正法律中は、焼身みな他の見聞にわたらざるを本とす。外行は律を本とするなり。

請食の中、梵網経等に、受他別請、軽垢罪なり。他を請するも爾なり。律中は、世尊鹿野に法輪を転じ、名称童子を度して、初て受請あり。此時別請を受ケ給ふなり。僧次・別請みな開すべし。此正法律は、心地は平等を主とし、時に随ては別請をも受るなり。

現代語訳

第一:一切の事、須く律に依て判ずべし。人情を顧みず、及び已臆に任することを得ず。

《慈雲自註》
この正法律においては、「内に菩薩行を秘め、外は声聞の儀を現すこと」を模範とする。三世の諸仏、報土の薬師や阿弥陀如来など、みな出家形である。『大智度論』に「文殊・弥勒、みな声聞衆の中に入って(僧としての法臘に)従って座った」と説かれている。

密教において、大日如来は首陀会にて成道した姿であるため、菩薩形の宝冠・天衣である。これは別途の(密教における)伝承がある。一般には声聞の法式を根本とする。したがって剃髪染衣の式や衣鉢護持の法は、みな律蔵に詳らかである。

後人に「大乗律の中に剃髪染衣、衣鉢などの法式がある」などと云う者があるが、暗推の説〈根拠のない思い込みの説〉である。したがって、この『根本僧制』にて律蔵に依ることを第一とする。

その例を挙げれば、『梵網経』や『首楞厳経』などに「身体・腕・指を焼いて仏に供養しなければ、出家の菩薩ではない」、「この焼身の功徳は諸々の罪業を滅する」と説かれている。(しかしながら、そのような行為は)律蔵の規定により禁止され、為したならば突吉羅の違犯となる。この正法律においては、焼身供養はみな他から見聞されないことを根本とする。外行は律を根本とするのだ。

請食について、『梵網経』などでは、他の別請を受けるのは軽垢罪とされる。他を食事に招待するのも同様である。律では、世尊が鹿野苑で法輪を転じられ、名称童子を出家させた時に初めて請食を受けられた。この時、別請を(釈尊は)受けられたのだ。(したがって)僧次も別請もみな許す。この正法律においては、心地は平等を主として、機会があれば別請も受ける。

脚註

  1. 正法律しょうぼうりつ

    正法と律。釈迦牟尼の説いた教えと僧伽における諸規定、すなわち宗旨宗派を離れた仏教自体。

  2. 内秘菩薩行外現声聞儀

    『法華経』巻四「五百弟子受記品」の偈文にある一節、「内秘菩薩行 外現是声聞」(T9, p.28a)。大乗の僧であっても、それは内面的なものであって外儀はあくまで声聞僧と全く同様であることを言うもの。

  3. 報土ほうど

    仏陀となった者が菩薩としての修行時に立てた誓願の果報として現れたとされる浄土のこと。たとえば薬師如来の東方浄瑠璃世界や阿弥陀如来の西方極楽浄土など。

  4. 大論だいろん

    『大智度論』。『摩訶般若波羅蜜多経(大品般若経)』の注釈書。ここで慈雲が引用しているのは、その巻三十四「如弥勒菩薩文殊師利菩薩等。以釈迦文仏無別菩薩僧故」(T25, p.311c)、すなわち「弥勒菩薩・文殊師利菩薩等の如き、釈迦文仏に菩薩・僧の別無きが故を以て、声聞僧の中に入って次第して坐す」の一節。

  5. 首陀会成道しゅだえじょうどうの相

    首陀会(首陀会天)とは[S].Śuddhâvāsadevaの音写で五浄居天に同じ。大日如来は人間界でなく首陀会にて悟りを開いたとされる。慈雲がここで言及しているのは『大日経疏』の以下の一節を念頭に置いてのことであろう。「以阿字門轉作大日如來身。如閻浮檀紫磨金色。如菩薩像。首戴髮髻猶如冠。形通身放。種種色光被綃穀衣此是首陀會天成最正覺之摽幟也」(T17. P622b)。

  6. 声聞しょうもん

    [S]śrāvakaあるいは[P]sāvakaの漢訳で、その原意は「(教えを)聞く人」。すなわち仏弟子のこと。大乗において声聞という語が用いられる場合は、(大乗の教えに比して)より低い悟りの境涯にしか達しないと言われる声聞乗、いわゆる小乗の僧侶が意味されることが多い。

  7. 剃髪染衣ていはつぜんねの式

    出家得度の方法。

  8. 衣鉢護持えはつごじの法

    袈裟や鉢の扱い方やその素材などの規定。その規定について微に入り細に渡って解説したものに南山大師道宣によって著された諸著作がある。また比丘六物に限って言えば、その詳細を簡潔・簡便に示した典籍として元照『佛制比丘六物図』がある。

  9. 大乗律だいじょうりつ

    語としての「大乗律」は支那における経録などに見られるが、実態として大乗に律蔵など無く、大乗律なるものは存在しない。また大乗独自の出家受戒作法、および袈裟・鉄鉢などについて規定する経典、および論書なども存在しない。
    近世に大乗律なるものを主張した者は実際存在したが、それはむしろ慈雲の講席に並んだその影響を強く受けた天台宗寺門派の敬光などで江戸後期のことである。

  10. 梵網経ぼんもうきょう

    支那以来、おそらくは特に智顗以来、菩薩戒を説く代表的経典として重要視され用いられてきた経典。『梵網経』に説かれる大乗戒を梵網戒、あるいはその条数から十重四十八軽戒と呼称される。

  11. 楞厳経りょうがきょう

    般剌蜜帝訳とされているもおそらく支那撰述の偽経の疑いが濃厚なる『大佛頂如来密因修證了義諸菩薩萬行首楞厳経』。極端とも思える大乗称揚と徹底的な不肉食および焼身供養が推奨されている。また、比較的長い陀羅尼が随所に説かれる。禅宗などで重視される『首楞厳三昧経』とは異なる。

  12. 焼身しょうしん

    焼身供養の略。自らの体の一部、もしくは全身を焼くこと(いわゆる焼身自殺)によって仏陀または経典などへの供養とする行為。支那以来、時として行われた過激な供養法。日本では天平の昔に教信者集団とも化していた行基教団で行われていたことが『続日本紀』から知られ、「僧尼令」で具体的に禁止されている。また鎌倉期以来江戸期に至るまで、特に『法華経』の狂信者により、時には実際に命を賭して行われた。
    そのような理不尽な行為の根拠は、『法華経』「薬王菩薩本事品」第二十三の「若有発心欲得阿耨多羅三藐三菩提者。能燃手指乃至足一指供養仏塔」(T9. P54a)、あるいは『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十卷下にある「若佛子。應好心先學大乘威儀經律。廣開解義味。見後新學菩薩有從百里千里來求大乘經律。應如法爲説一切苦行。若燒身燒臂燒指。若不燒身臂指供養諸佛非出家菩薩」(T24, p.1006a)、あるいは『楞厳経』巻第六の「若我滅後其有比丘。發心決定修三摩提。能於如來形像之前。身然一燈燒一指節。及於身上爇一香炷。我説是人無始宿債一時酬畢。長挹世間永脱諸漏。雖未即明無上覺路。是人於法已決定心。若不爲此捨身微因。縱成無爲必還生人酬其宿債。如我馬麥正等無異。汝教世人修三摩地後斷偸盜。是名如來先佛世尊。第三決定清淨明誨」(T19, p.132b)などと説かれているのに基づく。
    唐代の支那では、そのような焼身供養が正しいこととして比較的盛んに実際に行われていたようであった。インドおよび東南海に渡って僧院生活および仏教の状況を詳細に報告した義浄三蔵は、その著『南海寄帰内法伝』においてそのような支那における焼身供養の習慣を激しく非難している。そんなことはインドでは全く行われていなかったし、そもそも僧として行って良いことでもなかった。

  13. 吉羅きら

    突吉羅の略。突吉羅とは[S]duṣkṛtaまたは[P]dukkaṭaの音写で「悪事」または「(軽い)罪」を意味し、悪作などと漢訳される。律蔵における罪としては最も軽微なもの。僧侶のなすべきでない行為。

  14. 請食しょうじき

    在家信者からの食事の招待。在家信者の食事の招待には、一地域あるいは一寺院に属する全僧侶を制限なく招くものと、人数の上限を伝えて招くもの、さらには特定の僧を指名して招くものとがある。

  15. 軽垢罪きょうくざい

    「突吉羅」に同じ。「(軽い)罪」の意。もっとも、ここでは特に『梵網経』に説かれる「十重四十八軽戒」の軽戒に違犯した罪について言われている。『梵網経』ではその第二十七軽戒(受別請戒)に「施主があって特定の僧に対する供養の招き(別請)があったとき、これを受け、あるいは受けた布施を衆僧に分かたず、個人のものとしてはならない」、および第二十八軽戒(故別請僧戒)に「僧であれ俗であれ、僧に布施をするのに際しては、特定の僧を指定して招いてはならない」との禁則が設けられている。

  16. 鹿野ろくや

    鹿野苑の略。釈尊が初めて説法された地Vārāṇasīの小さな町Sārnāthに存したMṛgadāvaの漢訳。

  17. 名称童子みょうしょうどうじ

    釈尊が五群比丘を教化したあと、たまたま鹿野園にさまよい来て釈尊の教えをこうむり、その場で出家することを決意。六人目の比丘となる青年Yaśa(パーリ語ではYasa)のことであろう。
    Yaśaが出家した後は、その若妻ならびに両親も仏弟子となり、釈尊と出家した耶舎を含めた七人の比丘を招いて食事の供養をしたことが諸仏典にて伝えられている。なお、Yaśaは『四分律』では耶輸伽童子、『五分律』・『有部律』では耶舎と音写されている。

  18. 僧次そうじ

    相手を指名しない請食。僧次請とも。その人数が指定されたときは、その寺院・僧伽における比丘の席次(臈次)順に、該当人数の僧がその招待を受けに行く。

慈雲尊者について

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