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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

慈雲『三昧耶戒和釈』

原文

夫れ三昧耶とは。平等の義。又本誓の義なり。

平等とは。諸佛と我と衆生と。此の三種一體にして全く差別なしと悟る也。ゆゑいかんとなれば諸佛も地水火風空識の六大とし。我も此の六を體とし。一切衆生も此の六を體とす。少しきも増減なきが故に平等と云なり。謂く人の身中に骨と肉とは地大なり。血のうるほひ汗の流るゝなどは水大なり。温かなるは火大なり。出入の息又手足の動きはたらくは風大なり。地水火風の四の物和合して。一身の内にあつまり居るは。空大之無碍の德なり。眼に色を見。耳に聲を聞き。或は苦を知り樂を知り。善と思ひ惡と思ふは。是れ識大とて。心の德なり。一切の物此の六つを具せずと云ことなし。故に平等と云なり。

然れば諸佛菩薩も我も一切衆生も。もとは一體にして。へだてなけれども。此の六大の本來清淨の理に迷うて。一念差別の心起りて。次第に廣く妄念をかさね。惡業を作りて。六道流轉の凡夫と成り。此の本來清淨の理をさとりて。心の外に別の境界なし。一切の諸法は本より生ぜず。今また減ずることなしと悟りて。種々の妄念を起さず。平等の一心に立ちかへるを。佛とは云なり。然るに我等つらゝ此の佛と一體なれども。迷ふによつて生死の中に流轉することを悲み。我も迷をひるがへして。佛にひとしからんと思ふ心を起す。此を上求菩提の心と云ひ。又勝義の心と名く。

又我は今此菩提の心を起せども。一切衆生はいまだ其心も起らず。生死の中に流轉するを見て。自身の流轉をかなしむがごとくして。種々の方便をめぐらして。すくひたすけんと思ふ意を起す。此を下化衆生の心と名け。又行願の心と名く。

現代語訳

そもそも三昧耶とは平等の義、また本誓の義である。

平等とは、諸仏と我と衆生とこの三種が一体であって、まったく差別がないと悟ることである。その故は何かといえば、諸仏も地・水・火・風・空・識の六大を体〈構成要素〉とし、我もこの六を体とし、一切衆生もこの六を体とする。(諸仏と我と衆生との体を比較した時、互いに)少しも増減の無いことから平等という。例えば人の身体の骨と肉とは地大である。血の潤い、汗が流れ出るなどは水大である。(体温の)温かなのは火大である。出入の息、または手足の動き働くのは風大である。地・水・火・風の四つの物が和合して一身の内に集まりあることは、空大の無碍の徳である。眼により物を見、耳により声を聞き、あるいは苦を知り楽を知り、(事物・事象について)善と思いまたは悪と思うことは識大といって心の徳である。(諸仏と我と衆生との)すべてのもので、この六大を具えていないということは無い。その故に平等という。

ならば諸仏・菩薩も我も一切衆生も、その本は一体であって隔てないけれども、(我々は)この六大の本来清浄の理に迷い、一念差別の心が起こって次第に広く妄念を重ね、悪業を作って六道流転の凡夫となった。この本来清浄の理を悟って心の外に別の境界など無い。一切の諸法は本より生じることはなく、今も減じることはないと悟って、種々の妄念を起こさず、(諸仏と我と衆生とが本質的に同一であるという)平等の一心に立ち返ることを仏という。しかしながら我等は、つらつらこの仏と一体ではあるけれども(本不生の理に)迷うことによって流転することを悲しみ、我もこの迷いをひるがえして、仏に等しくなろうと思う心を起こす。これを上求菩提の心といい、また勝義の心と名づける。

また我は今、この菩提の心を起こしたけれども、一切衆生はいまだその心を起こしておらず、生死の中に流転するのを見て、自身が流転するのを悲しむのと同様に、種々の方便をめぐらして救い助けようと思う意を起こす。これを下化衆生の心と名づけ、また行願の心と名づける。

脚註

  1. 三昧耶さんまや [S].samayaの音写。『大日経疏』では平等・本誓・除障・驚覚の意であるとされる。
  2. 六大ろくだい [S].ṣaḍ-bhūtaあるいはṣaḍ-dhātuの漢訳。地・水・火・風・空・識の六種からなるあらゆる事物を構成する要素。
    説一切有部など声聞乗においては、それらはそれ以上分割することが出来ない根源的物質・実在的要素すなわち極微(paramāṇu)と見なされる。しかしながら、大乗ではいかなるものであっても恒常普遍の存在を認めないため、六大は実在としては否定される(もっとも、大乗においても中観と唯識とで識についての立場が全く異なるため、一概に言うことは出来ない)。
    真言宗では伝統的に六大を究極の実在とする見解もあり、真言教学上大きな論題となっているが、「六大とは何か」は実は現今の僧職者や密教学者らからもよく理解されておられていない。しばしば真言の僧職者および密教学者により、「小乗とは異なり、密教の説く六大とは六種の構成要素ではない」と押しなべて言うが、では具体的に構成要素ではないならば何であるかを明瞭に答えられる者は極めて稀。
  3. たい 本体、本性。
  4. 地大ちだい 物の硬軟の性質を司るもの。物の硬さや柔らかさを決定するもの。
  5. 水大すいだい 物の乾湿の性質を司るもの。物の水分の多少を決定するもの。  実はこの水大がいかなるものかについては、部派によって見解が分かれており、説一切有部は前述の通りであるが、同じ上座部系の分別説部(現在の上座部)ではこれを拡張性であるとし、不可触なるものとする。よって分別説部においては、我々が「触り感じ得るもの」は地・火・風の三大のみであるとされる。
  6. 火大かだい 物の冷熱の性質を司るもの。物の熱の高低の決定するもの。
  7. 風大ふうだい 物の動静の性質を司るもの。物の動きの有無・強弱を決定するもの。
  8. 空大くうだい 物を存在させる空間。何物にも妨げられていないこと、すなわち無碍であることをその本性とするもの。
  9. 識大しきだい 識ることをその本性とするもの。識とはvijñānaの漢訳である。これはvi(別に)+√jñā(識る)からなる動詞vijñānāti(識別する)が名詞化したもので、それがいわゆるココロの本性とされる。あるいは仏教において心・意・識は同義語とされ、それらは総じていわゆるココロを意味する語である。心の原語はcittaであるが、それは√cit(考える)を語根とする動詞cintetiからの名詞である。もっとも、伝統説では√ci(集める)を語根とする動詞ciyati(集める)からの名詞とされる。また意の原語はmanasであって、√man(考える)を語根とする動詞maññati(思考する)に由来する語。すなわち、いわゆるココロとは「統合するもの」であり「考えるもの」であり「識るもの」。
  10. 本來清淨ほんらいしょうじょう 自性清浄あるいは無自性空に同じ。すべては恒常普遍の存在ではなく縁起によって仮に存在するものであって「空であること」、究極的にそれらが「空性」であること。本質を欠いていること。物理的・宗教的に「清らか」であるという意ではない。
    仏典にある「清浄」という語を、文字通り「清らか」などと意味で捉えるのは多くの場合まるで宛の外れたものとなるため注意が必要。律蔵などで言われる清浄の場合、その意味はまた異なって「律について違犯が無いこと」が意味される。例えば金銭を律関係の典籍では不浄と表現することがあるが、これは「金など穢らわしい」という意味ではなく、比丘が金銭を蓄え、直に触れることは律の規定に抵触することから不浄という。あるいは比丘が、様々な事物の使用や所有にあたって、律の規定に触れないようにするために為す迂回的手段を浄法と言う。また寺院に住んで比丘の諸活動を助ける在家信者を浄人ということがあるが、これもやはりその人が清らかなどということではなく、比丘が律の規定上出来ないことを変わりに助け行う人であるから浄人という。
  11. 一切の諸法はもとより生ぜず すべての事物は、何か神などといわれる創造主によって創造された、あるいは単一の根源的存在から生み出された等といったものでは無いこと。これを単に本不生あるいは本初不生というが、その原語は[S].(ādi-)anutpāda。その頭文字(音)はもちろんa(ā)であるが、これを漢字に音写した語が阿である。そのようなことから阿字は本不生を象徴するものとして『般若経』等で説かれる。密教ではこれを受け、全ての音の最初であり母であるとするインド語におけるaという音への理解を重ねて、aをもって全ての事物は、仮に有るもの、無自性空であって不変の実体あるものなど無いことの象徴、すなわち万物のあり方の根源・真相をあらわす音、ひいては字であるとした。
    続いて本文にて「今また減ずることなし」とあるのは、そもそもすべての事物は実に有るものではなく仮に有るに過ぎないものであるから、究極的に言えばすべては夢幻のようなものであって、実として無いモノが増えることも減ることなども端からあり得はしないとの意。
  12. 勝義しょうぎ 世間的真理に対する究極的真理の意。そのような勝義を求める決心を、上求菩提という。ここで慈雲は菩提心を発した者の心情を上求菩提と下化衆生とに分け示している。これは『菩提心論』(後述)において菩提心を起こした者が為すべきこと、行相として勝義・行願・三摩地が説かれているのを受け、それを平易に示したもの。
  13. 方便ほうべん 手段・方法。[S].upāyaの漢訳。
  14. 行願ぎょうがん 大悲に同じ。上述の菩提心を発した者の心情の中、下化衆生の分。生きとし生けるもの全てが苦しみから自由であるように、苦しみ無く有るようにと願い、そのための能力・手段・行動を備えたものを大悲心という。ただ願うだけで実行を伴わず、自他への影響の無いものであれば、小悲と言われて大悲とは区別される。

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