ところで、実は「恩覚奏状」が呈された時から遡ること二百年前の応和三年〈963〉八月、宮中清涼殿にて、村上天皇の御前で諸宗の優劣を決するための宗論が行われています。いわゆる応和宗論です。
それに参加したのは法相宗・華厳宗・三論宗・天台宗でしたが、実質は法相宗対天台宗との因縁の対決というべき宗論でした。その主題は『法華経』の解釈であって、これを五日間朝夕の十座に渡って問答形式にてその優劣を競う、というものです。
天台宗で最も優れた論客は良源〈後の第十八代天台座主。慈恵大師・元三大師〉で、三日目の朝座におけるその弁舌には、天皇初めとする公卿など聴衆一同感動し、涙を流さぬ者は無かったといいます。
ところが、五日目の朝座で行われ法相宗対天台宗の問答で、問者を勤めた仲算という若く出自も決して高くなかった学僧の弁舌が、にわかに天皇の注目を引くこととなっています。そこで急遽、仲算は夕座の問者も重ねて務めるよう命じられています。すると仲算は、夕座の問答において、先日なされた良源の言の一々を引いてその所論を尽く論破していったのですが、それに良源はなんら反論することが出来ず追い詰められ、ただ口と眼とを閉じるばかりとなったといいます。
結果、宗論は法相宗の勝利となり、仲算は村上帝から直々に称賛される栄誉を得ています。そして、法相宗は「六宗の長官」に任じられ、東大寺の華厳宗を抑えて南都六宗を統べる位置を確固たるものとしています。しかし朝廷はまた一方、これは天皇の御前で、しかも天台が本経とする『法華経』についての問答で面目を失うという失態を犯した良源、すなわち天台宗に配慮してか、以降は諸宗がなんであれ宗論を戦わすことを禁止する勅を下しています。
さて、時は移ってその二百年の後、園城寺を非難してそれ以上の権勢を誇らせぬよう強訴するついでに、法相宗を「権教」であるといい、また戒壇院にて授受される戒律を「声聞小戒」であると公式に中傷したことは、(それが意図的であったか無意識にであったかは不明であるものの、)まさに往時の村上帝の勅命に延暦寺が反するものでした。
応和の宗論以降の興福寺と延暦寺とは、しばしば荘園や末寺の所属問題で衝突し、小競り合いを起こすことはありました。しかし、応和の宗論で手痛い敗北を、しかも天皇の御前で喫した天台宗にとってそれがまた再現されることはなんとしても避けたいことであったのでしょう、その後に宗論という形で公式に衝突することはありませんでした。
そんな中、突如として延暦寺が天台宗の内紛にかこつけてこれを破るのであれば、興福寺もこれを坐視して何ら反論しないわけにはいかない、というのが、「平安初期に展開した僧綱や徳一と最澄との論争が、時代を超えて再燃した」理由でした。
事実、「恩覚奏状」が草されたその翌年の長寛元年〈1163〉には、法勝寺の恩覚がそうしたような個人としてではなく、興福寺の僧綱等が法相宗として『興福寺僧綱大法師等奏状』を上奏しています。これは「恩覚奏状」に同じく、延暦寺による南都の戒壇および法相宗を謗ることの非を、その歴史や仏典の根拠を辿って訴えるものです。しかし、『興福寺僧綱大法師等奏状』はただそう云うだけに留まらず、さらに一歩進んで、延暦寺戒壇における受戒の停止を求め、また延暦寺をもって興福寺の末寺とすることを朝廷に求めています。
その論拠は、延暦寺が、園城寺を延暦寺から出た円珍の門流の寺であって、故に延暦寺の末寺であると云うのであれば、延暦寺とは最澄も義真も元は興福寺僧の弟子であってそれが建てた寺であり、故に興福寺の末寺である、というものです。延暦寺の理屈をそのまま裏返して言ったもので、一つ筋は通った面白い言ではありましょう。
無論、そのような上奏など、すでに延暦寺戒壇が勅許されて久しく、また延暦寺僧徒が数々の無理難題で強訴を繰り返していても、依然として天台宗を信仰する皇家・公家もあったため、朝廷が受け入れる筈もないことで、実際受け入れられませんでした。朝廷は、この問題はあくまで延暦寺と園城寺との諍いであって、興福寺が口を挟むべきことではない、と回答。朝廷はしかも、興福寺の奏状自体を突き返しています。それは前代未聞のことであったようで、興福寺はそれにも不満を漏らしています。
その後、延暦寺がどのように動いたかというと、同年、時を置かずに園城寺に攻め入って再び伽藍・諸堂を焼き討ち、すでに十一世紀初頭から続いていた両寺の血みどろの抗争は、ますます激化の一途を辿っています。
それは結局、ただの醜い権力争い・門閥抗争であり、また同一宗における内紛であるが故に迂遠な宗論など弁説による解決など望むべくもないことで、刀杖という暴力に走って安直に片を付けようとしたのでしょう。けれども、それはもはや仏教者の振る舞いでは決してなく、もちろん国家鎮護の要を自称する者らの所業などでも全くない、修羅や禽獣にまるで変わりのない卑しく浅ましいものでした。
前述したように、当時の興福寺は法相宗と律宗の本拠であり、遠くは印度以来、近くは鑑真以来の戒律の伝統を護持するものであると自ら誇っていました。
しかしながら、興福寺の学侶にしろ堂衆にしろ、そのように誇るのはどこまでも虚栄に過ぎませんでした。なんとなれば、興福寺を初め東大寺など南都のいずれの大寺においても、戒律など誰も学ばず顧みず、ただ通過儀礼として授戒を漫然と行うようになっており、すでにその実質的伝統を失った状況であったためです。前述したように、唐招提寺は荒廃しきって廃寺同然の有り様でした。
興福寺の堂衆も延暦寺の大衆らに同じく、何か不満があれば春日山の神木を伐り倒し、それを担いで都に強訴していたり、対立していた東大寺など他寺へ押し入って破却・放火し、僧徒を殺傷したりするなど暴虐を働いていたのは同じです。
仏教僧が刀杖を携えて他の身命を害し、ましてや寺を焼き人を殺すなど、言うまでもなくあってはならないことです。
若佛子。不得畜一切刀杖弓箭鉾斧鬪戰之具。及惡網羅殺生之器。一切不得畜。而菩薩乃至殺父母尚不加報。況餘一切衆生。若故畜一切刀杖者。犯輕垢罪。
仏子は、いかなる刀・杖・弓・箭・鉾・斧など戦闘のための道具を所有してはならない。および(漁猟・狩猟のための)悪しき網羅など殺生を目的とした道具など、すべて所有してはならない。
菩薩たる者、もし父母を殺されたとしても、決して報復してはならない。一切衆生は言うまでもない。もし故意にいかなる刀杖でもこれを所有したならば軽垢罪となる。
《伝》鳩摩羅什訳『梵網経』盧舍那佛説菩薩心地戒品第十 卷下
(T24. P1005c)
日本天台宗が、大乗の徒が至高にして唯一護持すべきものであると主張し、法相宗などその他諸宗では律に併せて受持すべきものとしていた梵網戒には、以上のように明瞭に武具を蓄えることや他を殺傷してはならないことが説かれています。律蔵において、この類の行為が禁じられていることは言うまでもありません。
結局、興福寺にしろ延暦寺にしろその主張がまるで事実を反映していない虚言・虚勢に過ぎなかったことは、両者同様でした。しかし、一点異なることは、「戒律(特に律)は必ず如法に受け、護持しなければ僧ではない」という理解・認識を、たとい自身等がまったく依行を欠いていたとしても、法相宗を始めとする南都諸宗が持ち続けていたことです。
そして当時、その戒律復興に向けての狼煙は、先に述べたように少将上人実範によって上げられていました。実範の生年は伝わっておらず、現在も判明していませんが、東大寺戒壇院における受戒儀を正すための『東大寺戒壇院受戒式』が著されたのは保安三年〈1122〉のことで、その没年は天養元年〈1144〉であったことが知られています。
貞慶が「恩覚奏状」における戒律についての所言を要略して『南都叡山戒勝劣事』を著したのは、それが当時、興福寺で志されていた戒律復興に直接関わる内容のものであって、南都の僧徒らに日本における伝戒の歴史的経緯と東大寺戒壇院の重要性を再確認させ、これを再興する義務を負った興福寺の東西両金堂の堂衆など律学を志す者らを鼓舞するためであったのかもしれません。
ところが、貞慶による常喜院から出た覚盛および叡尊らにより、ついに現実のものとして果たされることになる中世の戒律復興は、これは実に皮肉なことにと言うべきか、最澄以前の道璿や鑑真以来否定され続けていた、そしてまた最澄以降の実範や貞慶もまた同じく否定していた、「ただ三聚浄戒を受戒することによって比丘となり得る」という主張と方法によるものでした。そのような受戒法を、覚盛は「通受」などと呼称しています。
実際、中世における戒律復興の嚆矢であり、覚盛や叡尊の門流らが等しくその始源であったと尊崇する実範は、このように自ら述べています。
戒是佛法壽命。衆生福田。三學依之立。七衆因之成焉。有云。若總受三聚淨戒者。雖不別受比丘別解脱戒而成菩薩比丘性。地持等説。攝律儀戒中有七衆別解脱戒。故淨影破云。此義不然。菩薩戒中雖復通攝七衆之法。一形之中不可竝持七衆之戒。隨形所在要須別受。如人雖復總求出道隨入何地別須起心方便趣求。此亦如是云云 道璿和上同淨影意也。故大小乘一切苾芻皆別得其別解脱戒成苾芻性。
戒とは仏法の寿命、衆生の福田である。三学はこれより立ち、七衆はこれより成じる。ある者は言う、
「もし三聚淨戒を総受したならば、比丘の別解脱戒を別受せずとも菩薩比丘性を成じる。『菩薩地持経』等に「摂律儀戒の中に七衆別解脱戒が含まれる」と説かれている」
と。しかし、故に(その類の主張を)淨影〈慧遠〉は論破して、
「そのような理解は正しくない。菩薩戒の中にもまた通じて七衆の法を包摂しているとは言え、一形〈一つの立場〉で(出家・在家の)七衆戒全てを併せ持つことなど出来はしない。その形〈立場〉の所在に応じて必ず別受しなければならないのだ。それは、あらゆる人が解脱の道を求めたとしても、各々の様々なる境地にあって、それぞれ異なる決心に相応しい方法によって、その道を歩むようなものである。この(三聚浄戒とは別途に律儀を別受しなければならない)ことについても同様である」
と云っている〈『大乗義章』〉。道璿和上も淨影の見解と同様であった。故に大小乗の一切の苾芻〈比丘〉も皆、別してその別解脱戒を受けてこそ苾芻性〈比丘性〉を成じることが出来るのだ。
実範『東大寺戒壇院受戒式』(日蔵 vol.13, P485a)
また、本稿で紹介する『南都叡山戒勝劣事』において貞慶もまた、これは興福寺一門の所見をそのまま引き継いだものではありますが、やはり言を等しくしてこのように述べています。
夫尋戒根源。凡於菩薩所修六波羅蜜。戒波羅蜜中有三種不同。一者攝律儀戒。謂正遠離所應遠離法。二者攝善法戒。謂正修證應修證法。三者饒益有情戒。謂正利益一切有情。其中第一律儀戒者。聲聞菩薩大乘小乘共受戒也。以此律儀戒或名具足戒。或名比丘戒。故方成大小比丘僧。設雖菩薩先受比丘戒卽烈比丘衆。其上可受菩薩戒也。若菩薩不受比丘戒者。是應非比丘衆哉。若菩薩受比丘戒名爲菩薩比丘衆。
そもそも戒の根源を尋ねてみれば、およそ菩薩が修める六波羅蜜の戒波羅蜜の中に三種の不同がある。一つは摂律儀戒、すなわち正しく遠離すべき法を遠離すること。二つには摂善法戒、すなわち正しく修証すべき法を修証すること。三つには饒益有情戒、すなわち正しく一切有情を利益することである。
その中の第一、律儀戒とは声聞・菩薩、大乗・小乗の共に受ける戒である。この律儀戒をあるいは具足戒と言い、あるいは比丘戒とも言って、(律儀戒を受けるが)故に大乗・小乗の比丘僧と成りえる。たとい菩薩であったとしても、(出家であれば)先ず比丘戒を受けて比丘衆に列なる。その上で菩薩戒を受けなければならない。もし菩薩であって比丘戒を受けていない者は、まったく比丘衆ではないのだ。もし菩薩であって比丘戒を受けたならば、それを名づけて菩薩比丘衆という。
貞慶 『南都叡山戒勝劣事』(日蔵 vol.13, P495a)
以上示したように南都の歴代は、「三聚浄戒の受戒によっては比丘となり得ない」という認識、さらには「具足戒を自誓によって受けることは決して出来ない」という認識を通じて持っていました。いや、それは何も日本の南京の諸大徳に限ったことではなく、印度および支那における大乗教徒らが共有していた常識であり、それが経律に基づいた正統な理解でした。
中古の当時、南都の僧綱が最澄を激しく批判し、また近古に至っても同じく興福寺が延暦寺を非難したのは、そのような常識を前提としてのことです。
しかしながら、こともあろうにその興福寺から出た覚盛が発案して戒律復興を現実のものとした受戒方法とその背景にある思想は、「三聚浄戒の受戒によって比丘となり得る」というもので、さらに「それは自誓受することによっても可能である」というものでした。実際、覚盛や叡尊らは「通受自誓受によって比丘となった」とすることによって、戒律復興を果たしたものとされています。
それは、覚盛がその昔に最澄の主張した受戒法を参考として導入したというのではなく、その論拠や内容などはもちろん異なったものではありました。けれども、結果的にそれは、天平の昔の鑑眞渡来以前の旧僧らのあり方や、弘仁年間になされた最澄の主張に相似したものとなってしまっています。
覚盛や叡尊など四人の同志らが三聚浄戒を通受で、しかも自誓受戒によって戒律復興を果たしたとするのは、嘉禎二年〈1236〉のことです。そして、覚盛がその方法を案出したのは、(これは考証を要することですが)その二、三年前のことであったようです。少なくとも、叡尊が覚盛からその構想を初めて聞いたのは、その前年の嘉禎元年〈1235〉のことでした。
嘉禎元年乙未卅五歳
正月十六日移住当寺自十八日至二月三日十五日開講読師戒如上人知足房 四ケ日覚証聖舜房十一ケ日三月十八日於東大寺戒禅院始聴聞四分律行事抄第一巻同秋於当寺東大寺聴聞余三巻開講師興福寺円晴律師也《中略》
然今春秋二季聴聞律部顧前所修多背正法無厭不浄財不足為出家無成律儀戒不可称仏子若無浄戒是遺教経文也諸善功徳皆不得生前々可悲依自此戒得生諸禅定及滅苦智恵後々無時重欲受戒能受五縁身器不浄所対七縁唯仏法時中種々思惟都無期方但五戒八戒許自誓受即受五戒為優婆塞脱虚受信施之咎離仮名苾蒭之称深修三密五相之観念専配自利々他之勝益但尋求一代聖教若無為方当如是行又憶念
興福寺覚盛律師貯為遂次竪義暗表無表章且有先年勧須詣彼禀承即参篭常喜院経十七箇日一遍披談畢以釈意明知大乗七衆依瑜伽等聖論所説通受三聚尽未来際自受従他随其発心皆悉得戒各得其性矣於是弟子歓喜余身渇仰撤骨
嘉禎元年乙未〈1235〉 三十五歳
正月十六日、当寺〈西大寺〉に移住した。十八日から二月三日に至るまでの十五日間、講律が開かれた。読師は戒如上人知足房が四日間、覚証聖舜房が十一日間であった。三月十八日、東大寺戒禅院にて初めて『四分律行事抄』第一巻を聴聞した。同じ秋、当寺ならびに東大寺にてその他の三巻を聴聞した。開講師は興福寺の円晴律師であった。《中略》
そのように今年の春・秋の二季に渡って律部を聴聞したところ、これまで自分が修めてきた行が多く正法に背いたものであったことが顧みられた。不浄の財を厭うことがなければ「出家」とするに足らず、また律儀戒を護持していなければ「仏子」と称することも出来ない。「もし浄戒がなければ、諸々の善功徳はすべて生ずることが無い」これは『遺教経』の文である。今まで(様々に修行してきたけれども、それが実は非法であったこと)は悲しむべきことだ。(同じく『遺教経には』)「この戒に依って諸々の禅定及び滅苦の智恵が生じることが出来る」ともある。これより後には(もはや非法のままで無益な修行に励む)時など無い。
そこで重ねて(正しく仏弟子となるために)受戒したいと思うけれども、能受の五縁〈五助縁。『行事鈔』に説かれる発菩提心を助ける五種の縁〉に於いて(私自身が)身器不浄であり、所対の七縁〈叡尊が何を意図したものか不明瞭。あるいは『彌沙塞羯磨本』にある僧伽を正しく運営するための七縁か?〉は唯だ(末法ではなく、正しく僧事が行じられていた)仏法の時のみにおけるものであった。(今の日本において、出家者として正統な受戒をする何らかの方法が無いかと)様々に思惟したとしても、全くその可能性としてすら期待出来る術など無い。ただ(在家信者として受けるべき)五戒・八戒に関しては、自誓受が許されているのみである。そこで五戒を受けて優婆塞〈upāsaka. 在家信者〉となって、(似非出家であるにも関わらず信者から)虚しく信施を受けることの咎から脱し、仮名苾蒭〈ただ名前ばかりの比丘。名字無戒の比丘〉の称を離れよう。そうしてから、(在家の密教行者として)深く三密五相〈三密瑜伽・五相成身観の略。いわゆる密教の瞑想法〉の観念を修し、専ら自利利他の勝益を回向して、ただひたすら一代聖教を尋ね求める。もし(正しく比丘となるための受戒について)何の手段も無いならば、まさにそのように修行することにしよう。
そういえば興福寺の覚盛律師は次の竪義〈学侶・官僧となるために必須の論議法会における答者〉のために「表無表章」〈基『大乗法苑義林章』巻三〉を暗誦しているという。ならばそこで 、先年の勧めもあって、彼から(律学を)禀承すべしと思い、常喜院〈貞慶によって興福寺内に建立された律学の道場〉に参籠した。そして十七日間、(『表無表章』などを)一通り講義してもらった結果、その解釈の意によって明らかに知ったのである、大乗の七衆は『瑜伽論』等の聖論の所説に拠れば、三聚浄戒を尽未来際に自誓受あるいは従他受によってその発心に従い通受したならば、皆悉く戒を得てそれぞれの性を得ることが出来ることを。ここに至って弟子〈叡尊〉はその喜びに身を震わせて、渇仰撤骨〈骨の髄まで仏陀を深く信じること〉した。
叡尊『金剛仏子叡尊感身学正記』巻上
このように叡尊は、東大寺および西大寺にて行われた律学の講義を聞いて、実は自身が出家と称するに値せず、さらには仏弟子と云うにすら及ばない者であることを一層自覚。そのような自身の欺瞞なる状態を何とか解消したいと思うもその方法が無く、途方にくれていました。しかしそこで、覚盛のもとで律についての講義を聞く中、覚盛の主張する三聚浄戒の通受によって比丘となり得るという構想に納得し、俄然として興律の志を燃やし、ますますその実現に向けて律学に励むようになったようです。
叡尊が自らその日記である『感身学正記』に記しているように、自誓受が許されるのはあくまで五戒・八斎戒であり、比丘となるために律を受けること、すなわち受具は、自誓受戒では成立しないということは、叡尊自身も最初認識していたことでした。そして、正統な受具がもはや当時の日本では不可能な状況にあることも、叡尊は確かに知っていた。そんな中、叡尊は覚盛の講義を聞いてその考えを改め、むしろそのために喜びに打ち震えた、というのです。
しかしながら、印度・支那そしてそれまでの日本における経緯と伝承とを前提とし、今その覚盛の所論を披覧してみたならば、多く疑念の余地があって直ちに首肯できるものなどでは全然ありません。忌憚なく言えばそれは、その全体とまではいかぬとも、多く堅白異同なものです。
貞慶は、その十年以上も前の建暦三年〈1213〉にすでに逝去してありませんでした。まさか貞慶も、自身の門弟からそのような主張が出てくるとは思っていなかったでしょう。
覚盛の主張は、主として法相宗が重要視してきた諸々の論書の所説を根拠としたものではありましたが、それまでの南都における伝統的理解から逸脱した、極めて特殊、いや、異常とすら言うべきものでした。その故にやはり、戒律復興を成し遂げたという当初は、南都においてもかなり物議を醸したようです。
しかし、どのような手段にせよ、覚盛らが戒律復興を果たしたとして実際に持戒持律の律僧としての活動を開始したことにより、その後それは既成事実化していきます。そして、覚盛は唐招提寺を、叡尊は西大寺を拠点とし、それぞれ三聚浄戒と具足戒に対して異なる所見を持っていたこともあり、各自異なる律宗の一流を構えていくことになります。
ここで紹介する『南都叡山戒勝劣事』は、そのような覚盛と叡尊、そしてさらにいうならば貞慶と同時代、自ら宋代の支那に渡って戒律及び天台教学を学び京都の泉涌寺を拠点として律宗の一派を構えた俊芿など中世鎌倉期にさまざまに展開する直前の、興福寺を中心とした南都六宗における伝統的戒律理解を端的に示すものです。
愚衲覺應 拝記