VIVEKA For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

牟融『理惑論』 (『牟子理惑論』)

原文

《第九》
問曰孝經言身體髮膚受之父母不敢毀傷曾子臨沒啓予手啓予足今沙門剃頭何其違聖人之語不合孝子之道也吾子常好論是非平曲直而反善之乎牟子曰夫訕聖賢不仁平不中不智也不仁不智何以樹德德將不樹頑嚚之儔也論何容易乎昔齊人乘船渡江其父墮水其子攘臂捽頭顛倒使水從口出而父命得蘇夫捽頭顛倒不孝莫大然以全父之身若拱手修孝子之常父命絶於水矣孔子曰可與適道未可與權所謂時宜施者也且孝經曰先王有至德要道而泰伯短髮文身自從呉越之俗違於身體髮膚之義然孔子稱之其可謂至德矣仲尼不以其短髮毀之也由是而觀苟有大德不拘於小沙門捐家財棄妻子不聽音不視色可謂讓之至也何違聖語不合孝乎豫讓呑炭漆身聶政㓟靣自刑伯姫蹈火高行截容君子爲勇而有義不聞譏其自毀沒也沙門剃除鬚髮而比之於四人不已遠乎

《第十》
問曰夫福莫踰於繼嗣不孝莫過於無後沙門棄妻子捐財貨或終身不娶何其違福孝之行也自苦而無奇自拯而無異矣牟子曰夫長左者必短右大前者必狹後孟公綽爲趙魏老則優不可以爲滕薛大夫妻子財物世之餘也清躬無爲道之妙也老子曰名與身孰親身與貨孰多又曰觀三代之遺風覽乎儒墨之道術誦詩書修禮節崇仁義視清潔郷人傳業名譽洋溢此中士所施行恬惔者所不恤故前有隨珠後有虓虎見之走而不敢取何也先其命而後其利也許由栖巣木夷齊餓首陽孔聖稱其賢曰求仁得仁者也不聞譏其無後無貨也沙門修道德以易遊世之樂反淑賢以貿妻子之歡是不爲奇孰與爲奇是不爲異孰與爲異哉

《第十一》
問曰黄帝垂衣裳製服飾箕子陳洪範貌爲五事首孔子作孝經服爲三德始又曰正其衣冠尊其瞻視原憲雖貧不離華冠子路遇難不忘結纓今沙門剃頭髮披赤布見人無跪起之禮儀無盤旋之容止何其違貌服之制乖搢紳之飾也牟子曰老子云上德不德是以有德下德不失德是以無德三皇之時食肉衣皮巣居穴處以崇質朴豈復須章甫之冠曲裘之飾哉然其人稱有德而敦厖允信而無爲沙門之行有似之矣或曰如子之言則黄帝堯舜周孔之儔棄而不足法也牟子曰夫見博則不迷聽聰則不惑堯舜周孔修世事也佛與老子無爲志也仲尼栖栖七十餘國許由聞禪洗耳於淵君子之道或出或處或默或語不溢其情不淫其性故其道爲貴在乎所用何棄之有乎

《第十二》
問曰佛道言人死當復更生僕不信此言之審也牟子曰人臨死其家上屋呼之死已復呼誰或曰呼其䰟𩲸牟子曰神還則生不還神何之乎曰成鬼神牟子曰是也䰟神固不滅矣但身自朽爛耳身譬如五穀之根葉䰟神如五穀之種實根葉生必當死種實豈有終亡得道身滅耳老子曰吾所以有大患以吾有身也若吾無身吾有何患又曰功成名遂身退天之道也或曰爲道亦死不爲道亦死有何異乎牟子曰所謂無一日之善而問終身之譽者也有道雖死神歸福堂爲惡既死神當其殃愚夫闇於成事賢智豫於未萌道與不道如金比草善之與福如白方黒焉得不異而言何異乎

訓読

《第九》
問て曰く、孝經に言く、身體髮膚しんたいはっぷ、之を父母に受く。敢て毀傷きしょうせずと。曾子そうしは沒するに臨み、予が手をひらけ、予が足をひらと。今、沙門の剃頭ていとう、何ぞ其れ聖人の語に違ひ、孝子の道に合はざるや。吾子は常に好んで是非を論じ、曲直を平かにす。而も反て之を善とせんや。
牟子曰く、夫れ聖賢をそしるは不仁ふじん不中ふちゅうを平とするは不智なり。不仁不智、何を以てか德をてん。德將た樹たずんば、頑嚚がんぎんともがらなり。論、何ぞ容易ならんや。昔、齊人、船に乘て江を渡る。其の父、水に墮つ。其の子、うではらって頭をつかみ、顛倒てんどうして水をして口より出でしむ。而して父の命、蘇るを得たり。夫れ捽頭顛倒そっとうてんどうより不孝なること大なるは莫し。然も以て父の身を全うす。若し手をこまねきて孝子の常を修むれば、父の命は水に絶たん。孔子曰く、ともに道をくべし。未だともはかるべからずと。所謂時宜じぎの施なる者なり。且つ孝經に曰く、先王せんおう至德要道しとくようどう有りと。而も泰伯たいはくは短髮・文身もんしんし、自ら呉越の俗に從ひ、身體髮膚の義に違ふ。然れども孔子は之を稱して、其れ至德しとくと謂ふべしと。仲尼は其の短髮を以て之を毀らざるなり。是に由て觀れば、まことに大德有れば、小に拘らず。沙門の家財を捐て妻子を棄て、音を聽かず色を視ざるは、じょうの至りと謂ふべし。何ぞ聖語に違ひ、孝に合はざらんや。豫讓よじょうは炭を呑み身に漆し、聶政じょうせいは靣を㓟ぎ自ら刑す。伯姫はくきは火を蹈み高行こうぎょうは容をる。君子、勇にして義有りと爲し、其の自ら毀沒きもつするを譏るを聞かず。沙門は鬚髮しゅはつを剃除す。而も之を四人に比せば已に遠からざらんや。

《第十》
問て曰く、夫れ福の繼嗣けいしに踰ゆる莫く、不孝の無後に過ぎる莫し。沙門の妻子を棄て財貨をて、或は終身娶らざるは、何ぞ其れ福・孝の行に違ふや。自ら苦しみて奇無く、自らすくひて異無し。
牟子曰く、夫れ左に長ずる者は必ず右に短なり。前に大なる者は必ず後に狹し。孟公綽もうこうしゃく趙・魏ちょう・ぎの老と爲れば則ち優なるも、以て滕・薛とう・せつの大夫と爲すべからずと。妻子・財物は世の餘なり。清躬しょうく無爲は道の妙なり。老子曰く、名と身といずれか親しき。身と貨と孰れがまされると。又曰く、三代の遺風を觀、儒・墨の道術を覽るに、詩書を誦し禮節を修めて、仁義を崇び清潔を視る。郷人、業を傳へ名譽洋溢みょうよよういつすと。此れ中士の施行する所にして、恬惔てんたんなる者のうれへざる所なり。故に前に隨珠ずいしゅ有り、後に虓虎こうこ有て之を見れども、走り敢て取らざるは何ぞや。其の命を先にして其の利を後にするなり。許由きょゆう巣木そうぼくみ、夷齊いせいは首陽にゆ。孔聖こうせい、其の賢を稱して曰く、じんを求めてじん を得る者なりと。其の無後・無貨なるを譏るを聞かず。沙門は道德を修め、以て遊世の樂に易へ、淑賢に反て以て妻子の歡に貿う。是れ奇と爲さずんば、いずれと與にか奇と爲さん。是れを異と爲さずんば、孰と與にか異と爲さんや

《第十一》
問て曰く。黄帝こうていは衣裳を垂れ服飾を製す。箕子きし洪範こうはんを陳べてぼう五事ごじはじめと爲す。孔子は孝經を作りて服を三德の始めと爲す。又曰く、其の衣冠いかんを正して其の瞻視せんしを尊ぶと。原憲げんけんは貧なりと雖も華冠を離さず。子路は難に遇へども結纓けつえいを忘れず。今、沙門の頭髮を剃り赤布せきふは、人を見れども跪起きき禮儀れいぎ無く、盤旋ばんせん容止ようし無し。何ぞ其れ貌服ぼうふくの制に違ひ、搢紳しんしんの飾にそむくや。
牟子曰く、老子云く、上德じょうとくは德とせず。是を以て德有り。下德は德を失はざらんとす。是を以て德無しと。三皇の時は肉を食ひ皮を、穴處に巣居して、以て質朴しちぼくを崇ぶ。豈に復た章甫しょうほかんむり曲裘きょくきゅうかざりを須ひんや。然れども其れ人、有德にして敦厖とんぼう允信いんしんにして無爲を稱す。沙門の行も之に似たる有り。
或が曰く、子の言の如きは、則ち黄帝・堯・舜・周・孔の儔は、棄てて法るに足らずと。
牟子曰く、夫れ見博ければ則ち迷はず。聽聰なれば則ち惑はず。堯・舜・周・孔は世事を修む。佛と老子は無爲のこころざしなり。仲尼ちゅうじ栖栖七十餘國せいせいななじゅうよこく許由きょゆうぜんを聞き、耳をふちに洗ふ。君子の道は、或は出で或はり、或は默し或は語る。其の情におごらず、其の性に淫せず。故に其の道を貴しと爲すは、所用に在り。何の棄つるか之有らん。

《第十二》
問て曰く、佛道に言ふ、人死して當に復た更生こうせいすべしと。僕、此の言のつまびらかなるを信ぜず。
牟子曰く、人死にのぞんでは、其の家の上屋うわやに之を呼ぶと。死し已らば復た誰をか呼ばんや。
或るが曰く、其の䰟𩲸こんぱくを呼ぶなりと。
牟子曰く、かみ還れば則ち生ず。還らずんば神何くにか之かん。
曰く、鬼神きしんと成るなり。
牟子曰く、是なり。魂神こんしんもとより不滅なり。但だ身、自ら朽爛くらんするのみ。身は譬へば五穀の根葉の如し。 魂神は五穀の種實の如し。根葉生ずれば必ず當に死すべし。種實、豈についもう有らんや。道を得て身滅するのみ。老子曰く、われ大患たいかん有る所以ゆえんは、吾に身有るを以てなり。若し吾に身無くんば、吾に何のうれひか有らんと。又曰く、功成こうな名遂なと身退みしりぞくは天の道なりと。
或るが曰く、道を爲すも亦た死す。道を爲さざるも亦た死す。何の異りか有らんと。
牟子曰く、所謂一日の善無くして、終身のほまれを問ふ者なり。道有ては死すと雖も神は福堂ふくどうに歸る。惡を爲し既に死せば神は其のわざわいに當る。愚夫は事を成すにくらし。賢智は未萌みほうかねる。道と不道とは金を草に比するが如く、ぜんふくとは白を黒にほうするが如し。いずくんぞ異ならずとし得んや。而も何ぞ異ると言ふや。

脚註

  1. 身體髮膚しんたいはっぷ、之を父母に受く...

    『孝経』開宗明義「身體髪膚。受之父母。不敢毀傷。孝之始也。立身行道。揚名於後世(身體髪膚、之れを父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始なり。身を立て道を行なひ、名を後世に揚げて以て父母を顕すは、孝の終なり)」の前半部を引いたもの。
    両親から受けた我が身を故意に傷つけないことは孝行の根本であるとする言で、今の日本人にも無意識的にこの思想を強く受け継ぐ者が多くある。

  2. 曾子そうし

    孔子の最も重要な弟子の一人。『孝経』は曾子によって編集されたとされ、前記の『孝経』の一節は曾子に対して語られたもの。後代、朱子学が生じると四聖の一人宗聖として崇められた。

  3. 予が手をひらけ、予が足をひら

    『論語』泰伯「曾子有疾。召門弟子曰。啓予足啓予手。詩云戰戰兢兢如臨深淵。如履薄冰。而今而後。吾知免夫。小子(曾子疾有り。門弟、子を召して曰く、予が足を啓け、予が手を啓け。詩に云わく、戦戦兢兢として深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如しと。今よりして後、吾免るることを知るかな、小子)」を引いたもの。曾子が死に臨んだ時、その弟子たちに自分の手足を見せ、一つとして欠損・傷のないこと、すなわち「孝の始め」を見事に果たしてきたのを示す。そして自分が死んでしまえば「不孝」を為さぬよう恐る恐る生きることから開放される、と述べたという一節。

  4. 頑嚚がんぎん

    頑なでひねくれていること。愚かで道理がわからないこと。

  5. ともに道をくべし...

    『論語』子罕第九「可與共學。未可與適道。可與適道。未可與立。可與立。未可與權(与に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権るべからず)」からの一節。共に学ぶことは出来ようが、(それだけでは)未だ共に道を共有することは出来ない。共に道を共有することは出来ようが、(それだけでは)共に(世間で)立つことは出来ない。共に立つことは出来るであろうが、(それだけでは)共に力を振るうことは出来ない、との孔子の言葉。

  6. 先王せんおう至德要道しとくようどう有り

    『孝経』開宗明義「仲尼間居。曾子侍坐。子曰。參先王有至徳要道。以順天下。民用和睦。上下無怨。女知之乎(仲尼閑居す、曾子侍す。子曰く、先王に至徳要道有り、以て天下を順にし、民用て和睦す、上下怨み無し。汝之れを知るやと)」からの引用。孔子はここで「至徳の要道」、徳の根本が「孝」にあることを曾子に言い、続いて前述の「身體髪膚、之れを父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始なり」に続く一節を説いた。

  7. 泰伯たいはく

    太伯。周太王(周公亶父)の長子で、弟の季歴が周を継ぐことを受け入れて出奔し、あえて(もはや周の継嗣として相応しく者であることを自ら示すために)短髮文身すなわち断髪して刺青を入れ、やがて呉の始祖となった人。泰伯が自らの体を短髮文身によって傷つけたことは、当時むしろ義であるとして評価されていた。

  8. 其れ至德しとくと謂ふべし

    『論語』泰伯「其可謂至德也已矣(泰伯は其れ至徳と謂うべきのみ)」の引用。孔子は「身體髪膚、之れを父母に受く、敢て毀傷せざるは孝の始なり」と『孝経』にて曾子に説いていた一方で、自らあえて断髪し刺青を入れて国を譲った泰伯を「至徳」であると褒め称えていた。

  9. 豫讓よじょう

    春秋時代、晋の人。仕えていた智伯(知襄子)が趙襄子(ちょうじょうし)によって討たれたため、その仇を討つため身を刑人にやつして宮中に潜入するも失敗。趙襄子はこれを許して釈放したが豫讓は諦めず、次は漆を体中に塗り炭を飲んで乞食に扮し、復讐の機会を窺ったが、またや失敗。それを再び趙襄子は許し、さらに哀れと思って衣服を与えた。すると豫讓は、その与えられた衣服めがけて三度にわたって剣で切りつけ、もって復讐を果たしたとして自殺した、という(『史記』刺客列伝)。
    この豫讓の(思えば滑稽の感すら漂う)復讐譚に基づき、後代に敵討ちのための苦労を「呑炭」と称するようになった。

  10. 聶政じょうせい

    春秋時代、斉の女性。韓の厳遂(げんすい)から、同国の宰相であった侠累(きょうるい)の暗殺を依頼された聶政は、そこに義を見い出してその依頼を引受、ついに果たすがただちに自害した。その死の直前、聶政はその身元が判明して親類縁者に連座の罪を着せぬよう、自らの顔の皮を剥ぎ取り、さらに眼球をえぐり出していた。すると聶政の見事な死を名誉と見たその姉は、その名を後世に残すためとして連座の罪を課されることを畏れず世に明かし、自らも生命を断った。当時の人はその姉弟の義侠心に感動し、果たして聶政の名は天下に知れ渡って後世に名を残した(『史記』刺客列伝)。

  11. 伯姫はくき

    春秋時代、魯の人。宋の君主であった共公に嫁してその妃となった。ある時、宋で火災に遇って避難を促されたが、伯姫は「夫人が夜外出する際は、必ず傅(侍従)と母(女官)とが共になければならないと聞いている」と言い、しかしそれらが未だ来ていなかったために避難を拒み、ついに焼死してしまったという(『公羊伝』)。

  12. 高行こうぎょう

    春秋時代、梁の女性。ある女が早くに夫を亡くすも二度と嫁がず、寡婦として幼子を一人で育てていた。しかし、その美貌の高いことから多くの男が次々求婚してきたが断り続けていた。ところが、その美貌が梁王の耳にする所となって(自らのものとなるよう)使者を寄こすまでとなった。すると高行は、一度嫁いだ相手に貞節を尽くすことが夫人としての義であるのに自らの美貌が災いしてついに王すらその使いをよこすようになったと言い、幼子があって育てなければならないために自殺はせず、その変わりに自らの鼻を刀で削ぎ落とした。これを聞いた王はその女の義を貫く姿勢に感動し、「高行」という名を送って褒め称えたという(『列女伝』貞順)

  13. 繼嗣けいし

    子供をもうけ、跡継ぎをつくってその血を絶やさず、代々継がせていくこと。

  14. すくひて

    助けること、救うこと。
    異本では「極」とあり、これでも意味は取ろうと思えば取ることは出来るが、文頭および文末の「奇」と「異」に対応させる読みはし難くなるため、ここはやはり底本に従った。

  15. 孟公綽もうこうしゃくは趙・魏の老と爲れば...

    『論語』憲問「孟公綽。爲趙魏老則優。不可以爲滕薛大夫也(孟公綽は趙・魏の老と為れば則ち優なり。以て滕・薛の大夫と為すべからず)」。孟公綽という人物は、趙や魏(といった大国)の家老となったならばその長所を発揮するであろうけれども、滕や薛(などの小国)の家臣には不適当である、との意。優れた人物であっても、それに適した場所・地位・環境になければその才を発揮できないこと。いわゆる適材適所を言った語。

  16. 名と身といずれか親しき...

    『老子道徳経』巻下 第四十四「名与身孰親。身与貨孰多。得与亡孰病。是故甚愛必大費。多蔵必厚亡。知足不辱。知止不殆。可以長久(名と身と孰れか親しき、身と貨と孰れか多れる。得ると亡うと孰れか病ある。是の故に甚だ愛すれば必ず大いに費え、多く蔵すれば必ず厚く亡う。足るを知れば辱められす、止まることを知れば殆うからず。以て長久なるべし)」を引いた一節。要するに、名誉と身体、また身体と財産のいずれが最も価値あるのか、そしてそれらをどのように見て扱うべきかを示した語。

  17. 恬惔てんたん

    心が安らかで執着の無いこと。あっさりとしてこだわり無いこと。

  18. 隨珠ずいしゅ

    濮水(ぼくすい)の神蛇が献じたという随の国宝とされた珠玉。転じて天下の至宝の謂。

  19. 虓虎こうこ

    猛々しく唸る虎。

  20. 許由きょゆう

    支那における伝説的隠者。堯から天下を譲ろうとされるもこれを断り、それを恥として箕山に隠れた。後にまた堯が九州(全国)の長官に任命しようとすると、耳が汚れるとして河で耳を洗ったという。

  21. 巣木そうぼく

    許由に同じく伝説的隠遁者、巣父(そうほ)が鳥のように樹の上に巣を作ってそこで寝泊まりしていたということに基づく語。巣父もまた堯からの仕官の誘いを断っていたが、許由が堯の誘いを受けて耳を洗ったのを聞くと、許由は河の水を穢したとして批判し、以降は許由が耳を洗った河の水を汲まず、またその革を渡ることもしなかったという。ここで牟子は許由が巣木に栖むとしているが、巣木に栖んだのは巣父であって許由ではないであろう。あるいはそのいずれもが山中に住んでいたことを「巣木」と云ったか。

  22. 夷齊いせい

    伯夷と叔斉。孤竹という小国の君主の息子で兄弟であったが、互いにその継承を譲り合った結果、ついに両者共に国を出奔。周の文王の徳治を慕って周に向かったがすでに文王は亡く、その子の武王が(君主にあたる)殷の紂王を討つため挙兵する時であった。そこで二人は武王に父王が亡くなって喪に服さずすぐ挙兵するのは孝に反し、また君主に反旗を翻すことは忠に反すると諫言したが受け入れられなかった。そこで二人は首陽山に隠棲したが、武王のような不孝・不忠の者が治める地の穀物を食べるわけにはいかないとついに餓死した。後に伯夷・叔斉は志を貫き通した人として孔子から讃えられた。

  23. 孔聖こうせい

    孔子。

  24. じんを求めてじんを得る者なり

    『論語』述而第七「伯夷叔斉何人也。曰古之賢人也。曰怨乎。曰求仁而得仁。又何怨(伯夷・叔斉は何人ぞや。曰く古の賢人なり。曰く怨みたるか。曰く仁を求めて仁を得たり。又何をか怨みん」の引用。伯夷・叔斉が自らの志を貫くために首陽山で餓死したことを後悔などせず、むしろ仁という彼らの求めたあり方を実現した、という孔子による評。

  25. 黄帝こうてい

    伝説的帝王、五帝の筆頭。支那における歴代帝王の始祖とされ、人のあらゆる文化的営為の礎を創造したとされる。ここで服装について黄帝に言及されるのは、特に支那では人の衣服の制というものが黄帝によって定められたものであるとする当時の思想に基づく。

  26. 箕子きし

    殷の王族で、紂王の親戚であったとされる人。紂王の暴虐を諌めるも聞き入れられず、狂人を演じてその元を去った。後に武王が紂王を倒して帝王となると、武王に迎えられて朝鮮に封じられ、箕子朝鮮を建てたとされる。

  27. 洪範こうはん

    五経のうち『書経(尚書)』の一篇で、九疇(きゅうちゅう)すなわち政治の要道が九分して説かれる。「鴻範」とも。周の武王と箕子によって編纂されたものと伝説される。

  28. 五事ごじ

    『書経』洪範にて説かれる九疇のうち、礼に則る上で重要な、貌・言・視・聴・思の五つの事柄。

  29. 三德さんとく

    ここでは儒教で一般に言われる智・仁・勇の三徳でなく、『孝経』卿大夫章において説かれた「法服・法言・徳行」の三つ。その中、法服とは「非先王之法服不敢服(先王の法服に非ざれば、敢て服さず)」といわれるもので、先王(この文脈では黄帝)によって定められた服のこと。

  30. 其の衣冠いかんを正して其の瞻視せんしを尊ぶ

    『論語』堯曰「君子正其衣冠。尊其瞻視。儼然人望而畏之。斯不亦威而不猛乎(君子は其の衣冠を正して、其の瞻視を尊くす。儼然として人望て之れを畏る。斯れ亦た威にして猛からざるにあらずや)」からの引用。君子はその衣冠を整えて目つきを高く尊くし、厳かな様であれば人はこれを遠目に見て威厳を感じる。これこそ威厳はあっても猛々しくないことではないだろうか、との意。人の身なり、態度が非常に重要であることの謂。

  31. 原憲げんけん

    孔子の弟子、子思の名。奢侈を退け貧しい生活に甘んじていたが、貧しくとも常に身なりを正していたという。

  32. 子路しろ

    孔子の弟子。氏名は仲由でその字が子路。季子とも。

  33. 結纓けつえいを忘れず

    子路がその晩年、衛の大臣であった孔悝に仕えていた時、衛の内紛に巻き込まれて戦乱となり、自らも襲われた際にその冠の紐が切られた。その時、子路はいかなる時も貴族は冠を外してはならないといって冠の紐を結び直し、しかしその直後に倒れて死んだとされる。

  34. 赤布せきふ

    沙門(仏教僧)の衣装は三衣に限られ、その色は壊色(えじき)といって当時の人が賤しみ、嫌った中間色の濁ったものに限られることが律によって定められている。その壊色は一般に赤黒など赤褐色のものであり、それ色のことをインド語でkāṣāya、音写して袈裟(けさ)と言った。すなわち、袈裟とは衣の呼称ではなく色の名である。仏教伝来当時の支那において、沙門らの来ていた衣の色がほとんど赤色であったと、はるか後代に著された『大宋僧史略』などにもあるが、その伝承の正しいことはこの『理惑論』においても確認することが出来る。
    今もチベットやビルマでは僧服といえば赤黒が多く用いられているが、それは本来の仏教者の衣の色であってよく古形を保ったものである。

  35. 跪起きき禮儀れいぎ

    跪き、また起って礼する支那古来の礼法。

  36. 盤旋ばんせん容止ようし

    盤旋は「めぐること」・「まわること」の意であるが、ここでは支那古来の礼法に従った進退のこと。

  37. 搢紳しんしん

    貴族。あるいは一定の身分ある者。

  38. 上德じょうとくは德とせず。是を以て德有り

    『老子道徳経』巻下 第三十八「上徳不徳。是以有徳。下徳不失徳。是以無徳(上徳は徳とせず、ここを以て徳あり。下徳は徳を失わざらんとす、ここを以て徳なし)」の一節。徳ある者は(徳を)徳であると意識することがないため、徳がある。しかし徳の少ない者は徳を失うまいと意識するために、むしろ徳が無い、との意。老子においては、たとえば「大道廃れて仁義あり」というように、特に意識、意図して行われる行為に価値など見出されていない。

  39. 章甫しょうほかんむり

    殷代から用いられてきた緇布の冠。孔子も用いていたため、後代の儒者らも倣って被りつづけてきた。日本でも特に近世、儒者が好んで用いていた。

  40. 曲裘きょくきゅうかざり

    革製の飾られた服。古代支那で用いられていたものであろうが、具体的にどのようなものであったか不明。

  41. 敦厖とんぼう

    底本には「孰疣」とあるが全く意味が取れないため、異本により「敦厖」に訂す。敦厖とは実直であること。

  42. 允信いんしん

    底本には「之信」とあるが意味が取れないため、異本により「允信」に呈す。允信とは誠実であること。

  43. 仲尼ちゅうじ栖栖七十餘國せいせいななじゅうよこく

    孔子が七十余りの国々を遊説していたこと。

  44. 許由きょゆうぜんを聞き、耳をふちに洗ふ

    既出(脚注:20)の許由が、堯から国を譲られようとしたときに、耳が汚れるとして河で耳を洗った故事。ここで禪(禅)とは「譲る」の意。

  45. 人死して當に復た更生こうせいすべし

    生死輪廻。仏教が生命は(解脱しない限り)輪廻して止まないとを説いていること。

  46. 人死にのぞんでは...

    『礼記』礼運「及其死也。升屋而號告曰皋某復(其の死に及びてや、屋に升て號し告て曰く、皋、某復れと)」を意図した一節。孔子による葬送の流れが説かれた一節で、人が死んだならばまず屋根の上に登り、死者の名を叫び呼んで、「ああ、何某よ、還ってこい」ということ。ここで牟子は、転生など無いのであれば、何に向かって還ってこいと叫ぶのかと、輪廻を否定する儒者に問うている。

  47. 䰟𩲸こんぱく

    魂魄に同じ。魂は精神を司る陽の気であり、魄は肉体を司る陰の気であるとされる。

  48. かみ

    ここでは精神・こころ・意識の意。
    古代支那において、神は文字通り(天にある)神の意と、精神の意、さらには祖先の霊を意味した。

  49. 鬼神きしん

    『礼記』祭義第二十四に「宰我曰。吾聞鬼神之名。不知其所謂。子曰。氣也者神之盛也。魂也者鬼之盛也。合鬼與神教之至也。眾生必死死必歸土。此之謂鬼(宰我曰く、吾れ鬼神の名を聞くも其の謂ふ所を知らず。子曰く、氣なるは神の盛んなり。魂なるは鬼の盛んなり。鬼と神と合して之を教ふるが至なり。眾生、必ず死す。死すれば必ず土に歸す。此之を鬼と謂ふ)」と、孔子が神および魂と鬼について述べたとされている。すなわち、漢において鬼とは死者の地に留まる霊とされていた。
    ここでの牟子の問いに対する答えは、それに合わせた言葉であろう。

  50. 魂神こんしんもとより不滅なり

    この語に牟子における霊魂観、あるいは輪廻に対する理解の程度が現れている。牟子はいまだ仏教が説く輪廻の主体をいわゆる「魂」であると理解し、その不滅であることと述べている。しかし、そのような理解は、仏教が印度以来外教から批判され、仏教内部でも様々に議論されたのを知らなかったからこそのものである。
    牟子の理解を評したならば極拙いものであって、この一節以下に続けられた譬喩も上手いものではない。当時はまだ漢訳経典も少なく、また牟子が読んだ経論にこの点についてよく説いたものが無かったために理解が及ばず、儒教や道教からこれに対する批判も浅いものであったことによるのであろう。しかし、このような牟子の理解は、現代日本人における輪廻というものに対する理解にも全く通じたものである。

  51. われ大患たいかん有る所以ゆえんは...

    『老子道徳経』巻上 第十三「吾所以有大患者。爲吾有身。及吾無身。吾有何患(吾れに大患有る所以は、吾れに身有るが為なり。吾れに身無きに及びては、吾れに何の患ひ有らん)」を引いたもの。私に大きな災いがあり得るのは、私に身体があってこそのことである。私に身体が無くなったならば、私にどのような災いが有り得ようか、との意。

  52. 功成こうな名遂なと身退みしりぞくは天の道なり

    『老子道徳経』巻上 第八「功遂身退。天之道(功遂げ身退くは、天の道なり)」を引いた語。自らの目的を達成したならば、すぐ(世間からその身を)引いて退くことが天の道である、との意。

  53. 福堂ふくどう

    儒教において天界を意味するものであるが、ここでは仏教における天界に重ね意図した語。牟子はこのあたりの仏教の世界観について、儒教・道教のそれと同一視、あるいは混同して理解していた。
    もっとも、それは牟子に限らず当時からしばらく後の支那僧においても同じでそれらを混同して解する者が多くあった。

  54. ぜんふく

    ここでは底本の「善之與福」に従って「善と福」のままとしたが、それでは文脈からして辻褄があわない。したがってここは「善と悪」あるいは「福と殃」であったとして読むべきで、どちらとしてもその意は通る。あるいは根本的に、菲才のこの一説のの読み方が誤っているのかもしれない可能性もあるため、今は敢えて底本通りのままとし、ここに指摘するに留めた。一考を要す。

関連コンテンツ