《第十三》
問曰孔子云未能事人焉能事鬼未知生焉知死此聖人之所紀也今佛家輒說生死之事鬼神之務此殆非聖喆之語也夫履道者當虗無澹怕歸志質朴何爲乃道生死以亂志說鬼神之餘事乎牟子曰若子之言所謂見外未識内者也孔子疾子路不問本末以此抑之耳孝經曰爲之宗廟以鬼享之春秋祭祀以時思之又曰生事愛敬死事哀慼豈不敎人事鬼神知生死哉周公爲武王請命曰旦多才多藝能事鬼神夫何爲也佛經所說生死之趣非此類乎老子曰既知其子復守其母沒身不殆又曰用其光復其明無遺身殃此道生死之所趣吉凶之所住至道之要實貴寂寞佛家豈好言乎來問不得不對耳鍾鼓豈有自鳴者捊加而有聲矣
《第十四》
問曰孔子曰夷狄之有君不如諸夏之亡也孟子譏陳相更學許行之術曰吾聞用夏變夷未聞用夷變夏者也吾子弱冠學堯舜周孔之道而今捨之更學夷狄之術不巳惑乎牟子曰此吾未解大道時之餘語耳若子可謂見禮制之華而闇道德之實闚炬燭之明未覩天庭之日也孔子所言矯世法矣孟軻所云疾專一耳昔孔子欲居九夷曰君子居之何陋之有及仲尼不容於魯衞孟軻不用於齊梁豈復仕於夷狄乎禹出西羗而聖喆瞽叟生舜而頑嚚由余產狄國而覇秦管蔡自河洛而流言傳曰北辰之星在天之中在人之北以此觀之漢地未必爲天中也佛經所說上下周極含血之類物皆屬佛焉是以吾復尊而學之何爲當捨堯舜周孔之道金玉不相傷精珀不相妨謂人爲惑時自惑乎
《第十五》
問曰蓋以父之財乞路人不可謂惠二親尚存殺巳代人不可謂仁今佛經云太子須大挐以父之財施與遠人國之寶象以賜怨家妻子匈與他人不敬其親而敬他人者謂之悖禮不愛其親而愛他人謂之悖德須大拏不孝不仁而佛家尊之豈不異哉牟子曰五經之義立嫡以長太王見昌之志轉季爲嫡遂成周業以致太平娶妻之義必告父母舜不告而娶以成大倫貞士須聘請賢臣待徴召伊尹負鼎干湯寗戚叩角要齊湯以致王齊以之覇禮男女不親授嫂溺則援之以手權其急也苟見其大不拘於小大人豈拘常也須大拏覩世之無常財貨非巳寶故恣意布施以成大道父國受其祚怨家不得入至於成佛父母兄弟皆得度世是不爲孝是不爲仁孰爲仁孝哉
《第十六》
問曰佛道崇重無爲樂施與持戒兢兢如臨深淵者今沙門躭好酒漿或畜妻子取賤賣貴專行詐紿此乃世之僞而佛道謂之無爲耶牟子曰工輸能與人斧斤繩墨而不能使人功聖人能授人道不能使人履而行之也皋陶能𦋛盜人不能使貪夫爲夷齊五刑能誅無狀不能使惡人爲曾閔堯不能化丹朱周公不能訓管蔡豈唐敎之不著周道之不𠏆哉然無如惡人何也譬之世人學通七經而迷於財色可謂六藝之邪淫乎河伯雖神不能溺陸地人飄風雖疾不能使湛水揚塵當患人不能行豈可謂佛道有惡乎
《第十三》
問て曰く、孔子云く、未だ能く人に事へず。焉ぞ能く鬼に事へんやと。此れ聖人の紀する所なり。今、佛家は輒ち生死の事、鬼神の務を說く。此れ殆ど聖喆の語に非ざらん。夫れ道を履む者は、當に虗無澹怕にして志を質朴に歸すべし。何爲れぞ乃ち生死を道として以て志を亂し、鬼神の餘事を說くや。
牟子曰く、子の言の若きは、所謂外を見て内を識らざる者なり。孔子は、子路の本末を問はざるを疾み、此を以て之を抑へたるのみ。孝經に曰く、之を宗廟に爲て鬼を以て之れを享る。春秋に祭祀して時を以て之れを思ふと。又曰く、生けるには事へて愛敬し、死せるには事へて哀慼すと。豈に人をして鬼神に事へ、生死を知ることを敎えざらんや。周公、武王の爲に命を請て曰く、旦は多才多藝、能く鬼神に事ふと。夫れ何爲れぞ。佛經に所說の生死の趣、此の類に非ざらんや。老子曰く、既に其の子を知り、復た其の母を守らば、身を沒るまで殆ふからずと。又曰く、其の光を用て其の明に復せば、身の殃を遺すこと無しと。此れ道は生死の所趣、吉凶の所住なればなり。至道の要は實に寂寞を貴ぶ。佛家、豈に言を好まんや。來問に對へざるを得ざるのみ。鍾鼓、豈に自ら鳴る者有らんや。捊加りて聲有るなり。
《第十四》
問て曰く、孔子曰く、夷狄の君有るは、諸夏の君亡きには如かずと。孟子は陳相の更に許行の術を學ぶを譏りて曰く、吾、夏を用て夷を變ずるを聞く。未だ夷を用て夏を變ずる者を聞かずと。吾子は弱冠にして堯・舜・周・孔の道を學び、今之を捨てて更に夷狄の術を學ぶ。巳に惑はずや。
牟子曰く、此れ吾が未だ大道を解せざる時の餘語なるのみ。子が謂ふべきが若きは、禮制の華を見て道德の實に闇く、炬燭の明を闚ひて、未だ天庭の日を覩ざる也。孔子の言ふ所は世法を矯むなり。 孟軻の云ふ矯は專一を疾むのみ。昔、孔子は九夷に居すことを欲して曰く、君子之に居らば、何の陋しきか之有らんと。仲尼の魯・衞に容れられず、孟軻の齊・梁に用ひられざるに及びて、豈に復た夷狄に仕へんや。禹は西羗に出でて聖喆、瞽叟は舜を生みて頑嚚。由余は狄國に產して秦を覇し、管・蔡は河洛よりして流言す。傳に曰く、北辰の星は天の中に在り。人の北に在りと。此を以て之を觀れば、漢地は未だ必ずしも天の中爲らず。佛經の說く所は、上下周極、含血の類の物、皆佛に屬す。 是を以て吾は復た尊んで之を學ぶ。何爲れぞ當に堯・舜・周・孔の道を捨すべけんや。金玉は相ひ傷めず、精珀は相ひ妨げず。人を謂て惑と爲すは時に自ら惑ふらなん。
《第十五》
問て曰く、蓋し父の財を以て路人に乞ふは、惠と謂ふべからず。二親尚存するに巳を殺して人に代るは、仁と謂ふべからず。今、佛經に云く、太子須大挐は父の財を以て遠人に施與し、國の寶象を以て怨家に賜ひ、妻子を他人に匈與すと。其の親を敬せずして他人を敬するは、之を悖禮と謂ふ。其の親を愛せずして他人を愛するは、之を悖德と謂ふ。須大拏は不孝不仁にして佛家は之を尊ぶ。豈に異らずや。
牟子曰く、五經の義は嫡を立るに長を以てす。太王は昌の志を見て、季
を轉じて嫡と爲し、遂に周、業を成して、以て太平を致す。娶妻の義は必ず父母に告ぐ。舜は告げずして娶り、以て大倫を成す。貞士は聘請を須て、賢臣は徴召を待つ。伊尹は鼎を負て湯に干め、寗戚は角を叩いて齊に要む。湯は以て王を致し、齊は以て覇たり。禮に男女は親授せずと。嫂溺るれば則ち之を援くるに手を以てするは、其の急なるに權る。苟も其の大を見れば小に拘らず。大人、豈に常に拘らんや。須大拏は世の無常を覩て、財貨は巳の寶に非ざるが故に意を布施に恣にし、以て大道を成す。父國は其の祚を受け、怨家は入ることを得ず。成佛に至て、父母兄弟、皆世に度すことを得。是を孝と爲さず、是を仁と爲さずんば、孰をか仁孝と爲さんや。
《第十六》
問て曰く、佛道は無爲を崇めて施與を樂しみ、持戒兢兢、深淵に臨む者の如し。今、沙門は酒漿を躭好し、或は妻子を畜へ、賤を取り貴を賣り、專ら詐紿を行ふ。此れ乃ち世の大僞なり。而も佛道は之を無爲と謂ふや。
牟子曰く、工輸は能く人に斧斤繩墨を與ふるも、而も人をして功ならしむること能はず。聖人は能く人に道を授くるも、人をして履みて之を行かしむること能はず。皋陶は能く盜人を𦋛するも、貪夫をして夷齊たらしむること能はず。五刑は能く無狀を誅するも、惡人をして曾・閔たらしむること能はず。堯は丹朱を化すること能はず、周公は管・蔡を訓ふること能はざるも、豈に唐敎の著ならず、周道の不𠏆ならんや。然も惡人の如きは何ともする無し。之を譬ふれば世人の學七經に通じ、而も財色に迷ふも六藝の邪淫と謂ふべけんや。河伯は神なりと雖も、陸地の人を溺らすこと能はず。飄風は疾しと雖も、湛水に塵を揚げしむこと能はず。當に人の行ふ能はざるを患ふべし。豈に佛道に惡有りと謂ふべけんや。
『論語』先進第十一「季路問事鬼神。子曰未能事人焉能事鬼。曰敢問死。曰未知生焉知死(季路、鬼神に事えんことを問う。子曰く、未だ人に事うこと能わず。焉ぞ能く鬼に事えん。曰く、敢て死を問う。曰く、未だ生を知らず。焉ぞ死を知らん)」を引いた語。孔子は鬼神について触れなかったとして非常によく知られた一節。
近世の日本でもいわゆる「無鬼神論」の根拠としてよく取り上げられ、朱子学と古学の立場から「鬼神」の有無について様々に論じられた。▲
当時の支那における仏教僧がいかなるあり方をしていたかを示唆する一節。支那僧らは仏教の行う「施餓鬼」に絡めて祖霊祭祀に従事していたと思われるが、それはまた当時の支那人における強い関心事であったことの裏返しであろう。特にここで想定されている儒者の批判にあるように、その多くが「鬼神」について語りたがらない中で、仏典でそれを積極的に説くものがあったならばなおさらのことであったと考えられる。▲
聖哲。ここでは孔子のこと。▲
『孝経』喪親「爲之宗廟。以鬼享之。春秋祭祀。以時思之(之れが宗廟を爲て鬼を以て之れを享る。春秋に祭祀して時を以て之を思う)」。死者の宗廟を造って鬼(魄)を祀り、年々に祭祀を行って死者を想う、の意。▲
『孝経』喪親「生事愛敬。死事哀戚(生けるには事えて愛敬し、死せるには事えて哀戚す)」、先の一節に連続。生きているうちは愛敬をもって接し仕え、死したならば哀戚をもって(祭祀して)仕える、の意。▲
『史記』魯周公世家「旦巧能多材多藝。能事鬼神(旦、巧みにして能く多材多芸なり。能く鬼神に事う)」の引用。周公旦は有能であって多才多芸であり、よく鬼神の祭祀を行う、の意。
この記述はまた『尚書』(『書経』)金滕に「以旦代某之身。予仁若考能。多材多藝。能事鬼神」に依る。▲
『老子道徳経』巻下 第五十二「天下有始、可以爲天下母。既得其母、以知其子。既知其子、復守其母、没身不殆(天下に始め有り。以て天下の母と為すべし。既に其の母を得て以て其の子を知る。既に其の子を知り、復た其の母を守らば身を没うるまで殆うからず)」を引いた一節。世界には始まりがある。それを天下の母とする。その母(という根源)を知り得たならばその子(たる万物)を知る。その子を知ってまたその母を守ったならば、死に至るまで危ういことはない、の意。▲
『老子道徳経』巻下 第五十二「見小曰明。守柔曰強。用其光。復歸其明。無遺身殃(小を見るを明と曰い、柔を守るを強と曰う。其の光を用て復た其の明に歸せば、身の殃を遺すこと無し)」の引用。微細(なる真理)を見ることを明と言い、柔(なる境涯)を守ることを強という。その光をもってまたその明に帰したならば、身体的災禍に見舞われることはない、の意。▲
太鼓のバチ。打楽器の打奏具。▲
『論語』八佾第三「夷狄之有君。不如諸夏之亡也」の引用。この一節は読み様によっては全く異なる二つの意味に解すことが出来、どちらの意味で解すべきか議論のあるところである。
その一つ目は「夷狄の君有るは、諸夏の亡きに如かず」と読み、野蛮なる外夷に君主があったとしても、夏(中華)の諸国に君主が無いのにすら及びはしないの意で、いわゆる華夷思想に基づいた語。夏は世界の中心(中華)であり、その周囲の異民族による諸外国は非文化的蛮夷の地でしかなかった。
二つ目は「夷狄の君有るは、諸夏の亡きが如くならず」と読み、野蛮なる外夷にさえ君主があるのに、夏の諸国には(主はあっても)君主たる者が存在していないようだの意。この場合、孔子は支那の諸国に聖人・君主たる者が無く、乱れていることを嘆いた言葉。ここでは文脈からして、当時は前者の意味として理解されていたと考えて間違いない。▲
春秋時代の人。宋から滕に至って許行(次項に解説)に出会って感激し、従来の学問を捨ててその説を奉じた。孟子から許行の説を奉じることを盛んに批判された。▲
春秋時代の思想家で、諸子百家のうち農家(農政学派)。楚から滕に来たって文公より土地を与えられ、そこで仲間とともに農耕と機織りに従事した。そして農業神とされた神農を奉じ、為政者も民も等しく生産に従事すべきこと(君民並耕)を説き、農業を重視した経済政策を主張した。
孟子は社会の分業と上下の秩序を明確にしてこそよく治世が果たされると考えていたため、そのような許行の思想を奉じる陳相を孟子は許せず、君臣の秩序を乱すものとして非常に激しく批判した。▲
『孟子』藤文公「吾聞用夏變夷者。未聞變於夷者也(吾れ夏を用て夷を変ずる者を聞く。未だ夷に変ぜらる者を聞かず)」。私は夏が蛮夷なる外国を啓蒙したことは聞いているが、いまだ蛮夷なる外国によって(夏が)啓蒙されたことなど聞いたことはない、との意。あくまで夏こそ最も文化的な地であって、その周囲に文化・文明などあるわけが無い、というやはり華夷思想に基づいた言葉。▲
二十歳。古代支那において弱とは二十歳のことであり、二十歳となると元服して冠をつけたことから弱冠という。▲
仏教。西域から伝えられた外来思想であった仏教は、あくまで「夷狄の術」でしかなく、そこに明知などあるわけはなく、あってはならなかった。▲
古代の支那人が東方にあると考えていた九つの未開野蛮な国・地方。畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷・黄夷・白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷。▲
『論語』子罕第九「子欲居九夷。或曰陋如之何。子曰君子居之。何陋之有(子、九夷に居らんと欲す。或が曰く、陋しきこと之を如何せんと。子曰く、君子之に居らば何の陋しきか之有らん)」からの引用。ある時、孔子が東方蛮夷の九夷に行ってみたいと考えていた。そこである者が、そんな卑しい地でどうされるのですかと問う。すると孔子は、もし君子がそこに居たならば何の卑しいことがあろうか、と答えたという。ここで牟子は、孔子が必ずしも特定の国や地方が卑しいのでなく、そこでの行いの如何、治世や文明の有無によって、蛮夷であるか否かを判断していたとする根拠としてこの一節を出している。▲
舜から譲位されて夏王朝の始祖(初代帝王)となったとされる禹は漢民族でなく、西羗(羌)すなわちチベット民族の出であって、華夷思想からすれば西夷の人であった。▲
舜の実父。盲目であって非常に愚かで頑な、すなわち頑嚚(がんぎん)であったといわれる。▲
春秋時代の人。先祖は晋の人であったが西戎(せいじゅう)に逃れており、戎にて育ってその王に仕えた。秦の穆公の様子を探るために派遣されると、むしろ穆公からその才を認められ、ついに招聘され秦に帰参。そこで穆公は由余の策を用いて西戎を倒し、覇権を握った。▲
周文王の子で、武王と周公旦の下の二人の弟、管叔(管叔鮮)と蔡叔。殷の紂王を武王が倒した後、それぞれ管と蔡に封じられたためその名がある。武王没後、その子の成王が即位するもまだ幼いため周公旦が摂政に就いたが、管叔と蔡叔は周公旦が謀反して王位を簒奪するのではないかと疑い、むしろ自身たちが紂王の子、武庚(ぶこう)を戴いて反乱を起した。結果、反乱は周公旦によって鎮圧され、武庚と管叔は処刑。蔡叔は流罪となったがその先で死んだ。▲
典拠未詳。▲
『太子須大拏経』の所説と本文の一節はよく符合する。しかし、『太子須大拏経』は牟子からおよそ一世紀半から二世紀後の、西秦の聖堅による翻訳とされるため時代が合わない。あるいは支謙訳『頼吒和羅経』の可能性もあるが、これは後代の編集の手が加えられた痕跡であろうか。▲
須大挐は[S/P]Sudānaの音写で、 釈尊が菩薩として修行している前世において太子であったときの名。
『太子須大拏経』「太子以國中却敵之寶象。布施怨家。王聞愕然。臣復白王。今王所以得天下者。有此象故。此象勝於六十象力。而太子用與怨家。恐將失國當如之何。太子如是自恣布施中藏日空。臣恐擧國及其妻子皆以與人」(T3, p.419c)▲
礼儀に背くこと。背礼。▲
道徳に背くこと。背徳。▲
周王朝の始祖、古公亶父。文王の祖父。▲
文王の名。▲
季歴。太王(古公亶父)の三男。太王には長男太伯・次男虞仲があって、本来ならば太伯がその跡を継ぐべきであったが、三男季歴の子であった昌(文王)に抜群の才覚があることを認め、季歴を後継者とするのが最も良いと考えた。その思いを察した太伯と虞仲は弟に跡を継がせるべく自ら出奔して南に向かい、髪を切り入れ墨を入れてもはや後継者として相応しくないことを示した。後、そこで呉の創始者となった。▲
『孟子』萬章「萬章問曰。詩云娶妻如之何。必吿父母。信斯言也。宜莫如舜。舜之不吿而娶。何也。孟子曰。吿則不得娶。男女居室。人之大倫也。如吿則廢人之大倫以懟父母。是以不吿也(萬章問て曰く、詩に云く、妻を娶るは之を如何せん。必ず父母に告ぐと。斯の言を信ぜば、舜の如く莫かるべし。舜の吿げずして娶るは何ぞや。孟子曰く、吿ぐれば則ち娶るを得ず。男女室に居るは人の大倫なり。如し吿ぐれば則ち人の大倫を廢し、以て父母を懟む。是を以て吿げざるなり)」に基づき引いた一節。
ここで言及される「詩」とは『詩経』国風・斉風「南山」にある「取妻如之何。必告父母(妻を取るは之を如何せん。必ず父母に継ぐ)」の一句。▲
舜が両親に告げることなく二人の女と結婚していたこと。その二人の女とは堯の二人の娘、娥皇(がこう)と女英(じょえい)で、その結婚は堯の意向によるものだった。堯から禅譲を受けて帝位に就くと、二人はそれぞれ后と妃となった。二人は舜が蒼梧(牟子が一時期隠れた地)にて没すると、二人はその後を追って自殺したとされる。▲
夏末から殷にかけての人。料理人であってその道を極めようとしていたが、殷の湯王のもとに自ら参じて料理の道を説き、(何故か)宰相に取り立てられて政治家となった。▲
殷の始祖、湯王(とうおう)。姓名は子履。成湯・成唐、武湯・武王などとも称される。結果的に夏の最後の帝王となる桀(けつ)が暴政を布いて民を苦しめていたため、伊尹の補佐のもとこれを倒して殷を建てたとされる。▲
春秋時代の人。もと牛飼いであって餌をやりつつその角を叩きながら詩を歌っていたところ、偶然その詩を聞いた齊(斉)の桓公に見出されて仕官した。後、桓公の名宰相、管仲を補佐して齊が覇権を握る一助となった。▲
春秋時代の斉の君主、桓公(小伯)。春秋時代における五覇の一人に数えられ、当時最も権勢を誇った。しかし晩年、傲慢となって自ら天子となろうとして諸侯の離反を誘い、また宰相管仲の死後にその助言を無視した政治を行ってついにその権威を権力も失って死んだ。▲
禮とは『礼記』で、その曲礼上に「男女不雜坐。不同椸枷。不同巾櫛。不親授(男女は雑坐せず、椸枷を同じくせず、巾櫛を同じくせず、親しく授けず)」とあるのに基づく。▲
嫂とは兄嫁。『孟子』離婁上「淳于髡曰。男女授受不親禮與。孟子曰禮也。曰嫂溺則援之以手乎。曰嫂溺不援。是豺狼也。男女授受不親禮也。嫂溺援之以手者權也(淳于髡曰く、男女授受するに親せざるは礼か。孟子曰く、礼なり。曰く、嫂溺るれば則ち之れを援くるに手を以てせんか。曰く、嫂溺れて援けざるは是れ豺狼なり。男女授受するに親せざるは礼なり。嫂溺れて之れを援くるに手を以てするは権なり)」からの引用。▲
『詩経』小雅・小旻之什「不敢暴虎。不敢馮河。人知其一。莫知其他。戦戦兢兢。如臨深淵。如履薄氷(敢えて暴虎せず。敢えて馮河せず。人其の一つを知りて、知其の他を知る莫し。戦戦兢兢として深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し)」の転用。持戒を守ることは「深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如」くに極めて慎重であるべきことの謂。
この一節はまた、『論語』に「曾子有疾。召門弟子曰。啓予足啓予手。詩云戰戰兢兢如臨深淵。如履薄冰。而今而後。吾知免夫。小子(曾子疾有り。門弟、子を召して曰く、予が足を啓け、予が手を啓け。詩に云わく、戦戦兢兢として深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如しと。今よりして後、吾免るることを知るかな、小子)」とあって、曾子が死の間際に引いていたものとして出されている(前出)。▲
仏教伝来して後、支那でも沙門(仏教僧)となる者が現れ始めていたが、それは形ばかり・名ばかりのものであって本来の僧として威儀・行儀などまったく備えていなかったようである。同じく牟子に近い年代における沙門らの様相を伝えるものとして、慧皎『高僧伝』がある。その巻一の「曇柯迦羅伝」には「以魏嘉平中來至洛陽。于時魏境雖有佛法而道風訛替。亦有衆僧未禀歸戒。正以剪落殊俗耳。設復齋懺事法祠祀(魏嘉平中を以て洛陽に來至す。時に魏境、佛法有りと雖も道風訛替す。亦た衆僧有れども未だ歸戒を禀けず。正だ剪落を以て俗に殊なるのみ。設え復た齋懺の事には祠祀を法すのみ)」(T50. p.324c)とあって、ただ頭を剃って(俗とは異なる衣を着)、祭祀を行うだけであったというが、それは『理惑論』に見られる記述と齟齬せず一致するものである。
というのも、当時は未だ戒も律も支那に伝来、すなわちその典拠となる仏典の翻訳がなされていなかったためであった。おそらく印度や胡国など西域からの渡来僧がわずかばかりその枠内で印度での風儀を行うのみであって、それが支那人の僧に継承されてはいなかった。▲
底本には「大」が無いが異本により付加した。その根拠は、これがおそらく『老子道徳経』第十八の「大道廃有仁義。智慧出有大偽(大道廃れて仁義有り。智慧出でて大偽有り)」を念頭にした批判であったろうと思われるためである。
仏教が持戒のすこぶる重んずべきことを言い、また形式に拘りはしない智をこそ尊んで無為を目指すものでありながら、その沙門がまったく戒も持せず、酒を飲んで妻帯し、諸々の経済活動に従事していることは紛れもなく偽りであり、それはまさに老子の言った「智慧出でて大偽有り」であろう、とした批判。
これは牟子が予想される批判として想定し設けたものではなく、おそらくは当時、実際になされていた仏教側への批判であったろうことは想像に難くない。そのような批判に対し、牟子はその事実を全く認めつつ、大局的観点からそれへの反論を展開している。▲
公輸般(こうしゅはん)。公輸班・魯般(ろはん)、あるいは公輸般(こうゆはん)とも。春秋時代、魯の工匠。楚のために高い城壁を攻略する攻城戦用の戦具「雲梯(うんてい)」を開発し、宋を攻略しようとしたとされる。しかし、その噂を聞いた墨子が来訪し、模擬戦闘を行ったところことごとく墨子の戦術によって防がれ、宋の攻略を諦めたとされる(『墨子』公輸篇)。後に工匠・建築の祖神として祀られた。▲
舜と兎に仕えたという伝説的人物。獄の長(今で言う司法長官あるいは大臣)となり、五刑をはじめとする諸々の刑罰を制定したという。▲
古代支那において一定以上の重い犯罪に対して行われた、墨(入れ墨)・劓(鼻削ぎ)・剕(足切り)・宮(去勢・女子は幽閉)・大辟(断頭)の五つの刑罰。▲
曾参(そうしん)と閔損(びんそん)。支那古代の特に孝に優れていたと数え上げられた二十四孝の人。曾参は孔子の弟子で『孝経』を編纂した人。閔損もまた孔子の弟子とされる孔門十哲の一人。▲
堯の実子。不肖の子、すなわち非常に出来の悪い人であったとされ、故に堯は舜に譲位した。当初舜は実子でない自分に禅譲されたことを良しとせず、堯の喪が明けた三年後に丹朱に帝位を譲って隠棲しようとしたが民が許さず、結局舜はそのまま帝位に就くこととなった。▲
堯(陶唐氏)の教え・訓戒。▲
周公旦による政道。▲
六経(りくけい)に同じ。すなわち『詩経』・『書経』・『礼記』・『楽』 ・『易経』・『春秋』の、儒家における六種の経典(『史記』・『漢書』に拠る)。
あるいは周代において卿大夫以上の者は身に備えることが必修とされた、礼(威儀作法)・楽(奏楽)・射(弓術)・御(馬術)・書・数(算数)の六種の学問・技芸(『周礼』に拠る)。▲
古代支那の河(黄河)の神。『史記』の一説には、黄河で溺れ死んだ人が神となったものであり、同じく河の神の馮夷(ひょうい)に同じという。▲