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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

牟融『理惑論』 (『牟子理惑論』)

原文

《第廿五》
問曰吾子以經傳理佛之說其辭富而義顯其文熾而說美得無非其誠是子之辯也牟子曰非吾辯也見博故不惑耳問曰見博其有術乎牟子曰由佛經也吾未解佛經之時惑甚於子雖誦五經適以爲華未成實矣既覩佛經之說覽老子之要守恬淡之性觀無爲之行還視世事猶臨天井而闚溪谷登嵩岱而見丘垤矣五經則五味佛道則五穀矣吾自聞道巳來如開雲見白日矩火入冥室焉

《第廿六》
問曰子云經如江海其文如錦繍何不以佛經答吾問而復引詩書合異爲同乎牟子曰渇者不必須江海而飮飢者不必待敖倉而飽道爲智者設辯爲達者通書爲曉者傳事爲見者明吾以子知其意故引其事若說佛經之語談無爲之要譬對盲者說五色爲聾者奏五音也師曠雖巧不能彈無絃之琴狐狢雖熅不能熱無氣之人公明儀爲牛彈清角之操伏食如故非牛不聞不合其耳矣轉爲蚉蝱之聲孤犢之鳴卽掉尾奮耳蹀躞而聽是以詩書理子耳

《第廿七》
問曰吾昔在京師入東觀遊太學視俊士之所規聽儒林之所論未聞修佛道以爲貴自損容以爲上也吾子曷爲躭之哉夫行迷則攺路術窮則反故可不思歟牟子曰夫長於變者不可示以詐通於道者不可驚以怪審於辭者不可惑以言達於義者不可動以利也老子曰名者身之害利者行之穢又曰設詐立權虗無自貴修閨門之禮術時俗之際會赴趣間隙務合當世此下士之所行中士之所廢也況至道之蕩蕩上聖之所行乎杳兮如天淵兮如海不合闚墻之士數仞之夫固其宜也彼見其門我覩其室彼採其華我取其實彼求其𠏆我守其一子速攺路吾請履之故禍福之源未知何若矣

《第廿八》
問曰子以經傳之辭華麗之說褒讚佛行稱譽其德高者凌靑雲廣者踰地圻得無踰其本過其實乎而僕譏刺頗得疹中而其病也牟子曰吁吾之所褒猶以塵埃附嵩泰收朝露投江海子之所𧩂猶握瓢觚欲減江海躡耕耒欲損崑崙側一掌以翳日光擧土塊以塞河衝吾所褒不能使佛高子之毀不能令其下也

《第廿九》
問曰王喬赤松八仙之籙神書百七十卷長生之事與佛經豈同乎牟子曰比其類猶五霸之與五帝陽貨之與仲尼比其形猶丘垤之與華恒涓瀆之與江海比其文猶虎鞹之與羊皮斑紵之與錦繍也道有九十六種至於尊大莫尚佛道也神仙之書聽之則洋洋盈耳求其效猶握風而捕影是以大道之所不取無爲之所不貴焉得同哉

訓読

《第廿五》
問て曰く、吾子は經傳けいでんを以て佛の說をととのふ。其れことばとんで義、あらわれ、其れ文、さかんにして說、美なり。其れ誠に是れ子のべんに非ざる無きを得ん。
牟子曰く、吾が辯には非ざるなり。見ひろきが故に惑はざるのみ。
問て曰く、見博きに其れすべ有りや。
牟子曰く、佛經に由るなり。吾れ未だ佛經を解せざるの時、惑ふこと子よりも甚し。五經ごけいを誦したまたま以て華と爲すと雖も、未だ實と成さず。既に佛經の說を、老子の要を恬淡かったんの性を守り、無爲の行をかえって世事をるに、猶ほ天井てんじょうに臨んで溪谷をうかがひ、嵩岱すうたいに登て丘垤きゅうてつを見るがごとし。五經ごけいは則ち五味ごみ、佛道は則ち五穀ごこくなり。吾れ道を聞てより巳來、雲を開きて白日はくじつを見、矩火きょかを以て冥室めいしつに入るが如し。

《第廿六》
問て曰く、子云く、經は江海こうかいの如く其の文は錦繍きんしゅうの如しと。何ぞ佛經を以て吾が問に答へざる。而も復た詩書を引き、異を合して同と爲すや。
牟子曰く、渇したる者は必ずしも江海を須たずして飮み、飢えたる者は必ずしも敖倉ごうそうを待たずして。道は智者の爲にもうけ、辯は達者たっしゃの爲に通ず。書は曉者ぎょうしゃの爲に傳へ、事は見者けんしゃの爲に明す。吾は子が其の意を知るを以ての故に其の事を引く。若し佛經の語を說き、無爲の要を談ぜば、譬へば盲者に對して五色ごしょくを說き、聾者の爲に五音ごいんを奏するがごとし。師曠しこうは巧なりと雖も無絃の琴を彈ずること能はず。狐狢こらくいきれりと雖も無氣の人を熱すること能はず。公明儀こうめいぎは牛の爲に清角せいかくそうを彈ずれば、伏してむこともとの如し。牛の聞かざるに非ず。其の耳に合はざるなり。轉じて蚉蝱ぶんぼうの聲、孤犢ことくの鳴を爲せば、卽ち尾をふるひ、耳をふるっ蹀躞ちょうしょうして聽く。是れ詩書を以て子をさとすのみ。

《第廿七》
問て曰く、吾れ昔、京師けいしに在り。東觀とうかんに入り太學たいがくに遊び、俊士しゅんしる所を視、儒林の論ずる所を聽く。未だ佛道を修むるを以て貴しと爲し、自らかたちそこねるを以て上と爲すことを聞かず。吾子は曷爲なんすれぞ之にふけるや。夫れ行きて迷へば則ち路を攺め、みちきゅうすれば則ち反故ほうぐす。思はざるべけんや。
牟子曰く、夫れへんに長ずる者は示すにいつわりを以てすべからず。道に通じる者は驚かすに怪を以てすべからず。ことばつまびらかにする者は惑はすに言を以てすべからず。義に達する者は動かすに利を以てすべからず。老子曰く、がいぎょうなりと。又曰く、いつわりもうけんを立つれば、虗無きょむ自ら貴しと。閨門けいもん禮術れいじゅつ、時俗の際會さいかいを修め、間隙かんげき赴趣ふしゅして、務めて當世に合するは、此れ下士の行ふ所。中士の廢する所なり。況や至道の蕩蕩とうとう、上聖の行ふ所をや。ようとして天の如く、えんとして海の如し。闚墻きしょう數仞すうじんに合はざるは、もとより其れむべなり。彼は其の門を見て、我は其の室を覩る。彼は其のはなを採て、我は其のを取る。彼は其の𠏆そなへを求めて、我は其の一を守る。子はすみやかにみちを攺めよ。吾は請ふ、之を履まんことを。故より禍福かふくみなもとは未だ何若いかんかを知らざるなり。

《第廿八》
問て曰く、子は經傳の辭、華麗の說を以て、佛の行を褒讚ほうさんし、其の德を稱譽す。高きは靑雲をしのぎ、廣きは地圻ちきを踰ゆ。其の本を踰え、其の實を過ぐる無きを得んか。而して僕の譏刺きしすこぶしん、中して其の病を得たらん。
牟子曰く、ああ、吾の褒むる所は猶ほ塵埃じんあいを以て嵩泰すうたいに附し、朝露あさつゆを收めて江海に投ずるがごとし。子の𧩂そしる所は、猶ほ瓢觚ひょうこを握りて江海を減ぜんと欲し、耕耒こうらいを躡みて崑崙こんろんを損なはんと欲し、一掌をそばめて以て日光をかくし、土塊つちくれを擧て以て河衝かしょうふさぐがごとし。吾が褒むる所は佛をして高からしむること能はず。子の毀りは其れをして下らしむること能はざるなり。

《第廿九》
問て曰く、王喬おうきょう赤松せきしょう八仙はっせんの籙、神書しんしょ百七十卷長生ちょうせいの事と佛經、豈に同じからんや。
牟子曰く、其の類を比すれば猶ほ五霸ごはと五帝と、陽貨ようか仲尼ちゅうじとのごとし。其の形を比すれば猶ほ丘垤きゅうてつ華恒かこうと、涓瀆けんとくと江海とのごとし。其の文を比すれば猶ほ虎鞹こかくと羊皮と、斑紵はんちょと錦繍とのごとし。道に九十六種くじゅうろくしゅ有り。尊大に至ては佛道よりたっときは莫し。神仙の書はこれけば則ち洋洋ようようとして耳につ。其のこうを求むればほ風をにぎって影をとらふるがごとし。是を以て大道の取らざる所、無爲の貴ばざる所なり。いずくんぞ同じきを得んや。

脚註

  1. 經傳けいでん

    儒教の聖人により編纂された聖典である経書(けいしょ)と、後世の賢者による「伝」すなわちその注釈書。

  2. 天井てんじょう

    高い山の上にある井泉。家屋の天井ではない。
    『山海経』中山経「又東南五十里。曰視山。其上多韭。有井焉。名曰天井(また東南五十里、山を視て曰く、其の上に韭多く、井有り。名けて天井と曰ふ)」に基づく語。

  3. 嵩岱すうたい

    嵩山と岱山(泰山)。いずれも五岳の一。

  4. 丘垤きゅうてつ

    蟻塚。

  5. 五經ごけいは則ち五味ごみ、佛道は則ち...

    五味とは甘・酸・辛・苦・鹹の基本的味、五穀は麻・麦・稗・米・豆など重要な穀物。ここで牟子が儒教(五経)を五味に譬えて仏教を五穀に喩えたのは、五味は味わえるもので食に大切な要素ではあるが五穀はなくてはならないものであることにかけ、仏教がより根源的でより重要なものであるとの謂。
    牟子はここに老子を持ち出していないが、この篇の記述からは、牟子が儒教の経伝よりも老子をより価値あるものだと考えていたことが知られる。しかしその老子よりも仏教がさらに価値あるものだと、牟子は考えていた。

  6. 敖倉ごうそうを待たずして飽く

    敖倉は秦の始皇帝において存した敖山の穀倉。『淮南子』説林訓「近敖倉者。不爲之多飯(敖倉に近き者、之が爲に多く飯はず)」に基づく。豊かな穀倉が近くにあるからといって、食べる量がそれで増えるわけではないこと。牟子はこの『淮南子』の説話に基づき、さらに転じて、食を取るのにわざわざ敖倉に行く必要はなく、手近な物を食べれば充分事は足りる、との意でこう云っている。

  7. 達者たっしゃ

    学問や技芸に通じた人、達人。

  8. 師曠しこう

    春秋戦国時代の晋の音楽家。楚と鄭の戦いにおいて、両国の歌謡を自ら歌ってみたところ、その調子の勢いが「南風競わず」と楚の国のほうが弱いことからその勝敗を予言したとして知られる人。

  9. 狐狢こらく

    キツネとムジナ。

  10. 公明儀こうめいぎ

    『孟子』に魯の賢人として記される人。

  11. 清角せいかくそう

    清角は黄帝の奏した音または殷で作られた曲名、あるいは美しい音と調子の曲の謂。あるいは師曠が作曲した「白雪」の異名とされる。いずれにせよ至高の音楽を意味した語。

  12. 蚉蝱ぶんぼう

    蚊と虻。『淮南子』俶真訓に、牛の話は出ないものの清角と蚊虻とを比して言う一節がある。

  13. 孤犢ことく

    親を亡くした仔牛。

  14. 蹀躞ちょうしょう

    小股でちょこちょこと歩くさま。にぎやかに往来する様子。

  15. 東觀とうかん

    漢代における宮中の蔵書を扱う所。官の図書館。

  16. 太學たいがく

    大学に同じ。漢代における国の最高学府。

  17. 俊士しゅんし

    庶人の子弟で、特に勉学に優れて道徳あることから、太学に入学を認められた者。

  18. がいぎょうなり

    該当する一節は『老子道徳経』に存しない。

  19. いつわりもうけんを立つれば、虗無きょむ...

    これも該当する一節が『老子道徳経』にない。

  20. 閨門けいもん

    既出。寝室の入り口。転じて夫婦の間、家庭の謂

  21. 際會さいかい

    婚礼の見合いなどの会合。あるいは臣下が君主に出会うこと。ここでは単に「人との交際」「人付き合い」といった意であろう。

  22. 闚墻きしょう

    垣根の僅かな隙間から覗き見ること。視野が狭く、見識の低いことの謂。管見に同じ。

  23. 數仞すうじん

    仞は古代支那における長さの単位。一仞は四尺、五尺六寸、七尺などと諸説ある。
    「闚墻の士」から続くこの一節は、『論語』子張第十九「叔孫武叔。語大夫於朝曰。子貢賢於仲尼。子服景伯。以告子貢。子貢曰。譬之宮牆。賜之牆也及肩。闚見室家之好。夫子之牆數仞。不得其門而入。不見宗廟之美。百官之富。得其門者或寡矣。夫子之云。不亦宜乎(叔孫武叔、大夫に朝に語りて曰く、子貢は仲尼より賢れり。子服景伯、以て子貢に告ぐ。子貢曰く、之を宮牆に譬ふれば、賜の牆や肩に及ぶ。室家の好きを闚ひ見る。夫子の牆は數仞、其の門を得て入らざれば、宗廟の美、百官の富を見ず。其の門を得る者、或は寡し。夫子の云ふこと、亦た宜ならずや)」に基づいた表現。

  24. 禍福かふくみなもと

    『老子道徳経』巻下 第五十八「禍兮福之所倚。福兮禍之所伏。孰知其極(禍は福の倚る所。福は禍の伏する所。孰か其の極みを知らん)」に基づく語。

  25. 地圻ちき

    圻は畿に同じ。王城を中心とした千里四方の地。

  26. しん

    診察すること。

  27. 耕耒こうらい

    鋤。土を掘り、畑を耕すための農具。

  28. 王喬おうきょう

    支那の神仙であったとされる人(『王氏神仙伝』)。神仙とは不老不死にして神力を備えているとされる人。

  29. 赤松せきしょう

    支那の神仙であったとされる人(『列仙伝』)。

  30. 八仙はっせん

    支那で古来仙人であるとされた八人。呂洞賓、李鉄拐、漢鍾離、張果老、藍采和、曹国舅、韓湘子、何仙姑。

  31. 神書しんしょ百七十卷

    于吉(うきつ)の『太平清領書』百七十巻。道教の『太平経』の原型であるとも言われる道教最初期の文献。『後漢書』郎顗襄楷列伝に「順帝時。瑯邪宮崇詣闕。上其師干吉於曲陽泉水上所得神書百七十卷」とある。

  32. 五霸ごは

    春秋戦国時代における五人の覇者。覇道(武力)によって他を圧倒した五人。斉の桓公、晋の文公、秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王など(後者の三名は様々に挙げられ一定しない)。

  33. 陽貨ようか

    陽虎。春秋戦国時代の政治家。孔子と同時代の魯の人で、容貌が非常に似ていたといわれる。しかし、その経歴は儒教とは真反対の、造反や不義を繰り返すものであった。

  34. 華恒かこう

    華山と恒山。いずれも五岳の一。

  35. 涓瀆けんとく

    どぶ。排水溝。

  36. 虎鞹こかく

    毛を取り払った虎の革。

  37. 斑紵はんちょ

    質の悪い麻織物。

  38. 道に九十六種くじゅうろくしゅ有り

    一般的には釈尊在世当時の六師外道と、それぞれにあったという十五人の弟子の思想を総じて数えて九十六種外道という。外道とは、仏教外の思想・宗教の意。
    もっとも、これはおそらく日本の中世においての説であって本稿に関係しないが、九十六種の中に仏教を交え、仏教と九十五種の外道とする説も存ずる(凝然『浄土法門源流章』)が、何に基づいたものか今のところ不明。牟子はこの九十六種の中に仏教を交えて考えているようであるが、あるいは当時、そのような説が支那においてもあったか?

  39. これけば則ち洋洋ようようとして耳に...

    『漢書』郊祀志「聽其言。洋洋滿耳。若將可遇。求之。盪盪如係風捕景。終不可得」に基づく一節。

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