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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

牟融『理惑論』 (『牟子理惑論』)

原文

《第丗》
問曰爲道者或辟穀不食而飮酒啖肉亦云老氏之術也然佛道以酒肉爲上戒而反食穀何其乖異乎牟子曰衆道叢殘凡有九十六種澹泊無爲莫尚於佛吾觀老氏上下之篇聞其禁五味之戒未覩其絶五穀之語聖人制七典之文無止糧之術老子著五千之文無辟穀之事聖人云食穀者智食草者癡食肉者悍食氣者壽世人不達其事見六禽閉氣不息秋冬不食欲效而爲之不知物類各自有性猶礠石取鐵不能移毫毛矣

《第丗一》
問曰穀寧可絶不牟子曰吾未解大道之時亦𠹉學焉辟穀之法數千百術行之無効爲之無徴故廢之耳觀吾所從學師三人或自稱七百五百三百歳然吾從其學未三載間各自殞沒所以然者蓋由絶穀不食而啖百果享肉則重盤飮酒則傾罇精亂神昏穀氣不克耳目迷惑婬邪不禁吾問其故何答曰老子云損之又損以至於無爲徒當日損耳然吾觀之但日益而不損也是以各不至知命而死矣且堯舜周孔各不能百載而末世愚惑欲服食辟穀求無窮之壽哀哉

《第丗二》
問曰爲道之人云能却疾不病弗御鍼藥而愈信有之乎何以佛家有病而進鍼藥耶牟子曰老子云物壯則老謂之不道不道早巳唯有得道者不生亦不壯不壯亦不老不老亦不病不病亦不朽是以老子以身爲大患焉武王居病周公乞命仲尼有疾子路請禱吾見聖人皆有疾矣未覩其無病也神農𠹉草殆死者數十黄帝稽首受鍼於岐伯此之三聖豈當不如今之道士乎察省斯言亦足以廢矣

《第丗三》
問曰道皆無爲一也子何以分別羅列云其異乎更令學者狐疑僕以爲費而無益也牟子曰倶謂之草衆草之性不可勝言倶謂之金衆金之性不可勝言同類殊性萬物皆然豈徒道乎昔楊墨塞羣儒之路車不得前人不得歩孟軻闢之乃知所從師曠彈琴俟知音之在後聖人制法冀君子之將覩也玉石同匱猗頓爲之於悒朱紫相奪仲尼爲之歎息日月非不明衆陰蔽其光佛道非不正衆私掩其公是以吾分而別之臧文之智微生之直仲尼不假者皆正世之語何費而無益乎

《第丗四》
問曰吾子訕神仙抑奇怪不信有不死之道是也何爲獨信佛道當得度世乎佛在異域子足未履其地目不見其所徒觀其文而信其行夫觀華者不能知實視影者不能審形殆其不誠乎牟子曰孔子曰視其所以觀其所由察其所安人焉廋哉昔呂望周公問於施政各知其後所以終顏淵乘駟之日見東野車之馭知其將敗子貢觀邾魯之會而昭其所以喪仲尼聞師曠之絃而識文王之操季子聽樂覽衆國之風何必足履目見乎

訓読

《第丗》
問て曰く、道を爲す者は或は辟穀ひこくして食らはず。而して酒を飮み肉をふ。亦た云く、老氏ろうしみちなりと。然るに佛道ぶつどう酒肉しゅにくを以て上戒じょうかいと爲しかえって穀を食ふ。何ぞ其れ乖異かいいなるや。
牟子曰く、衆道しゅどう叢殘そうざんに凡そ九十六種くじゅうろくしゅ有り。澹泊無爲は佛よりたっときは莫し。吾れ老氏上下の篇を、其の五味ごみを禁じるのかいを聞く。未だ其の五穀を絶つ語をず。聖人は七典しちてんの文を制するも止糧のわざ無し。老子は五千ごせんの文を著すも、辟穀の事無し。聖人云く、こくくらふ者はくさを食ふ者は、肉を食ふ者はかん、氣を食ふ者はじゅと。世人、其の事に達せず。六禽りくきん閉氣へいきして息せず、秋冬食はざるを見て、ならふて之を爲さんと欲す。物類おのおの自性有り。猶ほ礠石じせきてつを取るも、毫毛ごうもうを移すこと能はざるがごときを知らざるなり。

《第丗一》
問て曰く、穀は寧ろ絶つべきや不や。
牟子曰く、吾れ未だ大道を解せざるの時、亦た𠹉かつて學べり。辟穀の法は數千百術、之を行ふも効無く、之を爲すもしるし無し。故に之を廢せるのみ。吾が從ふ所の學師三人をるに、或は自ら七百、五百、三百歳と稱す。然るに吾れ其の學に從て未だ三載さんさいならざるの間、各自ら殞沒いんぼつせり。然る所以ゆえんは、蓋し穀を絶し食はずして百果をくらふに由る。肉をうければ則ちさらを重ね、酒を飮めば則ちもたひを傾く。精みだれ、神くらく、穀氣たず。耳目じもく迷惑して婬邪じゃいん禁ぜず。吾れ其の故は何ぞやと問へば、答へて曰く、老子云く、これそんし、又損し、以て無爲むいに至ると。だ當に日に損すべきのみ。然るに吾れ之を觀るに、但だ日にして損せざるなり。是を以て各知命ちめいに至らずして死す。且つ堯・舜・周・孔すら各百載なるに能はず。而るを末世の愚惑ぐわく、服食辟穀して無窮むきゅうの壽を求む。哀しいかな。

《第丗二》
問て曰く、道を爲すの人云く、能くやまひしりぞけて病まず。鍼藥しんやくを御せずして愈ゆと。信に之有るか。何を以てか佛家、病有ては鍼藥を進むるや。
牟子曰く、老子云く、さかんなれば則ちゆ。之を不道ふどうと謂ふ。不道なれば早くと。唯だ得道の者のみ有りて不生にして亦た不壯ふそう、不壯にして亦た不老ふろう、不老にして亦た不病ふびょう、不病にして亦た不朽ふきゅうなり。是を以て老子は身を以て大患たいかんと爲し武王ぶおうやまひに居て周公しゅうこう命を乞ひ仲尼ちゅうじやまひ有て子路しろ禱らんことを請ふ。吾れ聖人に皆やまひ有ることを見る。未だ其のやまひ無きを覩ず。神農しんのう、草を𠹉むればほとんど死する者數十黄帝こうてい稽首けいしゅしてはり岐伯きはくに受く。此の三聖、豈に當に今の道士に如かざるべけんや。斯の言を察省さつしょうするも、亦た以て廢するに足らん。

《第丗三》
問て曰く、道は皆無爲にして一なり。子は何を以てか分別ふんべつ羅列られつして其の異を云ふや。更に學者をして狐疑こぎせしむ。僕以爲おもへらく、ついえにして無益なりと。
牟子曰く、倶に之を草と謂へども、衆草の性はげて言ふべからず。倶に之を金と謂へども、衆金の性は勝げて言ふべからず。同類にして殊性なり。萬物皆然り。豈に徒だ道のみならんや。昔、楊墨ようぼく羣儒ぐんじゅみちふさぎ、車すすむことを得ず、人は歩むことを得ず。孟軻もうか、之をしりぞけばすなわしたがふ所を知る師曠しこうことたんずるは知音ちいんの後に在るを。聖人の法を制するは、君子のまさに覩んとするをこひねがふなり。玉石ぎょくせきひつを同じくすれば、猗頓いとん、之が爲に於悒おゆう朱紫しゅし相ひ奪へば、仲尼ちゅうじ之が爲に歎息たんそく。日月、不明なるに非ず。衆陰、其の光をおおふなり。佛道、不正なるに非ず。衆私、其のおおやけおおふなり。是れを以て吾れ分て之を別とす。臧文ぞうぶんの智微生びせいちょく、仲尼のらざるは、皆な世を正すの語なり。何ぞ費にして無益ならんや。

《第丗四》
問て曰く、吾子は神仙をそしり奇怪をおさへ、不死の道有ることを信じざるはなり。何爲なんすれぞ獨り佛道を信じて當に世に得度とくどすべきか。佛は異域に在り。子の足、未だ其の地を履まず、目、其の所を見ず。徒だ其の文を觀て其の行を信ず。夫れはなを觀る者はを知ること能はず。影を視る者は形をつまびらかにすること能はず。殆ど其れ誠ならざらん。
牟子曰く、孔子曰く、其のもちひる所を、其のる所を、其のやすんずる所をさっす。人、いずくんぞかくさんやと。昔、呂望りょぼう周公しゅうこう施政しせいを問ひ、おのおの其の後、終る所以ゆえんを知り顏淵がんえん乘駟じょうしの日、東野とうやの車をぎょを見、其の將に敗れんとするを知る子貢しこう邾魯ちゅうろあふを觀て、其のうしな所以ゆえんあか仲尼ちゅうじ師曠しこうげんを聞て、文王ぶんおうそう季子きしがくを聽きて、衆國しゅこくふう。何ぞ必しも足履み、目見んや。

脚註

  1. 辟穀ひこく

    既出。五穀を断って食べないこと。五穀断ち。本『理惑論』にてこのように「辟穀」が複数回に渡って言及されることは、当時それを行う神仙思想が非常に流行し、巷間よく行わていた証とし得るであろう。そのような辟穀の思想は、今の日本にすら連綿と流れ続けているのである。

  2. 老氏ろうしみち

    ここでいわれる老子の術とは「神仙思想と習合した道教」であって、必ずしも老子の思想ではない。牟子もこの章にて指摘しているが、五穀断ちの術など『老子道徳経』には説かれない。

  3. 佛道ぶつどう酒肉しゅにくを以て上戒じょうかいと爲し

    仏教において特に制されるのは飲酒であって肉食については律において必ずしも制されておらず、また在家の五戒・八斎戒などにおいては制されない。上戒は「厳しく戒めること」の意であろうが、ここで牟子は何の経典に基づいて「酒肉を上戒」と言ったか今のところ不明。牟子の当時、支那には未だ律も菩薩戒も伝わっておらず、したがって現実に肉食を戒として制することが行われていたとは考え難いが、牟子がすでにこのような認識を持っていたことは、当時の仏教の実際を伺うにおいて示唆するところが大きい。

  4. 乖異かいい

    食い違っていること。逆であること。

  5. 叢殘そうざん

    残ったもの、残されたものの集まり。

  6. 九十六種くじゅうろくしゅ

    既出。仏教以外の思想・宗教の総称。元来はは釈尊在世当時の六師外道とそれぞれにあったという十五人の弟子の思想を総じて数えて(6×15+6=)九十六種外道といったもの。外道とは仏教外の思想・宗教。

  7. 五味ごみを禁じるのかい

    既出。『老子道徳経』巻上 第十二「五味令人口爽(五味は人の口をして爽わしむ)」。五味(甘・酸・辛・苦・鹹)は、ここでは「濃い味の食物」あるいは「上質の食物」の意であろうが、むしろ人の味覚を誤り惑わせるものであるとする一節。

  8. 七典しちてんの文

    七経(しちけい)。儒教における七つの経典(けいてん)。『詩経』・『易経』・『書経』・『礼記』・『周礼』・『春秋』・『孝経』。

  9. 五千ごせんの文

    『老子道徳経』。それがおよそ五千数百字によって綴られていることから『老子五千文』とも言う。既出

  10. こくくらふ者はくさを食ふ者は...

    『孔子家語』執轡「食水者善遊而耐寒。食土者無心而不息。食木者多力而不治。食草者善走而愚。食桑者有緒而蛾。食肉者勇毅而捍。食氣者神明而壽。食谷者智惠而巧。不食者不死而神(水を食ふ者は善く遊んで寒に耐ふ。土を食ふ者は心無くして息せず。木を食ふ者は力多くして治ず。草を食ふ者は善く走て愚なり。桑を食ふ者は緒有て蛾なり。肉を食ふ者は勇毅にして捍なり。氣を食ふ者は神明にして壽なり。谷を食ふ者は智惠にして巧なり。食はざる者は不死にして神なり)」に基づく一節。

  11. 六禽りくきん

    未詳。「閉気して息せず、秋冬食はざる」とは冬眠のことであろうから、支那における熊など冬眠する六種の動物のことではあろう。

  12. 殞沒いんぼつ

    死ぬこと。

  13. これそんし、又損し、以て無爲むいに...

    『老子道徳経』巻下 第四十八「爲學日益。爲道日損。損之又損。以至於無爲。無爲而無不爲。取天下常以無事。及其有事。不足以取天下(學を爲せば日に益し、道を爲せば日に損す。之を損して又た損し、以て無爲に至る。無爲にして爲さざるは無し。天下を取るは常に無事を以てす。及其有事。不足以取天下)」からの引用。

  14. 知命ちめい

    五十歳。『論語』為政「子曰。吾十有五而志于学。三十而立。四十而不惑。五十而知天命」に基づく。

  15. さかんなれば則ちゆ。之を...

    『老子道徳経』巻上 第三十「以道佐人主者。不以兵強天下。其事好還。師之所處。荊棘生焉。大軍之後。必有凶年。善者果而已。不以取強。果而勿矜。果而勿伐。果而勿驕。果而不得已。是謂果而勿強。物壯則老。是謂不道。不道早已(道を以て人主を佐くる者は、兵を以て天下を強いず。其の事は還るを好む。師の處る所は荊棘焉に生じ、大軍の後は必ず凶年有り。善くする者は果たして已む。以て強いるを取らず。果たして矜ること勿く、果たして伐ること勿く、果たして驕ること勿く、果たして已むを得ずという。是を果して強いる勿しと謂ふ。物は壯んなれば則ち老ゆ。是を不道と謂ふ。不道は早く已む)」からの一節。

  16. 身を以て大患たいかんと爲し

    既出。『老子道徳経』巻上 第十三「吾所以有大患者。爲吾有身。及吾無身。吾有何患(吾れに大患有る所以は、吾れに身有るが為なり。吾れに身無きに及びては、吾れに何の患ひ有らん)」を引いたもの。私に大きな災いがあり得るのは、私に身体があってこそのことである。私に身体が無くなったならば、私にどのような災いが有り得ようか、との意。

  17. 武王ぶおうやまひに居て周公しゅうこう命を乞ひ

    殷を倒して周王朝を建てた武王が重い病に罹ったとき、これを案じた弟の周公旦は、祖廟の三王(太王・王季・文王)に武王の病気平癒を自分の命と引換えに祈ったという故事に基づく一節。『書経(尚書)』金滕「公乃自以為功。為三壇同墠。為壇於南方。北面周公立焉。植璧秉珪。乃告太王王季文王。史乃冊祝曰。惟爾元孫某。遘厲虐疾。若爾三王。是有丕子之責于天。以旦代某之身(公乃ち自ら以て功を為り、三壇を為て墠を同じくし、壇を南方に為り、北面して周公立つ。璧を植き珪を秉り、乃ち太王・王季・文王に告ぐ。史乃ち冊を祝して曰く、惟れ爾の元孫某、厲虐の疾に遘ふ。若れ爾三王、是に丕子の責を天に有たば、旦を以て某の身に代へよ)」、あるいは『史記』周本紀「武王病。天下未集。群公懼穆卜。周公乃祓齋。自為質。欲代武王(武王病む、天下未だ集んぜず。群公懼れて穆卜す。周公乃ち祓齋し、自ら質と為り、武王に代わらんと欲す)」に拠る。

  18. 仲尼ちゅうじやまひ有て子路しろ禱らんことを...

    『論語』子罕第九「子疾病。子路請禱。子曰。有諸。子路對曰。有之。誄曰。禱爾于上下神祇。子曰。丘之禱久矣(子の疾、病なり。子路、禱らんと請ふ。子曰く、諸有りや。子路對て曰く、之有り。誄に曰く、爾を上下の神祇に禱ると。子曰く、丘の禱ること久し)」からの引用。ここでは儒教での「祈り」を問題としているのではなく、孔子も病に罹っていたことだけが取り沙汰されている。

  19. 神農しんのう、草を𠹉むればほとんど死する...

    『淮南子』修務訓「古者民茹草飲水。采樹木之實。食蠃蠬之肉。時多疾病毒傷之害。於是神農乃始教民播種五穀。相土地宜。燥濕肥墝高下。嘗百草之滋味。水泉之甘苦。令民知所辟就。當此之時。一日而遇七十毒(古者、民は草を茹ひ水を飲み、樹木の實を采り、蠃蠬の肉を食て、時に疾病・毒傷の害多し。是に於て神農乃ち始て民に教て五穀を播種し、土地の宜しき、燥濕肥墝高下を相し、百草の滋味、水泉の甘苦を嘗め、民をして辟就する所を知らしむ。此の時に當て一日にして七十毒に遇ふ)」からの一節。

  20. 黄帝こうてい稽首けいしゅしてはり岐伯きはくに受く

    岐伯は黄帝の家臣で医師であったとされる人。黄帝と岐伯との討論によって支那における医学が創始されたと伝説されることから、漢語では医学を「岐黄之術」・「軒岐之術」などとも称する。黄帝作と伝説される春秋時代の医学書(後の唐代に王冰が再編)『黄帝内経素問』鍼解篇に、黄帝が岐伯から鍼についての奥義を受けたとされている。
    『黄帝内経素問』(略して『素問』とも)は、今も日本の鍼灸医など東洋医学で盛んに学ばれる書の一つ。

  21. 狐疑こぎ

    ひどく疑うこと。キツネは非常に警戒心が強く、疑り深いことによる語。

  22. 楊墨ようぼく

    楊朱(楊子)と墨翟(墨子)。いずれも春秋戦国時代の思想家。楊朱は徹底した利己主義・享楽主義を唱え、墨翟は博愛主義を唱えて孔子の仁は差別的・限定的と批判した。両者ともに当時の人々に広く支持されていたようで、当時から儒家はこの二人を特に目の敵にしてきた。

  23. 孟軻もうか、之をしりぞけばすなわしたがふ所を...

    『孟子』滕文公下「楊墨之道不息。孔子之道不著。是邪說誣民。充塞仁義也。仁義充塞。則率獸食人。人將相食。吾爲此懼。閑先聖之道。距楊墨。放淫辭。邪說者不得作《中略》能言距楊墨者。聖人之徒也(楊墨の道息まざれば孔子の道著はれず。是れ邪說を民に誣ひ、仁義を充塞すればなり也。仁義充塞すれば、則ち獸を率いて人を食はしむ。人將に相食まんとす。吾此が爲に懼れ、先聖の道を閑り、楊墨を距ぎ、淫辭を放ち、邪說者作るを得ざらしむ。《中略》能く言ひて楊墨を距ぐ者は、聖人の徒なり)」に基づく語。儒者にとって楊墨は不倶戴天の敵であり、儒教が天下に行われるのに最大の敵と孟子によって見なされていた。

  24. 師曠しこうことたんずるは知音ちいんの後に...

    『淮南子』修務訓「昔晉平公令官為鍾。鍾成而示師曠。師曠曰。鍾音不調。平公曰。寡人以示工。工皆以為調。而以為不調何也。師曠曰。使後世無知音者則已。若有知音者。必知鍾之不調。故師曠之欲善調鍾也。以為後之有知音者也(昔、晉の平公、官をして鍾を為らしむ。鍾成りて師曠に示す。師曠曰く、鍾音調はずと。平公曰く、寡人以て工に示すに、工皆以て調へりと為す。而以て調はずと為不すは何ぞやと。師曠曰く、後世音を知る者無からしめば則ち已む。若し音を知る者あらば、必ず鍾の調はざるを知らんと。故に師曠の善く鍾を調へんと欲するは、以て後の音を知る者有るが為なり)」を引いての一節。

  25. 玉石ぎょくせきひつを同じくすれば...

    猗頓は春秋戦国時代の富豪。頓に富を成した猗氏であることから「猗頓」という。於悒(於邑)は悲しむこと、心を痛めること。
    『淮南子』氾論訓「玉工眩玉之似碧盧者。唯猗頓不失其情(玉工は玉の碧盧に似たる者に眩ふも、唯だ猗頓のみ其の情を失わず)」

  26. 朱紫しゅし相ひ奪へば...

    『論語』陽貨 第十七「子曰。惡紫之奪朱也。惡鄭聲之亂雅樂也。惡利口之覆邦家者(子曰く、紫の朱を奪ふを惡む。鄭聲の雅樂を亂すを惡む。利口の邦家を覆すを惡む)」からの引用。中間色である紫が、純色である朱よりももてはやされることを嫌った、すなわち本来あるべき秩序が乱れている様を嫌った孔子の言葉。

  27. 臧文ぞうぶんの智

    臧文は臧文仲。春秋戦国時代の魯の大夫。『論語』公冶長第五「子曰。臧文仲。居蔡山節藻梲。何如其知也(子曰く、臧文仲、蔡を居き節に山きり梲に藻かく。何如ぞ其れ知しかるや)」からの一節。臧文仲は世間で智者であると評判であったが、諸侯でもない一介の大夫が祭祀に用いる蔡(亀甲)を持ち、屋敷の柱の上端に山を描き、梲(うだつ)には藻の文様を書いている。(それは大夫としての分を超えた振る舞いであって)どうしてそのような者が智者でありえようか、と孔子が批判したことに基づく。

  28. 微生びせいちょく

    微生は微生高。春秋戦国時代の魯の人。『論語』公冶長第五「子曰。孰謂微生高直。或乞醯焉。乞諸其鄰而与之(子曰く、孰か微生高を直なりと謂ふや。或は醯を乞ふ。諸を其の鄰に乞ふて之を与ふ)」からの一節。微生高は極端なまでの正直者と世に評判であったが、ある人が酢を貰いに微生高のところに来たけれども酢を切らして無かった。そこで微生高は隣家にいって酢を借りてきてその人に与えたことを、孔子が「無いといわずに、隣から借りた」ことを正直でないと批判しているのに基づいた語。菲才の目からすると孔子の言いがかりとすら思える批判であるが、ここで牟子はその批判を是として用いている。

  29. 得度とくど

    度は渡と通用する語で、この場合は生死を渡る、超えるの意。得度とはすなわち「救いを得ること」。今日本では一般にいわれる得度は、出家して修行に専念することにより「救いを得る」からそう言われる。

  30. 其のもちひる所を視、其のる所を...

    『論語』為政第ニ「子曰。視其所以。觀其所由。察其所安。人焉廋哉。人焉廋哉(子曰く、其の以る所を視、其の由る所を觀、其の安ずる所を察すれば、人焉んぞ廋さんや。人焉んぞ廋さんや)」の引用。その人がいかなる者かを知るためには、その行いを視、その動機を観、その結果に対してどのようにしているかを察したならば、その人の正体は隠そうとしても隠すことは出来ない、の意。

  31. 呂望りょぼう周公しゅうこう施政しせいを問ひ...

    呂望(太公望)と周公(周公旦)がそれぞれ魯と齊の行末について語り合い、魯は親を大切にする国風であることから国力が衰え、齊は賢人を貴ぶ国風であることから他者に簒奪されるであろうことを予言したという『淮南子』齊俗訓にある一節に基づく語。

  32. 顏淵がんえん乘駟じょうしの日、東野とうやの車のぎょ...

    顏淵が名御者とされる東野子(東野畢)の馬車の操り方を見て、その余りの酷使の仕方からせっかくの良馬を失うことを予見したという故事に基づく。物の使い方次第で結果が大いに変わること、政治もゆとりをもたせず厳しい治を強いるとついに大なる不利益、災が生じることの謂。
    『荀子』哀公「定公問於顏淵曰。子亦聞東野畢之善馭乎。顏淵對曰。善則善矣。雖然。其馬將失。定公不悅。入謂左右曰君子固讒人乎。三日而校來謁曰東野畢之馬失。兩驂列。兩服入廄。定公越席而起曰趨駕召顏淵。顏淵至定公曰。前日寡人問吾子。吾子曰。東野畢之駛善則善矣。雖然。其馬將失。不識吾子何以知之。顏淵對曰。臣以政知之。昔舜巧於使民。而造父巧於使馬。舜不窮其民。造父不窮其馬。是以舜無失民。造父無失馬。今東野畢之馭。上車執轡銜。體正矣。步驟馳騁。朝禮畢矣。歷險致遠。馬力盡矣。然猶求馬不已。是以知之也。定公曰善。可得少進乎。顏淵對曰。臣聞之。鳥窮則啄。獸窮則攫。人窮則詐。自古及今。未有窮其下而能無危者也」、あるいは『荘子』「東野稷以御見莊公。進退中繩。左右旋中規。莊公以為文弗過也,使之鉤百而反。顏闔遇之。入見曰。稷之馬將敗。公密而不應。少焉。果敗而反。公曰。子何以知之。曰其馬力竭矣。而猶求焉。故曰敗」に基づく語。

  33. 子貢しこう邾魯ちゅうろあふを觀て...

    子貢が邾の隱公が魯の定公と会ったときの様子から、その二人がすぐ死ぬであろうことを予言したという一節に基づく語。
    『孔子家語』弁物「邾隱公朝于魯。子貢觀焉。邾子執玉高。其容仰。定公受玉卑。其容俯。子貢曰。以禮觀之。二君者。將有死亡焉」

  34. 仲尼ちゅうじ師曠しこうげんを聞て、文王ぶんおうの...

    『史記』孔子世家「孔子學鼓琴師襄子。十日不進。師襄子曰。可以益矣。孔子曰。丘已習其曲矣。未得其數也。有間曰。已習其數。可以益矣。孔子曰。丘未得其志也。有間曰。已習其志。可以益矣。孔子曰。丘未得其為人也。有間。有所穆然深思焉。有所怡然高望而遠志焉。曰丘得其為人。黯然而黑。幾然而長。眼如望羊。如王四國。非文王其誰能為此也。師襄子辟席再拜。曰師蓋云文王操也」に基づく語。

  35. 季子きしがくを聽きて、衆國しゅこくふうを...

    季子とは春秋時代の呉王、寿夢(じゅぼう)の子で諸樊(しょはん)の弟。季札、呉公子札とも。当初、寿夢は季子に位を譲ろうとしたが季子が固辞したため、結局諸樊が継いだ。
    『春秋左氏伝』襄公廿九年に、季札が呉から魯に来聘した際、諸国の音楽を聞きたいといってこれを様々に聞いたところ、その音楽の調子や音色でその国風を言い当てたとする逸話が載せられるが、それに基づいた言。季子はまた殷の湯王や夏の禹王の楽を聞き、そして舜の楽を聞くとそれを至高至上のものだとしてもうそれ以上聞くことをやめた。

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