《第廿一》
問曰漢地始聞佛道其所從出耶牟子曰昔孝明皇帝夢見神人身有日光飛在殿前欣然悦之明日博問羣臣此爲何神有通人傅毅曰臣聞天竺有得道者號曰佛飛行虗空身有日光殆將其神也於是上悟遣使者張騫羽林郎中秦景博士弟子王遵等十二人於大月支寫佛經四十二章藏在蘭臺石室第十四間時於洛陽城西雍門外起佛寺於其壁畫千乘萬騎繞塔三帀又於南宮清涼臺及開陽城門上作佛像明帝存時豫修造壽陵曰顯節亦於其上作佛圖像時國豐民寧遠夷慕義學者由此而滋
《第廿二》
問曰老子云知者不言言者不知又曰大辯若訥大巧若拙君子恥言過行設沙門有至道奚不坐而行之何復談是非論曲直乎僕以爲此行德之賊也牟子曰來春當大飢今秋不食黄鍾應寒蕤賔重裘𠏆豫雖早不免於愚老子所云謂得道者耳未得道者何知之有乎大道一言而天下悦豈非大辯乎老子不云乎功遂身退天之道也身既退矣又何言哉今之沙門未及得道何得不言老氏亦猶言也如其無言五千何述焉若知而不言可也既不能知又不能言愚人也故能言不能行國之師也能行不能言國之用也能行能言國之寶也三品各有所施何德之賊乎唯不能言又不能行是謂賤也
《第廿三》
問曰如子之言徒當學辯達修言論豈復治情性履道德乎牟子曰何難悟之甚乎夫言語談論各有時也璩瑗曰國有道則直國無道則卷而懷之寗武子曰國有道則智國無道則愚孔子曰可與言而不與言失人不可與言而與言失言故智愚自有時談論各有意何爲當言論而不行哉
《第廿四》
問曰子云佛道至尊至快無爲憺怕世人學士多譏毀之云其辭說廓落難用虗無難信何乎牟子曰至味不合於衆口大音不比於衆耳作咸池設大章發簫韶詠九成莫之和也張鄭衞之弦歌時俗之音必不期而拊手也故宋玉云客歌於郢爲下里之曲和者千人引商徴角衆莫之應此皆悦邪聲不曉於大度者也韓非以管闚之見而𧩂堯舜接輿以毛氂之分而刺仲尼皆躭小而忽大者也夫聞清商而謂之角非彈絃之過聽者之不聰矣見和璧而名之石非璧之賤也視者之不明矣神蛇能斷而復續不能使人不斷也靈龜發夢於宋元不能免豫且之網大道無爲非俗所見不爲譽者貴不爲毀者賤用不用自天也行不行乃時也信不信其命也
《第廿一》
問て曰く、漢地に始めて佛道を聞く。其れ從りて出づる所か。
牟子曰く、昔、孝明皇帝、夢に神人を見る。身に日光有り、飛んで殿前に在り、欣然として之を悦ぶ。明日、博く羣臣に問ふ。此れ何れの神と爲すやと。通人傅毅有りて曰く、臣聞く、天竺に得道の者有て號して佛と曰ふ。虗空を飛行し、身に日光有り。殆ど將に其の神ならんと。是に於て上悟し、使者張騫・羽林郎中秦景・博士弟子王遵等、十二人を遣り、大月支に於て佛經四十二章を寫す。藏して蘭臺の石室第十四間に在り。時に洛陽城の西、雍門の外に於て佛寺を起つ。其の壁に於て千乘萬騎、塔を繞りて三帀するを畫く。又、南宮の清涼臺、及び開陽城の門上に於て佛像を作る。明帝存する時、豫め壽陵を修造して曰く、顯節と。亦た其の上に佛圖の像を作る。時に國豐み、民寧く、遠夷義を慕ふ。學者此に由て滋し。
《第廿二》
問て曰く、老子云く、知る者は言はず。言ふ者は知らず。又曰く、大辯は訥の若し。大巧は拙の若し。君子は言の行に過ぎたるを恥ずと。設し沙門に道に至るもの有らば、奚ぞ坐して之を行はざらんや。何ぞ復た是非を談じ、曲直を論ぜんや。僕、以爲らく、此れ行德の賊なりと。
牟子曰く、來春當に大飢なるべしとて今秋食らはず。黄鍾は應に寒なるべしとて、蕤賔に裘を重ねる。𠏆ふること豫め早しと雖も愚たることを免れず。老子が云ふ所は得道の者を謂ふのみ。未だ道を得ずんば何の知か之有らん。大道は一言にして天下悦ぶ。豈に大辯に非ずや。老子云はずや、功遂げ身退くは天の道なりと。身既に退く。又何をか言はんや。今の沙門は未だ得道に及ばず。何ぞ言はざるを得んや。老氏は亦た猶ほ言ふがごとし。如し其れ言くんば、五千何ぞ述べんや。若し知て言はずんば可なり。既に知る能はず、又言ふこと能はざれば愚人なり。故に能く言ひ能く行はざるは國の師なり。能く行ひ能く言はざるは國の用なり。能く行ひ能く言ふは國の寶なりと。三品、各施す所有り。何ぞ德の賊ならんや。唯だ言ふ能はず、又行ふ能はず、是れを賤と謂ふなり。
《第廿三》
問て曰く、子の言の如きは、徒だ當に辯達を學び、言論を修むべし。豈に復た情性を治め、道德を履まんや。
牟子曰く、何ぞ悟り難きの甚しきや。夫れ言語談論に各時有り。璩瑗曰く、國に道有れば則ち直く、國に道無ければ則ち卷きて之を懷にすと。寗武子曰く、國に道有れば則ち智、國に道無ければ則ち愚と。孔子曰く、與に言ふべくして與に言はずんば人を失ふ。與に言ふべからずして與に言へば言を失ふと。故に智愚、自ら時有り。談論、各意有り。何爲れぞ當に言論して行はざるべけんや。
《第廿四》
問て曰く、子は云ふ、佛道は至尊至快、無爲憺怕なりと。世人・學士は多く之を譏毀して云く、其の辭說は廓落にして用ひ難く、虗無にして信じ難しと。何ぞや。
牟子曰く、至味は衆口に合はず。大音は衆耳に比せず。咸池を作して大章を設け、簫韶を發して九成を詠ずれば、之に和する莫きも、鄭衞の弦を張りて時俗の音を歌へば、必ず期せずして手を拊つ。故に宋玉云く、客、郢に歌ひ、下里の曲を爲せば和する者千人。商・徴・角を引けば、衆、之に應ずる莫しと。此れ皆、邪聲を悦び、大度に曉かならざる者なり。韓非は管闚の見を以て堯舜を𧩂り、接輿は毛氂の分を以て仲尼を刺る。皆、小に躭り大を忽せにする者なり。夫れ清商を聞て之を角と謂ふは、彈絃の過に非ず。聽く者の不聰なり。和璧を見て之を石と名づくるは、璧の賤きには非ず。視る者の不明なり。神蛇は能く斷て復た續くも、人をして斷たざらしむこと能はず。靈龜は夢に宋元に發するも、豫且の網を免るる能はず。大道は無爲にして俗の見る所に非ず。譽を爲さざる者は貴く、毀を爲さざる者は賤し。用と不用とは自ら天なり。行と不行とは乃ち時なり。信と不信とは其れ命なり。
後漢の明帝(劉荘)、孝明皇帝はその諡号。光武帝の第四子で後漢の第二代皇帝。『後漢書』西域伝に「世傳明帝夢見金人。長大頂有光明。以問群臣。或曰。西方有神。名曰佛。其形長丈六尺而黃金色。帝於是遣使天竺問佛道法(世に傳ふ、明帝、夢に金人を見る。長大にして頂に光明有り。以て群臣に問ふ。或が曰く、西方に神有て、名けて佛と曰ふ。其の形長丈六尺にして黃金色なり。帝、是に於て使を天竺に遣て佛道の法を問ふ)」とあって、明帝が夢に仏陀を見たことがきっかけとなって支那に仏教がもたらされたとの伝説が紹介されている。『理惑論』が著されたのは『後漢書』より一世紀ほど早い三世紀中頃までのことと考えられるため、この一節で言われる説が当時世に語られ、ある程度広く知られた説であったと思われる。
『魏書』釈老志には、明帝の父武帝の時(元狩三年)、匈奴を攻略した際に一丈あまりの「金人」を得たことが支那人が仏という存在に触れた最初としている。その後、西方に交渉を伸ばした結果、印度の存在を知ってさらに仏教なるもののあることを知るも仏教を信じる者はなかったという。そこでしかし「後孝明帝夜夢金人。項有日光飛行殿庭。乃訪群臣。傅毅始以佛對。帝遣郎中祭愔。博士弟子秦景等使於天竺。寫浮屠遺範。愔仍與沙門攝摩騰。竺法蘭東還洛陽。中國有沙門及跪拜之法。自此始也(後に孝明帝、夜金人を夢みる。項に日光有て殿庭に飛行す。乃ち群臣に訪ぬ。傅毅始て佛を以て對す。帝、郎中祭愔・博士弟子秦景等を遣て天竺に使はし、浮屠の遺範を寫しむ。愔、仍ち沙門攝摩騰と竺法蘭東と洛陽に還る。中國に沙門及び跪拜の法有るは此より始る)」として、『後漢書』とほぼ同様の説を伝える。▲
張騫は前漢の武帝(劉徹)の臣下で、匈奴攻略のために大月氏に使者として派遣された人。後漢の明帝からは150年ほど先の人であるため、ここにその名が上がることは実に不合理である。しかし、これは西晋の道士王浮によって偽作された『老子化胡経』にそう描かれているのを無批判に踏襲され、世間(『四十二章経』序)で流布していたことによる。これが後、その種々の誤りに気づかれ、『魏書』では(大月氏ではなく天竺に)遣わされたのは張騫でなく祭愔(さいいん)であったとする。なお、ここで大月氏に使わされた使者は「十二人」とあるが異本では「十八人」とされている。▲
『四十二章経』。後漢の明帝により仏教僧として支那に最初に招かれた迦葉摩騰(かしょうまとう)と竺法蘭(じくほうらん)によって訳出されたと伝わる経典。費長房『歴代三宝記』によれば「永平年隨逐蔡愔至自洛邑。於白馬寺翻出此經。依録而編。即是漢地經之祖也。舊録云。本是外國經抄。元出大部。撮要引俗似此孝經一十八章」とあって、元は外国における諸経典の抄出を訳したものであり、その様式を支那の世俗に合わせ『孝経』に倣って編纂したものであるという。
『四十二章経』は最初の漢訳経典として後世にまで重要視され続け、唐代の禅宗(守遂)以来、「仏祖三経」の一つとして今も用いられている。ただし、禅宗で用いられているのは編纂された当初のものでなく、かなり禅宗的(大乗的)改変・編集が為されていることに注意。今一般にそれを「守遂本」といい、編集が加えられていない原初の形態を保存していると思われる系統の本は「高麗本」と言われる。▲
蘭台。書庫、書物を蔵する場所。後の時代には史官や太政官、あるいは秘書省など官名の称として用いられた。▲
漢・魏の都。洛河の北岸に築かれた大城塞都市。隨・唐の洛陽城とは異なる。▲
永平十年(67)、洛陽城の西門外にて支那で最初の仏教寺院とされたという、当時は外務省の施設であった鴻臚寺のこと。寺はもと役所、事務処理をする場を現す語であったが、以来今で言う寺をあらわすようになった。伝説では迦葉摩騰(かしょうまとう)と竺法蘭(じくほうらん)が仏像および経巻を白馬に載せてきたことから白馬寺と称されるようになったという。ここで『四十二章経』が訳されたとされる。蘭台寺ともいう。▲
生前に作る自らの墓。▲
『老子道徳経』巻下 第五十六「知者弗言。言者弗知(知る者は言はず、言ふ者は知らず)」。▲
『老子道徳経』巻下 第五十六「大成若缺其用不弊。大盈若沖其用不窮。大直若詘。大巧若拙。大辯若訥。躁勝寒靜勝熱。清靜爲天下正(大成は缺くるが若く、其の用は弊れず。大盈は沖しきが若く、其の用は窮まらず。大直は詘するが若く、大巧は拙なきが若く、大辯は訥なるが若し。躁は寒に勝ち、靜は熱に勝つ。清靜は天下の正たり)」からの引用。句が前後しているが引用されている箇所の意は、真に能弁な者は口下手のようで、真に巧みな者は拙いように見える、の意。▲
[S/P]Buddhaの音写の古形。浮屠・浮図・仏陀に同じ。佛圖(仏図)はまた仏塔、時には仏教寺院の意でも用いられた。▲
『論語』憲問第十四「子曰。君子恥其言而過其行(子曰く、君子は其の言ひて其の行ひに過ぐることを恥ず)」の引用。▲
『論語』陽貨第十七「子日。郷原德之賊也(子日く、郷原は德の賊なり)」を念頭にした語であろう。郷原とは、田舎(郷里)で君子のように振る舞う偽善者の意。▲
『老子道徳経』が五千数百字から成っていることの謂。ゆえに『老子五千文』ともいう。老子が「知る者は言わず」と言いながら、五千言にわたる言葉を遺していることの矛盾を突いた語。▲
『荀子』大略二十七「口能言之。身能行之。国宝也。口不能言。身能行之。国器也。口能言之。身不能行。国用也。口言善身行悪。国妖也。治国者敬其宝。愛其器任其用。除其妖(口の能く之を言ひ、身の能く之を行ふは国の宝なり。口の能く言はざるも、身の能く之を行ふは国の器なり。口の能く之を言ふも、身の能く行はざるは国の用なり。口に善を言ひ、身に悪を行ふは国の妖なり。国を治る者は其の宝を敬ひ、其の器を愛しみ、其の用を任せて其の妖を除く)」からの引用。▲
異本では「賊」。賤は卑しいこと、身分の低い者の意。▲
異本では蘧瑗。蘧伯玉(きょはくぎょく)に同じ。春秋戦国時代の政治家。孔子が尊敬した人の一人で、衛に滞在している際には璩瑗の宅に寄宿したという。▲
『論語』衛霊公第十五「子曰。直哉史魚。邦有道如矢。邦無道如矢。君子哉蘧伯玉。邦有道則仕。邦無道則可卷而懷之(子曰く、直なるかな史魚。邦に道有れば矢の如く、邦に道無きも矢の如し。君子なるかな蘧伯玉、邦に道有れば則ち仕へ、邦に道無ければ則ち卷きて之を懷にすべし)」からの引用。この語を言ったのは璩瑗でなく孔子。孔子は璩瑗(蘧伯玉)を君子であると讃えている。▲
衛の文公と成公に仕えた官僚(大夫)、甯兪。武は諡。優れた文公と愚かな成公の二人の元で変わらず仕えたことを孔子が称えた。▲
『論語』公冶長第五「子曰。寗武子。邦有道則知。邦無道則愚。其知可及也。其愚不可及也(子曰く、寗武子、邦に道有れば則ち知。邦に道無ければ則ち愚。其の知や及ぶべし。其の愚や及ぶべからず)」の引用。▲
『論語』衛霊公第十五「子曰。可與言。而不與之言。失人。不可與言。而與之言。失言。知者不失人。亦不失言(子曰く、與に言ふべくして之と言はざれば人を失なふ。與に言ふべからずして之を言へば言を失ふ。知者は人を失はず、また言を失はず)」の引用。孔子が言葉には言うべき相手と言うべきでない相手とがあることを言い、知者はそれをよくわきまえているものだ、と言っていたことを以て批判者への答えとしている。▲
貪欲でなく、あっさり、さっぱりとしていること。▲
広大で広々としたさま。しかし、ここでは否定的な意味、いわゆる大言壮語の意味で用いられている。▲
尭の時に用いられた黄帝の作とされる音楽の名。▲
堯の作とされる音楽。▲
舜の作とされる音楽。▲
音楽が九度変わること。一つの音楽を終えることを一成という。▲
春秋戦国時代にあった鄭と衞の二カ国。▲
楚の文人。『楚辞』の作者の一人とされる人。屈原の弟子とも。▲
『文選』巻四十五 對楚王問「客有歌於郢中者。其始曰下里巴人。國中屬而和者數千人。其為陽阿薤露。國中屬而和者數百人。其為陽春白雪。國中屬而和者不過數十人。引商刻羽雜以流徵。國中屬而和者不過數人而已。是其曲彌高其和彌寡。故鳥有鳳而魚有鯤(客に郢中に歌ふ者有り。其の始め下里・巴人と曰ふ。國中屬ひて和する者數千人。其の陽阿・薤露を為すや國中屬ひて和する者數百人。其の陽春・白雪を為すや國中屬ひて和する者數十人に過ぎず。商を引き羽を刻し雜て以て徵を流せば國中屬ひて和する者數人に過ぎずして已む。是れ其の曲、彌々高ければ其の和するは彌々寡し。故に鳥に鳳有て魚に鯤有り)」からの一節。低俗な音楽(事物)に大衆は魅了され同調するけれども、高尚なもの理解されず受け入れられないこと。いわゆる「郢客(えいかく)陽春を唱う」の典拠。▲
韓非子。荀子の李斯にならぶ高弟の一人。法家でもあり、中央集権と富国強兵を主張し、また徳や先例ではなく厳格な「法」と「術」と「勢」による統治・支配を訴えた。現在の「法」以外認めてはならないという観点から、聖人とされ先例として崇められた往古の諸王に対する批判を展開した。▲
管も闚も「うかがう」の意。細い管を通して天を望むということから、極めて視野の狭いこと、見識の浅いことの謂。管見。▲
『韓非子』難一に、堯と舜の両者を善政を布いた帝王とすることが撞着した見方であることが指摘される。もし堯が真に優れた為政者であれば舜がそれを助けて地方の諸問題を解決する隙は無く、後代聖人といわれることも無かった筈であり、もし舜が優れた為政者で種々の問題を解決したというならばそれは堯に失政失策があったことを意味して堯は聖人たり得なかった筈だという説である。堯と舜のいずれも聖人とすることのおかしな点を、韓非子は最強の戈と最強の盾が並び立ち得ないことの譬えによってさらに突いている。いわゆる「矛盾」という語の典拠である。『韓非子』は実に、非常に論理的・合理的な言辞に満ちたものであった。
牟子は、そのような韓非の見方を「管見」であると評していることから、彼も儒者と立場を同じくして堯と舜とを聖人であるとして認めていた。▲
『論語』微子第十八に言及される人。楚の狂人であったとされるが未詳。▲
毛も氂も文字通りの毛の意で、きわめて小さく僅かなもの。ここでは毛の先程の狭い了見の意であろう。▲
『論語』微子第十八「楚狂接輿歌而過孔子曰。鳳兮鳳兮。何德之衰。往者不可諫。來者猶可追。已而。已而。今之從政者殆而。孔子下欲與之言。趨而辟之。不得與之言(楚の狂、接輿歌ひて孔子を過ぎて曰く、鳳や鳳や、何の德の衰へたる。往く者は諫むべからず。來る者は猶ほ追ふべし。已みなん已みなん。今の政に從ふ者は殆うし。孔子、下りて之と言はんと欲す。趨りて之を辟く。之と言ふを得ざりき)」に基づく一節。『論語』では楚の「狂人」とされる接輿は、孔子に対して批判的・懐疑的な言葉を投げかけ、さらに孔子と議論することも避けているため、果たして接輿が真に気狂いであったかどうか不明である。後代、接輿は狂人のふりをしていただけであったなどと解されるが、それも確かではない。
いずれにせよ、ここで牟子も接輿をして孔子を批判した愚か者と見なしている。▲
『韓非子』和子にある非常によく知られた故事。楚の卞和(べんか)が楚山で至高の名玉の原石を見つけ、和(か)はこれを時の厲王(れいおう)に献上した。しかし、王はこれを玉ではなくただの石であるとし、和に詐りの罪があるとして左足を切って処罰した。和はこれにめげず、次代の武王に再度その原石を献上するとまた同じ罪で右足も切られた。さらに次の文王の時、和はもはや石を献上すること無く、楚山の麓でその原石を抱いて血の涙を流していた。そこで王がその理由を問うたところ、和は足を失ったことが悲しいのではなく、この国の王は名玉を名玉と見抜ける者がなく、また自分のような正直者を詐欺だとされたことが悲しいのだと訴えた。そこで文王がその石を磨かせてみた所、誠に至高の名玉であった、という話。「卞和の玉(璧)」とも。後に秦の昭王が十五の城と引き換えて手に入れようとしたことから「連城の璧」とも言う。▲
『淮南子』説山訓「神蛇能斷而復續,而不能使人勿斷也(神蛇は能く斷て復た續くも、人をして斷たざらしむこと能はず)」の引用。▲
『淮南子』説山訓の神蛇に続いて同様の話が出る。しかし、ここで牟子が挙げるのは『荘子』外物にある一節であろう。
宋元君の夢に異人が現れ、漁師の余且なる者に囚われていると告げる。元君は占師にそれが何であったか尋ねるとそれは神亀であるという。そこで元君は余且を召し出し、捕らえたものがなんであったか聞くと直径五尺の亀であるという。元君はその亀を献上させたが亀を殺した。占いでその亀を殺し、その甲羅で占うことは吉と出ていたためである。その甲羅で占ってみると七十二回も外れることがなかった。この話について孔子(仲尼)は「神亀は元君の夢に現れることは出来たが、余且の網から逃れることは出来なかった。その甲羅の占いは七十二回も誤ることがなかったが、腸をえぐられる苦しみを避けることは出来なかった。このように、知にも限界があり、神にも及ばない点がある。優れた知があったとしても、万人はそれに対して謀を巡らす。魚は人の網を恐れず、鵜や鶘を恐れる。小知を捨てれば大知が明らかとなり、善を去ればおのずから善となる。赤子が生まれ、師などなくとも言葉を発するようになるのは、ただ話せる者と共にいるためである」と言った、という逸話に基づく。▲
「不爲譽者貴不爲毀者賤」。何を言わんとしたのか解し難い表現。▲