《第九》
問て曰く、孝經に言く、身體髮膚、之を父母に受く。敢て毀傷せずと。曾子は沒するに臨み、予が手を啓け、予が足を啓けと。今、沙門の剃頭、何ぞ其れ聖人の語に違ひ、孝子の道に合はざるや。吾子は常に好んで是非を論じ、曲直を平かにす。而も反て之を善とせんや。
牟子曰く、夫れ聖賢を訕るは不仁、不中を平とするは不智なり。不仁不智、何を以てか德を樹てん。德將た樹たずんば、頑嚚の儔なり。論、何ぞ容易ならんや。昔、齊人、船に乘て江を渡る。其の父、水に墮つ。其の子、臂を攘て頭を捽み、顛倒して水をして口より出でしむ。而して父の命、蘇るを得たり。夫れ捽頭顛倒より不孝なること大なるは莫し。然も以て父の身を全うす。若し手を拱きて孝子の常を修むれば、父の命は水に絶たん。孔子曰く、與に道を適くべし。未だ與に權るべからずと。所謂時宜の施なる者なり。且つ孝經に曰く、先王に至德要道有りと。而も泰伯は短髮・文身し、自ら呉越の俗に從ひ、身體髮膚の義に違ふ。然れども孔子は之を稱して、其れ至德と謂ふべしと。仲尼は其の短髮を以て之を毀らざるなり。是に由て觀れば、苟に大德有れば、小に拘らず。沙門の家財を捐て妻子を棄て、音を聽かず色を視ざるは、讓の至りと謂ふべし。何ぞ聖語に違ひ、孝に合はざらんや。豫讓は炭を呑み身に漆し、聶政は靣を㓟ぎ自ら刑す。伯姫は火を蹈み高行は容を截る。君子、勇にして義有りと爲し、其の自ら毀沒するを譏るを聞かず。沙門は鬚髮を剃除す。而も之を四人に比せば已に遠からざらんや。
《第十》(⇒現代語訳)
問て曰く、夫れ福の繼嗣に踰ゆる莫く、不孝の無後に過ぎる莫し。沙門の妻子を棄て財貨を捐て、或は終身娶らざるは、何ぞ其れ福・孝の行に違ふや。自ら苦しみて奇無く、自ら拯ひて異無し。
牟子曰く、夫れ左に長ずる者は必ず右に短なり。前に大なる者は必ず後に狹し。孟公綽は趙・魏の老と爲れば則ち優なるも、以て滕・薛の大夫と爲すべからずと。妻子・財物は世の餘なり。清躬無爲は道の妙なり。老子曰く、名と身と孰れか親しき。身と貨と孰れが多れると。又曰く、三代の遺風を觀、儒・墨の道術を覽るに、詩書を誦し禮節を修めて、仁義を崇び清潔を視る。郷人、業を傳へ名譽洋溢すと。此れ中士の施行する所にして、恬惔なる者の恤へざる所なり。故に前に隨珠有り、後に虓虎有て之を見れども、走り敢て取らざるは何ぞや。其の命を先にして其の利を後にするなり。許由は巣木に栖み、夷齊は首陽に餓ゆ。孔聖、其の賢を稱して曰く、仁を求めて仁
を得る者なりと。其の無後・無貨なるを譏るを聞かず。沙門は道德を修め、以て遊世の樂に易へ、淑賢に反て以て妻子の歡に貿う。是れ奇と爲さずんば、孰と與にか奇と爲さん。是れを異と爲さずんば、孰と與にか異と爲さんや
《第十一》(⇒現代語訳)
問て曰く。黄帝は衣裳を垂れ服飾を製す。箕子は洪範を陳べて貎を五事の首と爲す。孔子は孝經を作りて服を三德の始めと爲す。又曰く、其の衣冠を正して其の瞻視を尊ぶと。原憲は貧なりと雖も華冠を離さず。子路は難に遇へども結纓を忘れず。今、沙門の頭髮を剃り赤布を披るは、人を見れども跪起の禮儀無く、盤旋の容止無し。何ぞ其れ貌服の制に違ひ、搢紳の飾に乖くや。
牟子曰く、老子云く、上德は德とせず。是を以て德有り。下德は德を失はざらんとす。是を以て德無しと。三皇の時は肉を食ひ皮を衣、穴處に巣居して、以て質朴を崇ぶ。豈に復た章甫の冠、曲裘の飾を須ひんや。然れども其れ人、有德にして敦厖、允信にして無爲を稱す。沙門の行も之に似たる有り。
或が曰く、子の言の如きは、則ち黄帝・堯・舜・周・孔の儔は、棄てて法るに足らずと。
牟子曰く、夫れ見博ければ則ち迷はず。聽聰なれば則ち惑はず。堯・舜・周・孔は世事を修む。佛と老子は無爲の志なり。仲尼は栖栖七十餘國、許由は禪を聞き、耳を淵に洗ふ。君子の道は、或は出で或は處り、或は默し或は語る。其の情に溢らず、其の性に淫せず。故に其の道を貴しと爲すは、所用に在り。何の棄つるか之有らん。
《第十二》(⇒現代語訳)
問て曰く、佛道に言ふ、人死して當に復た更生すべしと。僕、此の言の審なるを信ぜず。
牟子曰く、人死に臨んでは、其の家の上屋に之を呼ぶと。死し已らば復た誰をか呼ばんや。
或るが曰く、其の䰟𩲸を呼ぶなりと。
牟子曰く、神還れば則ち生ず。還らずんば神何くにか之かん。
曰く、鬼神と成るなり。
牟子曰く、是なり。魂神は固より不滅なり。但だ身、自ら朽爛するのみ。身は譬へば五穀の根葉の如し。 魂神は五穀の種實の如し。根葉生ずれば必ず當に死すべし。種實、豈に終に亡有らんや。道を得て身滅するのみ。老子曰く、吾に大患有る所以は、吾に身有るを以てなり。若し吾に身無くんば、吾に何の患か有らんと。又曰く、功成り名遂げ身退くは天の道なりと。
或るが曰く、道を爲すも亦た死す。道を爲さざるも亦た死す。何の異りか有らんと。
牟子曰く、所謂一日の善無くして、終身の譽を問ふ者なり。道有ては死すと雖も神は福堂に歸る。惡を爲し既に死せば神は其の殃に當る。愚夫は事を成すに闇し。賢智は未萌に豫る。道と不道とは金を草に比するが如く、善と福とは白を黒に方するが如し。焉ぞ異ならずとし得んや。而も何ぞ異ると言ふや。
《第九》
問う。『孝経』に「身体髮膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せず〈身体・髪・肌は父母から受けたものである。これらを敢えて傷つけなどしない〉」とある。そして曾子は没する直前、「予が手を啓け、予が足を啓け〈私の手を見よ!私の足を見よ!〉」〈『論語』〉と(自分が父母から受けた身体を大事にして生涯を送ってきたことを強調して)言った。今、沙門が剃頭しているのは、どうしてかの聖人の言葉に違い、孝子の道に合致しないのか。あなたは常に好んで(世間や人々の)是非を論じ、その曲直を正している。にもかかわらず、これは善であると言うのか。
牟子は云う。そもそも聖賢を訕ることは不仁〈人徳が無いこと〉であり、不中〈正しくないこと〉を普通とすることは不智である。不仁と不智、それでどのようにして徳を立てようというのか。徳を立てることが出来ないならば、頑嚚〈愚かで道理がわからないこと〉の儔である。これに反論することは、あまりにも容易なことだ。昔、斉の人が船に乗って河を渡っていた。するとその父が水に落ち溺れてしまった。そこで子は、臂を押しのけて(父の)頭をつかみ、上下逆さまにして(飲んでしまった)水を口から吐き出させた。そうして父の命を蘇生することが出来た。しかしながら、そもそも(父の)頭をつかんで上下逆さまにすることより不孝なること多大な行為は無い。しかしながら、それによって父の身を救うことが出来たのである。もし手を拱いて「孝子たること」の常識を行っていたならば、父の命は水によって果てていたであろう。孔子は「與に道を適くべし。未だ與に權るべからず〈道を共にすることは出来ようが、共に力を振るうことは出来ない〉」〈『論語』〉と言っている。これは所謂、時宜〈物事を行うのに適切な時機〉について述べられたものである。かつ『孝経』には「先王に至德要道有り〈先王には(孝という)徳に至るための要となる道があった〉」とある。しかしながら、泰伯は髮を短くして文身〈入れ墨〉し、自ら呉・越の風俗に従って(『孝経』の)「身体髮膚の義」に違えていた。けれども孔子はそれを「それ至德と謂うべし」〈『論語』〉と称賛している。仲尼〈孔子〉はその髮を短くし(入れ墨をし)たことを毀らなかったのだ。このようなことからすれば、真に大いに徳があるならば小事になど拘りはしないものである。沙門が家財を捨て、妻子を棄てて、音楽を聴くこともなく情事も視ないのは、讓の至りであると言うべきであろう。(それが)どうして聖語に違い、孝に合致しないというのか。豫讓は(忠義のための敵討ちを果たそうとして)炭を呑んで身体に漆を塗り(ついには失敗して自殺し)、聶政は(義侠のための罪で一族が連座しないよう)顔の皮を㓟いで自害した。伯姫は(夫人としての礼を守るために敢えて)火事から逃げずに死に、高行は(自ら夫人としての義と貞節を貫くため、その美貌を誇った自らの)顔を切りさいた。君子は、(それら諸々の人物をして)勇にして義ありとしており、彼らが自らを傷つけ、あるいは自害したことを譏っているのを聞いたことはない。沙門が鬚髮〈ヒゲと髪の毛〉を剃ることなど、これをそれら四人に比したならば遠く及びもしない(小事)であろう。
《第十》(⇒訓読)
問う。そもそも福として(子供をもうけ)後を継がせることに超えるものは無く、不孝として跡継ぎが無いのに過ぎたものは無い。沙門が妻子を棄てて財産を捨て、あるいは生涯結婚しないが、どういうわけで福と孝の行いに違うのであるか。自ら苦しんでも奇〈他より優れたこと〉などありはせず、自ら救おうとしても異〈他と違って特別なこと〉もありはしない。
牟子は云う。そもそも左に長じる者は必ず右に短く、前に大きい者は必ず後が狭い。「孟公綽は趙・魏の老と爲れば則ち優なるも、以て滕・薛の大夫と爲すべからず〈孟公綽は趙・魏の家老となれば優れた才能を発揮するであろうが、それが滕・薛の家臣程度には不向きである〉」〈『論語』〉。妻子や財物など世の余りに過ぎない。清躬
〈仕官もせず清貧であること〉にして無為なることは道の妙である。老子は「名と身と孰れか親しき。身と貨と孰れが多れる〈名誉と我が身とどちらが大事であるのか。我が身と財産とでどちらがより価値があるのか〉」〈『老子』〉と言った。さらに言えば、(夏・殷・周の王朝)三代の遺風を観て、儒家・墨家における道術を覧ると、詩書を誦し礼節を修めて、仁義を崇び清潔であったことを視る。そしてその郷人らは家業を継承し、名誉を重んじた生活を送っていた。(しかしながら、)これらは中士の行う所であって、恬惔
〈心が安らかで執着の無いこと〉なる者は(自らがそうでないことを)憂いはしない。そのようなことから、眼前に隨珠があるけれども後ろに唸り声挙げる猛虎があったならば、(よほどの愚か者でなければ、人は)それを見ても急ぎ走って敢えて(宝を)取りはしないであろうが、それは何故か。その命を先にしてその利を後にするためである。許由は巣木〈木の上〉に栖み、夷齊〈伯夷と叔斉〉は首陽山にて餓死した。孔聖〈孔子〉はその賢なることを称賛して「仁を求めて仁を得る者なり」〈『論語』〉と言っている。そして、彼らに跡継ぎがなく、非常に貧しかったことを譏ってるのを聞いたことはない。沙門が道徳を修めることを以って遊世の楽に替え、淑賢であることを以って妻子を持つ喜びに換えている。これを奇としないのであれば、どのようなことをして奇であるというのか。これを異としないのであれば、どのようなことをして異であるというのか。
《第十一》(⇒訓読)
問う。黄帝〈古代支那の伝説的帝王、五帝の筆頭〉は(それまで禽獣に等しかった人々の生活に文化的)衣裳をもたらして服飾(の定め)を制した。箕子〈殷の王族〉は(『書経』の)「洪範」を陳述して、「貌」〈容貌。身なり〉を五事〈『書経』洪範にて説かれる九疇のうち礼に則る上で重要な五つの事柄〉の首としている。孔子は『孝経』を作り、服を三徳〈『孝経』卿大夫章において説かれた「法服・法言・徳行」の三〉の始めとしている。また「その衣冠を正してその瞻視を尊ぶ〈(君子は)その衣冠を整えて目つきを高く尊くする〉」〈『論語』〉とも言う。原憲は貧しかったけれども華冠を離すことはなかった。子路は(内乱の)難に遇ったけれども(ついに殺されてしまうその間際まで)結纓〈冠の紐をしっかり結ぶこと。威儀を正すこと〉を忘れはしなかった。ところが今、沙門は頭髮を剃って赤布〈壊色(赤褐色)の衣。いわゆる袈裟衣〉を披、人に会っても跪起の礼儀〈跪いてから立ち上がり礼する支那の礼法〉をせず、盤旋の容止〈支那の礼法に従った進退の動作〉も無い。どうしてそのように(黄帝や箕子以来の)貌服の制〈支那における文化的服制〉に違い、
搢紳の飾〈貴族・官人など一定の身分ある者の作法〉に乖くのであるか。
牟子は云う。老子は「上徳は徳とせず。是を以て徳有り。下徳は徳を失わざらんとす。是を以て徳無し〈徳ある者は(徳を)徳であると意識することがないため、徳がある。しかし徳の少ない者は徳を失うまいと意識するために、むしろ徳が無い〉」〈『老子』〉と言っている。三皇〈支那の伝説で五帝以前の、人の祖先とされる天皇・地皇・人皇の三帝〉の時は肉を食い(獣の)皮を衣て穴ぐらに巣ごもりし、それを質朴〈質素で素朴なこと〉として崇んでいた。(そのような生活を送るなかで)どうして章甫の冠〈殷代の冠〉や曲裘の飾〈革製の飾られた服〉など用いたであろうか。しかしながら、人には有徳であっても敦厖〈実直〉、允信であって無為であることを(人に隠さず)称すことがある。沙門の行いもそれに似たようなところがある。
そこである者が言う。あなたの言うことは、黄帝・堯・舜・周公旦や孔子の類(が説かれた諸々の教え・定め)など棄てて顧みる必要はないと言っているのに等しい。
牟子は云う。そもそも見識が博ければ迷うことはなく、(諸々の言葉を)聴いて聡明であれば惑うこともない。堯・舜・周公旦・孔子は世間の事柄について修めたのだ。仏と老子とは無為を志としている。仲尼〈孔子〉は(ついに特定の王に仕えることはなく)遊説すること七十余国に及び、許由は(堯から)国譲りの話を持ちかけられると(その話を聞いたことすら汚らわしいとして)耳を川で洗った。君子の道は、あるいは(仕官して)世間に出、あるいは野にって世間に出ず、あるいは黙って何も語らず、あるいは饒舌に語り、その情に流されることはなく、その性にたわむれることもない。故にその道が貴いとされるのは、それが(何に・どのように)用いられるかという点に在る。(儒教と道教・仏教ではその対象と範囲が異なり、その用い方も違うのであるから、)どうして(黄帝・堯・舜・周公旦や孔子の教えの類に)棄てるべきものがあろう。
《第十二》(⇒訓読)
問う。仏道は、人が死ねばまた更生〈転生〉する、と説いている。私はこの言葉の審であることを信じない。
牟子は云う。「人死に臨んでは、其の家の上屋に之を呼ぶ」〈礼記』〉とされるが、(ここで人が)死んだ後にまた誰を呼ぶというのか。
ある者は云う。その(死者の)魂魄〈魂は精神を司る陽の気、魄は肉体を司る陰の気〉を呼ぶのだ。
牟子は云う。神〈ここでは死者の霊、特に魄の意〉が還ってきたならば(再び)生じるであろう。もし還ってこないのであれば神はどこに行くというのか。
(ある者は)云う。鬼神〈地に留まり荒ぶる魄〉となる。
牟子は云う。そのとおりだ。魂神
〈「魄神」でないことに注意〉は固より不滅である。ただ(物質的)身体が自ずから朽ち果てるだけである。身体とは譬えば五穀の根や葉のようなものであり、魂神とは五穀の種・実のようなものである。根や葉は生じたとしても必ずいつか消えて無くなる。(しかし)種や実はどうして終に消え去ってしまうことがあろうか。(同様に、人は)道を得たことによって身体が滅するのみである。老子は「吾に大患有る所以は、吾に身有るを以てなり。若し吾に身無くんば、吾に何の患か有らん〈私に大きな災いがあり得るのは、私に身体があってこそのことである。私に身体が無くなったならば、私にどのような災いが有り得ようか〉」〈『老子』〉と言う。また「功成り名遂げ身退くは天の道なり〈自らの目的を達成したならば、すぐ(世間からその身を)引いて退ぞくことが天の道である〉」〈『老子』〉とも言っている。
ある者は云う。(人が)道を成就してもついには死ぬ。道を成就しなくともついには死ぬ。そこに何の異りがあるというのか。
牟子は云う。(そのような問いは)いわゆる一日として善をなすことなく、一生涯の誉を(得ることが出来るかと)問うようなものだ。道を得た者は死んだとしても、その神は福堂
〈支那において考えられた天上界〉に帰るのだ。悪をなして死んだならば、神はその(報いとして)厄を受ける。愚か者は何か事を成すのに(それで何が起こるかも)わからず行う。賢人・智者は未だ生じていないことをあらかじめ承知する。「道」と「道ならざるもの」とは黄金と草とを比べるようなものであり、「善」と「福」〈「福」は「悪」の誤写の可能性あり〉とは白と黒とを較べるようなものである。どうして(それらが)異ならないなどとし得るであろう。にも関わらず(あなたは)「(道を成就しようがしまいが、死ぬことに)何の異りがあろう」と言うのか。