VIVEKA For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

牟融『理惑論』 (『牟子理惑論』)

訓読

《第十三》
問て曰く、孔子云く、いまく人につかへず。いずくんぞ能く鬼に事へんやと。此れ聖人の紀する所なり。今、佛家はすなわち生死の事、鬼神のつとめを說く。此れ殆ど聖喆せいてつの語に非ざらん。夫れ道をむ者は、當に虗無きょむ澹怕たんぱくにして志を質朴しちぼくに歸すべし。何爲なんすれぞ乃ち生死を道として以て志を亂し、鬼神の餘事を說くや。
牟子曰く、子の言のごときは、所謂外を見て内を識らざる者なり。孔子は、子路の本末を問はざるをにくみ、此を以て之を抑へたるのみ。孝經に曰く、これ宗廟そうびょうつくって鬼を以て之れをまつる。春秋に祭祀して時を以て之れを思ふと。又曰く、生けるにはつかへて愛敬あいけいし、死せるにはつかへて哀慼あいせきすと。豈に人をして鬼神につかへ、生死を知ることを敎えざらんや。周公、武王の爲に命を請て曰く、たんは多才多藝、能く鬼神につかふと。夫れ何爲なんすれぞ。佛經に所說の生死の趣、此の類に非ざらんや。老子曰く、すでに其の子を知り、た其の母を守らば、身をおふるまであやふからずと。又曰く、其の光をもって其のみょうふくせば、身のわざわいを遺すこと無しと。此れ道は生死の所趣、吉凶の所住なればなり。至道の要は實に寂寞じゃくまくを貴ぶ。佛家、豈に言を好まんや。來問にこたへざるを得ざるのみ。鍾鼓しょうこ、豈に自ら鳴る者有らんや。ほう加りて聲有るなり。

《第十四》(⇒現代語訳
問て曰く、孔子曰く、夷狄いてきくん有るは、諸夏しょかの君亡きにはかずと。孟子は陳相ちんそうの更に許行きょこうの術を學ぶを譏りて曰く、われを用てへんずるを聞く。未だ夷を用て夏を變ずる者を聞かずと。吾子は弱冠じゃっかんにして堯・舜・周・孔の道を學び、今之を捨てて更に夷狄いてきの術を學ぶ。巳に惑はずや。
牟子曰く、此れ吾が未だ大道を解せざる時の餘語なるのみ。子が謂ふべきが若きは、禮制の華を見て道德の實にくらく、炬燭きょしょくの明をうかがひて、未だ天庭の日を覩ざる也。孔子の言ふ所は世法をむなり。 孟軻もうかの云ふきょうは專一を疾むのみ。昔、孔子は九夷きゅういに居すことを欲して曰く、君子くんし之にらば、何のいやしきか之有らんと。仲尼の魯・衞ろ・えいに容れられず、孟軻の齊・梁さい・りょうに用ひられざるに及びて、豈に復た夷狄に仕へんや。西羗せいきょうに出でて聖喆、瞽叟こそうは舜を生みて頑嚚がんぎん。由余は狄國てきこくに產して秦を覇し、管・蔡かん・さいは河洛よりして流言す。傳に曰く、北辰ほくしんの星は天の中に在り。人の北に在りと。此を以て之を觀れば、漢地は未だ必ずしも天の中爲らず。佛經の說く所は、上下周極、含血がんけつの類の物、皆佛に屬す。 是を以て吾は復た尊んで之を學ぶ。何爲れぞ當に堯・舜・周・孔の道を捨すべけんや。金玉きんぎょくは相ひ傷めず、精珀は相ひ妨げず。人を謂て惑と爲すは時に自ら惑ふらなん。

《第十五》(⇒現代語訳
問て曰く、けだし父の財を以て路人にあたふは、惠と謂ふべからず。二親なほ存するにおのれを殺して人に代るは、仁と謂ふべからず。今、佛經ぶっきょうに云く、太子須大挐すだいだは父の財を以て遠人に施與し、國の寶象を以て怨家に賜ひ、妻子を他人に匈與きょうよすと。其の親を敬せずして他人を敬するは、之を悖禮はいれいと謂ふ。其の親を愛せずして他人を愛するは、之を悖德はいとくと謂ふ。須大拏は不孝不仁にして佛家は之を尊ぶ。豈に異らずや。
牟子曰く、五經の義はよつぎを立るに長を以てす。太王たいおうしょうの志を見て、を轉じて嫡と爲し、遂に周、業を成して、以て太平を致す。娶妻しゅさいの義は必ず父母に告ぐ。しゅんは告げずしてめとり、以て大倫を成す。貞士は聘請へいせいもって、賢臣は徴召ちょうしょうを待つ。伊尹いいんかなえを負てとうもとめ、寗戚ねいせきつのを叩いて齊にもとむ。湯は以て王を致し、さいは以て覇たり。れいに男女は親授しんじゅせずと。そう溺るれば則ち之をたすくるに手を以てするは、其の急なるにる。いやしくも其の大を見れば小に拘らず。大人だいにん、豈に常に拘らんや。須大拏は世の無常を覩て、財貨は巳の寶に非ざるが故に意を布施にほしいままにし、以て大道を成す。父國は其のさいわいを受け、怨家は入ることを得ず。成佛に至て、父母兄弟、皆世に度すことを得。是を孝と爲さず、是を仁と爲さずんば、孰をか仁孝と爲さんや。

《第十六》(⇒現代語訳
問て曰く、佛道は無爲をあがめて施與せよを樂しみ、持戒兢兢じかいきょうきょう深淵しんえんのぞむ者の如し。今、沙門しゃもん酒漿しゅしょう躭好たんこうし、或は妻子を畜へ、せんを取り貴をり、專ら詐紿そたいを行ふ。此れ乃ち世の大僞たいぎなり。而も佛道は之を無爲と謂ふや。
牟子曰く、工輸こうしゅは能く人に斧斤繩墨ふきんじょうぼくを與ふるも、而も人をしてこうならしむること能はず。聖人は能く人に道を授くるも、人をして履みて之を行かしむること能はず。皋陶こうようは能く盜人を𦋛するも、貪夫をして夷齊いせいたらしむること能はず。五刑ごけいは能く無狀を誅するも、惡人をして曾・閔そう・びんたらしむること能はず。堯は丹朱たんしゅを化すること能はず、周公は管・蔡かん・さいおしふること能はざるも、豈に唐敎とうきょうあらわならず、周道しゅうどう不𠏆ふびならんや。然も惡人の如きは何ともする無し。之を譬ふれば世人の學七經に通じ、而も財色に迷ふも六藝りくげいの邪淫と謂ふべけんや。河伯かはくは神なりと雖も、陸地の人を溺らすこと能はず。飄風ひょうふうは疾しと雖も、湛水に塵を揚げしむこと能はず。當に人の行ふ能はざるをうるふべし。豈に佛道に惡有りと謂ふべけんや。

現代語訳

《第十三》
問う。孔子は「いまく人につかえず。いずくんぞ能く鬼に事えんや〈いまだよく人に仕えられていないのに、どうして鬼(死者)に仕えることができようか〉〈『論語』〉と言った。これが聖人の修めたことである。今、仏家はたやすく生死の事、鬼神〈死者の地に留まる霊〉の祭祀を説いている。これはほとんど聖哲せいてつの言葉にはないことであろう。そもそも道をみ行う者は、まさに虗無きょむ澹怕たんぱくにして志を質朴しちぼく〈質素で素朴であること〉に帰すべきである。(にも関わらず)どうして生死(のこと)を道として志を乱し、鬼神という(道を行うことに関知しない)他事を説くのか。
牟子は云う。あなたの言うようなことは、いわゆる「外を見て内を識らないもの」である。孔子は、子路が(世の事象の)本末〈核心〉を問わないことをにくみ、この言葉によってそれを抑えたのに過ぎない。『孝経』に「之れを宗廟そうびょうつくって鬼を以て之れをまつる。春秋に祭祀して時を以て之れを思う〈死者の宗廟を造って鬼(魄)を祀り、年々に祭祀を行って死者を想う〉〈『孝経』〉とある。また「生けるにはつかえて愛敬あいけいし、死せるにはつかえて哀慼あいせき〈生きているうちは愛敬をもって接し仕え、死したならば哀戚をもって(祭祀して)仕える〉〈『孝経』〉ともある。どうして人が鬼神につかえ、生死を知ることを(孔子が)教えなかったと言えようか。(孔子が崇敬した)周公旦は武王の為に命を請い、「たんは多才多芸、能く鬼神につか〈周公旦は有能であって多才多芸であり、よく鬼神の祭祀を行う〉〈『書経』〉と言った。これはどういうことであろう。仏経に説かれている生死の趣は、この類と違っていないのではないか。老子は「すでに其の子を知り、た其の母を守らば、身をおうるまであやうからず〈その子(たる万物)を知ってまたその母(たる全ての根源)を守ったならば、死に至るまで危ういことはない〉〈『老子』〉と言っている。また「其の光をもって其のみょうふくせば、身のわざわいを遺すこと無し〈その光をもってまたその明に帰したならば、身体的災禍に見舞われることはない〉〈『老子』〉とも。これは道というものが生死の趣く所であり、吉凶(の事象を起こす理の)ある所だからである。至道の要は実に、寂寞じゃくまく〈静かで寡黙なこと〉を貴ぶ。仏家がどうして議論を好むことなどあろうか。ただ(道について)問いかけられたならば、それに答えざるを得ないだけのこと。鍾鼓しょうこ〈太鼓〉でひとりでに鳴るものなどあるだろうか。(人が)ばちで叩くことに依ってこそ音が出るのだ。

《第十四》 (⇒訓読
問う。孔子は「夷狄いてきくん有るは、諸夏しょかの君亡きにはかず〈野蛮なる外夷に君主があったとしても、夏(中華)の諸国に君主が無いのにすら及びはしない〉〈『論語』〉と言っている。孟子は陳相ちんそう〈春秋時代の人。許行を信奉した人〉が(それまでの伝統的な学問・思想を捨て)改めて許行きょこう〈春秋時代の思想家で、諸子百家のうち農家〉の術を学んでいたことを譏り、「われを用ててきへんずるを聞く。未だ夷を用て夏を變ずる者を聞かず〈私は夏が蛮夷なる外国を啓蒙したことは聞いているが、いまだ蛮夷なる外国によって(夏が)啓蒙されたことなど聞いたことはない〉〈『孟子』〉と言った。あなたは弱冠じゃっかん〈二十歳〉にして堯・舜・周公旦・孔子の道を学び、今はそれを捨てて改めて夷狄いてきの術〈仏教〉を学んでいる。それは(陳相のように)惑ったことではないのか。
牟子は云う。その言葉は私が未だ大道〈仏教〉を理解していなかった時の余語に過ぎない。あなたが言うことは、礼制の華〈外面〉を見ただけで道徳の実〈核心〉にはくらく、炬燭きょしょくの明りを少しばかり見ただけでいまだ天庭の太陽を観ていないようなものである。孔子の言葉は、世法をなおさんとしたものである。 孟軻もうか〈孟子〉が言ったきょう〈批判〉は、(陳相が許行の思想に)もっぱら囚われていたことをにくんでのことに過ぎない。昔、孔子は九夷きゅうい〈夏から東方にある九つの蛮夷なる地方〉に住んでみたいと思った時、「君子くんし之れにらば、何のいやしきか之れ有らん〈もし君子がそこに居たならば何の卑しいことがあろうか〉〈『論語』〉と言っている。仲尼〈孔子〉えいに受け入れられず、孟軻がさいりょうに用いられなくなったからといって、どうして(それまでの思想・信念を捨てて)また夷狄いてき〈野蛮・未開な国〉に仕えることなど有り得ようか?〈夏王朝の始祖〉西羗せいきょう〈チベット族〉の出身であったが聖哲であり、瞽叟こそう〈舜の実父〉は舜を生んだが頑嚚がんぎん〈愚かで頑ななこと〉であった。由余ゆうよ〈春秋時代の人。西戎の出ながら穆公に仕えて故国を倒した〉えびすの国〈西戎〉で産まれたが秦(の穆公)に覇権を握らせ、管叔かんしゅく蔡叔さいしゅく〈武王と周公の二人の弟〉は河洛から(周公を誹謗して)流言した。伝えによれば「北辰ほくしんの星は天の中に在り。人の北に在り」という。これに依って観たならば、漢地は未だ必ずしも世界の中心ではない。仏教の説く所は、上・下・周囲の極みまで、含血がんけつの類の物〈生ける物.衆生〉は、すべて仏に属すという。 このようなことから私(儒教・道教以外にも)また尊んでこれを学ぶのだ。どうしてまさに堯・舜・周公旦・孔子の道を捨てることがあろうか。黄金と宝玉ほうぎょくとが互いに傷つけあうことはなく、精と珀〈水晶と琥珀〉とが互いに妨げることはない。人に対して惑っていると言うが、それは時に自らが惑ってのことであろう。

《第十五》(⇒訓読
問う。思うに、父の財産を路上の人に与えるのは「恵」〈恵み〉とは言えない。両親がまだあるにも関わらず、己を殺して人に代りとなるのは「仁」〈優しさ〉と言えない。今、仏経には「太子須大挐すだいだは父の財を以て遠人に施與し、國の寶象を以て怨家に賜ひ、妻子を他人に匈與きょうよ〈太子須大挐は、父の財産を遠人に施与し、国家の宝象を怨家に賜え、妻子を他人に供与した〉〈『太子須大拏経』〉と説かれている。その(自らの)親を敬わずに他人を敬うのは、これを悖礼はいれい〈背礼〉と謂う。その(自らの)親を愛さずに他人を愛すのは、これを悖徳はいとく〈背徳〉と謂う。(すなわち、)須大拏は不孝・不仁であって、仏家はそれを尊んでいる。そうに違いないが、これはどういうことか。
牟子は云う。五経〈儒教の聖典〉に説かれる義〈正しいこと〉では、よつぎを立てるには長男を以ってするとある。(しかしながら、)太王たいおう〈周の始祖、古公亶父〉しょうの志を見て、(三男であり、昌の父であった)季歴きれきを転じて嫡としたが、遂に周は見事に成功し天下太平を実現している。「娶妻しゅさいの義は必ず父母に告ぐ〈妻を娶る際の正しい方法は、必ず父母に告げること〉〈『詩経』〉である。(ところが、)しゅんは(その両親に)告げることなく(堯の娘二人を)めとり、それによって大倫〈人としての道〉を成し遂げた。貞士〈正直な人〉は(君主の側から)聘請へいせい〈招聘〉されるものであり、賢臣は徴召ちょうしょう〈召し出されること〉されるのを待つべきものとされる。(けれども、)伊尹いいん〈湯王に自ら仕えた元料理人の宰相〉かなえ〈料理に使う五徳〉を背負って、(自ら)湯王とうおう〈殷の始祖〉に(臣下として加えられるよう)求めており、寗戚ねいせき〈元牛飼いであったが桓公に仕えてよく補佐した〉は(牛の)つのを叩いて、斉(の桓公)に仕官をもとめた。(その結果、)湯王は王者となり、さい(の桓公)は覇者(の一人)となり得た。『礼記』に「男女は親授しんじゅせず〈(婚姻関係にない)男女は親しく交わらない〉〈『礼記』〉とある。(けれども)「そう溺るれば則ち之をたすくるに手を以てする〈兄嫁が溺れているのに直接手を差し伸べて触れる〉〈『孟子』〉のは、事態が危急である場合の例外である。もし事が重大であるのを見たならば、小事には拘らないのだ。大人だいにんたる者が、どうして常に(形式的な小事に)拘ることがあろうか。須大拏は世の無常たることを観て、財貨は己の宝でないとしたことから、こころを布施にほしいままとし、以って大道を成就したのだ。父の国はそのさいわいを受け、その怨家も(父の国に)侵入することは出来なかった。そして仏に成ったときには、その父母兄弟、皆世に済度することが出来た。これを孝とせず、これを仁としないのであれば、何を仁・孝とするであろう。

《第十六》 (⇒訓読
問う。仏道は無為をあがめて施与せよを楽しみ、「持戒兢兢じかいきょうきょう深淵しんえんのぞむ者の如し」(といったようなものの筈である)。(ところが)今、沙門しゃもん酒漿しゅしょう〈酒〉に耽り、あるいは妻子を畜え、せん〈安価な物品〉を取って貴〈高価な物〉としてるなど、専ら詐紿そたい〈詐欺〉を行っている。これはまさに、世の「大僞たいぎ〈ここでは道教からした仏教への批判を意図した言葉〉」である。(にも関わらず、)仏道はそのようなのを無為と謂うのか。
牟子は云う。工輸こうしゅ〈公輸般.春秋時代の魯の工匠.後に建築の神とされる〉はよく人に斧斤ふきんなわすみ(等の建築用の道具を造って)を与えたけれども、しかし人をして(その技術を)たくみにさせることは出来なかった。聖人はよく人に道を授けるけれども、人をして(その道を)履んで行かせることは出来ない。皋陶こうよう〈舜に仕えた司法長官〉はよく盜人を処罰したけれども、貪夫〈愚かで欲深い男〉をして伯夷はくい叔斉しゅくせいのようにすることは出来なかった。五刑ごけい〈古代支那における五種の刑罰〉はよく無状〈無法・無秩序〉を誅するけれども、悪人をして曾参そうしん閔損びんそん〈いずれも孔子の弟子〉のようにすることは出来ない。堯は丹朱たんしゅ〈堯の不肖の息子〉を教化することは出来ず、周公は管叔かんしゅく蔡叔さいしゅくを(正しい道に)おしえることが出来なかった。しかし、それは唐教とうきょう〈堯(陶唐氏)の教え〉あらわではなく、周道しゅうどう〈周公旦による政道〉不備ふびであったためではない。悪人というものはどうしようも無いのだ。これを譬えたならば、世人でその学問は七経〈儒教の聖典〉に通じており、それでいて財貨や女色に迷ったとしても、「六藝りくげい〈儒教の聖典〉は邪淫である」などと謂えないようなものである。河伯かはく〈古代支那の河(黄河)の神〉が神であったとしても、陸地にある人を溺らせることは出来ない。飄風ひょうふう〈つむじ風〉は疾いといっても、水を湛えたところで塵を巻き上げることは出来ない。まさに人が行うことが出来ないのをうるえるべきある。どうして仏道は悪であるということが出来ようか。