《第丗》
問て曰く、道を爲す者は或は辟穀して食らはず。而して酒を飮み肉を啖ふ。亦た云く、老氏の術なりと。然るに佛道は酒肉を以て上戒と爲し、反て穀を食ふ。何ぞ其れ乖異なるや。
牟子曰く、衆道の叢殘に凡そ九十六種有り。澹泊無爲は佛より尚きは莫し。吾れ老氏上下の篇を観、其の五味を禁じるの戒を聞く。未だ其の五穀を絶つ語を覩ず。聖人は七典の文を制するも止糧の術無し。老子は五千の文を著すも、辟穀の事無し。聖人云く、穀を食ふ者は智、草を食ふ者は癡、肉を食ふ者は悍、氣を食ふ者は壽と。世人、其の事に達せず。六禽の閉氣して息せず、秋冬食はざるを見て、效ふて之を爲さんと欲す。物類各自性有り。猶ほ礠石は鐵を取るも、毫毛を移すこと能はざるがごときを知らざるなり。
《第丗一》(⇒現代語訳)
問て曰く、穀は寧ろ絶つべきや不や。
牟子曰く、吾れ未だ大道を解せざるの時、亦た𠹉て學べり。辟穀の法は數千百術、之を行ふも効無く、之を爲すも徴無し。故に之を廢せるのみ。吾が從ふ所の學師三人を觀るに、或は自ら七百、五百、三百歳と稱す。然るに吾れ其の學に從て未だ三載ならざるの間、各自ら殞沒せり。然る所以は、蓋し穀を絶し食はずして百果を啖ふに由る。肉を享れば則ち盤を重ね、酒を飮めば則ち罇を傾く。精亂れ、神昏く、穀氣克たず。耳目迷惑して婬邪禁ぜず。吾れ其の故は何ぞやと問へば、答へて曰く、老子云く、之を損し、又損し、以て無爲に至ると。徒だ當に日に損すべきのみ。然るに吾れ之を觀るに、但だ日に益して損せざるなり。是を以て各知命に至らずして死す。且つ堯・舜・周・孔すら各百載なるに能はず。而るを末世の愚惑、服食辟穀して無窮の壽を求む。哀しいかな。
《第丗二》(⇒現代語訳)
問て曰く、道を爲すの人云く、能く疾を却けて病まず。鍼藥を御せずして愈ゆと。信に之有るか。何を以てか佛家、病有ては鍼藥を進むるや。
牟子曰く、老子云く、物壯なれば則ち老ゆ。之を不道と謂ふ。不道なれば早く巳むと。唯だ得道の者のみ有りて不生にして亦た不壯、不壯にして亦た不老、不老にして亦た不病、不病にして亦た不朽なり。是を以て老子は身を以て大患と爲し、武王は病に居て周公命を乞ひ、仲尼は疾有て子路禱らんことを請ふ。吾れ聖人に皆疾有ることを見る。未だ其の病無きを覩ず。神農、草を𠹉むれば殆ど死する者數十、黄帝は稽首して鍼を岐伯に受く。此の三聖、豈に當に今の道士に如かざるべけんや。斯の言を察省するも、亦た以て廢するに足らん。
《第丗三》(⇒現代語訳)
問て曰く、道は皆無爲にして一なり。子は何を以てか分別・羅列して其の異を云ふや。更に學者をして狐疑せしむ。僕以爲らく、費にして無益なりと。
牟子曰く、倶に之を草と謂へども、衆草の性は勝げて言ふべからず。倶に之を金と謂へども、衆金の性は勝げて言ふべからず。同類にして殊性なり。萬物皆然り。豈に徒だ道のみならんや。昔、楊墨は羣儒の路を塞ぎ、車前むことを得ず、人は歩むことを得ず。孟軻、之を闢けば乃ち從ふ所を知る。師曠、琴を彈ずるは知音の後に在るを俟つ。聖人の法を制するは、君子の將に覩んとするを冀ふなり。玉石、匱を同じくすれば、猗頓、之が爲に於悒し、朱紫相ひ奪へば、仲尼之が爲に歎息す。日月、不明なるに非ず。衆陰、其の光を蔽ふなり。佛道、不正なるに非ず。衆私、其の公を掩ふなり。是れを以て吾れ分て之を別とす。>臧文の智、微生の直、仲尼の假らざるは、皆な世を正すの語なり。何ぞ費にして無益ならんや。
《第丗四》(⇒現代語訳)
問て曰く、吾子は神仙を訕り奇怪を抑へ、不死の道有ることを信じざるは是なり。何爲れぞ獨り佛道を信じて當に世に得度すべきか。佛は異域に在り。子の足、未だ其の地を履まず、目、其の所を見ず。徒だ其の文を觀て其の行を信ず。夫れ華を觀る者は實を知ること能はず。影を視る者は形を審かにすること能はず。殆ど其れ誠ならざらん。
牟子曰く、孔子曰く、其の以る所を視、其の由る所を觀、其の安ずる所を察す。人、焉んぞ廋さんやと。昔、呂望と周公は施政を問ひ、各其の後、終る所以を知り、顏淵は乘駟の日、東野の車を馭を見、其の將に敗れんとするを知る。子貢は邾魯の會を觀て、其の喪ふ所以を昭し、仲尼は師曠の絃を聞て、文王の操を識り、季子は樂を聽きて、衆國の風を覽る。何ぞ必しも足履み、目見んや。
《第丗》
問う。道を為す者とは、あるいは辟穀〈五穀断ち〉して食らうことがない。しかし、酒を飲んで肉を啖う。または、それが老氏の術であると云われる。ところが、仏道は酒や肉を(飲み食いすることを)もって重く戒め、むしろ穀を食らっている。どうしてそれぞれ乖異〈逆であること〉しているのか。
牟子は云う。諸々の道で今にまで残されているものには凡そ九十六種があるが、澹泊にして無為という点で仏より尚いものはない。私は老氏の上下の篇〈『老子』上下ニ巻〉を観て、そこで五味を禁じる戒を聞いてはいる。しかし、いまだそこで五穀を絶つべしという語を覩たことはない。聖人は七典の文〈七経.儒教の聖典〉を制したけれども、そこに止糧の術など無い。老子は『五千文』〈『老子』〉を著したけれども、辟穀の事は無いのだ。聖人は、「穀を食う者は智、草を食う者は癡、肉を食う者は悍、気を食う者は壽」〈『孔子家語』〉と云っているが、世人はその事を理解していない。六禽〈未詳〉が気を閉ざして息をせず、秋冬に食わないのを見て、效ってそれを為そうとしているのだ。(けれども、)物類には各々(異なった)自性がある。あたかも磁石は鉄を引き付けても、毫毛を動かすことは出来ないようなことを知らないのだ。
《第丗一》(⇒訓読)
問う。穀はむしろ絶つべきか否か。
牟子は云う。私がいまだ大道〈仏道〉を理解していなかった時、また嘗て(辟穀の法を)学んだことがある。辟穀の法は数千百術とあるけれども、それらを行っても効果は無く、それらを為しても(何から意味や利益のあるであろう)徴も無い。故にもう止めただけである。私が従ったその師三人を観ても、あるいは自ら七百歳、五百歳、三百歳と称していた。ところが、私がその学びだしていまだ三年にもならないうちに、それぞれ自ら殞沒〈死去〉してしまったのだ。そうなった所以は、私が思うに、穀を絶ち食わず、ただ百果を啖っていたことに由る。(そしてまた、)肉を享けたならば盤を重ねるほどに食い、酒を飲めば樽を傾けて飲み、その精は乱れてその神は昏くなり、穀気を消化することはなく、耳目は迷い惑って淫らで邪であるあることを禁じなかったためであろう。私が(神仙の術を奉じる者たちに)そのようにする理由は何かと問うたところ、「老子は『之を損し、又損し、以て無為に至る〈事物を減らして、また減らし、それによって無為に至る〉』〈『老子』〉と云ったのであり、故にただまさに日々に損すべきなのだ」と答えたものである。しかるに私がそれを観たところでは、ただ日に(愚かさを)益すばかりで損してなどいない。そのようなことから各々、知命〈五十歳〉にも至らずに死ぬのだ。そもそも堯・舜・周公旦・孔子すら各々百歳になることは無かった。にも関わらず、末世の愚かで惑う者共は、服食辟穀の法によって無窮の寿命を求めている。なんと哀れなことであろう。
《第丗二》(⇒訓読)
問う。道を為す人は、よく疾を却けて病まず、鍼や薬を用いないでも愈える、と云う。まことにそのようなことが有るだろうか。何故に仏家は、病に罹ったならば鍼や薬を用いるのか。
牟子は云う。老子は「物壮なれば則ち老ゆ。之を不道と謂う。不道なれば早く巳む〈物事に勢いがあればあるほど早く衰える。これを「道ならざるもの」という。「道ならざるもの」は早くに滅びる〉」〈『老子』〉と云った。ただ道を得た者のみが、(再び)生まれることも無く、また長じて盛んとなることもない。長じて盛んとなることがなくして、また老いることもない。老いることがなくして、また病になることもない。病になることがなくして、また死ぬこともない。そのようなことから、老子は、身体があることを「大患」〈『老子』〉としたのである。武王は病となったとき、周公旦は(祖霊に対して武王の)命を乞い〈『書経』〉、仲尼が疾となった時には子路は(その平癒を神に)祈ることを請うた〈『論語』〉。私は聖人に皆、疾があったことを見る。いまだその中で病の無かった者を覩ない。神農〈支那の伝説的帝王〉が(人々のため薬草を見つけ出すのに様々な)草を甞めて試した時には、殆ど死にかけること数十度に及んだ〈『淮南子』修務訓〉。黄帝〈支那の伝説的帝王、五帝の筆頭〉は稽首して鍼(奥義を)を岐伯から受けている〈『黄帝内経素問』〉。これら三聖人が、どうして今の時代の道士に及ばないことがあろう。このような言葉を省察するだけでも、また(あなたや道士の主張など)退けるのに充分であろう。
《第丗三》(⇒訓読)
問う。道とはすべて無為であって一つである。あなたは何をもって(諸々の道について)分別・羅列し、その異なることを云うのか。(あなたがそうすることで、)さらに(道を)学ぶ者をして狐疑〈ひどく疑うこと〉させている。私が思うに、それは無駄な努力であって無益であろう。
牟子は云う。あるものを同じく「草」だといっても、諸々の草の性質(がそれぞれ異なっていること)は、敢えて言うまでもないことである。あるものを同じく「金属」だといっても、諸々の金属の性質(がそれぞれ異なっていること)は敢えて言うまでもないことだ。同じ類であっても、異なる性質であることは、万物もすべて同様である。それがどうしてただ「道」だけのことであろうか。昔、楊朱〈楊子〉と墨翟〈墨子〉が(儒教の聖人の道に全く相反する説をそれぞれ世に広めたことにより)、群儒〈諸々の儒者〉の路を塞ぎ、(聖人という)車は前むことが出来ず、(聖人の道に倣おうとする)人は歩くことが出来なくなった。孟軻〈孟子〉がそれを闢けたことによって、(世の人々は真に)從うべき所を知ったのだ〈『孟子』〉。師曠〈春秋時代の晋の優れた音楽家〉は琴を弾じたけれども、それは知音〈音楽に造詣が深いこと〉の人が後代あらわれるのを俟つ為であった〈『淮南子』修務訓〉。聖人が法を制したのは、君子が将来それに倣うことを冀ってのことである。(春秋時代の昔、それぞれ扱いをはっきり分けるべき)玉と玉とを匱を同じくして混同したが、猗頓〈春秋時代の富豪〉はそれを於悒〈心を痛めること〉し〈『淮南子』氾論訓〉、(本来最も高貴な色である)朱の位置を(世人がむしろ好んで用いたことにより)紫が奪っていたが、仲尼はそれを歎息した〈『論語』〉。日と月とが明るくないのではない。諸々の陰がその光を蔽うのだ。仏道が正しくないのではない。諸々の私が、その公を掩うのだ。そのようなことから、私は(諸々の道を)分けてそれらを別とする。(当時の世間で名高かったといわれる)臧文仲の智慧と微生高の正直さを、仲尼は認めず批判した〈『論語』〉のは、すべて世を正すための語である。それがどうして無駄な努力であって無益であろう。
《第丗四》(⇒訓読)
問う。あなたが神仙を訕り、奇怪(な思想・主張)を抑え、不死の道があることを信じないことはざるは道理に叶ったことである。(けれども)どうしてただ仏道だけを信じてまさに世に度〈救い〉を得べきとするのか。仏は異域にあったものである。あなたの足はいまだその地を履んだことはなく、その目でその実際を見てはいない。ただその文だけを観て、その行を信じているに過ぎない。そもそも華だけを観る者はその実を知ることは出来ない。影だけを視る者はその形を審かにすることは出来ない。(あなたのやっていることは)ほとんどその誠でないことに違いない。
牟子は云う。孔子は「其の以る所を視、其の由る所を観、其の安ずる所を察す。人、焉んぞ廋さんや〈人がいかなる者かを知るためには、その行いを視、その動機を観、その結果に対してどのようにしているかを察したならば、その正体は隠そうとしても隠すことは出来ない〉」〈『論語』〉と云った。昔、呂望と周公旦は施政について話し合い、(斉と魯の国の)各々がその後に終焉を迎える理由を知り〈『淮南子』斉俗訓〉、顏淵が馬車に乗った日、(名御者として知られた)東野子の馬車の馭す様子を見て、その後に必ず失敗することを知った〈『荀子』〉。子貢は邾の隱公と魯の定公が会う様を観て、二人が死ぬであろう理由を昭し〈『孔子家語』〉、仲尼〈孔子〉は師曠の奏でる絃の音を聞いただけで、それが文王の操であることを識り〈『史記』〉、季子は楽を聴いただけで、(それぞれの楽曲が作られた)諸々の国の風儀を覧た〈『春秋左氏伝』〉。どうして必しも(実際にその地に)足を履みいれ、(その国の様相を)目で見る必要があろう。