Paṭhama Chiggaḷayuga sutta
“seyyathāpi, bhikkhave, puriso mahāsamudde ekacchiggaḷaṃ yugaṃ pakkhipeyya. tatrāpissa kāṇo kacchapo. so vassasatassa vassasatassa accayena sakiṃ sakiṃ ummujjeyya.
taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, api nu kho kāṇo kacchapo vassasatassa vassasatassa accayena sakiṃ sakiṃ ummujjanto amusmiṃ ekacchiggaḷe yuge gīvaṃ paveseyyā”ti?
“yadi nūna, bhante, kadāci karahaci dīghassa addhuno accayenā”ti.
“khippataraṃ kho so, bhikkhave, kāṇo kacchapo vassasatassa vassasatassa accayena sakiṃ sakiṃ ummujjanto amusmiṃ ekacchiggaḷe yuge gīvaṃ paveseyya, na tvevāhaṃ, bhikkhave, sakiṃ vinipātagatena bālena manussattaṃ vadāmi”.
taṃ kissa hetu? na hettha, bhikkhave, atthi dhammacariyā, samacariyā, kusalakiriyā, puññakiriyā. aññamaññakhādikā ettha, bhikkhave, vattati dubbalakhādikā.
taṃ kissa hetu? adiṭṭhattā, bhikkhave, catunnaṃ ariyasaccānaṃ. “katamesaṃ catunnaṃ? dukkhassa ariyasaccassa dukkhasamudayassa ariyasaccassa dukkhanirodhassa ariyasaccassa dukkhanirodhagāminiyā paṭipadāya ariyasaccassa.
“tasmātiha, bhikkhave, ‘idaṃ dukkhan’ti yogo karaṇīyo, ‘ayaṃ dukkhasamudayo’ti yogo karaṇīyo, ‘ayaṃ dukkhanirodho’ti yogo karaṇīyo, ‘ayaṃ dukkhanirodhagāminī paṭipadā’ti yogo karaṇīyo”ti.
『第一軛穴経』
「比丘たちよ、ある男が穴の一つあいた軛を大海に投げ込んだとしよう。また、そこには百年ごとに一度だけ浮かび上がってくる盲目の亀がいるとする」
「比丘たちよ、どのように思うであろうか、その盲目の亀が百年ごとに一度だけ浮かび上がってくる時、その穴の一つあいた軛に首を通すことがあるだろうか?」
「大徳よ、もしそれが現実に起こるとしても、それは非常に長い年月を経る中で、極稀に起こることでしょう」
「比丘たちよ、その盲目の亀が百年ごとに一度だけ浮かび上がってくる時、その穴の一つあいた軛に首を通すことよりも、ひとたび(人としての生を終えた後に、地獄・餓鬼・畜生などの)悪趣に転生した愚者が、再び人としての生を受けることのほうが、よりずっと早く起こる、などと私は説くことはない」
「それはどのような理由からであろうか?比丘たちよ、そこには法に基づいた行い、寂静なる行い、善なる行い、徳ある行いが無いからである。そこには互いに喰いあうことや、弱き者を喰らうことが蔓延っているからである」
「それはまたどのような理由からであろうか?比丘たちよ、彼らは四つの聖なる真理を見ていないからである。四つとは何であろうか?苦という聖なる真理、苦の根源という聖なる真理、苦の滅尽という聖なる真理、苦の滅尽に至る道という真理である」
「その故に、比丘たちよ、『これが苦である』と(理解するための)努力がなされるべきである。『これが苦の根源である』と(理解するための)努力がなされるべきである。『これが苦の滅尽である』と(理解するための)努力がなされるべきである。『これが苦の滅尽に至る道である』と(理解するための)努力がなされるべきである」
日本語訳:Ñāṇajoti
ekacchiggaḷa yuga. eka(一つ)+chiggaḷa(穴)のyuga(軛)で「穴の一つあいた軛」。軛とは、農耕や馬車として使役するためにニ頭の牛や馬などを並列に繋ぐための道具。一般に木製の長く厚い板あるいは太い棒状であって、その形状は洋の東西、時の古今を問わずほとんど同じであろう。▲
vinipāta. 苦しみの境涯、苦しみ多き生命のありかた。一般に地獄・餓鬼・畜生を三悪趣、あるいは阿修羅を含めて四悪趣と言われる。▲
bāla. 年少者の意味もあるが、ここでは愚か者の意。▲
dhammacariya. 真理に基づいた行い。▲
samacariya.▲
kusalakiriya.▲
puññakiriya.▲
aññamaññakhādikā. ▲
dubbalakhādikā. ▲
Catur ariyasacca. 苦・集・滅・道の四聖諦。本経の要は、盲亀浮木の喩えにより「悪趣から再び人間として生まれることはアリガタイ」などとただ示すことではなく「それは何故か」を示す点にある。すなわち、人として生を受けていながら四聖諦を知見しないことが果てしない苦しみの生死輪廻の原因である、という点にある。▲
yogo karaṇīyo. yogaは多義語であって様々な意に用いられるが、ここでは努力の意。yogaには他に、つながり・絆・連結・執着(煩悩)・混合・瞑想といった意味がある。絆というと何やら積極的あるいは良いモノのように思うものがあるかもしれないが、本来それはむしろ束縛するものの意である。先の軛の原語yugaとyogaとは語根yuj(結ぶ)を同じくする語。▲