Dutiya-Chiggaḷayuga sutta
“seyyathāpi, bhikkhave, ayaṃ mahāpathavī ekodakā assa. tatra puriso ekacchiggaḷaṃ yugaṃ pakkhipeyya.
tamenaṃ puratthimo vāto pacchimena saṃhareyya, pacchimo vāto puratthimena saṃhareyya, uttaro vāto dakkhiṇena saṃhareyya, dakkhiṇo vāto uttarena saṃhareyya. tatrassa kāṇo kacchapo. so vassasatassa vassasatassa accayena sakiṃ sakiṃ ummujjeyya.
taṃ kiṃ maññatha, bhikkhave, api nu kho kāṇo kacchapo vassasatassa vassasatassa accayena sakiṃ sakiṃ ummujjanto amusmiṃ ekacchiggaḷe yuge gīvaṃ paveseyyā”ti?
“adhiccamidaṃ, bhante, yaṃ so kāṇo kacchapo vassasatassa vassasatassa accayena sakiṃ sakiṃ ummujjanto amusmiṃ ekacchiggaḷe yuge gīvaṃ paveseyyā”ti.
“evaṃ adhiccamidaṃ, bhikkhave, yaṃ manussattaṃ labhati. evaṃ adhiccamidaṃ, bhikkhave, yaṃ tathāgato loke uppajjati arahaṃ sammāsambuddho.
evaṃ adhiccamidaṃ, bhikkhave, yaṃ tathāgatappavedito dhammavinayo loke dibbati. tassidaṃ, bhikkhave, manussattaṃ laddhaṃ, tathāgato loke uppanno arahaṃ sammāsambuddho, tathāgatappavedito ca dhammavinayo loke dibbati.
“tasmātiha, bhikkhave, ‘idaṃ dukkhan’ti yogo karaṇīyo, ‘ayaṃ dukkhasamudayo’ti yogo karaṇīyo, ‘ayaṃ dukkhanirodho’ti yogo karaṇīyo, ‘ayaṃ dukkhanirodhagāminī paṭipadā’ti yogo karaṇīyo”ti.
『第二軛穴経』
「比丘たちよ、たとえばこの大地が一面、水ばかりとなったとしよう。そこである男が穴の一つあいた軛 をそこに投げ込んだとする」
「東からの風は(その水に浮かんだ軛を)西に運びゆくであろう。西からの風は(それを)東に運びゆくであろう。北からの風は(それを)南に運びゆくであろう。南からの風は(それを)北に運びゆくであろう。(そのように、その軛は水上を留まることなく彼方此方と漂い続ける。)そして、その水中には、百年ごとに一度だけ浮かび上がってくる盲目の亀がいるとする」
「比丘たちよ、どのように思うであろうか、その盲目の亀が百年ごとに一度だけ浮かび上がってくる時、その穴の一つあいた軛に首を通すことがあるだろうか?」
「大徳よ、(ほとんど起こり得そうにない)稀有なことです。百年ごとに一度だけ浮かび上がるその盲目の亀が、その(大水の上を漂う)穴の一つあいた軛に首を通すなどということは」
「比丘たちよ、それと同様に、(生死輪廻を繰り返す中で)人としての生を得ることは(ほとんど起こり得そうにない)稀有なことである。比丘たちよ、それと同様に、如来・阿羅漢・等正覚が世に現れることは稀有なことである。比丘たちよ、それと同様に、如来によって説き示された法と律とが世に輝いてあることは稀有なことである」
「比丘たちよ、汝らはすでに、如来・阿羅漢・等正覚者が世に現れ、如来によって説き示された法と律とが世に輝いてある中に、そのような人としての生を得ている」
「その故に、比丘たちよ、『これが苦である』と(理解するための)努力がなされるべきである。『これが苦の根源である』と(理解するための)努力がなされるべきである。『これが苦の滅尽である』と(理解するための)努力がなされるべきである。『これが苦の滅尽に至る道である』と(理解するための)努力がなされるべきである」
日本語訳:Ñāṇajoti
mahāpathavī. ▲
adhicca.ほとんど起こりそうにもない、の意。▲
tathāgata.tathā(そのように)とāgata(来たれる)者。tathāはこの場合、真理が意味されるため「如」と漢訳された。あるいはtathā(そのように)とgata(去れる)者と解釈もされ、その場合は如来でなく如去と訳される。釈尊の称号・尊称(如来十号)の一つ。▲
arahant. 供養を受けるに相応しい者の意。したがって漢訳ではこれを応供とされた。如来十号の一つ。▲
sammāsambuddha. sammā(正しく・完全に)+saṃ(よく)+buddha(目覚めた人)。如来十号の一つ。▲
dhammavinaya. 教え(dhamma)と律(vinaya)。仏教とは、ただその「教え(dhamma)」のみでなく、それを後世に残すために僧伽を正しく維持存続するための「規律(vinaya)」が併せてあってこそ、そうあり続けられるものである。▲
yogo karaṇīyo. ここでのyogaは努力の意。▲