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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

仏教徒とは

沙弥

見習い男性出家修行者

画像:スリランカの沙弥

沙弥しゃみとは、弟子・生徒を意味する[S]Śrāmaṇeraシュラーマネーラまたは[P]Sāmaṇeraサーマネーラの音写で、勤策男ごんさくなんまたは求寂ぐじゃく息慈そくじ息悪そくあくなどと漢訳される、仏教における見習い男性出家修行者です。

沙弥となるには、先ず数えで十三歳以上であり、必ず両親から出家の許しを得ている必要があります。その上で、自身の出家の師となる和尚わじょう([S]upādhyāyaウパーディヤーヤ / [P]upajjhāyaウパッジャーヤ)からその弟子となることの許しを得なければなりません。そして日と時を定め、その出家式の場において剃髪し、衣を俗服から法服に改めた後、和尚から十戒を受けることによって初めて出家し、沙弥となることが出来ます。

人が沙弥となるに際して受持すべき十戒(十学処・沙弥律儀)、とは以下の通り。

十学処(沙弥律儀)
No. 学処
1 不殺生 いかなるものであれ、故意に有情を殺傷しない。
2 不偸盗 故意に与えられていない物をみずからの物としない。
3 不婬 相手が男・女・天人・獣、自慰であれ、一切の性行為をしない。
4 不妄語 故意に虚言を為さない。
5 不飲酒 穀物酒であれ果実酒、薬酒であれ、一切の酒類を飲まない。
6 不塗飾香鬘 装飾品や香水などつけて身体を飾らない。
7 不歌舞観聴 音楽や舞踏などを鑑賞しない。
8 不坐高広大牀 高く広い寝台で休まない。
9 不非時食 正午から翌日の日の出まで、一切の固形物を食さない。
10 不蓄金銀宝 金銀財宝、および金銭に触れず、蓄えない。

なお、沙弥の場合、比丘が具足戒を受ける時とは異なって、出家の場にいわゆる「証明師しょうみょうし」などと云われる他の僧が臨席する必要はありません。日本では、いわゆる得度式に証明師を必須とする法式を作っているのが多くみられますが、出家と受具足戒とを混同した誤認に基づくあやまりです。

実は得度に関して言えば、それが他に比丘の無い小さな精舎、小庵・小坊においてのことであれば、ただ出家する者とその和尚とのみにて出家式を執行することは可能です。しかしもし、その精舎・寺院にて他の比丘がある場合には、ぼう比丘が在家のなにがしを弟子として出家させることを羯磨こんまし、他の比丘に事前に周知しておかなければなりません。

そして、実際の得度式を執行するに際しては、法服(方服)いわゆる袈裟衣けさえの着方や鉢の持ち方、そして礼拝や座り方などその場における威儀作法や発すべき言葉を、かたわらで教え補佐する他の比丘があれば、滞りなく式を進めることが出来ます。そこで出家式には出家の師たる和尚の他に、受戒阿闍梨あじゃり羯磨師こんまし)と教授阿闍梨(威儀師いぎし)たる比丘二人が補佐としてあることが一般的です。

しかし、くどいようですが、出家得度式に臨席するそれら阿闍梨の役割は、出家得度式の進行を補佐することであって、「出家を証明」することではない。沙弥出家するのに他僧の証明など必要ありません。いや、まずもっとも重要であることは、その師が「和尚たり得る比丘」であることです。沙弥が弟子を取ることは出来ません。すなわち、そもそも比丘が無かったならば、人は出家して沙弥となることすら出来ません。

和尚と菩提親

出家の師となる和尚とはいかなる言葉、いかなる者かについては前項「比丘 ―仏教徒とは」にてある程度述べていますが、ここでも改めて和尚、そしてまた阿闍梨について少し触れ、その補足をしておきます。和尚とは、法(Dharmaダルマ)と律(Vinayaヴィナヤ)とに長じ、かつ後進を教導するに足る知識と能力とを備えた比丘であるべきとされます。

弟子にとって和尚とはただ師というよりも、出家における親というべき存在であり、実際その関係は親子のようであるべきと律に定められています。

和尚と阿闍梨について、例えば『四分律』では以下のように規定されています。

和尚者。從受得戒。和尚等者。多已十歳。阿闍梨者。有五種阿闍梨。有出家阿闍梨。受戒阿闍梨。教授阿闍梨。受經阿闍梨。依止阿闍梨。出家阿闍梨者。所依得出家者是。受戒阿闍梨者。受戒時作羯磨者是。教授阿闍梨者。教授威儀者是。受經阿闍梨者。所從受經處讀修妬路。若説義乃至一四句偈依止阿闍梨者。乃至依止住一宿。阿闍梨等者。多已五歳。除依止阿闍梨。
和尚わじょう〈upādhyāya. 指導者〉とは、(弟子が)従って戒を受け得るものである〈沙弥出家する場合に師として十戒を授ける僧. また具足戒を受ける場合には僧伽に対してその保証人となる僧〉。和尚等とは、(その法臈ほうろう〈具足戒を受けてから夏安居を過ごした回数.夏臈とも〉が)十歳以上のものである。阿闍梨あじゃり〈ācāry. 先生〉は、五種の阿闍梨がある。出家阿闍梨・受戒阿闍梨・教授阿闍梨・受経阿闍梨・依止えじ阿闍梨である。出家阿闍梨とは、所依として出家を得た者である〈和尚に同じであるが、ここでは沙弥出家における師の意〉。受戒阿闍梨とは、受戒の時に羯磨こんま〈karma. 儀式の発議・進行〉を為す者である〈羯磨師に同じ〉。教授阿闍梨とは、(受戒の時に)威儀を教授する者である〈教授師・威儀師に同じ〉。受経阿闍梨とは、(新学の者が)従って経を受学する場所において修妬路しゅとろ〈Sūtra. 経〉を読み、あるいはその意義を説いて教えること一四句偈に至る(者である)。依止阿闍梨とは、(和尚の代わりに)依止〈niśraya. 教導・保護〉して(その元に)留まること一宿〈一夜、一泊〉(以上)に及ぶ者である。阿闍梨等とは、(その法臈が)五歳以上のものであるが、依止阿闍梨は(十歳以上でなければならないため)例外である〈出家阿闍梨も法臈十歳以上でなければならない〉

『四分律』巻三十九 皮革揵度之余(T22, p.848a)

以上のように、和尚とは、人が出家して沙弥となるに際し戒(上記の十戒)を授けてその師僧となる人です。そして和尚たることの不可欠の要件として十歳以上、すなわち比丘として雨安居うあんご十夏じゅうげ以上過ごしていることです。出家者における年齢は、具足戒を受けてから夏安居を過ごした数によります。そのような出家者としての年齢を、法臈ほうろうあるいは夏臈げろうと言います。

なお、出家者の席次は、法臈の多寡たか、具足戒を受けた年時の遅速ちそくによってのみ決定されます。したがって、沙弥は見習いであって僧伽の正式な成員ではないため、仮に出家後十年を経ていたとしても法臈が重ねられることはありません。法臈・夏臈とは、あくまで比丘・比丘尼についていわれるものであり、具足戒を受けていない者にろうはありません。ただし、これは律蔵の規定にないは一般論として、沙弥同士の上下関係は、互いの出家の時期の遅速によって決められます。

次に阿闍梨とは、出家して間もない新学の沙弥あるいは比丘を指導する比丘のことで、これに出家・受戒・教授・受経・依止の五種があります。出家阿闍梨とは、沙弥出家する際の師僧、すなわち和尚に同じです。そして受戒阿闍梨は、受戒の際に羯磨といわれる議題を陳べるなど、その進行を司る比丘です。教授阿闍梨は、やはり受戒の際、その場における受者の威儀作法や衣の着方などを教える比丘。受経阿闍梨は、出家したばかりの沙弥、あるいは受具したばかりの比丘に、経文を教える比丘です。

最後の依止阿闍梨は特に重要な役割を為す人で、ある沙弥または比丘の和尚が旅行、転出・還俗または死亡など何らかの原因で不在である際、必ずその代わりに保護者・指導者となって教導する比丘をいいます。

上に示した『翻訳名義集ほんやくみょうぎしゅう』でも指摘されているように、阿闍梨とはみな五歳以上でならないとされます。このことから、五回の夏安居げあんごを過ごし終えた比丘をして、「五夏ごげの阿闍梨」と称することがあります。もっとも、依止えじ阿闍梨と出家阿闍梨(和尚)は十歳以上でなければなりません。比丘が弟子を取り、他の沙弥や比丘の指導を担うには、必ず十夏の安居を過ごしていることが要求されます。

(ただし、無知・無能の比丘はたとい百歳であっても人の師となることは出来ません。)

なお、和尚の原語[S]upādhyāyaウパーディヤーヤとは指導者を、阿闍梨の原語[S]ācāryaアーチャールヤとは教師を意味します。どちらも同じく「先生」の意ではあるものの、ācāryaは学校の教師などのように一般的に用いられる語であるのに対し、upādhyāyaは特に精神的・宗教的指導者を指して用いる語です。もっとも、修禅の師や密教の師は和尚(upādhyāya)ではなく阿闍梨(ācārya)と云われ、その場合はほとんど「絶対服従すべき師」といった位置づけがなされています。

ところで、和尚とは出家における親であるとして、これは律蔵など仏典にて記されたことではありませんが現実として、実は出家者にはもう一人の親が必要です。もちろんその親とは実の親でもありません。その親とは、出家生活を支える在家の親、菩提親ぼだいおやです。

菩提親とは、人が出家して沙弥となり、また進んで比丘となる時など、出家者として必須の衣鉢やその他の生活必需品、その活動資金の出資者、後援者を指して言う言葉です。戦後しばらくまでは日本でも当たり前に使われ通用した語であったようですが、今はこの語を使う者のあることはほとんど聞きません。それは今や日本で僧といえばただ世襲制の稼業かぎょうとなっていることにも依るのでしょう。

なお、印度語ではこれを[S/P]dāyakaダーヤカといい、またあるいは[S/P]dānapatiダーナパティといいます。これはまた訳されず音写され、檀越だんおちとも云われて日本語として定着してもいます。

先に「実の親でもない」といいましたが、場合によっては菩提親を実の親がになうことはあり、往古から近世の日本ではそうした事例が多く見られます。もっともその場合、実の両親のみが菩提親となるというのでなく、その氏族全体が同族出身の出家者を支えたのです。今、南方でも人が出家するに際し、まずしなければならないのはその菩提親を探すことです。菩提親なく出家するものが絶無かといえば、必ずしもそうではありませんが、それはあくまで文化的に僧伽を支える社会がすでにある場合に限られ、いずれは必ず檀越を得なければなりません。

まっとうな出家者であれば、自らの活動資金を自ら何等か労働や売買など世間的経済活動(いわゆる売僧まいす)によって「稼ぎ出す」ことは出来ないため、そうした経済的支援者、後援者の存在は不可欠です。その昔から勉学、修行にまつわるアレコレに衣食ばかりでなく金銭が必要であることは云うまでもありません。菩提親が無ければまともに出家生活を送ることは、現実的にはほとんど不可能です。

三種の沙弥

沙弥には、先に述べたように、数え13歳からなることが出来ます。しかし、場合によってはそれ以下の年齢であっても、例外的に沙弥として出家することが出来ます。

爾時阿難。有檀越家死盡。唯有一小兒在。將至佛所頭面禮足在一面坐。佛知而故問。此是何等小兒。阿難以此因縁具白世尊。世尊告言。何故不度令出家答言。世尊先有制。不得度年減十二者。是以不度佛問阿難。此小兒。能驅烏。能持戒。能一食不。若能如是者。聽令出家。阿難報言。此小兒。能驅烏能持戒能一食佛告阿難。若此小兒。盡能爾者。聽度令出家。
ある時、阿難の檀越の家族が皆死に絶え、唯だ一人の子のみ残された。(阿難はその子を)将て仏の所に至り、頭面礼足して一方に坐した。仏は(その事情を)知りながら故に尋ねた。
「それはどういった子であるか」
阿難はその因縁を詳しく世尊に申し上げたところ、世尊は、
「どうして出家させないのか」
と言われたので、
「世尊は以前、『年十二以下の者を得度してはならない』と制されました。その故に度さなかったのです」
とお答え申し上げた。すると仏は阿難に、
「その子はよく烏を驅い払うことは出来るか。よく戒を持つことが出来るか。よく一食に耐えうるか。もしよくそれらをよくするのであれば、出家させることを聴そう」
と問われた。阿難は、
「この子はよく烏を驅い払うことは出来、よく戒を持つことが出来、よく一食に耐えます」
とお答え申し上げた。そこで仏は阿難に、
「もしその子がことごとくよくそうし得るのであれば、度して出家させることを聴す」
と告げられた。

『四分律』巻三十四 受戒揵度之四(T22, pp.810c-811a)

以上のように、その例外が規定されたのは、孤児を精舎に引き取るための措置としてでした。しかし、そこで敷かれた条件は、鳥を追い払い得る程度の能力があること、そして一日一食(朝の粥食を含めて二食)で満足し得ることでした。

画像:ラオスの森林寺院における沙弥

現代、一日二食と聞けば、甚だ厳しいと感じられるかもしれません。しかし、その昔の日本でも一日二食であるのが普通であったことを思えば、それほどのことでもないでしょうか。とはいえ未成年の、しかもごく幼い子供が午後以降の空腹に耐えることは容易なことでなく、実際、当時も生半可なことでは無かったようです。

一般に、沙弥としてしばらく過ごした後に20歳を過ぎたならば、具足戒を受けて比丘となります。しかしながら、なんらかの理由によって20歳を過ぎても具足戒を受けず、または身体のいずこかが欠損した五体不満足であるとか精神病、あるいは感染性の病に罹患しているなどそもそも比丘になることが出来ず、沙弥のままでいる者もあります。

支那では、沙弥であっても年齢などによる呼称の違いが設けられており、日本でもそれに倣って沙弥の別を設けていました。

沙彌。南山沙彌別行篇云。此翻息慈。謂息世染之情。以慈濟群生也。又云。初入佛法。多存俗情故。須息惡行慈也。音義云。沙彌二字。古訛略也。唐三藏云。室利摩拏路迦。此翻勤策男。寄歸傳云。授十戒已名室羅末尼。譯爲求寂。最下七歳。至年十三者。皆名驅烏沙彌。 若年十四至十九。名應法沙彌。若年二十已上。皆號名字沙彌
沙弥しゃみ】 南山なんざん〈南山大師道宣〉沙弥別行篇しゃみべつぎょうへん〈『四分律刪繁補闕行事鈔』沙弥別行篇第二十八〉に、「これを息慈そくじと翻訳する。世染の情を息め、慈を以て群生ぐんじょうすくう(者)の謂である。または、初めて仏法に入って(未だ)多く俗情が存ることから、須く悪をめ慈を行じるべき(者)の意である」という。『音義』〈慧琳『一切経音義』〉には、「沙弥の二字は古の訛略けりゃくである」とする。唐の三蔵〈玄奘〉は、室利摩拏路迦しりまねろか〈Śrāmaṇeraka〉として、これを勤策男ごんさくなんと翻訳されている。『寄帰伝ききでん〈義浄『南海寄帰内法伝』〉には、「十戒を授けたならば室羅末尼しらまに〈Śrāmaṇera〉と名づける。これを訳せば求寂ぐじゃくという」とある。最年少は七歳から年十三に至るまでは、皆な驅烏くう沙弥という。 もし年十四から十九に至るまでならば、応法おうぼう沙弥という。もし年二十以上であれば、皆な名字みょうじ沙弥と称する。

法雲『翻訳名義集』巻一 七衆弟子篇第十二(T54, p.1072b)

7歳から14歳未満の沙弥を「駆烏沙弥くうのしゃみ」、14歳から20歳未満の沙弥を「応法沙弥おうぼうのしゃみ」、20歳以上のものを「名字沙弥みょうじのしゃみ」と呼称します。もっとも、これは呼称が異なるのみでその立場や扱いが異なるという事はありません。駆烏沙弥といわれる幼少の沙弥の最低年齢について『四分律』には言及がありませんが、この『翻訳名義集』にて「七歳」としているのは、『摩訶僧祇律まかそうぎりつ』や『五分律ごぶんりつ』など他の律蔵にてそうしていることに依ります。

なお、沙弥尼の場合は駆烏沙弥といった存在が許されていませんが、代わりにまた別の基準(結婚生活・男性経験の有無)によって年少の沙弥尼の存在が許され、および極年若くとも(十二歳以上で)比丘尼となることが可能となっています。

また、これは印度においても東南アジアやチベットにも無かったことですが、支那では沙弥の分類について二種類あるとし、以下のように言われていました。

問。題稱沙彌未委。沙彌都有幾種。答曰。沙彌有其二種。一者形同沙彌。二者法同沙彌。第一形同沙彌者。謂初始落髪未受十戒。但相同出家。故曰形同沙彌。故涅槃經云。沙彌雖未受十戒已堕僧數。謂入應供之僧數也。以一切施時受利不得別他。若檀越不言階降所有施物平等分與。爲施主如應得自在故。二者法同沙彌。謂曾經受十戒法沙彌也。
問:題して「沙弥」と称するけれども(それがいかなる者であるのか)未だくわしくされていない。沙弥には都て幾種あるのか。
答:沙弥には二種ある。一つは形同ぎょうどう沙弥、二つは法同ほうどう沙弥である。 第一の形同沙弥とは、初めて落髪らくほつして未だ十戒を受けておらず、ただすがたが出家に同じなだけであることから、形同沙弥という。故に『涅槃経ねはんぎょう〈曇無讖『大般涅槃経』巻六〉に「沙弥で未だ十戒受けていなくとも、すでに僧数の中に堕す」とあり、「応供おうぐ〈一般には阿羅漢の意.ここでは「食事の供養に応じた者」の意であろう〉の僧数に堕す」と謂う。(檀越だんおつ〈施主〉からの)あらゆる施しのある時、(比丘が)その利を受けたとしても、他〈特に沙弥・沙弥尼〉に分け与えることは出来ないが、もし檀越が階降〈法臈の多寡、あるいは比丘・沙弥の異なり〉を特に言わなければ、その得られた施物は平等に(沙弥・沙弥尼らにも)分け与えなければならない。施主は(その施物の分配について)自由にすることが出来る為である。第二の法同沙弥とは、すでに十戒法を受けた沙弥である。

法進『沙弥十戒并威儀経疏』巻一
(新訂増補『日本大蔵経』, vol.40, p.169)

ただ頭を剃り初めて袈裟衣を着たばかりで未だ十戒を受けていない者、それは沙弥というに及ばない俗人でしょう。けれども、ここではそれを「形同沙弥ぎょうどうしゃみ」であると言い、剃髪して十戒を受けた本来の沙弥は、本来の法(規定)に準じた者であるから「法同沙弥ほうどうしゃみ」と言うなどとしています。

なぜこの様な、率直にいって奇妙な分類を支那の律僧らは考えだしたのか。それはまさに上掲の一節に引いている『涅槃経』を根拠とし、着想を得たものでした。

復次善男子。譬如有人出家剃髮雖服袈裟。故未得受沙彌十戒。或有長者來請衆僧。未受戒者即與大衆倶共受請。雖未受戒已墮僧數。善男子。若有衆生發心始學是大乘典大涅槃經。書持讀誦亦復如是。雖未具足位階十住則已墮於十住數中。或有衆生是佛弟子或非弟子。若因貪怖或因利養聽受是經乃至一偈。聞已不謗當知是人則爲已近阿耨多羅三藐三菩提。
また次に善男子ぜんなんしよ、譬えばある人が出家剃髮し袈裟を服たけれども、いまだ沙弥の十戒を受けていなかったところに、或いは、長者が来たって衆僧しゅそうに(食事の接待を受けることを)請い、(その袈裟衣を服ただけの)未受戒の者も大衆だいしゅと共にそのしょうを受けたとしたならば、いまだ戒を受けていなくともすでに(請食しょうじきの)僧数に入れられるようなものである。善男子よ、衆生しゅじょうあって発心し、始めて是の大乗の典、『大涅槃経』を学び、書持し読誦するようなのも、亦復た同様である。いまだ(菩薩の波羅蜜を)具足せず、その位が十住じゅうじゅうに達していなくとも、すなわち已に十住の数の中に入るのだ。或いは、衆生しゅじょうあって、それが仏弟子であれあるいは非弟子であれ、もしくは貪りや怖れに因って、あるいは利養に因って、この経の乃至一偈でも聞き、聞き終わって謗ることがなければ、まさに知るべきである、その人はすなわち已に阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだい〈anuttara samyak saṃbodhi. 無上正等正覚〉に近いということを。

曇無讖『大般涅槃経』巻六 如来性品第四之三(T12, p.399b)

以上のように、それはあくまで「譬え話」におけるものであって、現実にそのような者や場合がある筈もないことです。しかし、支那の学僧はこれを真に受け、また後半に説かれるいわゆる「初発心時便成正覚しょほっしんじべんじょうしょうがく」や「発心即到ほっしんそくとう」に連なる思想をもって、剃髪して袈裟を来ただけの者であっても出家社会に足を踏み入れたものとし、それを形同沙弥なるとして考えたようです。

形同沙弥、それは結局、出家得度式の途中、出家しようとする者が剃髪して俗服を脱ぎ、袈裟衣に着替えてから十戒を受けるまでの極短い間の者の状態を敢えて名づけたものとは言えるでしょう。現実的には、形同沙弥なる立場を偶発的にでなく、わざわざ設けて短時間でなく長期間そのままで居させる必然性と意味、確たる仏典の根拠は全く見出せたものではありません。

この「形同沙弥」なる存在について、七世紀中後半に海路で印度に入り、二十五年の長きに渡って彼の地の僧院生活および律儀の実際を見聞し、自ら実際に経験した義浄三蔵は、仏制に反し、印度にもなく、また堕落の元であるとして厳しく批判しています(『南海寄帰内法伝』巻三)。

けれども、これが支那でいつ頃から言われ出したものか不明でよくわかりませんが、法進がこのように述べているということは、南山大師道宣以降、比較的早い時期から(特に天台系の学僧により?)言われ出した説であったのでしょう。この説はさらに後代、南宋代に南山律宗を復興しようとした大智律師元照がんじょうにも継承されていたことが知られます。

此中須分形法二同。若但剃髮名形同沙彌。若受十戒名法同沙彌。
この(沙弥について云う)中、すべからく「形」と「法」の二同に分かたなければならない。もしただ髮を剃っただけの者ならば形同ぎょうどう沙弥と名づける。もし十戒を受けた者ならば法同ほうどう沙弥と名づける。

元照『四分律行事鈔資持記』下四(T40, p.416b)

天平の昔に鑑真一行がようやく伝えた比丘律儀は早くも平安中期に頽廃の憂き目を見、末期までには完全に形骸化して、その学問も多くの律学に関わる典籍すらも無きに等しい状況となっていました。そうしたところ、鎌倉期初頭、俊芿しゅんじょうにより、この『四分律行事鈔ぎょうじしょう資持記しじき』が宋から日本に初めてもたらされ、その律学が鎌倉期における戒律復興運動の流れで珍重され熱心に学ばれました。

それにより、以降は支那よりむしろ日本で元照の説はもてはやされ、近世までその説が行われています。したがって、中世以降の日本では、しばしば形同沙弥と法同沙弥という、沙弥といいながらも実際はその立場も扱いも異なる二つの立場が存在していました。

なお、沙弥であって具足戒を受けていなくとも、ある場合にはこれを「名字みょうじ比丘」といわれていたことが、伝統的には『四分律』の注釈書と見なされ用いられてきた『善見律毘婆沙ぜんけんりつびばしゃ』に伝えられています。

沙彌者。亦名比丘。如有檀越來請比丘。沙彌雖未受具足。亦入比丘數。是名字比丘。
沙弥を、また比丘と名づける。もしある檀越が(精舎に)来たり比丘に(食事の)招待をした際、沙弥でいまだ具足戒を受けていなくとも、また(食事に招待された)比丘の数に入れる。これを名字比丘という。

『善見律毘婆沙』巻七(T40, p.148b)

『善見律毘婆沙』はしかし、近代における仏教学の雄、高楠順次郎が『パーリ律』の注釈書Samantapāsādikāサマンタパーサーディカーの漢訳であることを立証して発表。時の西洋における定説を覆して日本の仏教学者の面目躍如たるものとなっています。『パーリ律』と『四分律』には相違点がそれほど無いことによって「伝統的誤解」が行われてきたのでしょう。そして西洋の学者の間では当時、パーリ語仏典で漢訳されたものは一つとして無いというのが定説となっていました。高楠順次郎の発見は、東洋の僧職者ばかりでなく、西洋の学者を非常に驚かすものでした。

ただし、戒律の伝統が全く絶え、それを自覚的していた中世の日本では、「名字の比丘」はしばしば「名字無戒みょうじむかいの比丘」とも言われ、すなわち「名ばかりで戒などそもそも受けてもいない偽比丘」といった自嘲的な語として用いられており、『善見律毘婆沙』のいう「名字比丘」とは全く異なったものとなっています。

沙弥とは出家者ですが、しかし僧伽の正式な成員ではなく、よって布薩などの僧伽の重要な儀式などに参加することは出来ません。ただその儀式の準備を任されるのみです。また僧伽に布施された食事や物について、比丘達の許可や布施者の指定がなければ、その分配に預かることは基本的にできません。

沙弥が数えで20歳となって具足戒を受け、比丘となって初めて、僧伽の一員として認められます。

もっとも、沙弥の生活は比丘に準じたものであり、具足戒を受けてはいなくとも出家修行者に変わりありません。よって、これを犯すようなことがあれば、悪作という罪が適用されます。また、悪作おさ以上の罪を犯した場合、比丘と同じ罰は与えられませんが、それなりの懲罰が与えられます。時には追放に処せられる場合もあります。

沙弥の学ぶべきこと

沙弥となった者はその和尚から、多岐にわたる様々な作法や教養を教えられ、出家者としての素養を身に着けなければなりません。例えば日々の袈裟の着方からたたみ方、そして日用の鉢の扱い方、比丘に対する礼式、経文や阿毘達磨などなどです。

その中でも、これは仏教というものについての学習法として、特に最初に必ず暗唱させられるものがあります。パーリ語ではSāmaṇeraサーマネーラ pañhaパンハ(沙弥への問い)、漢語では十数じっしゅと言われる十ヶ条からなる文言です。

Sāmaṇera pañha 十数
No. パーリ語 漢語
1 Eka nāma kiṃ? sabbe sattā āhāraṭṭhitikā.
一者一切衆生皆依飮食
何が一であろうか?一切衆生〈sabbe sattā〉は、食〈āhāra〉に依って存在する。 一は一切衆生、皆食に依る。
2 Dve nāma kiṃ? Nāmañ-ca rūpañ-ca. 二者名色
何が二であろうか?名〈nāma〉と色〈rūpa〉とである。 二は名〈精神〉と色〈物質〉
3 Tīṇi nāma kiṁ? Tisso vedanā. 三者痛痒想
何が三であろうか?三種の受〈vedanā〉である。 三は痛痒想〈受〉
(苦・楽・不苦不楽〈捨〉
4 Cattāri nāma kiṁ?Cattāri ariyasaccāni. 四者四諦
何が四であろうか?四聖諦〈Cattāri ariyasaccāni〉である。 四は四諦〈四聖諦〉
(苦聖諦・苦集聖諦・苦滅聖諦・苦滅道聖諦)
5 Pañca nāma kiṁ? Pañcupādānakkhandhā. 五者五陰
何が五であろうか?五取蘊〈Pañcupādānakkhandha〉である。 五は五陰〈五蘊〉
(色・受・想・行・識)
6 Cha nāma kiṁ? Cha ajjhattikāni āyatanāni. 六者六入
何が六であろうか?六入処〈Cha ajjhattikāni āyatanāni〉である。 六は六入〈六根〉
(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)
7 Satta nāma kiṁ? Satta Bojjhaṅgā. 七者七覺意
何が七であろうか?七覚支〈Satta Bojjhaṅga〉である。 七は七覚意〈七覚支〉
(念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・軽覚支・定覚支・捨覚支)
8 Aṭṭha nāma kiṁ? Ariyo aṭṭhangiko maggo. 八者八正道
何が八であろうか?八聖道〈Ariya aṭṭhangika magga〉である。 八は八正道。
(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)
9 Nava nāma kiṁ? Nava sattāvāsā. 九者九衆生居
何が九であろうか?九衆生居〈Nava sattāvāsa〉である。 九は九衆生居〈九地〉
(欲界五趣地〈以上、欲界〉、離生喜楽地・定生喜楽地・離喜妙楽地・捨念清浄地〈以上、色界〉、空無辺処地・識無辺処地・無所有処地・悲想非非想処地〈以上、無色界〉
10 Dasa nāma kiṁ? Dasahaṅgehi samannāgato Arahā ti vuccatī ti. 十者十一切入
何が十であろうか?十支(の徳)を備えた者は「応供〈Araha〉」と言われる。 十は十一切入〈十遍処〉
(地・水・火・風・青・黄・赤・白・空・識)

以上のように、上座部にて行われてきたものと支那そして日本でのものとでは、ただ第十が異なるのみで、他は完全に一致しています。いずれも一から十の数字に掛けて、仏教の主要な教義・名目を効率よく憶えさせるものとなっています。このように数に依って名目を分類し、解説したのを法数ほっすうといいます。

ここで示したのは沙弥が学ぶべき素養の極々一部に過ぎませんが、このような文言を暗唱し、仏教の教義を漸々として学んでいくことにより、やがて具足戒を受けて比丘となる日に備えるのです。

そこで、支那に仏教が伝わってから三世紀ほどして後に著されたという『沙弥十戒法しゃみじっかいほうならびに威儀いぎ』があります。これは当時、依然として仏教僧の何たるか、その威儀作法・律儀を理解していなかった支那人に対し、懇切丁寧に(見習い)僧の「あるべきようわ」を説いた重要なものです。

実はこの書の注釈書として『沙弥十戒并威儀経疏』が、これは上に数数引いた書の中にもあるのですが、鑑真とともに渡来した法進ほっしんによって日本で著されおり、今に伝えられています。それはやはり、当時の日本の僧徒ほとんど多くが、往古の支那に同じく見習い僧である沙弥としての素養すら備えておらず、これを皆が学ぶ必要のあることが痛感され、著されたものであったと考えて違いないものです。

そのいずれも、そもそも仏教僧とは何かなど全く知らず、知ろうとすら意識もしない、今の日本の僧職者らが読んでこそ価値あるものとなるに違いない書です。

非人沙門覺應