栂尾明恵上人遺訓
文暦二年乙未夏の比より始て人の聞き持てるを集て記之。定で誤あらん歟
人は阿留辺畿夜宇和と云、七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。乃至帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此あるべき様を背く故に、一切悪きなり。
我は後世たすからんと云者に非ず。ただ現世に先あるべきやうにて、あらんと云者なり。
佛法修行は、けきたなき心在まじきなり。武士なんどは、けきたなき振舞しては、生ても何かせん。仏法もかくなめくりて、人に随て、尋常の義共にて、足りなんと思ふべからず。叶はぬまでも、佛智の如く、底を究めて、知んと勵むべし。多く不レ知、非學生とこそ、云れんずれども、其は苦しからず。かいなめくりて、けきたなき心不レ可レ有。左様にては、頭を丸めたりと云計にて、人身を失はぬまでも有がたし。すすき法師など云、田樂法師に、何ぞ異ならんと云云。
上古、仏法を愛樂しけん人の心は、此の比名利に貪する人の如くこそ、ありけめと覺ると云事、予多年云事にて有に是に少も違ぬ文、阿含經に有けり後日見レ之云云。
吾は人に追從するなんど、申されんは、今は苦しからず。心に全く名聞利養の望なし。又佛像經巻を勧進して、とらせんなど申事だにもなし。其より下は、衆生界に向ては、隨分の慈心を以てせざらん外は、別の事有べからず。乞食癩病なりとも、我を侮るなんど、思はれん事は、心うき耻なり。
人の信施は内に叶ふ德ありて、受るは福なり。破戒の比丘、若し後世の報なくば、衣は炎網と成て身を焦し、食は熱輪と成て、腹を穿たん事、必定して疑なかるべし。
人は我が祈りの爲とて、經陁羅尼の一巻をも讀ず、焼香禮拜の一度をもせずとも、心身正くして、有べき様にだに振舞はば、一切の諸天善神も是を護り給へり。願も自ら叶ひ、望もたやすく遂るなり。六惜く、こせめがんよりも、何もせずして、只正くしてぞ在るべき。心づかひは、物に觸て、誑惑がましく、欲深く、身の振舞は、いつとなく、物荒く、不当に放逸にては、證果の羅漢僧に誂て、百万の經巻を讀ましめ、千億の佛像を造て、祈る共、口穢て、經讀者の罰あたるが如し。心穢て祈する者は、弥よ悪き方には成り行く共、所願の成就する事は、ふつと有まじきなり。其を愚なる者、心をば直さずして、己れが恣ままの欲心計に纏されて、祈らば何にか叶はざらんと、猥りに憑を懸て、愚痴なる欲心深き法師、請取て、心神を悩し、骨髄を摧て、祈り叶へぬ物故に、地獄の業を作り出すこそ、げに哀に覺ゆれと云〃。
人常に云く、物をよく知れば、憍慢起ると云事心得ず。物を能知れば、憍慢こそ起らね。憍慢の起んは能知らぬにこそと云〃。
東寺の塔を、一条口にて見たる程に、佛性を見たらん者は、終に九条へ、至らんが如し。此事極て、有がたしと云〃。
佛法者と云は、先心が無染無著にして、其上に、物知たるは學生、験あれば験者、眞言師とも云也。能もなく、験もなきは、無為の僧なるべし。若纔に有所得ならば、更に佛法者と、云ふに足らずと云云。
波斯匿王、佛に白して言く、我母既に逝去しぬ。若人あって、是を生けしむる者あらば、國城妻子をも捨て、我身命をも施して、報ずべしと云云。今の世の人少しうれしかる事は有とも、是程の憂愁は、更に有べからず。上古末代、大國邊夷、懸に隔たる事は、皆心得られたり。悲しき哉やと云云。
栂尾明恵上人遺訓
文暦二年乙未〈1235〉夏の頃より始め、人々が聞いた所を集めてそれを記した。きっと誤まりがあることだろう。
人は「阿留辺畿夜宇和」という、七文字をたもつべきである。僧は僧の「あるべき様」、俗は俗の「あるべき様」である。乃至、帝王は帝王の「あるべき様」、臣下は臣下の「あるべき様」である。(僧・俗の者それぞれ皆が)この「あるべき様」に背くために、すべて悪くある。
私は(今世においてでなく、生まれ変わった次の)後世にて救われようなど云う者ではない。ただこの現世において、まず「あるべきよう」にあろうと云う者である。
仏法の修行には、汚らわしい心があってはならない。武士などのように汚らわしい振る舞いをするならば、(そんな人生を)生きてどうしようというのか。仏法をいともないがしろにして、(俗世のもののわからない)人に随順して世間一般並のことだけで充分であるなどと思ってはならない。(すべて自らの思う通りに)叶いはしなくとも、仏の智慧のように、(事物の)奥底を極めて知ろうと励むがよい。博識でなければ「非学生〈非学僧〉」などと(侮りがちに)言われるであろうが、そんなことを気にする必要はない。(大切なのは、仏法を)いともないがしろにして汚らわしい心を持たないことである。その様では、ただ頭を丸めているというだけで、人としての生を失わないのも容易でない。「すすき法師」などと云われる、 田楽法師に何が違うというのか。
上古〈釈尊在世の昔〉における仏法を願い求める人の心は、この頃の名誉・財産を貪る人のごとく(熱心なもので)あったであろうと云う事は、私が長年言ってきたことであるが、これに少しも違わない一節が『阿含経』に説かれていた。後日その一節を見てみなさい。
私が人に追従しているなどと言われても、今は気にする必要などない。(私の)心に名声や財産への願望などありはしないのだ。また仏像や経巻の勧進をして(その見返りに何事かを)与えようと言うことなども決してない。それよりも、衆生界〈生けるものすべて〉に対して随分の慈心〈安楽であれと願う心.思いやり〉を持ってすること以外に、別の事などありはしない。乞食や癩病者であっても、(人が)自分を侮っているのだと思うのは、心につらく恥べきことなのだ。
人からの信施は、(自身の)内に(それを受けるに相応しい)徳があって受けるならば福となる。破戒の比丘であって後世への積善がなければ、(その後世において)袈裟衣は炎の網となってその身を焦がし、食は灼熱の輪となって腹に穴をあける事は間違いなく、疑うべきことでも無い。
人は「我が祈りの為である」といって、経や陀羅尼の一巻であても読まず、焼香や礼拝を一度でもしなくとも、心身を正しくして「あるべき様」に振る舞っていれば、すべての諸天・善神もその人を守護される。その願いも自ら叶い、望みも容易く遂げられるのだ。見苦しく、恨みがましくするよりも、何もしないで、ただ(自らを)正してあるべきである。心使いが物に振れては欲に惑わされるばかりで欲深く、身の振る舞いは常に粗暴であり、節度なく勝手気ままであっては、悟りに至った阿羅漢の僧に頼みこみ、百万の経巻を読ませ、千億体の仏像を造って祈ったとしても、口汚い者が経を読めばむしろ罰があたるようなものである。心が穢れていながら祈りをなす者は、いよいよ悪い状況になっていくことはあっても、願いが成就する事などまったくありえない。それを愚かな者は、心を直すこともなく、己の恣な欲心に絡み取られて、「祈れば何かは叶わないことはない」と猥りに頼みを掛け、愚かで道理のわからぬ欲心の深い法師に(読経など祈祷することを)請いて心を悩まし、苦心惨憺して祈りを叶えようとするむしろその故に、地獄へ堕ちる業を作り出してこそいるのであって、(私にはそのような者らの「祈り」が)本当に哀れに思えてならない。
人が常々に口にする、「物をよく知れば、驕慢起こる」ということは納得できない。物をよく知れば、驕慢こそ起こることはない。驕慢が起こるのは、よく知らないからこそである。
(京都洛中の南端、九条にある)東寺の塔を一条口から見るように、仏性〈自身の内に潜む菩提を得ることの可能性〉を見た者は終には九条(たる悟り)へ至るようなものである。(仏法を確かに修めたならば、必ずその証果があり、いずれはきっと悟りに至るのだ。)このことは極めて、この世に希有なことである。
仏法者というのは、先ず心が(自らが見聞覚知した事物に)染まらず著せず、その上で、物をよく知るものは学僧、功験をあらわす者は験者や真言師とも言うのだ。知識もなく功験力もないのは、無為〈何もなく空っぽで役に立たないこと〉の僧である。もしわずかでも(財産・名誉など世間に対する)執着があったならば、もはや仏法者とすら云うことも出来ない。
波斯匿王〈コーサラ国のパセーナディ王〉が仏に申し上げた、「私の母が逝去しました。もし人で母を生き返らせる者があれば、(私は)国や妻子をも捨て、我が身命すら抛ち、(その恩に)報いるでしょう」と。今の世の人には少しばかり嬉しい事があったとしても、これ程の憂愁はありはしないだろう。上古と末代、(印度という)大国と(日本という)辺s境国、(それぞれ)はるかに隔たるものであることは、すべてわかってはいることである。(しかし、それにしても)悲しいことではないか。
『遺訓』に一貫する明恵の信条を七文字で端的に表した言葉。『遺訓』は基本的に僧に対して説かれた言葉の集成であるが、この一節では僧俗共にその立場に応じて「現にある」規範規律を守り、その立場に応じて為すべき事を成せと諭している。
現代の人で文筆家などと云われる者には、なぜかこの言葉を「自分の本当にすべきことを模索し云々」・「日々の反省を云々」・「モノとココロが云々」などと、こねくり回して浪漫的に解釈するのが多くある。また、時としてこの言葉を「封建社会の身分制を是とし、その意味における人それぞれ定められた分際を守るべきであるという、為政者からすればすこぶる都合が良く、また不合理な差別を容認する前時代的けしからん言葉である。明恵は差別主義者であった」などと解する運動家の左巻きも稀にある。あるいは「すべては変わりゆくもの、諸行無常である。よって、その場その場で異なる状況に即応して対処せよ、との言葉である」などと解釈する者もある。これは一見、日本人がもっとも好む適当な解釈に思われるかもしれないが、見当違いである。
明恵は「その場その場で変わる状況に対して、その場その場でころころ変ええる基準をもって応じよ」などといった状況倫理など全く説いていない。これは「人によって異なる立場・役割について、亀鑑とすべき基準・原則があるならば、それに自身の恣意的解釈を施さず従い、為すべき事を為し、為すべきでないことは為さずにあれ」との意味である。従うべきはコロコロと変わりゆく状況ではない。これは『遺訓』全篇を読むことによって理解できるであろう。現在もこの言葉は、すべての合法的職業や立場について言い得る普遍的なものである。もっとも、この言葉を本当に理解するには、仏教、といってもそれは何処かの宗派の解釈によって凝り固まり偏ったものでなく、直接に様々な仏典を学び理解することによってこそ、初めてなされるであろう。▲
来世。ここでの言葉は、当時法然が世に吹聴していた「末法にあっては人はいかなる努力をしてもこの世で救われることはないから、ただ阿弥陀仏をこそ信仰し、「南無阿弥陀仏」と唱えることによって死後に極楽往生して救われよう」とする浄土教を意識し、それを批判したもの。明恵が言っているように、本来の仏教にこのような思想はない。仏教とは、この世で、他者によるのではなくみずからの正しい努力によって、自らを救うことを説く道である。▲
気穢き心。不純な・粗暴な心。「け」は接頭辞で、ののしりの意を表す。▲
いともないがしろにして。「かく」は本来「かき」で、動詞に付けて強意を表す接頭語。「かい」・「かっ」とも音便変化するが、ここでは「かく」と記される。「なめくる」は「無礼くる」で、ないがしろにすること、無礼であること。▲
世間並みのこと。世間一般では充分とされていること。▲
学僧でないこと。『遺訓』に通じていわれる学生(がくしょう)とは、現代言われるような学生(がくせい)のことではなく、学問をもっぱらにする僧いわゆる学僧のこと。当時、難関の試験を通過した僧侶は学侶(がくりょ)と言われ、雑事に従事する行人や堂衆、大衆といわれる凡僧より上位に位置し、得た位に応じて朝廷から扶持が出る一種の国家公務員であった。▲
田楽法師の蔑称。▲
田楽をもっぱらとする僧形の芸能者。これに実際に僧分である者と、僧でない在俗の者とがあった。田楽とは、平安期、民間の農耕儀礼を遊芸化した芸能。田植時、田の神を祀って歌い舞ったのが原形とされる。猿楽や能楽の原型と言われる。鎌倉期から室町期にかけ非常に流行し、当時の人を虜にしていたという。鎌倉期には東大寺や興福寺の仏前にて僧によって法会の中で執りおこなわれることがあった。次第に賤民の専業とされるようになり、近世は特に被差別階級の人々がこれを伝えた。▲
大昔。明恵は『遺訓』において「釈尊やその直弟子達が健在だった当時」の意で用いる。▲
願い求めること。▲
名聞利養。名誉・名声と利益・財産。▲
『雑阿含経』巻二十四「有二種財。銭財及法財。銭財者従世人求。法財者従舍利弗大目腱連求。如来已離施財及法財」(T2, p.177a)を念頭にしたものであろう。▲
寺社の建立あるいは仏像の造立・修理、もしくは経典の書写などのために、人々に勧めて寄付を募ること。▲
生けるものの、意識持つものの世界。衆生とは、意識・生命ある存在。▲
自他を慈しむ心。自分および他者に安楽あれ、幸せであれと願う心。伝統的としては、慈とは「与楽(楽を与えんとする思い)」の意とされ、また「無瞋(怒りなき思い)」とされる。▲
心憂き恥。つらく恥ずべき事。▲
信者からの布施、供養。▲
僧として守らなければならない学処の中でも重罪とされる事項を破ること。
正規の仏教僧である比丘は、一般に二百五十戒といっておよそ二百五十条からなる諸規定に従わなければならず、それらはまた罪の軽重によって五種あるいは七種に分類される。中でも最も重い罪は、婬(男女動物問わずあらゆる種類の性交渉)・盗(重窃盗)・殺(殺人および殺人教唆、自殺教唆)・妄(自分が悟りを得た、高い境地に到ったとの宗教的虚言)の四種であり、これを犯せばただちに比丘の資格は消滅し、教団から永久に追放される。これを波羅夷罪という。この次に重大な罪は十三あり、僧残罪という。僧残罪を犯した場合、ただちに追放とはならないが、許されるのには多くの条件を満たさなければならない。
律に「犯して良い項目」などというものは無いが、軽罪とされる律を破った比丘をして「破戒の比丘」とは普通言わない。▲
仏教の正式な僧侶。比丘とは「(食を)乞う者」を原意とする、[S]bhikṣu/[P]bhikkhuの音写。比丘になるためには、数え二十歳以上であること、両親の許可があること等、二十三の条件を満たしている必要がある(律蔵によって若干異なる)。
なお、明恵は『栂尾明惠上人伝』によれば、十六才の時に東大寺戒壇院にて受戒したとされている。これは平安末期から鎌倉初期の当時、東大寺戒壇院における律の伝統が断絶し、そこでの受戒は「僧侶という資格を得るための通過儀礼」を受けるに過ぎない形骸化した場所になっていたことを意味する。そしてまた、これは戒律を重んじた明恵ですらも、正規の仏教僧たる比丘ではなかったことをも意味する。なんとなれば、律とはそれを守っている伝統があって初めて機能するものであり、また十六才で受戒したとしてもそれは無効であって比丘となったとは決して見なされない為である。当時は誰も比丘になることは出来なかった。その状況を打開したのが明恵没後まもなくの嘉禎二年(1236)、叡尊・覚盛等に四人による戒律復興であったが、その復興の方法は仏教として多くの、そして重大な問題を抱えるものであった。▲
陀羅尼。[S]dhāraṇīの音写、総持・能持と漢訳される。しばしば比較的短いものを真言、長いものを陀羅尼と言うとされるが、短い陀羅尼も存在するため適切ではない。▲
神々。ただし、神といってもそれは輪廻する存在、すなわち人などと同じく迷いの中にある存在であって、人より格段に勝れた力を持ち、長大な寿命を持ってはいても死すべきもの。西洋のユダヤ教・キリスト教・イスラム教が奉じる万能の存在でなく、また唯一の存在でもない。仏教においては、神もまた「生けるもの」すなわち衆生の一部とされる。▲
「惜」は「借」の誤植であろう。「むつかし」の当て字。ここでは、見苦しい・わずらわしいの意。▲
小鬩(こせめ)ぐ。互いに恨み争うこと、責め立てること。▲
人を騙し、惑わすこと。▲
菩提を得ること。悟りに至って解脱すること。▲
阿羅漢となった僧。阿羅漢とは、[S]arhatあるいはarahantの音写で、応供と漢訳される。仏陀の異称の一つでもある。声聞果としては最上の境地。▲
祈りを貴いものと考え、祈りによって何事かが変わるとする思考。古今東西を通じて一般的な宗教的信条。
現在も世間では一般的に「祈りは尊い人間の精神活動」と見られることが多い。しかし仏教においては、そのような意味での祈りは行われない。なぜならば、祈りを叶えるとされる「絶対的存在者としての神」の存在など認められないためである。また、自らの願望を叶えたい、という心情も否定的に見るからである。この世はほとんど不如意であり、制御が可能なのは自らの身と言葉だけである。その心の陶冶は身口を制御した上で修禅を成就したことによる、いわば非人情の智慧によってのみ達成される。そのようにする課程に祈る意義も必要もない。また、祈りという行為自体、尊いものなどでは決してない。人はその歴史の中で、祈りながら、「清い」信仰によりながら、崇高と言われる行いをする一方で、筆舌に尽くしがたい非道を行ってきた。元来、仏教は基本的に「祈らない宗教」である。ところが、案外日本の仏教者は「祈りは尊い。祈りによってこそ。信心と祈りがもっとも大切」などと平気で説法している。一般には「念ずれば花開く」という言葉が人口に膾炙されている。しかしながら、念じなくても開く花は開く。花が開くのに必要なのは祈りでない。▲
驕慢。おごり高ぶって他を見下し侮ること。▲
東寺(教王護国寺)の五重塔。その昔は洛中の象徴的建造物で、京都のいずこからもその塔の姿が見えた。羅城門を挟んでその反対側には西寺があり、そこにも同じ塔があったが正暦元年〈990〉に消失。すぐ再建され、その後の建久年間に明恵の師、文覚がその塔の修理監督に当たっている。しかしまた明恵が示寂した翌年の天福元年〈1233〉に消失し、その後再建されなかった。従って、明恵の当時は東寺と西寺の塔はいずれも存在していた。▲
生けるもの皆が生まれながらに有している仏陀となりえる可能性。▲
五根の対象すなわち知覚する事物に心が囚われず、自由であること。何にも拘らない様。▲
「げんじゃ」とも。加持祈祷など修法により、なんらか不思議な霊験を得た者。▲
密教僧。▲
欲心を持つこと、こだわりの心を持った状態。▲
波斯匿は[S]Prasenajit/[P]Pasenadiの音写。釈尊在世当時、ガンジス川中流域でマガダ国と勢力を争っていた大国コーシャラ(コーサラ)の王の名。釈尊と同じ年に生まれたとされ、出会ったときから釈尊に帰依して事ある毎に相談していた。▲
『雑阿含経』「我亡祖母極所敬重。捨我命終。出於城外闍維供養畢。來詣世尊佛告大王。極愛重敬念祖親耶。波斯匿王白佛。世尊。極敬重愛戀。世尊。若國土所有象馬七寶。乃至國位悉持與人。能救祖母命者。悉當與之。既不能救生死長辭。悲戀憂苦不自堪勝」(T2, p.335b)に基づいた話。▲
明恵当時の「現在」であり、道義の衰えた世。▲
辺境の夷国。ここではインドを中心と考え、さらにそこから遠く離れ、また支那からもさらに辺境の野蛮国とされた日本。▲