我常に志ある人に対して云、佛になりても何かせん。道を成しても何かせん。一切求め心を捨はてて、徒者に成還りて、兎も角も私にあてがふ事なくして、飢来れば食し、寒来れば被るばかりにて、一生はて給はば、大地をば打はづすとも、道をうちはづす事は、有まじきと申を、傍にて人聞て、さては徒ら者に、成たるがよき事、ござんなれと、我も左様にならんと思て、飽まで食し、飽まで眠り、或は雑念に引れて、時を移し、或は雑談を述て日を暮し、衆の爲に墓無き益をもなさず寺の爲に假にも扶けにならず、明ぬ暮ぬと、過行て、我こそ何もせずして、徒者に成ぬれと思はば、是は畜生のいたづら者に、成還りたり。如レ是ならば、必定して、地獄の數と成べし。何ぞ佛果を成ぜんや。 我いふ所の、徒者といふは、先身心を道の中に入れて、恣に睡眠せず、引ままに任て、雑念をも起さず、自由なるに隨て、坐相をも亂らず、終日終夜、志如レ此して、能をも嗜まず、藝をも求めず、佛に成らんとも思はず、道を成ぜんとも願はず、人中の昇進更に投捨て、一切求る心なくして、徒者に成かへりて一、生はてんと、大願を立給へとなり。佛に成らむと思てこそ、出家學道をもするに、佛に成んとも思ふなと云ふ、畏ろしなんど、疑ふべからず。左様にては、道を成ずる事は、更にあるまじきなり。我は人を、佛になさんとこそ思へ、人を邪路に、導かんとする事はなし。但我を憑て信ずるとならば、此の方便を信ずべし。生涯如レ此の徒者に成還らば、豈徒なる事あらんや。
師資の様、極て佛法に重き事也。直饒百嵗なり共、法を不レ知、十嵗の比丘に随て、法を聞けと云〃。
禮佛讀經大小便等を除て、餘は一々に師に申せと云〃。
此の比は、如法の佛法の外は、よも過にもならじと覺へたり。狼の尾の端を切て、集り居たる様也と云〃。
師なき時は、所の上首に依止すべし。互に皆如レ此下に成らんとしたる事也。如レ此ならずして、不和合にて、集り居るは、虎狼毒虵に、何ぞ異ならん。
阿難尊者の、妹の尼御前、迦葉尊者に對し奉て、腹を立て、地獄に墮と見へたり。分々に随へば、今の世にも、僧に對して、腹立したらば、地獄の業也。然を、此等程の事をば、罪造りたりとも思はずして、我も人も、過行は、淺猿き事也。
菩提と云事は、始め只内心少し、法理に順じて、無下に甲斐なげなるまでも、内に自ら、人法二空に順じたれば、人に勝たりと思ふ事なし。ますぐにし、居たらん者は、即此の生にも、佛の加護あらん。其の加護と云は、即理に契ひて、信力ありて、心やさしからんずる也と云〃。
道場に入る毎に、生身の佛の御坐と思て、正く生身の如來の、御前に望む、思を成べし。木に刻み繪に書たるを、生身と思へば、軈て生身にて有なりと云云。
寂静を欣て、空閑にある事は、如何様にも、勇猛精進にて、頭陀門の、行者等に取ての、上の事なり。尋常の行者は、衆を結で居て、互に過を守て、修行を勧めたるは、増るべし。佛も四人より少くて居するをば制し給へり。閑に片角にとてあるは、物ぐさき者の、心の引方とて、好で道心ある躰に、云ひ作んとするは、誑惑の心なるべし。身の安きままに眠居て、世會してあるなり。或は小坊造り、或は部屋かこひへだて、晝夜眠り居たるは、生きながら、棺をさして、入籠りたる定なり。かくては、何の世にか、佛にも成べき。口惜き哉や。適人身を受て、幸に袈裟を纏ひ、佛法に入て、行道すると名付て、何ともなき事にし成て、空く三途に歸らん事よ。去ば是を歎て、建仁寺の僧正御坊、連坊を造て、一所にて、人間世を打捨てて、一筋に道を願はん人を集て、法友として、万事を打捨てて、行道せんとすると、語り給し。尤もげにあらまほしき躰也。自恣の僧とて、功德深きも、同じ所に衆を結で、互に共磨きにする故也。何佛の方角にて、居睡りせよと、教へ給へる事のある哉。八万聖教ひろければ、さる事もや有らん。予は未だ、見及ばざる所也。
私が常に志ある人に対して云っている、「仏となっても何だというのか。道を成就しても何だというのか。あらゆる求める心を捨て去って、徒者に成りきって、兎にも角にも私 にどうこうしようとする事なくして、飢えたらば食べ、寒くなれば着るだけで一生過ごし通したならば、大地を踏み外すことはあっても、道を踏み外すことはない」という言葉を、傍にて人が(拾い)聞き、「なるほど、徒者になるのが善いことであるのか」と、「では、私もその様な者になろう」と思って、飽きるまで食べ、飽きるまで眠り、あるいは雑念に心を引かれて時を過ごし、あるいは雑談にふけって日々を過ごし、他の僧らの為にごく小さな事でも益になることをせず、寺の為にいささかの助けにもならず、明けぬ暮れぬと(無意味に)過ごして、「私こそ何もしないで徒者になれたのだ」などと考えたのならば、それは畜生の徒者に成りきっているにすぎない。その様であれば、必ず地獄に堕ちてその住人の一人となるだろう。どうして(その様な者が)仏果を成就することが出来ようか。私が言うところの徒者とは、先ず(自らの)身も心も仏道修行の中に置いて、恣に睡眠せず、(何事にもよく気をつけ集中して)心が動くにまかせて雑念をも起こさず、自由でありながらも修禅の姿勢をも乱れさせないことである。終日終夜、志をこの様な(堅固な)ものにして、能など嗜まず、(音楽・舞・画など)芸を求めず、仏になろうとも思わず、道を成就しようとも願わないことである。人事の昇進など(名声・財産に関わる欲は)ますます投げ捨て、あらゆる求める心をなくして、徒者と成りきって一生過ごそうとの大願を立てよ、との意味である。仏になろうと思ったからこそ、出家して学道をもするというのに、「仏になろうなどと思うな」とは(明恵は)恐ろしいことを言うものだ、と疑ってはならない。その様では、道を成就することは決してない。私は、人を仏に成らせようとこそ思いはしても、人を邪な道に導こうとする事はない。ただ私を頼り信じるというならば、この方便を信じよ。生涯、この様な徒者に成りきったならば、どうして無益なことがあろうか。(いや、必ず道を成就するであろう。)
師と弟子の関係は、極めて仏法において重い事である。たとえ(生まれてから)百歳であったとしても、(自ら)法を知らないのであれば、(具足戒を受けてから)十年の比丘を(自らの師、和上として)随順し、法を聞け。
礼仏・読経・大小便などを除いて、他はことあるごとに師に報告せよ。
この頃(の世間の僧徒ら)は、如法の仏法の他は、よもや過にすらならないと思っている。狼の尻尾の端を切って寄せ集めている様なものだ。
師が不在の時は、その場所の上首に依止〈自身の教導を任せること.師事に同じ〉しなければならない。互いに皆がその様に下座にあろうとする事だ。その様に(皆が誰かの下に就いてその教導に従おうと)せずして、不和合ながら集まり居るのは、虎・狼・毒蛇(などの禽獣)と何も異なりはしない。
阿難尊者の妹の尼御前は、迦葉尊者に対して腹を立て、地獄に堕ちたとされている〈『分別功徳論』〉。それぞれ異なる「分」というものに随ったならば、今の世であっても僧に対して腹を立てるのは、地獄に堕ちる行為である。さりながら、それらの様な事を罪作りであるとも思わないで、我も人も気にせずにあるは浅ましいことである。
菩提という事は、(修行したばかりの)始めはただ内心が少しは法理に順じ、まったく甲斐の無いようであっても、内には自ら人法二空に順じていれば、(自分が)人より優れていると思うことはない。真っ直ぐにして(修行の日々を)過ごしている者は、この生涯において仏の加護があるだろう。その加護というのは、つまり理に適った信力があり、心が慎み深くなるであろうということである。
道場に入るたびに、「(ここには)生身の仏がいらっしゃる」と思って、正しく生身の如来の御前に隣席するとの思いをなすがよい。木に刻み、絵に書いたのを生身(の仏である)と思ったならば、やがて(本当に)生身としてあるようになる。
寂静〈涅槃〉を願って空閑〈森林.都会村落から少し離れた閑静な場所〉に身を置く事は、確かに勇猛精進なことであって、頭陀門の行者などにとってこの上ない事である。(しかしながら、それは限られた機根の者にとってのことであって、)一般的な行者は、衆〈僧伽〉を結んで生活し、互いに過の無いよう注意して修行を勤めるのが、(孤独に頭陀行することに)勝るであろう。仏も(僧は)四人より少なくて生活することを制されている。長閑に(町や村の)片隅に居ようとするのは、物ぐさい者が心を寄せるところであり、自ら好んで道心がある様に取りつくろうのは、誑惑の心である。その身を居心地良く眠り過ごして、この世にあるだけである。あるいは小坊〈庵〉を造り、あるいは(自らの)部屋をかこい隔て、昼も夜も眠り過ごすのは、生きながら棺桶を担いで(その中に死人のように)籠もっているようなもの。そうであっては、いつの世に仏と成り得ようか。なんとつまらないことであろう。たまたま人としての生を受け、幸いにも袈裟をまとい、仏法に入って行道すると言いながら、何をするでも無い事に自ら成って、むなしく三途〈地獄・餓鬼・畜生〉に再び生まれ変わるであろう。そのようなことから、これを嘆いて、建仁寺の僧正御坊〈栄西〉は、連坊〈僧坊〉を造って、一所にて人間の世を打ち捨てて、一筋に道を願う人を集めて法友として、万事を打ち捨てて行道しようと思うとおっしゃられた。なるほど実に理想的な様子である。自恣〈夏安居の明ける最後の日〉の僧は功徳の深いものであるが、それは(夏安居の間、)同じ場所で衆を結んで、互いに磨き合うからこそのことである。いつ仏が「片隅で居眠りせよ」と、お教えになった事があるというのか。八万の聖教は広大であるから、その様なことが説かれている事もあるかもしれない。(しかし、そのような教えなど)私は未だ見たことはない。
無用の人。役立たず。徒人(いたづらびと)に同じ。もっとも、明恵はここで徒者を、仏道に専心して他の何にも気を払わず、ひたすら菩提を求めて修行する人の意で用いている。仏法修行以外には、役に立たない人という逆説的用法。▲
『景徳伝燈録』や『臨済録』など支那の禅書にみられる大珠慧海の言葉「飢来喫飯困来眠著」を引いた語。もっとも「困(つか)れ来たらば眠りに著(つ)く」と「寒来れば被る」とやや相違している。明恵が臨済禅を日本に初めて伝えた栄西との交際があって、その禅書を少なからず学んでいた痕跡がここに見られる。▲
諺に云われる「大地に槌」の逆用。絶対に失敗しないことの喩えを以って、万一にも失敗することをいい、続く言葉に云うことが絶対無いことを強調している。▲
『孟子』「飽食暖衣 逸居して教無くば、則ち禽獣に近し」を引いての語であろう。▲
座禅の姿勢。その姿。▲
出家者が世間の芸能を鑑賞したり関わったりなどしてはならないのは戒と律いずれもが禁じている事項。しかしながら、これは現在も同様であるが、当時も僧が芸能事に関わるのは義務、あるいは必須のたしなみの一つであるが如く顔をし、それにうつつを抜かす輩が多数あった。当時は田楽・猿楽がその典型であった。▲
師と弟子。▲
具足戒をうけてから十夏の安居を過ごした比丘。仏教では、出家してからの年数ではなく具足戒を受けてから夏安居を過ごした回数の寡多によってのみ、その序列が決定される。いくら実年齢が高くとも、比丘となって日の浅いものは年少の比丘とされる。また、比丘となって五夏を経過し、一通りの素養を備えた者は五夏の阿遮梨と云われ独り立ちすることが出来る。そして十夏を経過した徳ある者に限り、はじめて弟子を取ることが許され、実際に弟子をとって師となった者を和尚(和上)と言う。そのようなことから受具後、十夏を経ることを蓄沙弥の年限、畜沙弥の歳などともいう。また弟子でなくとも新学の比丘の指導が可能になるのも十夏以上を経過した徳ある者のみに許され、その者は依止阿闍梨と云われる。いずれも律蔵に詳細な規定がある。
和上となって弟子をとり、そのまた弟子に具足戒をうけて十夏を経た者があれば、長老と呼ばれる。よって、四十歳にして長老と呼ばれる者も存在しうる。
ここで明恵がこの点について言及しているのは、明恵が多少なりとも律学に触れていたことを示している。▲
仏陀の教えに忠実に則ること。法の如く有ること。仏教僧が常に意識すべきこと。▲
法臈(ほうろう)すなわち具足戒を受けてから夏安居の回数の最も多い僧。具足戒を受けたのが同じ年であって過ごした夏安居の回数も同じであった場合、一秒でも早く具足戒を受けていた者が上臈となる。▲
教導を仰ぐこと。受戒してより五夏未満の比丘は「新学の比丘」といって、自らの師である和上の膝下で日常の立ち居振る舞いから、経や律について学ばなければならない。旅に出て不在や死去して失ったなどの諸事情により自らの和上に指導を仰ぐことが出来ない場合は、受戒してより十年以上の和上の代替を為し得る依止阿闍梨に指導を仰がなければならない。これを依止師とも言う。和上・阿闍梨ともにどのような者が成りうるかについて、律蔵に詳細な規定がある。これは出家し受戒して間もない新学の比丘が、無知なるが故に律蔵が禁じた事項を犯すことを防ぐための措置であり、また出家して家族を離れた僧たちの老後の世話を弟子がするための措置でもあった。▲
律蔵の規定を無視して僧が一致団結しないこと。ここでの一致団結とは具体的に「六和合」あるいは「六和敬」と云われ、比丘が互いに①身(礼拝)・②口(讃嘆)・③意(信心)・④戒(戒律)・⑤見(見解)・⑥利(施食・寄進)の六点について等しく、皆が共有し同一とすること。受具足戒に基づく法臈の多少に基づく秩序、
律の遵守を前提としたものであって、事なかれ主義的馴れ合いの団結ではない。あくまで「律蔵の規定に基いて賞罰厳密なる団結」を仏教における和合という。
この一節においても、明恵が律学を踏まえていたことを物語るが、しかし当時は律の伝統は潰えており、その厳密な実行は不可能であった。▲
阿難は[S/P]Ānandaの音写で「歓喜」の意。アーナンダ尊者。釈尊の死に至るまで随行することおよそ廿五年間。記憶力が突出して勝れており、耳にした釈尊の説法全てを記憶していたといわれる。このことから仏弟子中「多聞第一」と讃えられる。また釈尊に女性の出家を許す第一功労者となったため、その後も比丘尼に尊崇された。釈尊の死後、その教えを正しく後世に伝えるため行われた第一結集には、その教えを誦出する中心人物とされた。しかしながら釈尊に長らく側仕えていたにも関わらず阿羅漢果に到っていなかったが、摩訶迦葉から叱咤されたことによりこれを恥じて第一結集の直前の早暁に悟りに到ったという。以降、西印度にて仏教を広める中心的人物となって長らく生きた。その最後は壮絶なものであったとされる。▲
『分別功徳論』巻二「於時阿難妹爲比丘尼。聞迦葉語大用嫌恨。阿難者聰明博達。衆人所瞻望。而尊謂爲小兒耶。迦葉謂比丘尼曰。大妹。阿難有二事可恥。何所爲恨也。正坐阿難勸佛度母人。使佛法減千年。是一也。阿難有六十弟子。近日三十比丘還爲白衣。佛教度弟子法。若在家有信來求道者。當試之七日。若外學來求道者。當試之四月。何以不等也。以外道家或以惡心欲求長短。是以先試知爲至誠。不然阿難來便度之。是可恥二。此三十比丘所以還者。聞阿難於九十六種道中等智第一。從阿難求度者。欲請等智。然阿難不與説等智。是以不合本心。於是而還。還必誹謗阿難。謂無等智。度弟子喩若魚生子千億萬。若心念者便生。不念者即爛壞。弟子亦如是。若留心教詔者便成就。不留心者即退還。此豈非可恥耶。此比丘尼以恚心向迦葉故。即現身入地獄」(T25, p.34b)に基づく。
迦葉は[S]Kāśapa/[P]Kassapaの音写で、飲光(光を飲む)の意。釈尊の高弟の一人で、少欲知足の清貧生活を厳守していたことから「頭陀第一」との称される。釈尊の涅槃後、第一結集を呼びかけて主導的役割を果たした。その際、阿難には釈尊の生前に種々の過失があったことを責め、それをすべて懴悔させている。しかし。それを比丘尼たちは非常に憤慨しており、比丘尼の中には迦葉に対し敵意を剥き出しにしたことが知られる。▲
[S/P]bodhiの音写。悟り、智慧。▲
確固たる信。信による力。三十七菩提分法の五力のうちの一。仏教、特に阿毘達磨において信とは「信澄浄」といわれ、(その対象が何であれ)信じるという心的作用には、心を澄み浄める力があるものと定義される。明恵は『倶舎論』を学んでいたからこの意味で云ったであろう。▲
涅槃。煩悩を制し、苦しみ無い、大いなる平安の境地。▲
空閑処の略。人里の喧噪を離れた森林の意。離れたと言っても人里から隔絶して遥か遠くにある場所でなく、托鉢などある世間との往来が可能な程度に離れた地が本来の意。[S]araṇyaの漢訳であるが、その音写である阿蘭若(あらんにゃ)もよく用いられる。▲
頭陀は[S]dhūtaの音写で、「ふりはらう」の意。一般には「禁欲生活」の意味に用いられる言葉。伝統的には、頭陀行に常乞食(乞食によって得た食事のみで生活する)・一食(一日一食)・不横臥(横になって寝ない)・糞掃衣(つぎはぎの袈裟のみ用いる)など、十二の行を数える。抖藪(とそう)はその漢訳。▲
僧伽。僧伽とは[S]samghaの音写で、原意は「集まり」。仏教においては比丘の集団の意として用いられる。僧伽を成立させるには最低四人の比丘が必要であり、律蔵に詳細な規定がある。▲
仏陀が僧が四人より少なくいてはならないと制せられたことはない。むしろ僧伽が成立して間もない頃、その教えを各地に広めるために「二人して同じ道を行くな」と言われている。あるいは「犀の角のようにただ一人歩め」とも。ただし、比丘が比丘として行動するためには、やはり四人以上で共に行動するのが望ましく、むしろ二十人以上の衆と共にあるのが理想的とされる。▲
せかい。この世に生まれ出ること。▲
仏教において人としての生を受けるのは非常に稀であることが極めて強調される。それを表したのが「盲亀浮木の喩え」であり、明恵の当時もよく用いられていた。別項「Chiggaḷayuga sutta」参照のこと。▲
[S]kaṣāyaあるいは[P]kasāyaの音写で、原意は「汚い色」で「壊色」と漢訳される。特には赤黒、赤褐色のこと。
僧にまとうことが許されている衣(cīvara)にはその色が濁った汚い色であることが規定されており、白・赤・黄・青・黒の純色は禁じられ、赤黒色・青黒色・くすんだ橙色・鼠色(鈍色)だけが許されている。支那に到来した仏教僧の多くが赤黒い衣を来ていたことは支那の歴史書などにても確認される。やがて支那および日本では、その衣の色の呼称、すなわち袈裟をもって僧服を呼ぶようになった。したがって本来、袈裟衣(壊色の衣)というのが正しい。衣についても律蔵に詳細な規定がある。▲
地獄・餓鬼・畜生という五趣輪廻あるいは六道輪廻のなかで、生命として特に苦しみ甚大なる境涯。三悪趣(さんなくしゅ)とも。世間でいわれる「三途の川を渡る」とは、死後にそれら三種の苦しみ多大なる境遇にはせめて生まれ変わらない、ということをいった喩えであって、死後の世界に「三途の川」なるものが実際にあるわけでも、またそれが成仏を意味するわけでもない。▲
望ましい、理想的な姿。▲
自恣とは三ヶ月の夏安居の明ける日。安居とは、地域の比丘が雨期の三ヶ月間、一カ所に集まって過ごすこと。自恣の日は、その安居中に自身達の行いに非がなかったかを確認・反省し懺悔する日。これを解夏(げげ)とも言う。一年でもっとも比丘が清らかである日と言われ、この日に在家信者達はこぞって布施を行い、徳を積もうとする。日本で現在行われているお盆は、一応この日に基づいたものであったが今は無い。▲
仏典の総称。仏陀は人や場所・時期に応じて種々様々な教えの説き方をしたことから、それを大仰に形容して八万四千の法門と云われる。▲