左右なく法を授れば、身語したたまらず。身語したたまらざれば、返て毒となるなり。法は無相なれば、いで臥せらんなんと云ふ人、出来る也と云〃。
高僧等の神異は不可思議にて、さて置つ、中々志しわりなきは、神通もなき人々の、命を捨て、生を輕くして、天竺にわたり、さまざま佛法を修行したる、殊に哀れに、羨しく覺ゆるなり。
上古は、智者の邊の愚者は、皆益を䝉き。近來は、ゆゆしげなる、人のあたりなる愚者は、還て、學生智恵の爲に、迷はかされて、弥法理に背けり。
今は勝れて能き人もなく、勝て悪き人もなし。何れも同じ様にて、善悪も見へわかず。是末代の故也。年に添ひ、日に随て、なを末には、此の比程の事も、少くなりなんと云云。
末代の淺猿さは、如説修行は次に成て、よき定一部の文字を讀終ては、又異文をのみ読たがりて、只讀積計を事として、物の用に立て、如説修行の心なし。戯論妄想の方には、心引れて、實しき事は物ぐさげなり。是を以て、佛に成まじき、我心をも、相すべきなりと云〃。
相𣕛て𣕛て、師をば能々計ひて設くべきなり。或は親の命、或は友に引れ、又便冝に依て、等閑りに有べからず。圓覺經には作止任滅の四病を除くを、師とせよと云云。委くは、注圓覺經第四の巻に、有レ之と云〃。
我身の様、法の如くにも非ず。剰へ破戒無慚なる事のみあれ共、人の甚だ信仰して、威德ある事あり。其をいしき事と思ふべからず。寶積經に云く、末法には、魔力を與へて、かかる事有べし。正見の者は傍にありと見へたりと云〃。
世に久く、在ぬべくもなき身に、はかなき事をするまでも、名聞に心のかかるは、あぢきなき事なり。假令千年万年生べく共、よからん事をのみ、好むべきに、電光朝露の身に、一度も悪き態をせんは、淺猿く、をこがましき事也。
佛に代りて、法を説て、供養を受る時、そぞろ事とも云て、施を受る。淺猿き事也。説法とは物を取と知て、佛意を忘たり。此等の禁め、寶積經にあり。説法の篇より、法師共云なり、眞實の法を説く師の邊に在ば、實に佛の在世に異ならずと云〃。
近來の人は、何としたるやらん。尋常なる定、生死を出ると云計を以て、佛教と知たり。偏に二乗の涅槃を執するに似たり。是躰の事を、人の悪く申すと申せば、還て我慢に似たり。是佛法の滅する事を歎くなり。法滅と云は、佛法の𡙇失するを、法滅と云に非ず。是躰の事の興するを、法滅と云なり。此趣委く出現問記に、載られたり。引見べし。
凡夫は、有性をだにも知ず。而るを佛道は、無性より入なり。我等が様なる者の、かかる我執にて、入る所やある、と求めむに、如何にもさる佛教は有まじきなりと云〃。
人の過を云程の者は、我身に德の、なきをりの事也。德と云は、得なりとて、德を好む人に、あるなり。人の過をのみ求れば、過のみこそあれ。更に德の住處にては無なりと云〃。
左も右もなく(無闇矢鱈と人に)法を教え授けたならば、(その者の)身体と言葉がよく整えられることはない。身体と言葉とが整うことがなければ、かえって(その者に教え授けた法が)毒となる。法は無相〈必ずしも一定の形が無いもの〉であるならば、「さあ(何もせず、ただ)臥していよう」などと言う人が出て来るのだ。
高僧などの神異〈高僧にまつわる不思議な現象、話〉は不可思議であって、それはそれとして置くとして、いかにもその志が素晴らしいのは、(何か不可思議な力を示す)神通など無い人々が己の命を捨て、生を軽くして天竺に渡り、さまざまに仏法を修行することであって、それがとりわけ尊く羨ましく思われるのだ。
上古〈釈尊在世の昔〉は、(悟りを証した)智者の側にあった愚者は、みな(智者の教導にあやかって悟りあるいは善に近づくという)恩恵を蒙っていた。近来は、(学道に長じるなどして)立派とされる人の側にある愚者は、むしろかえって学者の智恵によって 迷わかされて、いよいよ法の理に背いている。
今は勝れて良い人もなく、勝れて悪い人もない。どちらも同じ様なものであって、その善し悪しを区別することも出来ない。これは(我々が今)末代にあるからこそである。(これから)年を重ね日が経つにつれて、さらに後にはこの頃の様な事すらも少なくなっていくであろう。
末代の(人々の)浅ましさは、如説修行は二の次となって、(よく知られ学ばれている仏典の)定まった一部の文言を読み終わったならば、また変わったことが説かれている文のみ読みたがり、それもただ読み重ねていくことだけを主として、(自身の名声と利益につながる)物事に利用し、如説修行しようとなど思いもしない。戯論や妄想には心を惹かれ、真実に関する事は面倒に思うのだ。そのようなのを以て、仏に成り得ないであろう我が心をも判断すべきである。
必ず充分すぎるほどに用心して、師(とする人)をよくよく見極めるべきである。あるいは親の指示、あるいは友につられ、また便宜に依って等閑にしてはならない。『円覚経』には「作・止・任・滅の四病を除きうる者を師とせよ」とある。詳しくは『注円覚経』第四巻にそれが説かれている。
我が身の様は、法の如きものではない。あまつさえ破戒して無慚〈自ら恥じないこと〉な事のみがあっても、人が甚だ信仰して威徳のあることがある。それを好ましい事と思ってはならない。『宝積経』に「末法には魔が力を与えて、そのような事があるだろう。正見を備えた者は端においやられている」とある。
世に久しく在り続けられない身で、はかない事をするとしても、名声を得ることに望みをかけるのはつまらないことである。たとえ千年万年と生き得たとしても、良いような事だけを好むべきであるのに、電光や朝露の(様に、生じてはたちまち消えゆくまことにはかない)身の上で、一度でも悪い行いをするのは、あさましく、いかにも愚かなことである。
仏に代わって法を説き、供養を受けるとき、「とりとめの無い話でしたが」などと言って施しを受けるのは、浅ましいことである。(そのような者は、)説法とは物を取るものだと思っており、仏意を忘れている。これらの禁めは『宝積経』にある。説法の篇によって法師とも云うのだ。真実の法を説く師の辺にあったならば、実に仏の在世に(あることと)異なりはしない。
近来の人は、一体どうしたことであろうか。世間一般でのお定まりとして、生死を出ると云うことだけを以て、仏教だと思っている。(しかし、それは)偏に二乗が涅槃に固執するのに似ている。この程度の事を「人を悪く言っている」と言うのならば、(そのような批判は)むしろ我慢に似たものだ。私は仏法が滅びる事を歎いているのだ。法滅というのは、仏法が欠失することを法滅と云うのではない。このような(世間の人々のずれた批判などの)事が起こることを法滅と言うのだ。この趣旨は詳しく『出現問記』〈現存しない〉に載っている。読んでみたらよい。
凡夫〈普通の人。凡庸な者〉は有性〈事物の永遠普遍の本質.ここではそれが有るという見解・思想〉をさえ知りもしない。ところが仏道は(有性を否定して)無性から入るのだ。我らの様な者で、そんな我執をもって入るところはあろうかと求めても、どうにもそのような仏教はありはしない。
人の過を云う程の者は、我が身に徳が無いための事である。徳と云うのは得であるといって、徳を好む人にあるものだ。人の過をのみ求めたならば(逆に自分の)過にしかならないだけでなく、さらに(自分が)徳を身に備えられることにもならない。
もし仏の在世であれば(当時の)どのような沙弥法師〈小僧〉にですら及ばないような者でありながら、いかにも師のような様子ばかり取り繕うのは、浅ましいことである。
身体と言葉(の行い)。身業と口業。▲
認(したた)まらず。よく整えられないこと。
「したたむ」は①始末する、②準備する、③書く、④飲食すると多義であるが、ここでは①の始末するで、身と言葉の行いをよく制御し調えることの意。▲
さあ、臥していようではないか、との勧誘。
「いで」は相手を勧誘する際に用いる語、「なん」は「なむ」で強い意志を表す連語。▲
常識的には人間になしえないような不思議な業。▲
わりなし。特別優れている、はなはだしい。▲
仏陀あるいは高い境地に到った僧が、自然にその身に備えるとされる計り知れない不思議な力。▲
しみじみと心を打つモノのありさまを広く表す語。ここでは、「感服・感心させられるさま」あるいは「尊いさま」の意。現在用いられている意味とは異なる。▲
机上の知識。観念にとどまり経験的理解に基づかない知識。現実から乖離した知。▲
無益な言論、無意義な会話。▲
現実から乖離した思考。ここでいう現実とは、すべてが一瞬としてとどまることなく変化していること。言葉に対応する物事が実体としてはないことにも関わらず、それが有ると考えること。そのような仏教の観点からすると、世間一般で日常的に行われている我々の思考のほとんどは妄想である。▲
めんどうに思っている様子。▲
相い構えて構えて。「構へて」は命令・意志の語を伴う場合、きっと、必ずの意となるが、ここではそれをまた二重に云って、その極めて厳重であることを強めている。▲
『大方広円覚修多羅了義経』「普覺汝當知末世諸衆生 欲求善知識應當求正覺 心遠二乘者法中除四病 謂作止任滅親近無驕慢」(T17, p.920c)。これは「普覺」すなわち普賢菩薩に対しての教説。「作・止・任・滅の四病」とは、円覚(完全な悟り)を求める修行者が患う四種の病。作とは、行者が様々な修行によって悟りを得ようとすること。任とは、自身の主体的行為を止め、モノの自然に任せきることによって悟りを得ようとすること。止は、知覚や認識、記憶の意識活動を止めて悟りを得ようとすること。滅は、すべての煩悩を滅することによって悟りを得ようとすること。いずれの場合も、悟りはそのような行為によって「得られるもの」では無いことから、病とされる(T17, p.920b)。▲
恥ずべき事をなしながら、少しも自ら恥じ入ることがないこと。他に対して恥じることは「愧」。▲
美(い)しき事。好ましいこと、殊勝な事。▲
現存する『宝積経』に当該文言は見当たらない。▲
価値のないこと、無益であること、つまらないこと。▲
痴(をこ)がましき事。愚かなこと、馬鹿馬鹿しいこと。▲
漫ろ事。すずろごと。つまらないこと、不本意であること、とりとめのない話など諸意ある。▲
説法には必ず対価として相手から金品を取るものである、という非法の習い。これに類する言に「布施なきは経を読まず」というものがある。信者が金品など寄せなければ、僧は読経しないという言葉。今もこの言葉を在家信者の前で平然と言い、しかも不遜な態度で金品を要求する者は大変に多い。
『長阿含経』で仏陀は「説法の対価として」差し出された物を相手から受けることは非法であると説かれ、また『スッタニパータ』でも説法の対価としては布施を受けてならないことが説かれる。説法や読経は対価を求め得るサービスの一環ではない。▲
現存する『宝積経』に該当する一節を見出すことが今のところ出来ない。▲
生死流転する輪廻を断つこと。真理を知ることが無い限り、永遠に生まれ変わり続けるという輪廻の呪縛から解き放たれること。事物の真の有り様を、実の如く知ることによって解脱した結果として、その人はもはや生まれ変わることはなくなる。▲
声聞乗と縁覚乗。大乗から小乗と蔑視される二つのありかた。あるいはその教え。
声聞とは、本来は字の如く「声を聞く者」、つまり教えを(直接)聞く者の意で、元来は仏弟子を指す言葉であったが、大乗からはより低い悟りの境地に留まる者の意で用いられる。縁覚は、独覚とも言われ、師なくして自身の努力によって悟りを得るも、他者に説法することなくその生を終える者とされる。しかし、その故に低い悟りの境地に達したに過ぎないと見られる。▲
煩悩という火が消え去った心的状態。苦から解放された平安なる境地。あるいはその状態にいたって死を迎えること。この境地に到れば、もはや生まれ変わることはなくなる。仏陀滅後は、死んで心身共に何も残らなくなる状態を無余依涅槃(むよえねはん)、いまだ健在な状態で涅槃を得ている状態を有余依涅槃(うよえねはん)と分類するようになった。▲
我ありと慢ずる心。この世のありとあらゆるもの、あるいは特に自分という生命の奥底には、死してもなお変わることなく永遠に存在する魂などの「何か」が存在すると考えること。または、そのような思考にもとづき、自分は特別であると考えること。▲
現存しない。▲
愚かな者、無知な者。凡庸な人一般のこと。特に、いまだ四聖諦を自ら知見しておらず、賢者あるいは聖者の位に達していない者。▲
モノの奥底にある常住不変の「何か」。あるいはその存在を認める見解。もしくは、人が備える声聞・縁覚・菩薩のいずれか三種の悟りを開く可能性。
ここではそのような仏教非仏教問わず、形而上学的見方やその思想など、一般人はまるで関知していないという意味でこう云っているのであろう。▲
事物に奥底には常住不変の「何か」など存在しないこと。全ての事物は常に変化して止まないものであり、幻のような空っぽのものであること。あるいは、それを是とする見解。▲
人や事物には常住不変の「何か」がある、あるいはあって欲しい願い求める心情や見解。▲
日頃の善行、あるいは持戒によって次第に備わる、あるいは前世の善行によって生来的に備わる優れた性質。▲
具足戒をいまだ受けていない年少の見習い僧。小僧あるいは雛僧(ひなそう/すうそう)、あるいは新発意(しぼち)などとも言う。▲
人に対する態度、表情。あるいは外面を取り繕うこと。▲