VIVEKA For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

明恵『阿留辺畿夜宇和』 ―あるべきようわ

原文

末代の習ひは、たまたままなぶところほうを以ては、名利みょうりかざりて、法の本意ほいを得ず。故に法印ほういんたる、二空にくうの道理をば捨てて、目をせずし近代の學生がくしょうの云ふ様なるが、實の佛法ならば、諸道の中に、わろき者は、佛法にてぞあら。只おもふに心得ざる人を友としては、何の所詮しょせんかあらん。愁歎しゅうたんするにたへたり。

學道がくどうする様は、諸佛菩薩は、如何いかが佛道をば修行し給ひけんとのみ、守り居たれば、近代の學生の爲には、そのやくもなし。されども、佛の糸惜いとほしく、思食おぼしめしけるやらん。形の如く、佛道修行の用になる程は、心中許りは明かにして、とどこほりりなしと云〃

我は幼稚ようちの昔より聖教しょうぎょうを見るも、佛の思食おぼしめくはだてたる、法のおもむきを、知んと思ふ計にて、別に學生がくしょうに成んとも、人にほめられん共、おもひし事は、無りしなり。

我はをばまうけたし。弟子は、ほしからず。尋常はいささかの事あれば、師には成たがれ共、人に隨て一生弟子とは、成たがらぬにや。弟子持て、仕立したてたがらんよりは、佛果に至るまでは、我心をぞ仕立つべき。又佛は、一切有德の人を、崇重し給ふが故に、一切衆生の上に居して、天人てんにんの師たりと云云

この草庵にきたりのぞみて、法門ほうもんとふ人に、いかに文々句々そらに覺へあつめて、學生てする人も、近代はかつて、心真諦しんしんたいをば、見ざるなりと云へば、何かは云はず。やがはら立つ程に、力なき事なり。涅槃經に云、我今與汝等説不見心真諦是故久流轉生死苦界云云。此の心真諦と云は、如何なる事なれば、知とも不知とも、見とも不見とも、底を盡して尋子たずね明めてこそ、げに知たるを、見ずと云腹立もあらめ。腹立するにて、軈て知らざる事はあらはるるなり。世俗にいふ、盗人のなべぬすみて、頭にかぶりけるをば、つやつや思ひ忘て、なべうせたりとて、あるじの尋る時、兩手を開出ひらきいだして、我は鍋とらぬと、ちんずる程の事也。げに手にも持たず、口にも取ずと云、ことば正直しょうじきなれ共、頭に被りたる事の、外よりあらはに、見ゆるを、知ずして、取らざる由、陳ずるが如し。哀なる事なり。

昔は我實相じっそうことわりを證しては、弟子をして、又此理を授く。末代は證理の智無ければ、世間のおもてを莊かざりて、俗境に近付を先として、あまつさへ寺の興隆佛法こうりゅうぶっぽうとては、田樂でんがく猿樂さるがく装束しょうぞくに心をついやして一生を暮すのみなりと云云。或寺より田樂のとうに當りたるとて、さる學生奔走ほんそうする由、人の語り申ける次でに、仰らるるなり。

佛法に入と云は、實に別のこと也。佛法に能く達したりとおぼしき人は、いよいよ佛法うとくのみ成なり。

人は常に浄頗梨じょうはりの鏡に、日夜の振舞の、うつる事を思べし。是はかくれたる所なれば、是は、心中に、ひそかに思へば、人知じと、思ふべからず。くもり陰れなく、彼の鏡にうつる耻がましき事なり。

亡者の爲に、ねんごろなる作善さぜんをなせ共、或は名聞利養みょうもんりよう有所得に、心移て、不信の施をすれば、功德なくして、只勞して功なし。法師も又、戒が𡙇かけて、三業さんごうをさまらぬ様にて、よき物食ひ、布施とらむとする事、大切なる様に覺へて、真信ならぬ心に、經をよみ、陀羅尼を滿てたれば、亡者もうじゃたすけとはならぬのみに非ず。此信施の罪に依て、面々めんめん悪道あくどうに、をつべし。共に無益に、淺猿あさましき、末世の作法也。能々真俗、實に損取らぬ様に、あてがふべきなり。我等が果報を、一度は悲み、一度は悦ぶべし。悲むべきは滅度無福の身、悦べきは佛法結縁の心也。

現代語訳

末代における習わしは、たまたま学んだ所の法をもって、名声と利益を得るための飾りとし、法の本意ほい〈真意〉を得ることはない。故に(特に大乗における)法印〈教えの特徴、核心〉である二空〈人空・法空〉の道理を捨てて、その心情を隠し立てしている。もし近代の学僧が云う様なのが本当の仏法であるならば、諸道の中で最も悪いのは仏法に違いない。ただ思うに、(仏法の本意を)心得ない人を友としたとして、何の甲斐があるだろうか。(いや、そんなものはない。)愁い歎くべきことである。

私が(華厳や真言など)学道する様は、諸仏・菩薩はどのように仏道を修行されていたのであろうかとのみ(それに倣うことを)信条としたものであるから、(名聞利養を得ることを目的として学道に励む)近代の学僧の為に役に立つものではない。それでも、仏はいとおしく思われるだろうか。(仏が説かれたとおりの)形のままに仏道修行の役に立つようであれば、心の中くらいは明らかにしても差し障りは無い。

私は幼かった昔から聖教しょうぎょう〈仏典〉を読んでいるが、それは仏が(衆生を解脱へ誘おうと)思し召して企てられた法の おもむき を知ろうと思うばかりでのことあって、別に学僧になろうとも人に褒められようとも思ったことは無かった。

私は(私を教え導いてくれる優れた)師をこそもうけたい。弟子など欲しくはない。世間一般では、多少の(勉学を積んで人より優れた)ことがあれば(弟子を集めて)師になりたがるが、人に随って一生弟子のままでいたがりはしない。弟子を持って(師匠面してその弟子を)仕立てたがろうとするよりは、仏果に至るまでは我が心をこそ仕立てるべきである。また、仏はすべての有徳の人を尊び重んじられたからこそ、すべての生けるものの上にあって、神と人との師〈天人師〉となったのである。

(私の)この草庵に来訪して、法門について問う人に対し、「どれほど(仏典の)文々句々を諳んじ集め、学僧風を吹かしている人でも、近代はまったく四真諦〈四聖諦.底本では心真諦〉を見てもいない」と言えば、何の反応もなく、(むしろ彼らは)すぐ腹を立ててしまう程に頼りない事である。『涅槃経』に「私は今、汝らのために説く。四真諦を見ない故に、久しく生死の苦海を流転するのだ」と説かれている。この四真諦というのは、いかなる事であるかと、知るとも知らざるとも見るとも見ざるとも、底を尽くして尋ね明らかにしてこそ、「(明恵は私が四真諦について)本当に知っているのに見ていない」と腹の立つこともあるだろう。(しかし)腹を立てることで、すぐ(その者が)実は理解してなどいない事がわかるのだ。世俗にいう、盗人が鍋を盗んで頭に被っておいたのをすっかり忘れ、鍋が無くなったと主人から尋ねられた時、両手を開いて出して、「私は鍋など盗っていません」と言うような事である。確かに手に(鍋は)持っていないし、口にも「盗っていない」という。言葉は正直であるが、頭に(盗んだ鍋を)被っていることを他からは丸見えであるのを知らないで、盗っていないと言い張るようなものだ。哀れなことである。

昔は自ら実相の理を証してから、弟子にまたこの理を教授した。末代は証理の智は無く、世間の体裁だけ取り繕って、俗社会に近づくことを第一として、あまつさえ寺の興隆仏法などと言い、田楽や猿楽の衣装をどうしようかとあれこれ悩んで(くだらない)一生を暮らすのみである。ある寺から田楽の頭の役を任されたと言い、ある学僧があちこち奔走していたとを、人が話のついでに語られていた。

仏法に入るというのは、(世間の常識や学問・芸能とは)まったく別の事である。仏法によく達していると思っている人は、ますます仏法に疎くなるのみだ。

人は常に(閻魔の傍らにあって死後それを見せられると伝説される)浄玻璃の鏡に、日夜の振る舞いが映し出されることを思うようにするのがよい。これは隠れたものであり、これは心の中に密かに思うものであって人は知り得ない、と思ってはならない。曇り陰りのない、彼の鏡には映し出される恥ずべき事である。

(在家の人が)亡者の為に懇ろな作善をしても、あるいは名誉や利益など執着の思いを抱き、不信の施しをすれば、功徳など無く、ただ労するばかりで功は無い。法師もまた戒行を欠いて三業を摂めもせず、良い物を食べて(金品など)布施を取ろうとする事が大切な様に考え、真に信じてもいない心で経を読み、陀羅尼を幾度も唱えたならば、亡者の資けとならないのみならず、この信施の罪に依ってそれぞれ悪道に堕ちるであろう。(そのような在家人も法師も)共に無益で浅ましい、末世の振る舞いである。よくよく真俗は実に損することない様に施しすべきである。私たちは(自分がこの世に人として生まれたことの)果報を一度は悲しみ、一度は悦ぶべきである。悲しむべきは釈尊滅後に生まれた徳の無い我が身に対して、悦ぶべきは仏法に結縁した心に対してだ。

脚註

  1. ほう

    [S]dharma/[P]dhammaの漢訳。達磨はその音写。思想(教え)・宗教・真理・道徳・存在・慣習・ものなど多くの意味を持つ言葉。ここでは仏陀の教え、あるいは真理の意。

  2. 法印ほういん

    仏教の根本教説。あるいは、仏教をその他思想・宗教と比較した際に特徴的な、独自の教説。一般に、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印、これに一切皆苦を加えた四法印を指す。ここでは、二空をもって法印としている。

  3. 二空にくう

    人法二空の略。人法二無我とも。人には魂など不変の実体などないとする人無我と、人や物を構成する要素も恒常普遍の実体としては存在しないとする法無我を併せて表した言葉。一般に、小乗は人無我のみを説き、大乗は人法二無我を説くと云われる。

  4. 目をせず

    その内面・心情を隠して、外に表さないこと。

  5. し近代の學生がくしょうの云ふ様なるが...

    当時世間で仏教として云われていた信仰、あるいは流行していた思想がおよそ仏教とはとても思われないものであるとの感想。これは特に明恵が激しく批判した法然の浄土教に限って放たれた語ではなく、当時の南都北嶺における諸宗・諸大寺の学僧らが仏教として説いていたもの全般に対するものであったろう。
    この一節は近世の慈雲も『十善法語』の中で引用している。そして現代においても、鎌倉期や江戸期とまったく同じ事が言い得るであろう。日本の僧職者や新興宗教の経営者や信徒などが主張する仏教は、まさに「諸道の中に悪き者は、仏法にてぞ有ん」という言葉で表するのが最も適当である。

  6. 所詮しょせん

    結果。つまるところ。

  7. 學道がくどう

    仏教を学び修行すること。もっとも、ここでの学道とは種々の経典・論書を暗誦・研究して自身の見解をたて、数々の難解な試験を突破していくことを意味しているであろう。例えば南都興福寺の維摩会や薬師寺の最勝会、宮中の御斎会などの大法会は、そのような学問を修め、試験を突破して初めて出席できるハレの法会である。これを終えた僧侶、学侶はいわばエリート中のエリートであった。恐ろしく難解な試験ではあったが、それは僧としての財や地位を得るための手段でもあり、あくまで出世の手段として学問を納めるに留まる場合がほとんどであった。

  8. 聖教しょうぎょう

    仏典の総称。

  9. みずからを教え導く指導者。釈尊が菩提樹下にて成道して仏陀となった当初、もはや誰も師を持てなくなったことに不安を覚えられたという。

  10. 仕立したて

    教育して一人前にすること。育成すること。

  11. 天人てんにんの師

    天人師。如来の十号の一つ、仏陀の異称。仏教を正しく修める僧は、神々と人とを導き、その師となる存在とされる。

  12. 法門ほうもん

    仏の教え。仏教の教義、教学。

  13. 心真諦しんしんたい

    四真諦の誤植・誤伝。四聖諦に同じ。諦は真理の意。
    四聖諦とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦で、それぞれこの世のすべては畢竟苦であるという聖なる真理・様々な原因と条件とによって苦があるという聖なる真理・苦の消え去った境地という聖なる真理・苦を消し去るための道なる聖なる真理を意味する。仏陀の教えの核心。

  14. 我今與汝等説不見心真諦我今汝等に説かん、心真諦を見ず...

    「我今汝等に説かん、心真諦を見ず、是の故に久く生死の苦界に流轉す」。曇無讖訳『涅槃経』「我昔與汝等不見四真諦是故久流転生死大苦海」(T12, p,451c)の引用であろうが、やはり原文には「四真諦」とある。

  15. 實相じっそう

    事物の真実なる姿。事物は様々な原因と条件により形成され、現象したものに過ぎず、よって実体はなく、常に変化し滅びゆくものであること。

  16. 興隆佛法こうりゅうぶっぽう

    仏教が世の中にて盛んとなるようにすること。頻繁に法会の願文などで用いられる語。ここで明恵が批判しているように、現在も寺院で行われる法要にて「仏法興隆」あるいは「寺門興隆」などと願文で言うが、実は仏教など最初から問題外で「私腹を肥やしたい」と暗に言っているに他ならない、おためごかしの語となっている。

  17. 浄頗梨じょうはりの鏡

    印度神話において人類最初の死者であり、故に地獄の首長となったとされる閻魔(Yama)の傍らにある、人の生前の行いをすべて映し出すとされる伝説上の鏡。

  18. 作善さぜん

    善根功徳を積むこと。造寺・造佛・造塔や、写経あるいは三宝に対して布施すること。

  19. 三業さんごう

    身体と言葉と精神の行い。業はkarmaの訳で行為の意。人の行い全ての総称。伝統的には、身口意(しんくい)あるいは身語意(しんごい)の三業という。

  20. 亡者もうじゃたすけ

    人は死者を救うことは出来ない、仏陀であれ誰であれ人が他者を救うことは出来ないのが仏教の根本的思考。(別項「Asibandhakaputta sutta」を参照のこと。)しかしながら、ただ餓鬼に関しては、その境涯から抜け出させることが可能であるとされ、それを行うのが施餓鬼。

  21. 悪道あくどう

    地獄・餓鬼・畜生という三種の苦しみの多大なる境遇、生命のあり方。三悪道・三悪趣に同じ。それらは「死者の世界」・「死後の世界」ではなく寿命もある生者の世界。これにさらに修羅を加えて四悪道または四悪趣という。

関連コンテンツ