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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

高信『栂尾明恵上人遺訓』 ―阿留辺畿夜宇和

原文

當初本寺ほんじに有し時、大衆だいしゅむらがりて、勤めせしていを、つくづくと見て、不覺の涙を拭ふ、事のみありき。十二時中、多分ひたすら徒らにまぎれ過して、たまたま佛前に望て、片時かたときの勤めする程だにも、真信しんしんにもなし。目の見様みやう、顔もち、手の持様、居ずまい、又行道ぎゃうだうの作法、踈畧そりゃく究りもなし。加様にては、讀經も陀羅尼も、何の功德も無ければ、只人目計に、役拂やくばらひがてら、出たるわずらばかりにて、天下の護持にも成らず。檀那だんなの信施をも消さず。さるに付ては、驢胎ろたい馬腹ばふくに生ぜん事、何の疑か在べき。去ば耻ある佛法者は、十二時中に、いたづらにすごす時節すくなし。せめて其までこそ無らめ、たまたま人中に指出さしいでたる、時ばかりだにも、人目を耻る、氣色きそくだにもなし。禮拝らいはいなんどするも、心に誠なくして、何となく、らいするをば、古人からうすの上下するらいと名けたり。されば心に入て、只今生身しょうしんの御前に、参りたる心地ここちして、南無大恩教主釋迦牟尼しゃかむに如來と、禮すればこそ、諸佛如來も、是が爲に教主と成て、彼に應じ給へば、能禮のうらい所禮しょらい相順じて、功德をも得、罪業をも滅すれ。加様かやうに眞信とも無て、すぐる法師程に、をそろしき、大盗大誑惑の者は、よも俗家には在らじと、覺へ侍べり。佛の番々ばんばんに出世して、衆生を佛に成さんとし給ふ、法を盗みて、我身過ぎにするこそ、淺猿あさましけれ。在家の人は、上一人より始て、下万人に至るまで、其品々しなじなやくに依て、請継うけつぎ身命しんみょうを継ぐ、恩をかうぶれり。法師は、出家してより、かかる恩をば、かうぶるまじき者なり去ば衣食えじき共に、父母ぶも親類のくるるも、皆檀那だんなの信施物にあたるなり。然るに、心地しんぢひらきたる事もなく、持戒清浄じかいしょうじょうなる事もなく、不信ふしん懈怠けだい在様ありやうにて自身を養ふのみならず、あまつ眷属けんぞくをさへ扶持ふちし、羽含事はごくむ、大きにそむけり。大に理に背くが故に、罪業ざいごうまぬがるべからず。罪業免れぬ故に、地獄に入ん事、うたがひ有べからず。此佛法を盗で、天下てんかの祈りするとて、寺領じりょう知行ちぎょうし、檀那だんな祈禱きとうをするとて、供料くりやうを取り、三業もしずまらぬ、つと行法ぎょうぼう、破戒無慚むざんたち振舞のみにて、あけくれぬと、すごしゆきて、結句けっく此の供料くりょう布施ふせにて、佛のいましめ給ふ、五戒十重を破る、た子つかひ失ふこそ、末代と云へ共、かなしけれ。餘りに深く、迷へる者は、迷へるとだにも、知ざるが如く、餘りに不當に成て、加様にて身過ぎにするを、大罪たいざいとだにも、思ひとがめぬ、までに成れり。此程に大に理に背きぬる上は、必定ひつぢやうして、地獄じごくすべし。さればせめて、法師に成たる思出に、法をさとるまでにこそ、かなはずとも、人身にんじんうしなはぬまでの、振舞心使つかひを、だにも、せよかしと云〃

只様もなく、三寶さんぼうを信ずる心を、をこすべきなり。たとひ三寶を信ずるに、罪を得る事ときくとも、ちからなく是を信仰したからんをば、如何いかがせん。悪事をも、罪うる事と聞けども、したき事なれば、其をも行じこそすれ。是は先世に、正法しょうぼうを聞べき、善業にかんじて、其の故に是を信ずれば、功德を得る事を、何れの人も、なしに信ぜしと、云事はあらじと云〃

いささかながれすこしきの木一をも打渡して、人の寒苦を、たすくる行をも成し、又聊なれ共、人の為になさけ情けしく、當るがやがて、無上菩提むじょうぼだいまでも、つらぬきて至る也。加様の事は、誰々も、いとなにと無き様に思へり。是が則菩薩の、布施ふせ愛語あいご利行りぎょう同事どうじの、四摂法行ししゃうぼうぎょう と云て、菩薩の諸位に遍じて、初後しょごの位につうじたる、行にて有也と云〃

ただ心をひとつにし、志をまったくして、いたづらに過す時節なく、佛道修行を、はげむより外には、法師のやくはなき事也。それものくさくは、軈て衣服えぶく脱替ぬぎかへ俗にぞ成べき、法師にては、中々大に罪ふかかるべし。おほよそ佛道修行には、何の具足もいらぬ也。松風にねむりさまし、朗月を友として、きはきたり究めさるより、ほかの事なし。又ひとり、場内ぢやうない床下しょうげに、心をすまさば、いかなる友かいらん。たとへばなほ其の上は、罪あるによりて、地獄にをちば、退位たいいの菩薩の、地獄にあるにてこそあらめ。もとより地獄には諸の菩薩ありと云へば、をそろしからず。すべからく佛法に、志有らん人は、急ぎ罪なき事を知りきはめて、少分のとがをも、めんと、かせぐべきなり。

嘉禎四年戊戌六月二日於高山寺閼伽井あかい小坊しょうぼう書之猶隨求出可書加之

遺弟非人沙門高信こうしん

現代語訳

当初、(私が)本寺〈高雄山神護寺〉にあった時、大衆が群がって修行している様をつくづくと見て、覚えず涙を流す事ばかりであった。一日中、ほとんどいたずらに紛れ過ごして、たまたま仏前に臨席し、ほんのしばらくの間の勤めをするようなことさえ誠の信があるわけでもない。(彼らの)目の見様、顔もち、手の持ち様、たたずまい、また行道の作法は疎略極まりないものであった。そんな有り様であっては、読経や陀羅尼も何の功徳も無ければ、ただ人目を気にして役目上、仕方なしにやっている面倒事でしかなく、天下の護持〈神護寺は平安初期から定額寺であった〉に資することはなく、檀那〈施主〉からの信施をも(それが功徳として)消化されることはない。その様であっては、(後世は)驢胎馬腹〈畜生道〉に生まれ変わる事に何の疑いがあろう。したがって、恥を知る仏法者は、一日の中でいたずらに過ごす時は少ないのだ。せめてそこまでのことこそ無いとしても、たまたま人前に出た時だけであっても、人目を恥じる気配すらもない。(仏前に参って)礼拝などしても、心に誠意など無く漫然と礼するのを、古人は(ピョコピョコ、ヘコヘコと頭が上下するばかりであることを揶揄して)「からうすの上下する礼」と名付けている。したがって、心からただ今まさに生身しょうしんの(仏陀の)御前に参っているのだという気持ちで、「南無大恩教主釋迦牟尼しゃかむに如来」と礼拝すればこそ、諸仏如来もその者の為に教主となって彼に応じたまわれれば、よく礼拝する者も礼拝される者も相応して、功徳をも得、罪業をも滅することもあるだろう。この様に真の信仰など持たず日々過ごしている法師の様に、恐ろしい大盗賊・大誑惑の者は、まさか俗家にも存在しないだろうと思っている。仏が(世界が変わるごとに)代わる代わる世に出られ、衆生を仏に成らせようとし給われた法を盗んで、我が身の生活の糧にするなど浅ましいことである。在家の人は、上は(天皇)一人から始めて下は(世間一般の)万人に至るまで、その器や能力に応じた役目によって、収入を得て身体を養うという恩をこうむっている。(しかし、)法師は出家してから、そのような恩をこうむってはならない者である。したがって、衣食共に父母・親類からくれたものであっても、すべて「檀那の施物」にあたるのだ。にも関わらず、(法師は)心を浄め高める事もなく、持戒清浄である事もなく、不信心で懈怠の有り様で自身を養うのみならず、あまつさえ親族をすら扶養して養い育てることは、大いに理に背いている。大いに理に背いているから、罪業を免れることはない。罪業を免れられぬから、地獄に生まれ変わること、疑いようもない。この仏法を盗んで、「天下の祈りをする」と言って寺領を(拝領して)経営し、檀那の祈祷をすると言って供養料を徴収し、三業も静まることはない「勤め行法」をなし、破戒無慚の立ち居振る舞いで明けぬ暮れぬと日々を過ごして、挙げ句の果てには、この供養料や布施によって仏の禁め給われた五戒や十重禁戒を破る種に費やし失うことは、(今が)末代であるいとはいえ、悲しいことではないか。あまりに深く迷っている者は、(自ら)迷っていることすら知らないように、(彼ら法師は)あまりにも不当に成って、そのようにしてその身を過ごすことを大罪だとすら思うことはなく、(誰一人として)咎めることもないまでに成り果てている。これ程大いに理に背いた以上は、(後世は)確実に地獄に堕ちるのだ。そこでせめて法師になったという思い出に、法を悟るとまでは叶わずとも、(後世で)人としての生を失わないような振る舞い、心遣いをこそなしなさい。

ひたすらに三宝を信じる心を発すべきである。たとえ「三宝を信じたならば罪を得る」と聞いたとして、力なくこれを信仰したからであるならばどうするのか。(そもそも)悪事もまた罪を得る事と聞いたとしても、(自分が)したい事であるからと、それを行うばかりではないか。これ〈仏教とこの世で縁のあったこと〉は先の世にて正法〈仏教〉を聞くべき善業の果報であって、その故に三宝を信じたならば功徳を得る事を、どのような人であっても「何故に信じたのだ」と云う事はないだろう。

わずかな流れに少しばかり木一本でも打ち渡して、(その小川を渡ろうとする)人の寒苦を助ける行いをなし、またわずかであっても人の為に優しく思いやりをもって接することが、やがては無上菩提(を得る時)まで(その果報、功徳となって)一貫して及ぼされる。このような(普段から小さな善を積み重ねていく)事は、人はまったく何とも価値の無いことのように思っている。(しかし、)これがすなわち菩薩の布施・愛語・利行・同事の四摂法行といって、菩薩の諸々の境地に遍くして、もっとも低い位からもっとも高い位に通じる行いとして有るのだ。

ただ心を一つにして(無上菩提を得ようとする)志を全うして、いたずらに過ごす時節なく仏道修行に勤めるより外には、法師の役はない事だ。それを物臭であって、やがて衣服えぶくを(袈裟衣から俗服に)脱ぎ替えて俗人に戻るような法師であっては、なかなか大いに罪深いことである。およそ仏道修行には何の具足〈所有物・財産〉も要りはしないのだ。松風に眠りを醒まし、朗月を友として、(法を)究め来たり究め去る以外の事はない。また、独りで修行の場、床の下に心を澄ましたならば、どのような友が要るというのか。喩えば、あたかも以前になした罪があることで地獄に堕ちたならば、退位の菩薩が(その境涯の衆生を救うべく)地獄にあることであろう。もとより地獄には諸々の菩薩があるというのだから、(地獄に堕ちることは必ずしも)恐ろしいことではない。すべからく仏法に志のある人は、ただちに罪造りで無い事〈十善道.律儀〉を知り極めて、小分のとがであっても為さないようにと、励むべきである。

嘉禎四年戊戌六月二日、高山寺閼伽井小坊に於いて之を書く。猶、求め出づるに隨て、之を書き加うべし。

遺弟非人沙門高信

現代語訳 貧道覺應

脚註

  1. 本寺ほんじ

    自身が籍を置く寺。明恵の本寺は高雄山神護寺であり、その師は母方の叔父の上覚行慈であった。

  2. 大衆だいしゅ

    その寺に属する僧たち。ここで明恵が言っているのは神護寺にあったその他多くの僧。

  3. 真信しんしん

    まことに信じていること。仏教に対する心からの信仰あるいは信頼、確信。特に大乗では「仏法の大海は信を以て能入とす」(『大智度論』)あるいは「信は道の元、功徳の母」(『華厳経』)と説き、菩薩の階梯の初位に十信を置くなど重要視する。仏教における信は一般に言われる、ともすると盲目的な信仰からその教義への信頼、そして確信と言ったように、いくつか段階がある。いきなり確信に至ることは不可能であるから、最初は盲目的な信仰であり、実践していくうちに自然とそれは変容していくべきものとされる。最終的に自身が如実知見に至ったならば、もはや信じる必要などない。

  4. 檀那だんな

    [S/P].dānaの音写で、「与えること」を意味する語。支那では転じて布施をする人、施主を意味する。それが日本ではさらに転じて、「主人」・「檀家」・「夫」などと様々な意をもつようにもなった。

  5. からうすの上下するらい

    確は碓(からうす)の誤植であろう。碓とは地面を掘ったところに臼を据え、杵の端を踏んで穀類などをつく「ふみうす」のこと。
    ただぺこぺこ、ぴょこぴょこと頭を上下するだけで、心になんとも思わずにする礼拝のこと。これは現在も日本全国どこの寺院においても見られる光景である。

  6. 持戒清浄じかいしょうじょう

    持戒清浄とは、持戒によって精神的・宗教的、または物理的に「清らか」などという意味でなく、戒律(学処)の規定に違反が無い状態であるのこと。

  7. 不信ふしん懈怠けだい在様ありやうにて...

    僧であることがただの職業となると、まさしくこのような状況が現出する。当時も出家者が少しばかり経済的に余裕が出来ると、寄進や扶持などをその親族に回して扶養していた。
    現在の日本仏教界などこれがまさに当たり前と化しており、もはやそれを批判する者などほとんど無い。信者・檀家の前ではいかにも自身が深くその宗の教義や思想を信じているかのように言うも、実際まるで仏教などどこ吹く風でひたすら自身と家族の経済と地位の確保に血道を挙げ、一族血統で寺を継がせることのみがその関心事となっているであろう。

  8. 天下てんかの祈りするとて、寺領じりょうを...

    当時は帝そして国家のために祈祷する寺院として指定されるのは非常なる名誉であると同時に相当な扶持が出ることでもあった。ために、そのような寺院になること、あるいは僧として天皇や貴族の信を得ようとして、寺院および僧らは様々な手段でもって自身を売り込み、冨貴を成そうとした。
    近世以前と異なり、国家が公式に寺院に金品・領地を与えることはもはやないが「世界平和を祈願する」などと言って大きな法会を開催し、祈祷料をせしめる者は今も後をたたない。世界平和を祈願とは、いったい何であろう。自身と自身の周囲との小さな争いすら処理できぬ者が「世界平和」とは、実現不可能の大言壮語にすぎる。大義名分としてはこの上ないものかもしれぬが、聞こえが良いだけの完全なる虚言に過ぎない。祈っても世界は平和に絶対に成らない。
    現代の日本で、「世界平和」や「みんな仲良く」などと、過去を見ず、努力などせず、具体的施策の提示すらすることなくして叫ぶ人々と、「八紘一宇」をスローガンにした過去の日本人と、なにも変わっていないであろう。しかし寺院で唱えられるそれは、飯の種になりえる戯言または社会から要請される興行・演技であって、真からそれを願っての言ではない。

  9. つと行法ぎょうぼう

    いわば営業としての、商売としての読経や祈禱等の行法。中世でもそれを揶揄する斯様に面白い表現が用いられていた。今の僧職者らのいう「お勤め」、すなわち読経・念誦・念仏・題目による法事や祈禱、葬式の類はすべて、まさに「勤め行法」に他ならない。

  10. 供料くりょう布施ふせにて、佛のいましめ給ふ...

    寺院あるいは僧侶の収入は、基本的に信者からの布施による。その内容は、先祖供養のための読経の返礼、祈祷の対価として、純粋な仏教への信仰、葬式という儀式の料金、戒名の代金などなど、さまざまで一様ではないであろう。しかし、布施する者らは、相手が「寺院だから」「お坊さんだから」とするのである。それは漠然とし、不明確なものであっても、それらに対する謙譲の意によってなされるものである。しかしながら、布施される側の寺院・僧尼にそのよういな意識はまず欠落している。すべて一様に「収入」でしかない。そして、その「収入」は、寺院・僧侶に禁じられたはずの物品、行為に費やされる。信者檀家の布施供料は、むしろ僧侶の破戒・無法を助長する種になっている。

  11. 地獄じごくに堕すべし

    現代の日本仏教界では「輪廻など通俗的非仏教的世界観であって、仏陀はそのような非科学的・非合理なことは説いていない」と公然と称する者は少なくない。彼らに「地獄はない」のである。それらカガクテキ・ゴーリテキ人々は、恐れず、遠慮なく非法な振る舞いをなす。

  12. 三寶さんぼう

    仏陀とその法(真理・教え)と僧伽(比丘の集い)。仏教徒が帰依する対象。

  13. 正法しょうぼう

    仏教。

  14. 無上菩提むじょうぼだい

    この上ない最高の悟り。悟りには浅深高低があるとされるが、その最高の仏陀のそれと等しい悟り。

  15. 布施ふせ愛語あいご利行りぎょう同事どうじの、四摂法行ししゃうぼうぎょう

    施し(布施)・相手を思いやる言葉(愛語)・相手を利する行為(利行)・相手と活動を共にすること(同事)の四つ。悟りを求める者が修めるべき四つの徳目。

  16. ものくさく

    事を為すのにめんどうがること。あるいは人のその様な性質。

  17. 退位たいいの菩薩

    敢えて自ら上位の悟りの境涯から下り、衆生救済に向かおうとする菩薩。観音菩薩や地蔵菩薩など。

  18. 閼伽井あかい小坊しょうぼう

    閼伽とは[S]arghaの音写で「価値」の意。転じて仏菩薩に捧げる水に対して用いられる語。僧が使う通常の井戸とは区別して別のものを用いる場合、その井戸を閼伽井として神聖視する。現在の高山寺に閼伽井小坊なるものは現存しない。

  19. 高信こうしん

    順性房高信。鎌倉期初頭の華厳宗僧。明恵に側仕えた高弟の一人で、明恵の没後にその伝記『明恵上人行状記』を編纂した。本『遺訓』は明恵が亡くなった寛喜四年〈1232〉一月十九日から三年後の文暦二年〈1235〉より、縁の人々からその言葉を聞き集め、嘉禎四年〈1238〉に編纂したものであるとされる。

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