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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

実恵『阿字観用心口決』

本初不生

すべては虚ろで不確かなるもの

画像:阿字本初不生

では、ここで不生(生じたものでない)、無生(生まれたものでない)とは一体どういうことか。阿字が表するという「本初不生」の意味は何であるのか。

それはすなわち、この世にある全ての事象・存在〈一切諸法〉は、その中にはもちろん我々人も含まれますが、誰か創造神や根源などといったものから「生み出されたものでは無い」・「作り出されたものでは無い」、もしくは「それ自ら生み出たものでは無い」ということ。延いてはそれは、多くの宗教でその存在が主張され、信仰されるような「創造神や根源的存在など存在しない」、ということをも表する語ともなっています。

阿字が意味する本初不生、または単に不生とは、仏教の核心たる縁起〈pratītyasamutpāda〉・縁起生〈pratatya-udbhava〉、空〈śūnya〉または無自性〈asvabhāvatā〉と同義です。なお、本稿で紹介する『阿字観用心口決』において、阿字には「空」・「有」・「不生」の三義があるとされています。

此अ字有空有不生三義。空者森羅萬法皆無自性是全空也。然依因縁假體現萬法歴然而有之有也。譬如意珠湛七珍萬寶而如隨縁降寶。破玉見中一物無之。雖然隨縁生寶非無。是以知空有全一體也。是云常住。常住即不生。不生者不生不滅也。是名字大空當體極理。
 このअ字に、「空」・「有」・「不生」の三つの意義がある。「空」とは、森羅万象にはすべて自性〈恒常不変の実体〉など無く、全く空っぽであること。しかしながら、因縁〈原因と条件〉によって仮にその姿を現し、あらゆる事象が歴然として有る(ように見える)ことから「有」である。それは譬えば、如意宝珠〈印度以来「意のままに願いを叶える」とされる伝説的宝玉〉が七珍万宝を内包しており、縁に従って宝を降らすようなもの。けれども如意宝珠を壊して中を見たとしても何も無い。(宝珠は)縁に従って宝を降らせるのである。この譬えによって知るであろう、「空」と「有」とは全く一体であることを。これを常住と言う。常住とは即ち「不生」である。不生とは不生不滅のことである。これをअ字が意味する、「大空の当体の極理」と名づける。

伝:空海述 実恵筆『阿字観用心口決』

ここで「有」とは、「依因縁假體現萬法歴然而有之有也(因縁によって仮にその姿を現し、あらゆる事象が歴然として有ることから「有」である)」とされます。すなわち森羅万象の「有」とは「仮に有る」ということであって、一切は因縁によって生じたもの〈因縁生起・縁起生〉であると。それにしても、ここで「有」ということを説明するために持ち出されている如意宝珠の譬えはまったく上手くなく、全然喩えになっていません。

おそらく、これは『大日経疏』で如意宝珠を用いた譬喩がしばしばなされているのに倣おうとしたのであり、あるいはまた地・水・火・風・空の五大を象徴した五輪塔のその最上部にあるように、空大を如意宝珠の形に擬していることにも依るのでしょう。しかし、もし人がこの喩えを聞いたとしても、特に現代に於いてならばなおさら、「是以知(これによって知るであろう)」ことなど誰も無いと思われます。

そこで、ここで言わんとされていることを確かに知るには、このような主張が何に基づいたものであったか、その典拠を知らなければなりません。

ところで、『阿字観用心口決』が伝説通り空海口説のものではないとしても、空海は阿字の意義について同様のことを、その著『吽字義』において述べています。

一吽字相義分ニ。一解字相ニ釋字義。初解字相者又分四。四字分離故。金剛頂経釋此一字具四字義。一賀字義。ニ阿字義。三汗字義。四麼字義。《中略》
阿字義者訶字中有阿聲。即是一切字之母。一切聲之體一切實相之源。凡最初開口之音皆有阿聲。若離阿聲則無一切言説。故為衆聲之母。若見阿字則知諸法空無。是為阿字字相。《中略》
阿字實義者有三義。謂不生義。空義。有義。如梵本阿字有本初聲。若有本初則是因縁之法。故名為有。又阿者無生義。若法攬因縁成則自無有性。是故為空。又不生義者即是一實境界即是中道。故龍猛云因縁生法亦空亦假亦中。又大論明薩婆若有三種名。一切智與二乗共。道種智與菩薩共。一切種智是佛不共法。此三智其實一心中得。為分別令人易解故作三種名。即此阿字義。
 一つの吽字〈हूँ / hūṃ〉について、相〈形態・特徴〉と義〈意義〉とのニつに分かち、第一には字相を解釈し、第二に字義を解釈する。初めに字相を解釈するには、またさらに(吽字を)四つに分かつ。(吽字は)四字に分離することが出来るためである。『金剛頂経』では、この一字を解釈して四字の義が具わるとされる。一つには賀字〈ह / ha〉の義、ニつには阿字〈अ / a〉の義、三つには汗字〈ऊ / ū〉の義、四つには麼字〈म / ma〉の義である。 《中略》
 阿字の義について。訶字〈ह / ha〉の中に阿〈अ / a〉の声〈音〉がある。すなわち、それはすべての字の母であり、すべての声の本体であり、すべての実相の根源である。およそ最初に口を開いた時の音には皆、阿の声が有る。もし阿の声を離れたならば、あらゆる言説は存在し得ない。故に(阿をもって)様々な声の母とする。もし阿字を見たならば、則ち諸法〈諸々の事物・事象・存在〉が空無であることを知る。これを阿字の字相とする。《中略》
 阿字の実義には三義がある。それは「不生」の義・「空」の義・「有」の義である。梵本〈サンスクリット原本〉に従ってこれを言えば、阿字には本初〈ādi-〉の声がある。もし本初が有るならば、それはすなわち因縁の法である。故に「有」という。また阿には無生の義がある。もし法が因縁によって成立するものであるならば、それは則ち自性〈恒常不変の実体〉など有りはしない、ということである。この故に「空」という。また、「不生」の義とは、即ち一実の境界であって、これを中道という。故に龍猛〈Nāgārjuna. 龍樹〉は(『中論』において)「因縁生の法は空であり仮であり中である」と説いている。また『大智度論』においては、薩婆若〈sarva-jña. 一切智〉について説明するのに三種の名を以てしている。一切智は二乗と共通するものであり、道種智は菩薩と共通するものであり、一切種智はただ仏陀のみ有するものであると。これらの三智は、実に一心の中において得られるものである。(しかしながら、本来一つのものであるけれども)そのように分別することによって人々に理解し易くさせるために、三種の名が立てられている。すなわち、これらもまた阿字の義である。

空海『吽字義釈』(弘全, vol.3, pp.55-56)

ここで空海は、阿字には「不生」・「空」・「有」の義があるといい、またそのそれぞれが「中道」・「無自性空」・「因縁之法」を意味するものであるとして、それが龍樹の『中論』・『大智度論』に基づいた言であるとしています。そして、またその上でこの一節に続き、それが『大日経疏』巻七にある一節であることを明示してはいないものの、阿字についての註釈をまるごと引いて阿字の表する一切諸法本不生〈あらゆる事物・存在は縁起生なるものであって、無自性空にして仮有なるもの〉という普遍の真理に、阿〈a. あ〉という音を抜きにしてはいかなる言語も成立しないことを重ね、それがあらゆる存在の根底であるとしています。

अとは、あらゆる音声・言語に欠くべからざるものであり、その故に一切万物のあり方に透徹する無自性空(本不生)という真理を表する音・文字であって大いなる真理の象徴、いや、真理と等同なるものとされるのです。そしてそれを完全に知り抜くことが、まさに『大日経』の説く「如実知自心」であって、仏陀に等しい智慧すなわち一切智智であることを示しています。

あたりまえのこと

画像:拝んでわかるわけがない真理

ここで一点、極めて当たり前のことではあるのですが、よくよく注意しておかなければならないことがあります。

「阿字とは真理の象徴」であるとか「阿字は真理に等同」であるとしても、それを闇雲にありがたがっても意味などありません。阿字がそのように真理を表したものであることは、例えば万有引力の法則や相対性理論もまた真理であって、それは数式で極めてシンプルに美しく表現されているようなものです。

言うまでもなく、その数式を崇拝したり祈念などしても、その意味を理解など出来はしません。また、それを伏し拝むことによって、その真理・法則を自らが駆使あるいは捻じ曲げることなど「絶対に」出来はしません。それと全く同様に、阿字が真理の象徴あるいは仮に真理そのものだとして、それを「本尊」だといって祭り上げ、なにもわからぬまま盲信の対象とすることなど、愚の骨頂以外の何者でもない。

しかし、その愚の骨頂が具現化したような手合こそ阿字や阿字観について積極的に語るばかりとなっているのは、どうしたことでしょうか。阿字が本不生を意味するものであるからといって、それを説こうとする本人がまるでその基礎を固めても踏まえてもいない、中身のない「空っぽ」であってはいけない。それとこれとは話が全く別です。

仏教において、阿字の一字・一音によって真理を表するもの(象徴)だと示されているのは、たとえば先に示した『般若経』のような、その元・根拠となる思想・言葉がまずあるからこそです。そして『般若経』が前提としているのは、諸々の阿含経にて説かれた縁起・空の教説です。それはたしかに仏陀釈迦牟尼によって初めて悟られ開示され、さらにはその後代の偉大な弟子・先徳によって伝承され、敷衍展開されたものです。そのような種々の前提を、ただ一字・一音にて表するのはまこと便利であって、そのゆえに優れた方法であります。が、それは無論、「拝む」ためのものでなくて、自らが目の当たりに理解、体得するためのものです。それを拝んでどうしようというのか。

それを確実に理解するのには、その基礎・根本から確かに学び重ねていなければなりません。これは数学を学ぶ前にはまず四則演算など算数を確実に習得しておらねばならず、数学を学ぶと言ってもその初等から段階的に学び理解していなければ、高等数学には触れることすら出来ないようなものです。あるいは、物理学を修めるには最低でも数Ⅰ・数Ⅱを習得していなければ、無論それだけでは全く不十分ですけれども、そもそも手のつけようが無いようなものです。

仏教においてはしかし、ただ座学・机上において全うできるものではなく、戒を身口の上でも実現した上で、心神を陶冶するための修習、瑜伽を修めなければなりません。そのような段階を踏むことを、仏教では戒学・定学・慧学の三学といいます。

なんであれ、その基礎からの積み重ねがなければ何にも達することは出来はしません。そのような極めて「当たり前」をまったく理解せず、いきなり「なんだか知らねぇけれども阿字とはありがてぇものなのだ。はい、礼拝~」とただ伏し拝むことに自ら終始し、他にも推奨・強制しているのだとすれば、それは救いようのない阿呆でありましょう。しかし、そのような手合こそ真言や天台の僧職者にいまだ多くあります。

「ありがたや」・「これも、ご縁だね?」・「我々は生かされているのだ!」・「おかげさま」・「ぼーさんの仕事は拝むことに尽きる」などと愚かなことを慣習的に言うに終止し、今示したような肝心の仏教自体は知らず学ばず、にも関わらずいかにも僧徒面する禿頭の類を見聞きしたことのない者など、今の世によもやありますまい。故に世間はその手合こそが「仏教の僧侶とはこういうものであろう」などと理解されているのだと思われます。そしてその故に、もはや日本の仏教に課せられているのは、仏教にまつわる文化財・文物の保護と、伝統芸能と化した法要の類を見世物として継続することくらいでありましょう。誠に詮無いことです。