これは阿字というものを理解する上で非常に重要な箇所であり、実際に各自が確認しておくことは必須のことであるため、空海が元とした『大日経疏』の一節を示してます。
經云。謂阿字門一切諸法本不生故者。阿字是一切法教之本。凡最初開口之音皆有阿聲。若離阿聲則無一切言説。故爲衆聲之母。凡三界語言皆依於名。而名依於字。故悉曇阿字。亦爲衆字之母。當知阿字門眞實義。亦復如是。遍於一切法義之中也。所以者何。以一切法無不從衆縁生。從縁生者。悉皆有始有本。今觀此能生之縁。亦復從衆因縁生。展轉從縁誰爲其本。如是觀察時則知本不生際。是萬法之本。猶如聞一切語言時即是聞阿聲。如是見一切法生時。即是見本不生際。若見本不生際者。即是如實知自心。如實知自心即是一切智智。故毘盧遮那。唯以此一字爲眞言也。而世間凡夫。不觀諸法本源故。妄見有生。所以隨生死流不能自出。如彼無智畫師自運衆綵。作 可畏夜叉之形。成已還自觀之。心生怖畏頓躄於地。衆生亦復如是。自運諸法本源畫作三界。而還自沒其中。自心熾然備受諸苦。如來有智畫師既了知己。即能自在成立大悲漫荼羅。由是而言。所謂甚深祕藏者。衆生自祕之耳。非佛有隱也。
経〈『大日経』巻二〉に「阿字門一切諸法は本不生の故に」と説かれているのは、阿字が一切法教の本であるからである。凡そ最初に口を開く音には、すべて阿の声がある。もし阿の声を離れたならばあらゆる言説は存在し得ない。故に(阿を)衆声の母とする。凡そ三界の言語は、すべて名〈単語〉に依って成立している。そして名とは字〈文字。またそれによって表される音〉に依って成立するものであるから、悉曇〈サンスクリットの古い文字体系の一つ。ここでは単にサンスクリットの意〉の阿字をもって様々な字の母とする。まさに知るべきである、阿字門の真実義もまたそれと同様であることを。それは一切法〈あらゆる事物・事象・存在〉の義において普遍なものである。なんとなれば、一切法で衆縁〈様々な条件〉によって生じないということは無いから、縁によって生ぜるものには全て、その初めが有りその本が有る。しかしそこで今、その 能生の縁〈何事かを生み出す条件〉を(それぞれ)観察してみたならば、それらもまた諸々の因縁によって生じたものである。(そのようにその基を突き詰めていけば、果てしなく)展轉し、(すべて)縁に従って生じたものである。(創造神・創造主などといった万物の始源や根源を主張する者は畢竟、無限遡行の過失に陥って、ついにその「究極の始源」を証すことなど出来はしない。)
一体、何者がその根本であろうか。そのように観察していった時、則ち「本不生際」とは万法の本であることを知る。それはあたかも、あらゆる言語を聞いた時には必ず阿の声を聞くようなものである。そのように一切法の生を見た時、すなわち本不生際を見る。もし本不生際を見る者は、実の如く自心を知る。実の如く自心を知るとは即ち、それが一切智智である。
故に毘盧遮那〈大日如来〉は唯だこの一字〈阿字〉を以て真言とされた。しかるに世間の凡夫は諸法の本源を観察することなど無いため、妄りに「生が有る」と考える。そのようなことから生死流転し自ら解脱することが出来ない。それはあたかも、智慧の無い画師が自ら筆を振るって怖ろしい夜叉を描きあげた後、それを自分で見て、そのあまりの畏ろしさに卒倒してしまうようなものである。衆生〈生けるもの〉もまたそれと同様である。自らが(なんらか恒常にして絶対的実在たる)諸法の本源があると妄想して三界を作り上げ、むしろ自らその中に埋没し、自らの心が炎のように燃え盛って諸々の苦しみを受ける。如来という智慧ある画師は、(それが自らが描いた絵に過ぎないものであることを)全く理解しており、その上で(この世の一切が本不生であることを、衆生に視覚的に開示するため、)自在に大悲漫荼羅を建立する。
このようなことから、いわゆる甚深秘蔵〈密教〉とは、衆生自らがこれ〈諸法本不生〉を秘密としているのであって、仏陀が何かを隠そうとしてそうあるものではない。
一行『大毘盧遮那成佛経疏』巻七 入漫荼羅具縁品第二之餘(T39, p.651c)
本題から少しばかり離れますが、ここで「阿という音・字が諸々の言語の母とすることは良いとして、それは別にサンスクリットに限定されたことで無いのではないか。それともサンスクリット自体や悉曇という往古のその文字体系が、何らか神聖視された、いわば呪術的特別なものであって、その他の言語には該当しないことであるのか」などと疑問に思う人があるかもしれない。
そのような疑問が生じるのは誠にもっともなことです。
実は、今挙げた『大日経疏』の一節の直前にて、「そもそも真言密教とは何か」が明らかにされているのですが、それはまたそのような疑問への回答ともなっています。
經云。祕密主云何眞言法教者。即謂阿字門等。是眞言教相。雖相不異體體不異相。相非造作修成不可示人。而能不離解脱現作聲字。一一聲字即是入法界門故。得名爲眞言法教也。至論眞言法教。應遍一切隨方諸趣名言。但 以如來出世之迹始于天竺。傳法者且約梵文。作一途明義耳。
経〈『大日経』巻二〉に「秘密主〈金剛薩埵〉よ、真言法教〈真言密教〉とは何であろうか。それはすなわち阿字門〈一切諸法本不生〉である云々」と(毘盧遮那〈Vairocana. 大日如来〉により)説かれていることについて、それがまさに真言の教相〈教えの特徴〉である。その相〈姿・特徴〉は体〈本質〉に異なったもので無く、その体は相に異なったものでは無い。(このような真言の)相とは(何者かによって意図的に)創造されたものでなく、(何故そうであるかの所以を)人に示すことなど出来はしない。それはしかし、「解脱」〈無自性・空たること〉を離れること無しに、声字〈音と文字〉として現にある。一つ一つの声字は、(それぞれあらゆる存在が無自性空・本不生であるという真理を象徴・開示しているものであって)すなわち法界に入る門であるから、「真言法教」と言う。これをさらに敷衍して言ったならば、真言法教とは、あらゆる方角のあらゆる趣〈境涯・生命のあり方〉における言葉において普遍なるものである。ただし、如来が世に出られたのが天竺〈印度〉であったことから、その法〈教え・真理〉を伝える者らは、仮に(印度の言語である)サンスクリットを例とした一つの方法により、その意味を明らかにしているのに過ぎない。
一行『大毘盧遮那成佛経疏』巻七 入漫荼羅具縁品第二之餘(T39, p.651b-c)
これは現在の日本において密教者を自称する真言宗や天台宗の僧職者らの大部分も完全に誤認している点でもあるのですが、真言陀羅尼とは必ずしも「サンスクリットでなければならない」というものではありません。
釈尊が印度に生を受けて仏教が始まり、またその故に当然ながらその地の言語であるサンスクリット(など印度語)によってその教えが説かれ伝えられてきたものであるために、それを敬し、サンスクリットによって真言を学び、また言うに過ぎません。とはいえ、そのようなことから、真言はサンスクリットの語彙を前提としており、やはりサンスクリットに対する一定の理解が必須とはなります。
したがって、その意味においては、サンスクリットは確かに特別な言語です。そして同時に、であるからが故に、そのようにサンスクリットの語の頭文字一字にて表される一般的仏教、すなわち顕教(声聞乗および菩薩乗)の教理の重要な点を確かに理解することは欠くべからざるものです。
今も「密教を行じるには、必ず顕教を理解しなければならない」ということまでは口にする密教者はそれほど多くはなくとも存在しています。ところが、では「それは何故か?」という問に対して確たる返答をし得る者は非常に稀です。要するに、なんとなく誰か有能そうな人がそう言っているのを聞いたことがある者が、オウム返しになんとなくそう言っているにすぎません。
しかし、その答えは単純明快で、それ無しには真言として説かれる一連の言葉・音をどれほど懸命に、幾度も口にしたところで、それらはまるきり意味の無い迷信、世迷い言に等しい呪文の類となるためです。それではいくら複雑な密印をどれほど手に組んだところで、ただの詮無い手遊びにしかならず、また己が意識をその三摩地に運ぶことなど夢のまた夢となるためであります。
真言密教の本質は、この世のあらゆる言語を構成する声字 、すなわち音あるいは字というものは、いずれもこの世のあらゆる存在・事象が縁起・無自性であるという真理を開示したものである、と理解する点にあります。声字というものに対する見方が世間のそれと全く異なっているという点からも、「真言密教」と言われます。それを確かに理解したならば、その者の世界は全く劇的に変わったものとなるでしょう。そしてその時、その者にとって密教はもはや密教では無い。
法身有義。所謂法身者諸法本不生義。即是實相。 《中略》
名之根本法身為源。從彼流出稍轉為世流布言而已。若知實義則名真言。不知根源名妄語。
法身にの義がある。いわゆる法身とは本不生の義であって、すなわちそれが実相である。《中略》
名の根本とは法身〈阿字〉を源とするものである。それより流出して次第に転変し、世間に行われる言語となる。もし(あらゆる声字の)実義〈「本不生」等の諸々の声字に象徴される真理〉を知ったならば、それ〈ありとあらゆる音・言語〉は真言となり、その根源〈あらゆる音が開示している「本不生」などの真理〉を知らないままならば、(世間のあらゆる音・言語は)妄語である。
空海『吽字義釈』(弘全, Vol.3, p.38)
空海もまたこのように、法身と阿字と本不生(実相)の等しいことを明らかとし、また真言のなんたるかを総括しています。
現在、しばしば密教というものを説明するにあたり、真言についてなどまるで触れず、ただやたらと秘教であることを強調し、密教とは「梵我一如」であるとか「大宇宙〈マクロコスモス〉と小宇宙〈ミクロコスモス〉の合一」であるとかいうひどく神秘主義的な理解をもってする人が多くあります。真言はどこかに忘れてきてしまったのでしょうか。しかもそれらは、実は噴飯物の言であって、まるで頓珍漢な理解です。
真言について何か言ったかと思えば、「真言とはホトケサマのお言葉です」であるとか「真実なる言葉が秘める力を宿した言葉だ」といい、酷いのになると、普通の文章にも文字上には書かれていないが文脈としては存在するような言葉のもつ力をはらむ言葉のこと、などというこねくり回しをする者があります。彼らは一体何を、何に基づいて言っているのでしょうか。、
少なくとも日本に伝わった密教は、これは真言宗であれ天台宗のそれであれ「真言密教」です。真言宗など、その別称は真言陀羅尼宗とすらいわれるものです。したがって、密教を説明するならば、必ず真言とは何かということを確かに踏まえた上で為されなければなりません。
日本に始めて真言密教の正統をもたらしたのは空海です。ところが、実はその空海ですら、唐にて密教を受法して帰国したその当初から真言というものの本質を全く理解していた、というわけではありませんでした。というのも、空海はその自著『梵字悉曇字母井釈義』において、梵語・梵字についての自身の「まるで誤った」所見を以下のように述べているためです。
世人不解元由謂梵王所作。若依大毗盧遮那経云。此是文字者自然道理之所作也。非如来所作亦非梵王諸天之所作。若雖有能作者如来不随喜。諸佛如来以佛眼觀察此法然之文字即如實而説之利益衆生。梵王等傳受轉教衆生。世人但知彼字相雖日用而未曾解其字義。如来説彼實義。若随字相而用之則世間之文字也。若解實義則出世間陀羅尼之文字也。所謂陀羅尼者梵語也。《中略》
此悉曇章本有自然真實不變常住之字也。三世諸佛皆用此字説法。是名聖語。自餘聲字者是則凡語也。非法然之道理。皆随類之字語耳。若随順彼言語。是名妄語。亦名无義語。
世人らは、その元由を理解せずに(梵字悉曇は)「梵王の所作〈創造した物〉である」などと言っている。しかし、もし『大毗盧遮那経』〈『大日経』〉(の所説)に拠ったならば、この文字は自然道理の所作〈何者かによって作り上げられたものでも生み出されたものでもなく、自然の道理としてあるもの〉である。如来が作ったものでもなく、また梵王や諸天の作ったものでもない。もし「能作の者〈主体的に創造した者〉が存在する」などとしたならば、如来は随喜されない〈ここでは「同意して称賛する」の意〉。諸仏如来は仏眼を以て、これは法然の文字であると觀察し、そこで実の如くにこれを説いて衆生を利益されるのである。梵王等は、(そのような如来の所説を)伝え受け、それを転じて衆生に教えたにすぎない。世人はただその字相〈字の形〉を知って日々に用いてはいるけれども、未だ曾てその字義〈字の意味〉を理解してはいない。ただ如来のみがその実義を説かれているのである。
もし単にその字相を以てこれを用いるだけならば、それは世間の文字である。(しかし、)もしその実義を理解したならば、それは出世間の陀羅尼の文字である。所謂「陀羅尼」とは梵語である。《中略》
この『悉曇章』〈おそらくは空海が唐から請来し、『御請来目録』にも記載している『悉曇章』を指したもの〉(にその詳細を記している梵字と)は、本有自然にして不変常住の字である。三世の諸仏は、皆この字を用いて法を説かれた。これを聖語と名づける。その他の声字〈音と字、すなわち言語〉は凡俗の言葉である。法然の道理ではない。それらは全て、随類〈亜流〉の字語に過ぎない。もしそのような言語に随順するならば、それを妄語といい、または無義語という。
空海『梵字悉曇字母井釈義』(弘全. Vo5, pp.101-102, pp.111-112)
空海もその当初は、『大日経』および『大日経疏』の所説を完全には理解できておらず、よって梵字と真言との関係について確実に把握出来ず、むしろ誤って混乱した理解をしていた、という跡がここに明瞭に見られます。
空海はこの『梵字悉曇字母井釈義』において、何を根據にそう言っているのか不明である上に、実に不合理な主張を展開しています。例えば以上のように「大毗盧遮那経に依れば」と言っているものの実のところそうは『大日経』に説かれておらず、また先に示した『大日経疏』の所説と比較したならば処々に撞着した理解を開陳しているのです。
特に悉曇をして「此是文字者自然道理之所作也。非如来所作亦非梵王諸天之所作(この文字は自然道理の所作である。如来が作ったものでもなく、また梵王や諸天の作ったものでもない)」などという、従来の説にも自身が根拠として示している『大日経』の説にも異なる上に、そもそも不合理な説を展開している点については、同時代の法相宗の碩徳、徳一から鋭い批判と問いが加えられています。
梵字疑者。學眞言徒傳言。梵字是非梵天作非外道作。非佛所作。法然而有。但佛所顯示。今疑。問曰。法然有者。何等而有。爲無爲有爲耶。彼答曰。非有爲非無爲。但佛説顯耳。我疑問曰。有爲無爲所不攝法是無體法。此無體法三世不生。如菟角等。如何佛説顯令有詮用。又彼文字是翰墨所畫。現是等色法。是色等之有爲法非無爲法者。可如所言。何非有爲法。又遁倫師所造瑜伽疏第五云。劫初起梵王創造一百萬頌聲明。後慧命〈『成唯識論掌中樞要』・『瑜伽論記』では命恵〉減。帝釋復略爲十萬頌。次有迦單設羅仙略爲一萬二千頌。次有波膩尼仙略爲八千頌。今現行者唯有後二。前之二論竝已滅沒。又有開釋〈聞擇の写誤〉迦論一千五百頌。然護法菩薩造二萬五千頌。名雜寶聲明論。西方以爲聲明究竟之極論。盛行於世也。是名聲明根本。名號者。劫初時梵王於一一法皆立千名。帝釋後減爲百名。又減爲十名。後又減爲三名。總爲一品。又西域記第二云。詳其文字梵天所製。原始垂則四十七言也。準此等文。彼梵字實翰墨之所造畫。何故云法然而有。此疑未決
梵字の疑とは、真言を学ぶ徒〈空海〉が伝えて言うには、「梵字とは梵天の作ではなく、外道の作でもなく、仏の作る所でもなく、法然にして有り。ただ仏が顕示されたものである」〈『梵字悉曇字母井釈義 』〉とする。今、この説を疑って問う。「法然にして有り」とは、どのように有るというのか。無為なのか有為なのか。彼が答るには、「有為でもなく、無為でもない。ただ仏が顕わされたのを説くのみ」という。私はそれを疑って問う。有為にも無為にも摂せられない法とは、無体の法〈空虚なもの〉である。無体の法は三世に生じることはない。たとえば兎角〈空華・亀毛など、ただ空想上・概念上でしか存在し得ない物の象徴〉などのように。それをどのように仏が顕わに説き、実際に用いられるというのか。また、彼の文字〈梵字〉は翰墨によって書くものであって、それらは色法〈物質〉の現れである。もし色等が有為法であって無為法でないならば、そう言うように有り得はするだろう。それをどうして有為法でないというのか。また、遁倫師〈新羅における法相宗の学僧. 道倫とも〉が造った『瑜伽疏』〈『瑜伽論記』〉第五に、「劫初の起こり〈現在の宇宙の創成期〉に梵王〈梵天〉が一百万頌の声明〈梵語学. 文法・音韻論〉を創造したが、後に(衆生の)智慧と寿命とが減じため、帝釈天がまた略して十万頌とした。次に迦単〈Kātyāyana. 前250年頃の文法学者〉・設羅仙〈Patañjali. 前二世紀頃の文法学者〉が出て、略して一万二千頌とした。次に波膩尼仙〈Pāṇ̣ini. 前五‐四世紀頃の梵語文法家でその大成者〉が出て、略して八千頌とした〈Pāṇ̣iniと、KātyāyanaおよびPatañjaliとが登場する時代が倒錯した誤認〉。今、現行するのはただ後の二人のものだけである。前の二論はいずれもすでに散失して無い。また、『聞択迦論』〈Muṇḍa. 梵語の語根を合成する法を記した文法書〉には一千五百頌がある。そこで護法〈Dharmapāla. 六世紀の印度における唯識の大論師〉菩薩は二万五千頌を造って、『雑宝声明論』〈現存せず〉と名づけている。西方〈印度〉ではこれを声明における究竟の極論とし、世に盛行している。これを(仏家における)声明の根本とする。名号とは、劫初の時、梵王が一一の法に於いてすべて千名を立て、帝釈天は後に減らして百名とし、また減らして十名とし、後にまた減らして三名とし、総じて一品とした」〈以上は、実は遁倫の説でなく基『成唯識論掌中樞要』の一節を遁倫が引用したもの〉とある。また、(玄奘の)『西域記』第二に、「その文字〈梵字〉について詳かにしたならば、梵天が作ったものであって、原始〈太古〉に規則が布かれて四十七文字となった」とある。これらの文に準じれば、彼の梵字は実に翰墨によって描画されるものである(その始まりが明確なる「造られたもの」であり、すなわち梵字とは有為法)。いったい何に基づいて「法然にして有り」と言うのか。この疑いは未だ解決しない。
徳一『真言宗未決文』第八 梵字疑(T77, p.864c)
*但し一部の文字については注の「甲本」に従う
このように問われた空海は、なんらまともな回答を示していません。いや、示せるわけがありませんでした。そこで後代、この徳一からの疑問について、空海の代わりにあれこれ空海擁護論を展開した人があり、それは今なお存しています。
よく見られるのが、この梵字に関する空海の不合理な主張に対する徳一からの問いについて、梵字と真言とを混同した上で、あたかも徳一の問いがそもそも誤っているとか稚拙であったとする反論です。しかし、それはまず徳一の問いが何を意味したものか理解しておりおらず、そして無闇(不合理・無根拠)に自宗や空海を擁護しようとするものにすぎません。それはむしろ、空海が言ったところの「溺派子」、または慈雲が云った「宗派固まり」の徒の所行に相違ない。
しかしながら、ここで徳一が問うているのは真言についてでなく、あくまで文字体系としての梵字についての伝承、その位置づけについてです。上に示した徳一の問いは、きわめて常識的で、仏教徒としてごく当たり前に感じられる疑問に基づくものです。単純に、帰朝したばかりの空海における梵字というものの理解が、当初誤っていただけのことです。
なお、空海は唐にて罽賓(Kapiśa)出身の般若(Prajñā)および北印度の牟尼室利(Muniśri)という二人の印度僧から悉曇の手ほどきを受けたといいますが、そのような説を二人から聞いてなどいなかったと考えられます。もし聞いていたならば、それをまた必ず記述していたことでしょう。なお、漢語を流暢に操ることが出来た空海は悉曇の読み書きだけでなく、印度僧に直接教授されていることから、その発音もある程度正確に把握し、発声することも出来ていたと考えてしかるべきです。
また、梵語の六合釈 〈名詞の複合語の解釈法〉といった文法についてその著作の中に言及があることから、あるいはそれはただ支那撰述の華厳宗や法相宗の典籍での用例に倣ってのことであったかもしれませんが、幾ばくかは文法についても習い知っていたようです。ただし、よく巷間なされている誤認ですが、空海が梵語を完全に習得していた、ということは間違いなくありません。梵字は習得していたとしても、梵語は習得していなかった。梵字とは梵語を記述する文字ですが、それらは当然、別々にわけて考えるべきことです。
そもそも、悉曇の起源が「自然道理之所作」であろうが「梵天所作」であろうが、あるいは世人が制作したのであろうが真言というものの意義にはまったく関しないのであって、「自然道理之所作」などと不合理を言う必要はありませんでした。それはいわば、空海本人による「弘法も筆の誤り」であったと言える。しかし、空海も後に『大日経疏』を読み込み、その思想も整理されていって『吽字義』を著した頃にはそれも正され、その真義を理解するようになっていたと思われます。
いくら稀代の天才であったと古来評される空海であっても、唐は長安にて恵果阿闍梨から密教を受法したその初めからその理解や思想を全く完成させ、その死を迎えるまで何ら変遷せず一貫していたなどということはありませんでした。空海が密教を受法して帰国してからも、その学を深め思想的にも成長していった、ということがここからも見て取れるのです。
これはわざわざ言うまでもない、人として極めて当たり前の話なのですが、空海をあたかも神のように崇め奉って妄信し、いわゆる「祖師無謬説」を奉じて刹那の疑問すら抱かずにいる多くの真言宗の僧徒らにとっては全く受け入れがたい見方かもしれません。それを認めたとして空海の偉大性や価値が損なわれることなど無いでしょうに。そのように神格化して妄信することにより、むしろ空海自身および所伝の真言密教の真価を著しく毀損することにすらなる。事実、そのように思われることが多々あります。
さて、以上示したように、世間一般に思われているように「サンスクリットであるから真言である」・「真言であるならばそれはサンスクリットでなければならない」などと言えたものでは決して無い。そして、その意味においては、真言はかならず悉曇文字で記述しなければならないということも無い。
(凡庸な僧職者らにより、「真言とはホトケサマのお言葉のことです」などといった幼稚な、しかし、非常によくなされる説明は全くの論外で、そもそも自身が理解していないのであれば、それについて沈黙しなければならない。あるいは「信者や檀家らに難しいことを言ってもわからんからそう言うのだ」などという、しばしば彼らから口にされる苦しい弁明に対しては、日頃から仏教について正しくまともなことを、知らないから出来ないというのが本当のところでしょうけれども、それがたとい簡単なことであっても説いてすらいないのに何をか言わんやと云うべきです。)
いや、もちろん仏典に悉曇で書かれているならばそれを悉曇としてそのまま正確に読み、発音しなければならないし、それを写すときも悉曇にて記述しなければならない。けれども、この世のあらゆる音(言語)は真理を開示しているものであるという真言の本質からいえば、「真言は必ず梵語であって悉曇で書かなければならない」ということは無いわけです。
因みに、ここで空海も述べているように、法身とは本不生という一切諸法の有り様・真理のことであり、巷間そのようにしばしば誤解されるているような何か人格を持ったホトケサマ、万物の創造主たる根本神の如きモノでは断じてありません。すなわち、純然たる法身〈自性法身〉としての大日如来とは、本不生という真理の象徴です。
(空海が『辯顕密二教論』などにて定義した密教の特徴の一つに「法身説法」があります。そしてそれ以来、法身によって説法されたのが密教であってそれは顕教に無いことである、と理解されてきました。しかし、では法身とは具体的に何か、あるいはその説法とは何か、ということはしばしば言及も考究もされず無視され、普通に考えれば法身が文字通りアレヤコレヤと説法することなどありえないと思われるのですが、ただオウム返しに「密教は法身説法」と繰り返されています。そのような曖昧で不可解な説を解消するべく、中世に生じた新義真言宗では自性法身が説法するのではなく、加持身が説法するのだ、として理解されています。この辺のことは一般にまったく意味不明の形而上学的議論であろうため、ここではこれ以上深入りしません。)