話が前後し、またその内容も重複したものとなりますが、実は空海が『吽字義』にて阿字の意を「空」・「有」・「不生」であるとしている一節もまた、『大日経疏』の一節を引用したものに過ぎません。すなわち、それは空海独自の解釈などでは無い。
阿字自有三義。謂不生義。空義。有義。如梵本阿字有本初聲。若有本初則是因縁之法。故名爲有。又阿者是無生義。若法攬因縁成。則自無有性。是故爲空。又不生者即是一實境界。即是中道。故龍樹云。因縁生法。亦空亦假亦中。又大論明薩婆若。有三種名。一切智與二乘共。道種智與菩薩共。一切種智是佛不共法。此三智。其實一心中得。爲分別令人易解故。作三種名。即此阿字義也。
阿字自らに三義がある。それは「不生」の義、「空」の義、「有」の義である。梵本〈サンスクリット原本〉の阿字には本初〈ādi-〉の声がある。もし本初が有るならば、それはすなわち因縁の法である。故に「有」という。また阿には無生の義がある。もし法が因縁によって成立するものであるならば、それは則ち自性〈恒常不変の実体〉など有りはしない、ということである。この故に「空」という。また、不生とは即ち一実の境界であって、これを中道という。
故に龍猛〈Nāgārjuna. 龍樹〉は、(『中論』において)「因縁生の法は空であり仮であり中である」と説いている。また『大智度論』において薩婆若〈sarva-jña. 一切智〉について説明するのに三種の名を以てしている。一切智は二乗と共通するものであり、道種智は菩薩と共通するものであり、一切種智はただ仏陀のみ有するものであると。これらの三智は、実に一心の中において得られるものである。(しかしながら、本来一つのものであるけれども)そのように分別することによって人々に理解し易くさせるために、三種の名を立てている。すなわち、これが阿字の義である。
一行『大毘盧遮那成佛経疏』巻七 入漫荼羅具縁品第二之餘(T39, p.649b)
結局のところ、阿字が表するとされる空・仮・中、あるいは不生・空・有という語の意義を知るには、その基である龍樹の所説を先ずは知らなければなりません。いや、そもそも大乗を学ぶ者もしくは奉ずる者でありながら、龍樹の『中論』などその諸著作に触れていないなど全くの論外というもの。
諸法有定性。則無因果等諸事。如偈説
衆因縁生法 我説即是無衆因縁生法。我説即是空。何以故。衆縁具足和合而物生。是物屬衆因縁故無自性。無自性故空。空亦復空。但爲引導衆生故。以假名説。離有無二邊故名爲中道。是法無性故不得言有。亦無空故不得言無。若法有性相。則不待衆縁而有。若不待衆縁則無法。是故無有不空法。
亦爲是假名 亦是中道義
未曾有一法 不從因縁生
是故一切法 無不是空者
諸法に定性〈恒常不変の性質・自性〉があるならば、因果等の諸事象など起こり得ないであろう。偈に曰く、
諸々の因縁生〈pratītyasamutpāda. 縁起〉の法を、諸々の因縁生の法を、私は即ち空であると説く。何故ならば、衆縁〈様々な条件〉が具わり和合してこそ、法〈事物〉は生じるためである。その法とは、諸々の因縁〈原因と条件〉に依存したものであるから、無自性〈恒常普遍の実体が無いこと〉である。無自性であるから空〈本体を欠いていること。実体が無いこと〉である。そして空もまた空である。ただ衆生〈意識あるもの〉を引導する為に、(そのような真理を)仮名によって説く。有と無との二辺を離れるから、これを中道という。(ありとあらゆる)法には性が「無い」のであるから「有る」ということは出来ない。しかしまた、空が(実在として)「無い」からといって(現象・事象として)「「無い」ということも出来ない。もし(なんであれ)法に 性相〈恒常不変の、固有な性質(性)と姿・特徴(相)〉があるならば、衆縁など無くとも(自然に、どこからともなく)存在し得るであろう。(しかしながら、)もし衆縁が無ければ法は存在し得ない。この故に空ならざる法など存在しえないのだ。
私は即ち無〈śūnyatā. 空性〉であると説く。
それはまた仮名〈prajñapti. 施設〉であって、
それは中道〈madhyamā〉の義である。
未だ曾て一つの法〈dharma. 事物〉として、
因縁生で無いものなど存在しない。
そのようなことから一切の法で、
空ならざるものなど存在しない。
青目・鳩摩羅什訳 龍樹『中論』巻四(T30, p.33b)
ここで一応注意すべき点として述べておきますが、今挙げた漢訳『中論』とは、二世紀の印度僧であった龍樹〈Nāgārjuna. 龍猛〉のMūlamadhyamaka-kārikā〈『根本中頌』〉に対して四世紀の印度僧、青目〈Piṅgala. 賓伽羅〉が(共訳とされる鳩摩羅什を通して)漢語によって著した注釈書であり、上記の一節の中では字下げにより示した偈頌以外は龍樹によるものではなく青目の註釈です。
以上のように龍樹は、因縁生〈pratītyasamutpāda〉すなわち縁起とは、空性〈śūnyatā〉・仮名〈prajñapti〉・中道〈madhyamā〉と同義であると宣言しています。
それ自身・それ自体によって存在し得るものなどこの世に全く存在しないこと。人という存在をもちろん含めたあらゆる事物・事象は、何らか他の原因と条件により生起するものであって、いわば仮初に、一時的にのみ諸々の集合として存在しえるもの。しかしその存在を支える諸条件を失えば忽ち滅び去ってしまうものです。そのような、あらゆる事物の縁起してこそ有り得る在り方を空性と云い、また仮名と云い、さらにまた中道とも云う、というのが龍樹の主張です。
(ただし「滅びる」と言っても、全ては滅すれば忽ち無に帰するというのではなく、それぞれが業に従ってまた生じては滅するという輪環を繰り返す、という生死流転をその前提としている点を無視してはいけない。)
このような龍樹の主張についてより確かに知るためには、声聞乗における諸部派の中でも特に説一切有部における「三世実有 法体恒有」の見解や、Ātman(我)などといわれる常住普遍の存在を認めようとする外道の見解がどのようなものであるかを、少なくとも概観しておかなければなりません。でなければ、龍樹のここで言わんとしていることを把握することは全く難しいこととなるでしょう。
そしてまた、上に示した龍樹『中論』では「仮名」と云われ、『大日経疏』にては「有」とも表され、また他には施設とも言われる語の意味を理解しておくことも必須となります。それはサンスクリットprajñaptiあるいはパーリ語paññattiの漢訳です。そして、これを現代日本語に訳したならば、仮定・概念といったものとなります。
(律関係の書においてprajñaptiあるいはpaññattiという語は、いわゆる「施設」としてではなく仮定を表する語として用いられてもいます。)
あらゆる存在・行為・事象は、例えば「Aである」・「Aではない」などという言葉・概念によって規定することが出来、そのように種々様々に規定された言葉・概念を組み合わせ、また駆使することに依って我々は思考し、また会話することが出来ます。
そこで仏教では、中でも特に大乗に於いては、「Aである」とされる何事かは、「A」として不変的・恒常的に存在するものではなく、あるいはその背後に「A」を「A」たらしめる何らか絶対不変の実在があって「A」とされるものでもない、と看破されます。あくまで「A」とは、「仮にAとされるもの」・「一応、Aとして名づけられたもの」に過ぎないのであって、それを仏教では仮名あるいは施設といいます。
なお、ここで念のため注意しておきますが、龍樹によって主張された空・仮・中の中道と、釈尊が初転法輪において説かれた中道、すなわち四聖諦の道諦の具体である八正道とは意味合いが全然異なっていることを理解していなければなりません。
ところで、顕教の処々にてしばしば説かれ、密教でも『大日経』などで非常に頻繁に用いられる「不可得」なる語があります。が、にも関わらず、その意についてもやはり現今のほとんどの密教者らは全然理解しておらず、ただ舌先三寸で用いるだけの語となっています
では不可得とは何か。
それは文字通り「得ることが出来ない」ことです。では、何を「得ることが出来ない」のか。それは、ありとあらゆる事物の根源・本源、恒常普遍の実在するモノのことです。何故に「得ることが出来ない」のか。それは、そんなモノなどいくら懸命に探しても何処にも無く、どれほど推求しても見出だせず、初めから無いモノなどついに「得ることが出来ない」ためです。
すなわち、不可得とは本不生の別の謂であり、それはまた空・仮名・中道を意味するものです。
一一字門皆言不可得者。爲明中道義故。今且寄車字門説之。如觀鏡中面像。以本質爲因淨鏡爲縁。有影像現見。爲是所生之法。妍蚩之相現前不謬。故名爲有。以種種方便推求都不可得。是名爲空。此有此空皆不出鏡體。體即一名中。三相不同而同不異而異。是故世間論者不能思議。
(三十七字門の)一々の字門において全て「不可得」と言うのは、中道の義を明かす為である。
今は仮に、छ〈cha・車〉字門についてこのことについて説明したならば、鏡の中の面像を見る場合、本質を以て因とし、浄鏡を縁として、その影像を現に見ることが出来るが、この様なのを所生の法という。(鏡に写った影像は)その妍蚩〈美醜〉の姿も現前して謬ることはない。その故にこれを「有」と言う。(しかし、それは結局影像でしか無いために)種種の方便によって推求〈探求〉したとしても全て不可得である。その故にこれを「空」と言う。この「有」とこの「空」とは皆、鏡という本体を出るものではない。その本体が一つであることを「中」と言う。これら(空・仮・中という)三相は、不同であり同、不異にして異なるものである。そのようなことから、世間の論者は(空・仮・中なる諸法の有様を)理解することが出来ないのだ。
一行『大毘盧遮那成佛経疏』巻七 入漫荼羅具縁品第二之餘(T39, p.656c)
以上、もちろんこれだけで必要十分であるなどとは言えませんが、阿字が一切諸法すなわちこの世のあらゆる事物・事象が本不生にして不可得であることを表するものであり、そしてその本不生とは空性・仮名・中道、すなわち縁起生を意味するものであることを示しました。
本不生とは畢竟、三法印として挙げられる「諸行無常 諸法無我 涅槃寂静」を一語で表したものであると言えます。
仏教の核心、仏陀の根本教説とは苦・集・滅・道の四聖諦であり縁起法であり、また一切諸法の真実なる姿、すなわち不浄・苦・無常・無我であることを真に知り抜くことが、いわゆる悟りです。それは顕教であろうが密教であろうが、その表現の否定的・肯定的の異なりはあっても全く通じ共通しているものです。
以上、基礎的なところを最低限述べた上で、極めて注意しなければならない点を挙げておきます。
その点とは、諸法の実相について、これは特に支那における天台の学僧ら以来「本有常住」とも表現されてきたことです。本有常住、それを文字通り受け取って言うならば、「本源より有って恒常的に存在し続ける」という意となりましょう。が、しかし、それは先に示した本不生の意とまるきり逆の意となるものです。
そして、日本の密教においてもまた、本有常住という表現は頻繁に用いられてきました。そもそも真言宗を日本に請来して立宗した空海自身、「本有」であるとか「常住」であるとかいう表現をしばしば用いてます。また、空海は『吽字義』にて密教と顕教との異なりを言わんとする中において、「唯有大日如来於無我中得大我(ただ大日如来あって無我の中に大我を得る)」と云い、それを「表徳之実義」などと表現してもいます。
空海は、縁起や無自性空ということを表現するに際し、遮情と表徳との二つの方法があるとして、例えば「縁起は『有る』のか?」という問いに対し、それら二つの方法に基づいてまったく正反対の答えを以てし、その理由をそれぞれ述べているのです。
遮情と表徳とは、現代的に表現すれば、要するにそれぞれ否定的と肯定的のことです。空海は、縁起・無自性という真理自体について、否定的にいえば無いといい、肯定的にいえば有るといい、それでもって有無中道を表しています。しかし、それは結局、ただ表現の方法や視点が違うというだけのことであって、顕教と密教とが全く異なる真理を説いているということではありません。
ところが、本有常住であるとか大我であるとかいう言葉を、文字通りそのままの意味に理解する者、いや、理解したがる者が古来多くあります。それは往々にして、いわゆる「吾が仏尊し」といった精神に基づいたもので、密教は根本的に顕教とは異なる、違わなければならない、違うからこそ優れているのだ、とする詮無い心情によるものなのでしょう。
実は、本稿で講述している『阿字観用心口訣』においても、まさに本有常住という言が用いられてます。
經所説如實知自心者見本不生際也。見本不生際爲一切智智。一切智智者即大日也。故眞言教即身成佛者見本不生際也。本不生者一切諸法從本以來不生不滅本有常住也。煩惱本本來不生煩惱。菩提本來不生菩提也。如是知名一切智智。然我等生滅去來當眼易知不生不滅所不知也。如此諸法本來不生不滅義顯教盛談之。故此不生不滅之名言不密教不共談。
経〈『大日経』〉に説かれる「実の如く自心を知る」〈如実知自心〉とは、本不生際を見ることである。本不生際を見ることを一切智智という。一切智智とはすなわち大日である。故に、真言の教えにおける「即身成仏」とは、本不生際を見ることである。本不生とは一切諸法〈あらゆる事物・事象〉は本来、不生不滅であって本有常住であることを意味する。煩悩も本来、不生の煩悩である。菩提も本来、不生の菩提である。このように知ることを、一切智智と名づける。しかしながら、我々にとって事物が生滅し去来することは目に見えて知り易いことであるのに対し、不生不滅は知り難いことである。そのように諸法が本来、不生不滅であることは、顕教にても盛んに論じられていることである。よって不生不滅という名言は、密教独自の説などではない。
伝:空海述 実恵筆『阿字観用心口訣』
この一節における、「本不生とは一切諸法は本来、不生不滅であって本有常住であることを意味する」に続けて「我々にとって事物が生滅し去来することは目に見えて知り易いことであるのに対し、不生不滅は知り難いことである」としている言は、それだけを切り取ってしまえば、その意をたやすく人に誤解させるのに十分なものです。
「本不生とは不生不滅であって本有常住である。そして現前の事物の栄枯盛衰、物事が生滅していくことは、誰の目にもわかりやすく明らかなことである。けれども事物が真実には不生不滅であって本有常住であることは知り難い、と言われる。ということは、事物が生滅することは仮初のこと、幻のようなものであって、実はすべての存在は不生不滅で本来常住、すなわち無始の昔より不滅で有り続けるものだ、という意味であろう。なるほど、密教は一般的な仏教の思想・見解とは全く異なる、より深い真理を看破するものであるか。おお…、やはり密教は素晴らしい!これが本当の『あるがまま』の意なのだ」
このような短絡的で、その故にあらぬ方向に飛躍した理解をしている者が、密教の僧徒や信徒には相当数あります。
実は顕教についても密教についても無知であるにも関わらず、ただ自身が密教を奉ずる宗に属しているという理由からだけで、顕教と密教との異なりを無闇に強調。あるいは殊更に密教の優位性を主張しようとして、むしろ仏教自体から逸脱してしまった者があります。すなわち、表には仏教の看板を挙げておきながら、実はその思想・見解がまるきり外道のそれと一緒となってしまっている者があるのです。
そのようなことから、本有や常住などという言葉・表現は、特に注意すべきものです。
とはいえ、空性を表するために非常によく用いられる「不生不滅」という一般的表現ですら、無智の人にかかれば「究極の真理は常住であるから不生不滅というのだ」と理解されてしまう。あるいは、「この世の一切の事物は空なるもの、本不生であるとして、しかしそのような空たること、本不生であるという真理は不変であって実在するものであろう」と考えられてしまうでしょう。
そしてそのような輩のあることは一千二百年以上前から、いや、おそらくは仏陀御在世の昔から存在しています。
衆生之性本性無所有。由修行故。知此衆生之性本性空寂。由覺知是性空故。唯有名字而不可得也。謂空空性唯有名字。畢竟求不可得。此即是不可得空。非如劣慧者執是空性以爲實有也。
衆生の性〈性質・同一性〉には、本性〈実体。固有不変の同一性〉など有りはしない。修行することによって、この衆生の性は「本性空寂」であることを知り得る。その性が空なることを覚知することに由り、ただそれが(「衆生」という)名字〈名称〉に過ぎないものであって不可得である(ことを知る)。すなわち空を空ずる性は、ただ名字のみ有って、畢竟じてそれを求めたとしても不可得である。これをすなわち不可得空という。劣慧の者〈智慧・知性の劣った者〉がこの空性ということに執着し、(空性という真理を)以て実有とする様なことではない。
一行『大毘盧遮那成佛経疏』巻十九 百字成就持誦品第二十二(T39, p.773a)
人は自分と他者とを比したとき何が異なっているかを様々な意味で気にし、しばしばその異なっている点を優劣の根拠とします。そして他に比して独自であることは、社会の中における自らの存在価値に繋がり、それを売りにしてその生存や優位を勝ち取る術ともなり得るものです。
独自であること、個性的であること、場合によってはそれは素晴らしく、追求すべきことです。しかしそれを仏教の思想・宗旨宗派の教学にまで強ちに持ち込もうとするのは全く愚かな、誤った行為です。
ところで、現代の密教学者や真言宗の僧職の人らがもっともらしく好んで用いる、「宇宙の意識」であるとか「大宇宙の命」、「生命の根源」・「生命の息吹」、あるいは「大宇宙〈マクロコスモス〉と小宇宙〈ミクロコスモス〉の合一」・「宇宙と一体となる」・「世界と一つになる」などという実に抽象的で何の意味もなく、むしろ人に大なる誤解をもたらすであろう愚かな言葉・表現を用いる人や書籍にも十分な注意が必要です。
もしくは、この手合も非常に多く存在しているのですが、阿字観など密教の修習について、「仏の心を感じる」・「ホトケサマと一体になる」などといった表現を用いる者もあります。しかし、それらは一顧だにする価値も無い、百害あって一利なきものだと承知しておいたほうが良い。これらの言は、まさに外道のそれに他なりません。いや、印度の外道であってもこのような幼稚きわまりなく、失笑せざるを得ない表現など用いはしないでしょう。
それは1970から90年代にかけてオカルトと疑似科学とのブームに併行し、多くそれらと夾雑して流行してしまった「密教ブーム」の中で非常によく用いられた表現です。しかし、そのようなおかしな表現を使いたがる輩は、真言宗の僧職者や御用学者らの中に未だ実に多くあります。いわば昭和の亡霊とでもいいましょうか。そのような表現を使いたがるのはそもそも、仏教自体に対する無知や曲解に基づくものであったり、仏教の本来とは異なって、この世界をあくまで肯定的に見ようとする態度から生み出されたりしたものに違いありません。
仏教がこの世をいかに見ているのか。その世界観はいかなるものか、その教えの根本は何であるか、その核心とはいかなるものであるか。それらを知らず、あるいは知りながらいたずらに手前勝手の解釈をねじ込んだり、世間に迎合する説を唱えようとしたりするのは、欺瞞以外の何物でもない。
もし「密教は他に対して優れており顕教と全く異なるものだ」などという見解を、何も理解せぬうちから持っていたならば、その人の仏教徒としての前途はまったく暗澹たるものとなる。いや、むしろますます生死輪廻の苦海に沈淪することになるでしょう。